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 1月22日、アジア連帯講座は、「トロツキー永続革命論の現代的意義――『歴史の終わり』の弁証法」をテーマに森田成也さん(大学非常勤講師)を講師に招き、全水道会館で公開講座を行った。

 講座は、著者森田さんの『トロツキーと永続革命の政治学』(柘植書房新社、二〇二〇年)をテキストに「トロツキーがその永続革命論の構築を通じて、そしてその実践バージョンである十月革命とその後の社会主義建設を通じて解決しようとした二〇世紀的問いは、二一世紀の今日においてもなお解決されていない。その『問い』とは何か」を切り口にして、掘り下げていった。

 冒頭、森田さんは、「副題を『歴史の終わり』の弁証法』とした。フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』を一九八九年に発表したが(その後、著作に)、それは時代を象徴するキーワードとなった。資本主義と自由民主主義と自由市場という三位一体のもとで経済が発展していけば、あらゆる問題は解決するはずだと言っていたのだが、現実は資本主義の発展によってさまざまな問題が解決されるどころか、はるかに深刻な状況に立ち入っている。トロツキーが二〇世紀初頭に提起したことは地球的な課題になっている」と強調した。

 マルクスは、「『経済学批判』序文」で「ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対の解決のための物質的諸条件をもつくり出す。したがってこの社会構成体でもって人間社会の前史は終わる」と言っており、資本主義の終わりこそマルクス主義的には「人類の本史」の始まりだと述べたが、フクヤマは、ソ連・東欧の崩壊を踏まえて、このような認識を否定した。たしかに「歴史は終わった」のだが、それは資本主義の崩壊と共産主義の勝利してではなく、共産主義の崩壊と資本主義の勝利としてそうなったのだと。だが、その後の事態はこの学者が考えたようには進まなかった。森田さんは「人間の思惑通りに進まないのが歴史だ」として、以下考察していった。(講演要旨別掲)

■森田さんの講演要旨

第Ⅰ部 『共産党宣言』から東西冷戦まで――「歴史の始まり」の弁証法

 1、後発国における「歴史の始まり」――『共産党宣言』からプレハーノフへ

 マルクスとエンゲルスは、一八四八年革命の中で永続革命的展望の萌芽とも言える次のようなテーゼを提起していた。

 「共産主義者はドイツに主な注意を向ける。なぜなら、ドイツはブルジョア革命の前夜にあり、しかもドイツが、この変革を17世紀のイギリスや18世紀のフランスと比べてヨーロッパ文明全体のより進んだ諸条件のもとで、そしてはるかに発達したプロレタリアートでもって遂行するので、ドイツのブルジョア革命はプロレタリア革命の直接の序曲となるほかないからである。」(マルクス&エンゲルス『共産党宣言』光文社古典新訳文庫)

 だが実際にこの予言は当たらず、一八四八年革命においてドイツのブルジョア革命は中途半端に終わり、その後、ヴィルヘルムの絶対君主制のもとブルジョア社会として急速な発展を遂げることになった。このことでマルクスとエンゲルスの永続革命的展望が無意味だったと解釈するのは大間違いだ。その後、後述するように、帝政ロシアなどの後発国ではこの命題の正しさが証明された。

 マルクスとエンゲルスはその後、一時的に、永続革命的展望から離れるが、そのさらに後、エンゲルスは晩年に再び永続革命的展望に立ち返る。たとえば「エンゲルスからポール・ラファルグへの手紙(一八九三年六月二七日)」において次のように言われている。

 「共和制の形態は、たんに君主制の否定にすぎない。君主制の打倒は革命の単なる随伴現象として行なわれるだろう。ドイツでは、ブルジョア諸政党は完全に破綻してしまっているので、われわれは君主制から直接に社会的共和制に移行しなければならないだろう」。

 つまり、ブルジョア諸政党は完全に破綻しており、君主制打倒の課題を担えない、だからそれを担うのは、ドイツの労働者政党・社会主義政党であり、それは権力を取ったらただちに会主義的措置へ進んでいくしかないとエンゲルスは語っているわけである。

 マルクスの生前、後発国ロシアには一〇〇万たらずの労働者しかいなかった。マルクスとエンゲルは、ドイツ革命と同様な永続的な展望がロシアで成り立つとは思っていなかった。しかし、その後、一八八〇年代にプレハーノフ(およびその他のロシア・マルクス主義者)は、マルクスとエンゲルが一八四八年にドイツ革命に見出した展望をロシアに創造的な形で適用した。第一に、彼らはナロードニキに反対して、ブルジョア革命と社会主義革命との混合を批判し、両者を明確に区別した。第二に、当面のブルジョア革命においては労働者階級とブルジョアジーとの連合が中心勢力であるとみなし、労働者階級は解放運動においてヘゲモニー的役割を担うが、権力を握るのはあくまでもブルジョアジーだとみなした。第三に、しかし、たとえブルジョア革命が勝利しても、ブルジョアジーの権力は長続きしない。なぜなら、ロシアの労働者階級は一八四八年のドイツよりもはるかに発達しているし、国際的にもヨーロッパ先進国ではすでに社会主義革命が日程に上っているからだ。

 こうしてプレハーノフは、マルクス主義者として最初に書いた著作『社会主義と政治闘争』において、「ブルジョア社会の現状および各文明国の社会的発展に対する国際関係の影響は、ロシア労働者階級の社会的解放が絶対主義の崩壊のすぐ後に続くことを期待する権利をわれわれに与える。もしドイツのブルジョアジーが『やって来るのが遅すぎた』なら、ロシアのブルジョアジーはさらに遅れ、その支配は長つづきしないだろう」と提起した。つまり、段階革命論だが、二つの段階はかなり近接して起こるという「近接型段階革命論」である。このプレハーノフの提起は、後のレーニンの労農民主独裁論やトロツキーの永続革命論の出発点として大いに役立った(もっとも、レーニンもトロツキーも、労働者階級に反専制・解放闘争のヘゲモニー的役割を見出しつつ、その主要な同盟相手はブルジョアジーではなく、農民だとみなしたのだが)。

 2、「歴史の始まり」と「歴史の終わり」との攻防

 プレハーノフの議論から出発しつつ、一九〇五年のロシア革命を踏まえて成立したトロツキーの永続革命論は、次の三重の結合論を主張している。

 第一に、後発国ロシアにおける「ブルジョア的歴史の始まり」(ブルジョア革命)と「人間社会の前史の終わりの始まり」(社会主義革命の開始)との有機的結合。第二に、ロシアにおける「前史の終わりの始まり」と先進国における「前史の終わり」(社会主義の実現)との有機的結合。第三に、この二つの結合の展望それ自体の結合。つまり、ロシア革命がヨーロッパ革命に波及してロシア労働者国家が西欧社会主義世界に統合され、こうして本来の意味での社会主義へと前進できるか(進歩的統合)、さもなくば、社会主義に至るはるか以前に労働者国家が崩壊して西欧帝国主義世界に統合され、(西欧的自由民主主義体制からも程遠い)資本主義的な独裁国家となるか(反動的統合)のどちらかであるとみなした。

 では、現実にはどうなったか。一九一七年のロシア革命は第一の結合を実現したが、第二の結合は一時的・部分的にのみ実現され、後に分離した。そして第三の結合は実現しなかった。進歩的統合も反動的統合も起こらず、ロシア労働者国家は満身創痍となりながらも生き残ったのである。

 その後、歴史の一種の釘づけ状態が発生し、スターリニズムの成立とそのイデオロギー的正統性理論としての一国社会主義論が形成された。労働者国家の理想主義が大きく後退し、スターリニズムという官僚独裁制へと帰結し、世界は東西二つの世界に分裂した。

 だが歴史はこうした分裂のもとでもその歩みを止めることはなかった。一方では、東側諸国において、労働者国家の量的拡大(第二次世界大戦後の東欧、中国、ベトナム、キューバ等々)と、質的高度化(生産力水準や分配面など)が生じ、他方の西側資本主義国では、福祉国家体制とケインズ主義への発展が見られ、社会主義政党や共産党が勢力を伸長していった。どちらにも属さない第三世界では、資本主義的な軍事独裁の流れと、民族民主主義革命から社会主義革命への永続革命の流れとの、激しいせめぎ合いが起こった。

 Ⅱ、68年革命から現代まで――「歴史の終わり」の弁証法

 1、ソ連・東欧の崩壊と「歴史の終わり」論

 ロシア革命を契機にして歴史の上昇線が生じ、それはやがて先進資本主義の中枢にまで至り、それはついに一九六八年革命として結実したが、それは結局挫折し、社会主義革命の先進国への波及はついに生じなかった。このことから歴史の上昇線は下降線屁に道を譲る。一九七九年におけるニカラグア革命を最後の永続革命として、それ以降、第三世界諸国における民主主義的変革は社会主義革命へと連続しなくなる。たとえば、一九八七年における韓国民主化、一九九一年の南アフリカでアパルトヘイト廃止、一九八〇~九〇年代におけるラテンアメリカでの軍事独裁政権の崩壊などでは、そこで起きた民主主義的変革はいずれも社会主義革命へと連続しなかった。

 この歴史の流れの転換を画するのが、一九七九~八〇年という年である。すでに述べたように、その年のニカラグア革命は最後の永続革命となったが、同年のイラン革命は、親米パーレビ独裁政権を打倒する急進的で大衆的な革命が起きたにもかかわらず、それは社会主義の方向ではなく、より反動的なイスラム原理主義体制へと連続していった。さらに同年一二月、ソ連はアフガニスタンに侵攻したが、これはソ連帝国の「終わりの始まり」を画すものとなった。そして一九七九~八〇年にイギリスとアメリカでそれぞれサッチャーとレーガンの新自由主義政権があいついで成立し、本格的な新自由主義反革命が開始された。

 このような流れの中で、一九八五年以降のゴルバチョフ改革、一九八九~九〇年の東欧労働者国家の崩壊、一九九〇~九一年のソ連の崩壊へと歴史は突き進んでいった。福祉国家的な西欧世界ではなく、すでに新自由主義化しつつあった西欧世界へと労働者国家が統合されていったことで、新自由主義的グローバリゼーションは本格的に加速化した。

 この時期に書かれたのがフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』である。最初は論文の形式で発表され、後に著作として世界を席巻した。彼は、共産主義の崩壊を受けて、西欧の「自由民主主義の勝利」が確実なものとなり、歴史は収束と終焉を迎えたと結論づけた。体制変革の時代は終わり、「資本主義、自由市場、自由民主主義」の三位一体のもとでの民主主義的切磋琢磨の時代が半永久的に続くと展望した。

 ところが、フクヤマがそう宣言するや否や「『歴史の終わり』の弁証法」が発動することになる。歴史はフクヤマが考えたようには「整理」されず、世界は一つにまとまらなかった。

 2、ソ連・東欧崩壊後の歴史の混沌

 まず第一に、イラン革命の影響とソ連東欧の崩壊によるオルタナティブの消失は、イスラム圏においてイスラム原理主義の台頭へとつながった。フクヤマの楽観主義的な「歴史の終焉」論(全世界は西欧的民主主義の体制に収斂する)に代わり、ハンチントンの「文明の衝突」論(イスラムやアジアなどの東洋文明は西洋文明と根本的に違うので、自由民主主義の体制は欧米世界に限定され、この二つの文明間で衝突が起こる)が登場する。

 誤算の第二は中国の台頭である。中国型の「国家資本主義」のダイナミズムをフクヤマは過小評価しており、一九八〇年代の天安門事件で、中国の経済成長ダイナミズムは官僚的独裁によって抑えこまれるとみなしたが、中国はその後、二〇年以上におよぶ高度経済成長を続け、アメリカ帝国に対抗しうる唯一の超大国になった。今日では新型コロナ騒動下における「一人勝ち」を謳歌している。

 第三の誤算は、バルカン諸国、中東諸国、アフリカ諸国で冷戦終結後、部族、種族、宗教、宗派が入り乱れての混とん状態に入り、「自由と民主主義」への収束には進まなかったことである(かろうじてバルカン諸国だけが、陰惨な内戦を経た後で一定の安定を見た)。

 第四の誤算は、いわゆる「共産主義の崩壊」にもかかわらず、ポスト東側諸国(東欧とロシア)などは欧米民主主義に同化せず、とんでもない独裁者たちが統治し、官僚的腐敗が蔓延していることだ。フクヤマが考えたような歴史の収斂も世界の一体化も起きなかった。新たに出現した「外部」はかつての「共産主義」よりもはるかに厄介で、はるかに自由にも民主主義にも敵対的であった。

 さらに深刻な事態は、新たな外部が出現しただけでなく、欧米社会のど真ん中で、内部から自由民主主義体制の解体と変質の過程が起きたことである。皮肉なことに(これこそが歴史の弁証法なのだが)、ソ連・東欧が崩壊したがゆえに、外部からのプレッシャーから解放された欧米ブルジョアジーやブルジョア政治家は、民主主義も労働者の生活も重視しなくなった。フクヤマの観点からすれば、「自由と民主主義」の勝利であったはずのものが実際には「自由と民主主義」の終わりの始まりとなったのである。こうして新自由主義の四〇年によって社会の荒廃、格差の天文学的拡大、政治の衰退と腐敗が進行した。すなわち、反動的ポピュリズムの台頭、レイシズムと排外主義の蔓延、ネオ家産制(アベ政治など)の席巻、トランプのような偏狭なイデオロギー政治と偏狭なアイデンティティ政治の両極化、等々である。フクヤマでさえ、今日、『政治の衰退』という新たな著作(邦訳は二〇一八年、講談社)を書いて、ネオ家産政治の蔓延について読者に警告しなければならないと感じたほどである。そして、資本主義そのものも、産業から金融へ、生産から略奪へ、利潤からレント(不労所得)へと変質していった。ある研究者はこれを「封建化する資本主義」と呼んでいるが、言い得て妙である。

 さらにフクヤマが考慮していなかったのは、地球全体を包括する問題が次々と出現したことである。大きく言って、資源の枯渇、地球温暖化、新しい感染症・疫病の蔓延という三つのものを確認することができる。フクヤマの『歴史の終わり』には地球温暖化や資源問題についても少し触れられているが、ほとんど重視されておらず、新たな技術の発達によって十分し乗り切り可能なものだと楽観的に裁断されている。

 3、永続革命論の未来――人類は「前史」で終わるのか「本史」を開始するのか

 結局、歴史の弁証法がわれわれに突きつけているのは、現代世界の中で生きている大多数の人々のプリミティブな諸要求や基本的な民主主義の諸要求が資本主義のもとで本当に達成可能なのかという問題だ。フクヤマは、たとえいろいろと問題や困難があったとしても、それらの問題は基本的に技術の発達と人々の意識の向上によって解決することができると考えたが、歴史の現実はそうでなかったことを示したし、日々示している。こうして、二〇世紀初頭にトロツキーと後発国が直面した問題が、はるかに規模を拡大した形で全人類が直面している。これがトロツキー永続革命論の現代的意義であると考える。すなわち、後発国における「戦略的永続革命」という水準を超えて、全地球的な規模での「歴史的永続革命」が二一世紀における人類的課題として突きつけられているのである。

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