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新疆ウイグル自治区における民族問題については、自治区政府所在地であるウルムチでウイグル族と漢族の大規模な衝突が発生した2009年7月に「週刊かけはし」紙上で以下の文章を掲載した。


◎新疆ウイグル自治区 「中華民族」主義反対! プロレタリア国際主義を
http://www.jrcl.net/frame090720c.html
◎新疆――二重の抑圧(上・下)
http://www.jrcl.net/frame090907g.html
http://www.jrcl.net/frame090914g.html


上記の「新疆――二重の抑圧」は香港の同志によって執筆されたもので、来年はじめに出版を準備している中国情勢に関する論文集のなかで、再訳しなおして掲載する予定である。


中国政府によるウイグル抑圧の状況については上記の香港の同志による論評のなかにも引用されている王力雄の『私の西域、君のトルキスタン』(集広舎、2011年1月)に詳しい。中国における民族政策の問題点について、漢族である王とウイグル族の民族派であるムフタルとの対話をつうじて問題が歴史的にも現代的にもきわめて広範囲であることが理解できる好著である。ぜひ一読されたい。(書評はこちら


大著である本書のなかで紹介すべき箇所は多々あるが、現在の状況においてはあまり関心を持たれないであろう箇所として262頁からの『サイプディンとレーニン像』がある。「ウイグル人なら、中共にどれだけ忠実であっても、どれだけの業績をあげても、たとえサイプディンのような人でも、やはり中国に信頼されない。サイプディンの事務机の上にはレーニンの銅像があった。……彼は自分の部屋で話すことにも不安を感じ、本音の話をする時は、庭で話そうと言った。」とムフタルが述べるシーンである。サイプディンについて、本書の原注では次のように紹介されている。


「サイプディン・エズィズィ(1915~2003)ウイグル人。1935年にソ連に留学。1945年、三区革命臨時政府委員、教育庁長の職に就く。1949年中国共産党加入。のちに新疆自治区主席などの職を歴任。文革期間中に中国共産党新疆自治区第一書記に就任。1978年から新疆を離れ、実権のない全国人民代表大会常務委員会委員長と全国政治協商会議副主席に就任。」


三区革命:1944年から49年にかけてウイグル地区の北西部のイリ、タルバガタイ、アルタイの三地区で続いた民族解放闘争。本書236、274~280頁等参照(引用者注)


著者の王力雄はつぎのように返事をしている。


「彼が机の上にレーニン像を置いていたのは、私は一種の意思表示だと思う。共産党内の少数民族党員はみんなレーニンを尊敬している。なぜなら、レーニンの民族問題に関する論述は彼らの願いによくかなっているからだ。レーニンはかつて帝政ロシアが占領していた土地を中国に返したり、民族の自決を求めたりした。民族問題について非常に多くを語っている。彼らはレーニンの政策はスターリンによってゆがめられて民族弾圧になったと思っているが、実際はレーニンが生きていても同じだったろう。毛沢東も井崗山のときは独立を認めると言っていたのに、後になったらやはり弾圧だ。」


民族党員の多くが、レーニンに代表されるボリシェビキが打ち出した民族自決の原則を導入していた初期の中国共産党の綱領に獲得されたこともまた事実である。レーニンが生きていたら、毛沢東のように当初の立場を変えて民族抑圧に回ったであろうという王の予想については、毛沢東が1930年代に入って本格的に学んだマルクス主義がじつはスターリン主義であり、スターリン主義はレーニンの思想を徹底的に裏切ったものであったという事実を無視していることからくる的外れな予想である。


レーニンとともに民族自決の原則を最後まで主張し続けたトロツキーはこう述べている。


「スターリンの致命的な誤りは、被抑圧民族の闘争が進歩的な歴史的意義を持つというレーニンの学説から、植民地諸国のブルジョアジーが革命的使命をもつという結論を引き出したことにある。帝国主義時代の革命の永続的性格についての無理解、発展についての公式主義的な図式化から、そして生きた結合過程を死んだもろもろの段階――まるで時間の面で不可避的にたがいに切り離されているようなもろもろの段階――へと分割することから、スターリンは、民主主義、つまり、実際には帝国主義的独裁かプロレタリアートの独裁しかありえない『民主主義的独裁』の俗悪な理想化に立ち入った。スターリンのグループはその道を一歩一歩すすんで、民族問題でのレーニンの立場との完全な決別と、破綻した中国政策にまで行きついた。」(『ロシア革命史』第二巻 16「民族問題」/岩波文庫版第四巻255頁)


毛沢東ら指導部の堅忍不抜の闘争によって達成された抗日戦争とそれにつづく国共内戦の勝利によって建国された中華人民共和国は、その誕生前からスターリン的に捻じ曲げられたマルクス主義、つまりレーニンの思想の完全な放棄によって裏付けられていた。民族自決ではなく民族自治、プロレタリア独裁ではなく人民民主主義独裁……。


以下の論評は、昨年11月に開催された中国共産党第18回全国代表大会を前後して書いたものである。前述『ロシア革命史』の中でも「永遠に人類の揺るぎない資産として残る」と称えられたレーニンの民族政策についても抜粋紹介している。当時ブログには掲載しておらず、その後『青年戦線』という超レア物パンフレットに転載した。1年近く前の文章になるが、レーニンの民族政策の思想を継承する意義は依然として重要であることからブログに掲載する。(H)


2013年11月24日


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■ 中国共産党第18回代表大会(その9)


もちろん大会報告で触れられていないことであっても推進されている政策はあるし、また過度に誇大に報告されていることもある。


政治体制の改革や民主主義についてがそうである。大会報告のなかでは「末端の民主主義制度を確立させること」と述べられている。大会のおよそ1年前、広東省烏坎村の土地買収を巡り村ぐるみの闘争を経て腐敗した村のトップを引きずりおろし、村民の民主選挙を通じて新たな執行部を選出した闘争が思い起こされる。この闘争は当時「烏坎モデル」と呼ばれた。


しかしこの「烏坎モデル」は、いくつかのエピソード的に散発したケース以外は、全国に拡大することはなかった。闘争から一年がたった今、村民らの熱烈な支持で選出された村民委員会は、旧幹部連中らによって無断で売却された土地使用権利書を不動産業者などから取り戻すために活動し、現在までに253ヘクタールの土地の権利を取り戻すことに成功したが、いまだ700ヘクタール以上もの土地の回収が滞っているという。旧幹部連中につながる権力腐敗の根が断ち切られておらず、ことがなかなか進まないという。民主主義制度は末端でのみ確立しても問題は解決しないというのが烏坎村の教訓である。


大会報告では民主主義との関係で民族問題についても触れられている。今回の大会には中国政府公認の55の少数民族のうち、43民族、210人が参加し、大会最終日に選出された205人の中央委員のうち10人(モンゴル族3人、チベット族、チワン族、回族、満州族、朝鮮族、ミャオ族、ウイグル族各1人)、171人の中央委員候補のうち30人の少数民族出身が選ばれている。


大会報告では「党の民族政策を全面的かつ正しく貫徹し、それを確実に実行し、民族区域自治制度を堅持するとともに、各民族がともに団結奮闘し、ともに発展する目標を確固とし、民族団結のための進歩的教育を深化させ、民族地区の発展を加速し、少数民族の合法的な権利を保障し、平等・団結・互助・調和という社会主義民族関係を安定発展させ、各民族が睦まじく共存しあい、心を合わせて協力し、調和のとれた発展をとげるよう促す」とされた。


しかし実際には、胡錦濤指導体制の後半の五年間は、2008年3月にはチベット自治区でチベット民族の抗議行動が頻発し、2009年7月には新疆ウイグル自治区のウルムチでウイグル民族と漢民族の住民間の大規模な衝突が発生した。学校での民族語教育の削減などに対するチベットでの抗議も続いている。ウイグルでは学校における漢語教育の導入によって漢語能力に劣るウイグル人教師が解雇される事件が続いている。


2012年11月26日には旧チベットの版図である青海省海南州の看護学生らが「民族平等」「民族語の自由を」などを訴えて抗議のデモを行い8名の学生が5年の刑という厳しい弾圧を受けたという事件も報道されている。チベットでは2009年から現在までに100件もの焼身抗議事件が発生している。「平等・団結・互助・調和」とはほど遠い状況にあるのが、現在の中国の「社会主義民族関係」である。


ブルジョア自由派の劉暁波らによる08憲章の呼びかけに対する弾圧や劉のノーベル平和賞受賞に対する異様ともいえる対応など、異論派への弾圧も胡錦濤指導部から習近平指導部へと継承されるだろう。マルクスの言った「他民族を抑圧する民族は自由になりえない」はそのまま現在の中国にも当てはまる。社会主義を語りながら民主主義の歪曲と民族の抑圧をつづけるいまの中国共産党に、レーニンならきっとこう言うだろう。


「勝利を得た社会主義は、かならず完全な民主主義を実現しなければならない。したがって、諸民族の完全な同権を実行するばかりでなく、被抑圧民族の自決権、すなわち自由な政治的分離の権利をも実現しなければならない。隷属させられた諸民族を解放し、自由な同盟――ところで、分離の自由なしには、自由な同盟はごまかし文句にすぎない――にもとづいてこれらの民族との関係を打ち立てることを、現在も、革命のあいだにも、革命の勝利のあとでも、その全活動によって証明しないような社会主義諸政党は、社会主義を裏切るものであろう。」(レーニン「社会主義革命と民族自決権(テーゼ)」より)


「資本主義のもとでは民族的抑圧(一般に政治的抑圧)をなくすことはできない。このためには、階級をなくすこと、すなわち社会主義を実現することが必要である。しかし、社会主義は、経済にその基礎をおきながらも、けっして、そっくり経済に帰着させられるものではない。民族的抑圧を排除するためには、土台――社会主義的生産――が必要であるが、しかし、この土台のうえで、さらに民主主義的な国家組織、民主主義的軍隊、その他が必要である。資本主義を社会主義につくりかえることによって、プロレタリアートは、民族的抑圧を完全に排除する可能性をつくりだす。この可能性は、住民の『共感』に応じた国家境界の決定までもふくめて、分離の完全な自由までもふくめて、あらゆる分野で民主主義を完全に実行するばあいに『のみ』――『のみ』だ!――現実性に転化するだろう。この基盤のうえで、つぎに、ごくわずかの民族的摩擦も、ごくわずかの民族的不信も絶対に排除される状態が実際に発展し、諸民族のすみやかな接近と融合がうまれる、そして、この後者〔諸民族の融合:引用者〕は国家の死滅によって完成されるであろう。これこそ、マルクス主義の理論である。
」(レーニン「自決にかんする討論の総括」より)


2012年12月13日記 H