▲ロンドンでの反オリンピック・デモ

グローバル資本が主導する国家主義のスポーツイベント=オリンピックはいらない!
 
 7月27日(日本時間7月28日朝)、イギリスのロンドンで第30回オリンピックが始まった。テレビをつければニュースのトップはオリンピック。番組の多くも五輪報道を中心に大幅に改編され、メダルの数がどうだこうだという話題に湧きかえっている。応援席では「国旗」が乱舞する。「いい加減にしてくれ」という辟易の思いは、少なからぬ人々に共有されているだろう。

 メディアも国際オリンピック委員会も、もちろんそうした人々の批判に耳を傾けようと言うポーズを見せないわけではない。たとえば国際オリンピック委員会加盟204カ国のうち今まで女性の選手を送ってこなかったイスラム圏のブルネイ、カタール、サウジアラビアの3カ国が初めて女性選手を派遣し、さらに全競技に女性への門戸が開放されて、「男女の機会均等」が実現された、ということなどだ。

 朝日新聞は近代オリンピックに貫かれた国家主義への批判を意識して「物語の主役は国から人に」と題する沢村同社欧州総局長のコメントを掲載した(7月28日朝刊)。

 「今は『自由にスポーツができる環境』を求めて選手が『国』を選ぶ時代だ。戦火や圧制を逃れた選手がいれば、外国で練習を積み、外国人コーチや外国企業の支援を受ける選手もいる。彼らが五輪という舞台で背負う看板はもはや国家ではなく、国境のないグローバル社会なのだ」。

 「1908年のロンドン大会で英国は新興国の米国と威信をかけた競争を繰り広げた。1948年の大会は英国にとって大戦からの復興を宣伝する絶好の機会となった。だが、成熟した二一世紀の先進国で開かれる大会は国の『威信』や『結束』などとは縁遠くなりつつある」。

 だがこの対比は適切なものなのか。国境を超えたグローバル企業が、ますますオリンピックの企画・運営を支える主役になっていることはその通りだ。しかしそれは「国家ではなく、国境のないグローバルな社会」が選手たちの背負う「看板」になっている、ということとはまったく意味が違う。グローバルな資本主義自体、グローバルな「国家システム」ぬきには存在し得ない。新自由主義的なグローバル市場が、強力な「国家」と排外主義にいろどられたナショナリズムと相携えて展開してきた事実をわれわれは知っている。

 資本主義のグローバル・システムが「国境のないグローバル社会」を実現したかのように持ち上げる「朝日」の主張は、この複合的で矛盾に満ちた現実にふたをする。資本主義の危機は、ナショナリズムを不断に再生する。金メダリストは「国旗」と「国歌」によってその栄誉を称えられるのである。「国家間競争」がオリンピックの原動力となっていることは変わっていないのだ。

 本紙で先鋭で精彩に満ちたオリンピック・ワールドカップ批判を掲載してきた故・右島一朗(彼が南アルプスで不幸な滑落事故で亡くなったのはアテネ五輪直前の2004年8月8日だった)が「金権と国家主義の反動的スポーツショー」と批判した、その性格は何も変わっていない(高島義一「オリンピックはシドニーでおしまいにしよう」『右島一朗著作集』p549~559)。



 ロンドンオリンピックに対する市民の批判も強い。最初に引用した「朝日新聞」沢村欧州総局長の記事も、選手村建設で家を立ち退きさせられたジュリアン・チェインさんの「財政難で住民向けの運動施設を閉じておいて、巨額を投じてエリート向けの施設を作るのは納得できない」という批判を紹介していた。

 五輪によるスポーツ振興という大義名分はどうか。

 「近代スポーツ発祥の地である英国では、19世紀後半から各地にプレーイングフィールド(PF)と呼ばれる運動場を持つ公園が整備され、市民のレクリエーションの場として親しまれてきた。だが、サッチャー首相が就任した79年からメージャー首相が退任した97年までの保守党政権時代、PFは財政赤字解消のために次々と売却された。……18年間で約1万カ所が住宅地に変わり、若者が最も手軽にエネルギーを発散させられる場が失われた」「教師の部活動指導の手当が廃止されたことなどから、週2時間程度の運動をする生徒が全体の25%以下にまで落ち込み、スポーツ離れが進んだ」(「英国市民と五輪 1」(「毎日新聞」2012年1月3日)。

 この傾向は、ブレア政権時代に予算を割いて学校での運動を奨励したため一定の改善をみたが、現在のキャメロン保守党政権は不況下で厳しい緊縮政策を行っており、予算は削減されている。エリートスポーツとしての五輪には経済効果を求めて投資しても、一般住民、若者たちのスポーツする権利は奪われたままだ。

 五輪公園が建設されたロンドン東部のハックニー地区は失業者や貧しい人びと、移民などが住む地区だ。昨年8月、警察官が黒人の若者を射殺したことを口火に広がった若者たちをはじめとした暴動は、この地域にも波及した。今回のロンドン五輪は、このロンドン東部の「再開発」をも目的にしていた。

 ロンドン五輪開催が決定された2005年の時点から4倍に膨れ上がった予算は、総額で約93億ポンド(1兆1300億円)。財政難の中でのこの投資が一時的にブームを呼ぶことがあったとしても、それがインフレを呼び、深刻な雇用の改善どころか、五輪が終わったあと住民にいっそうの苦難を引き起こす可能性も取りざたされている。

 さらにオリンピックに伴う「治安対策」を名目に、イギリス政府は住宅の屋上に地対空ミサイルを設置された。住民たちは中止を求めて提訴したが却下された。オリンピック会場付近にはいたるところに監視カメラが設置され、ジェット戦闘機四機が常時警戒にあたり、さらに地対空ミサイル六基も配備、テムズ川の河口には軍艦一隻が配置されるというものものしい「五輪警備」の中でのロンドン大会なのだ。

 開会式翌日の7月28日には、ロンドン市内で「テロ対策」強化・住宅屋上へのミサイル配備に反対する抗議デモが500人が参加して行われた。また市内の幹線道路の一車線が、選手や五輪組織委員会の幹部たちの専用レーンとなり、常時緑信号で特別待遇を受けることについてもタクシー運転手が抗議デモを行った。

 こうして膨大な経費を使い、住民の民主主義的権利を侵害して行われる金権・商業主義・国家主義のスポーツイベントとしてのオリンピックの性格はここでもはっきりと示された。

 あらゆる美辞麗句はごまかしにすぎない。オリンピックをもうおしまいにさせよう。2020年東京五輪招致に反対しよう!

(K)