▲12.24の反プーチン・デモは12万人を動員
ロシア
12月10日 ロシアの歴史における新たなページ
http://www.internationalviewpoint.org/spip.php?article2408
イリヤ・ブドレイツキス
12月10日の土曜日は、ロシア社会にとってまさしく歴史的な日だった。さまざまな評価によれば、モスクワで開かれた集会には五万人から八万人が結集した。それは1990年代初頭以来、最大の街頭行動だった。同日、数千人を集めた同様の行動がロシアのすべての大都市で行われた。この運動は西欧にまで到達し、各大使館の前では国を出た離散ロシア人たちがピケットを組織した。
政権の側は、ほんの一週間前には自分たちが深刻な問題に直面することになろうとは想像することもできなかった。国家ドゥーマ(議会)の選挙キャンペーンは、今や誰もが知っていることだが、権威主義的政治モデルである「指導された民主主義」の規則にしたがって行われた。そのモデルは現憲法が採択された一九九三年に、当時のエリツィン大統領によってその基礎が据えられたものだった。
この10年間にウラジミール・プーチンと彼の見習い弟子は、住民のほとんどが完全によそよそしい違和感を抱くあきあきするような見世物へと政治を変えてしまうことに成功した。ほとんど承認されていない七つの政党が議席を得るために闘ったが、ケーキの一番大きい分け前は「統一ロシア」(プーチンの政党)になることはあらかじめの結論だった。この党は国家構造とロシアの資本主義大企業の双方への独占権を持っていた。その人気が急降下しているこの官僚的モンスターの勝利を保障するために幾十万人(実際には幾百万人!)もの公務員が動員された。投票操作、選挙委員会の活動のあらゆる可能なメカニズムに依拠してそれが行われた。
政権への不満の広がりが、「統一ロシア」に批判的立場を取ると見なされた政党への大量得票として表現された。幾百万人もの有権者が「統一ロシアでなければどの政党でもいい」という原則を適用した。こうしてかれらは共産党や中道左派の「公正ロシア」に投票したのである。12月5日の朝に投票結果が発表されると、国中に怒りが渦巻いた。「統一ロシア」は得票の50%を獲得したが、実際の人気は激しく落ち込み、住民の間ではこの党は「詐欺師と泥棒の党」として知られている。野党の観察者が刊行した報告は、四分の一近い投票用紙が、権力の座にある政党に有利に書き換えられたと暴露した!
ロシア人は、個人が侮辱され、愚弄されてきたという感情を持っており、それはますます明白になっている経済危機の結果の上に、まぎれもない貧困と社会セクターの民営化が積み重ねられたことによってもたらされている。
12月5日、民主化を呼びかける政治グループがモスクワで組織した集会に7000人以上が参加した。「公正な選挙を!」の要求は、ただちに「プーチンは退陣せよ」のスローガンに取って代わり、集会の終わりには警察と集会参加者の間で暴力的衝突が起こった。数日のうちに衝突が広がり、より強力になり、若者たちは社会的ネットワークを通じて市の中心で無認可の行動を行おうとした。かれらは警察によってぴったりとつきまとわれ、暴力的に解散させられた。
12月9日の金曜日にはモスクワとサンクト・ペテルスブルグでのこうした行動で1000人以上が逮捕された。そして12月10日の土曜日には、不満のレベルが頂点に達した。この日起きたことは、すでに現代ロシア史における亀裂のポイントとして見なすことができる。1990年代初頭以来初めて、100万人にのぼる人々が街頭で行われた生き生きとした政治行動に参加したのである。この政治的活動においてわれわれはすでに、思想の闘争と、三つの勢力――民主主義者、ラディカル左派活動家、民族主義者――間で演じられたオルタナティブの闘争を観察することができる。思想の闘争は、誰もが自ら課した任務、すなわちプーチン体制の打倒と初歩的な政治的な自由の再確立、を背景として持っている。
この新しく生まれた運動の展望は不確かなものである。しかし、いずれにせよ、すべては以前と同じではない。われわれは、以前と比べて反資本主義左翼が大きな役割を果たすであろう歴史の新しい時期に踏み入ったのだ。
▼イリヤ・ブドレイツキスは、ロシア社会主義運動の指導的メンバー。
(「インターナショナル・ビューポイント」2011年12月号)