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フランス

【フランス大統領選一つの総括】「左翼戦線」、そしてその現在は?

front de gauche soutiensフランス:左翼戦線、そしてその現在は?
 
フランソワ・サバド

 二〇一二年のフランス大統領選挙で起きた驚くべき事態の一つは、左翼戦線とジャン=リュック・メランションの運動だった。その集会には何万人もが参加し、第一回投票で一一・〇一%を獲得するという注目すべき数字を残した。

 確かに左翼戦線の指導者たちは一五%以上獲得すること、何よりも国民戦線の指導者マリー・ルペンを抜いて第三位につけることを望んでいた。しかし選挙戦当初の世論調査での五%という予測を超えて一一%に達したことにより、かれらは「ラディカル左派」のスペースを支配し、革命的左翼の周縁化に成功したのである。



現実の力学



 この選挙運動期間中、大衆的影響力を持つ左翼改良主義勢力が再建された。これは幾つかの要因の結果である。

●社会的敗北に刻印された情勢。それは「闘争で妨げられたものであっても選挙で妨げられることはない」という希望と幻想に有利に作用した。

●共産党勢力の再動員(ポルトガル、スペイン、ギリシャでも見られた)。それはかれらがここ数年間、政権に参加しておらず、制度的機構や労働組合での位置を保持していたという事実に基づいていた。

●メランションのなかなかみごとなキャンペーン。最低賃金一七〇〇ユーロや公共サービスの防衛といったラディカルな目標を擁護する彼のスピーチは、ヴィクトル・ユーゴーの作品や、労働運動の最も輝かしい時期への革命的想像力を喚起した。この魔力は、左翼戦線諸党(訳注:左翼戦線は共産党と、社会党から左分裂した左翼党を中心に形成された選挙ブロック。メランションは左翼党のリーダー)を超える政治的力学を解き放つことになった。その運動はなによりも、とりわけあいまいで退屈きわまる(最も穏健な言い方をすれば)フランソワ・オランドとの対比で、際立つものとなった。



あいまいさと矛盾



 しかしメランションの強い印象を与える選挙運動は、あいまいさと重い矛盾を抱えたものであり、それはNPAの独立的な運動を正当化させるものだった。NPAと左翼戦線は、社会的課題(賃金、雇用、公共サービスの防衛)や民主主義的要求(比例代表制や移民の権利の擁護)については、共通の立場を取っていた。二つの組織は、国民戦線に反対する闘いでは統一していた。他方、別の課題については、両組織は鋭く分かれていた。核エネルギー問題では、フランスの原子力産業との多くのつながりの糸にまとわりつかれていたフランス共産党(PCF)指導部とNPAの間には、大きな不一致があった。

 われわれは多くの目標を共有しており、左翼戦線の運動をめぐる力学は、新しい政治的可能性を現実化する道を開いている。だが、重要な闘争に関わり、われわれの要求の実現を勝ち取る上で、PCFとジャン=リュック・メランションは資本家たちの権力との対決を拒否している。かれらは資本家の所有権ではなく、金融政策を非難する。かれらは公的な銀行部門を求めているが、銀行の収用や社会的統制の下での国有化を拒否し、公的銀行部門と民間銀行部門の競争を支持する。かれらは債務スキャンダルを非難するが、債務帳消しを拒否する。メランションは数年間にわたる債務返済を提案し、資本家と大衆の負担を相殺する。

ここでも一貫性が必要だ。われわれが市民による債務監査の運動に参加するのは、債務帳消しの土台を準備するためであって、漸次的支払いのためではない。左翼戦線の指導者は、「エコロジー的計画化」について、その計画に必要な戦略的資源、とりわけ経済の中枢部門である交通・運輸部門やエネルギー部門の社会化について示すことなく提示している。

 左翼戦線指導部の改良主義的方針は、政治的・歴史的レベルにおいてメランションの「共和主義」的立場と手を携えたものである。それは、ブルジョア階級に反対して社会的共和国を主張したパリコミューン派ではなく、「国民」「共和国」「国家」という言葉を一体化させて共和国を擁護した共和派の立場なのである。この概念は、「市民革命」あるいは「投票箱による革命」を、支配階級の国家の諸制度に対する尊重に従属させるものだ。メランションは、米帝国主義については自由に批判を喚起するが、フランス帝国主義に対してはそんなことはしない。彼は大統領選挙期間中に「現情勢の下では、核抑止力は依然としてわれわれの防衛戦略の中心的要素である」と再確認したのである。

 詳細にわたって疑問を呈するわけではないにしても、こうした概念はメランションの政治における中心的要素である。彼は大衆運動を方向づけ、従属させ、共和国の諸制度との両立・調和をはかるために、彼のなしうるすべてのことをやるだろう。



左翼戦線への方針は?



 左翼戦線との政治的関係について、われわれは以下の諸要素を考慮に入れる必要がある。運動力学だけではなく政治構想も。動員力だけではなく全般的政治プログラムも。活動力(アクティビズム)の再生だけではなく指導部の政策も。

 幾万人もの活動家、幾十万人もの有権者たちが、その投票あるいは左翼戦線のイニシアティブへの参加に、ラディカルで社会的・民主主義的な内実を与えることになった。それはかれらにとって、右派の緊縮政策への拒否であるだけではなく、左派の緊縮政策への拒否でもあった。かれらは最低賃金一七〇〇ユーロ、レイオフ禁止、公共サービスの防衛、公共部門での非正規・不安定労働者の正規化、登録証を持たない人びとの擁護といった死活的な要求で共に動員を行うことで、それを示したのである。

われわれの側は、行動における期限付きの統一を超えてさらに先に進むことが必要だと確信している。オランド政権が準備している緊縮政策に対して、われわれは左翼戦線ならびに他の組織(LO[労働者の闘争]と「オルタナティブ」)に、政権への統一反対派勢力の建設を提案する。NPAにはその用意がある。そして左翼戦線はどうするのか? この闘いは国民戦線が反対派の旗振りをすることを許さないために決定的である。左翼戦線の活動家や支持者と共同の行動の中で対話しなければならないのは、こうした問題である。

同時に左翼戦線がPCFとメランションが指導する政治的組織であって、たんなる統一戦線ではないことを忘れるべきではない。それは党ではないが、すでに政治的運動である。この事実は、すべてが決定されているわけではなく問題が残されていることを意味している。現段階では左翼戦線の指導者たちは、政権に参加する意思がないようだ。メランションは「一〇年以内に権力を、全権力を取る」ことを目標にし、彼が率いるわけではない政権への参加を排除している。

危機の強制の中でPCFは、過去に使われた「参加しないが支持」という定式を選択するように思われる。PCF指導部とメランションの間で緊張が浮上する可能性もある。PCF全国書記のピエール・ローランは、議会選挙の目標を「左翼戦線を最大限に増やした上で国民議会での左翼多数派の選出」に設定している。PS(社会党)とともに左翼多数派を形成するのか? オランド政権の予算案の票決の際に左翼戦線の国会議員はどうするのか。ほとんどすべての地方議会で、左翼戦線の議員がすでに社会党と連携しているようにか。こうした諸問題が残されている。共同行動を可能にするために、われわれの側からする適切な戦術的政策が必要になる。

この段階で、左翼戦線によって描かれている仮説のどれも、その改良主義的構想に挑戦していない。かくして左翼戦線に参加しようという呼びかけが、NPA内部からも発せられている時、われわれはそれとは違って、反資本主義組織は左翼戦線の戦術的展開に依存することはできない、と考える。左翼戦線に参加するということは、PCF指導部とメランションを受け入れることである。政治的場に重点を置けば、統一行動の活性化と批判へのあらゆる可能性を保持することは、左翼戦線からのNPAの独立性を必要にする。反資本主義組織の独立は戦術的な選択ではない。それは、革命的潮流の歴史的継続性を維持する戦略的選択なのだ。NPAには二重の挑戦が提起されている。その組織的建設を再開すること、そしてとりわけ左翼戦線との関係での統一政策の設定である。



▼フランソワ・サバドは第四インターナショナル執行ビューローのメンバーで、フランスNPA(反資本主義新党)の活動家。彼は長きにわたって革命的共産主義者同盟(LCR)の全国指導部メンバーだった。



(「インターナショナルビューポイント」二〇一二年五月号)
 

報告:4.7アジ連公開講座 「生きたマルクス主義を次世代に ベンサイド『21世紀マルクス主義の模索』を読む」

7_017 4月7日、アジア連帯講座は、文京シビックセンターで「生きたマルクス主義を次世代に ベンサイド『21世紀マルクス主義の模索』を読む」の公開講座を行った。

 2世紀におよぶ階級闘争の歴史的射程のもとでいかに「現在」をとらえ、世界変革を展望するのか。その方向性を探求していく取組みの一環としてフランスのマルクス主義思想家であるダニエル・ベンサイドの『21世紀マルクス主義の模索』をテキストにして論議した。

 講師の湯川順夫さん(翻訳家)は、「今日の時代をどうとらえるか? 戦略とは何か? ダニエル・ベンサイドの問題提起を考える」というテーマで報告した(別掲)。

 中村富美子さん(ジャーナリスト)は、ベンサイドのパリ第8大学での講演会やゼミに参加した経験から 「政治闘争家でもあった哲学者ベンサイドの遺産」について報告した(別掲)。

 討論では、以下の論点が焦点化した。

 ①LCRのメンバーであるベンサイドの活動への支持の背景やフランスでのトロツキズムの歴史的地位と成果。

 ②ベンサイドの「緑の党」批判と原発労働者に対するアプローチの仕方の検証。

 ③仏大統領選でのブザンスノーの立候補辞退とNPAの大統領選候補―フィリップ・プトゥー(元CGT(労働総同盟)フォード工場支部書記)の取り組み報告。

 ④この時代に対する問題設定とマルクス主義の継承の方向性。



 討論の集約として湯川さんは、「ベンサイドは、第二インターから第三インターのローザ、レーニンなどを含めて、複数主義のマルクス主義があって、批判的に継承していくと言っている。ただ遺産は、何も手をつけずということではなく、われわれが主体的に変えていくという意味での遺産の継承と言っている。どういう労働者が主流になるか。それはまだはっきりしていない。そういう意味で労働者階級についても、過渡期だ。労働者として意識すること自体が、非常に重要だ」と述べた。

 中村さんは、「フランス共産党は、プロレタリアという言葉を使わなくなっている。だがベンサイドは、現在のプロレタリアがどういうものであるのか、例えば、第三次産業の女性の位置について分析した。プロレタリアは、政治的な言説であり、現在的に読み返しが重要だ」と指摘した。

 最後に司会は、「ベンサイドは、共産党宣言一五〇周年の論文で『世界を変革することは、同時に世界を解釈することだ』と書いた。マルクスの『フォイエルバッハに関するテーゼ』をもじったものだ。つまり、一般論ではなく、世界を再解釈しなければ世界を変えることはできない時代にいる、という強烈な自覚があった。だから、私たちが漠然と『常識』だと思っていること、例えば、民主主義、国家、政治、独裁、プロレタリアート、革命、マルクス主義などについて、ともにコミュニケーションできる状態にならないと新しい運動は成立しないのではないか。そのように考えるベンサイドは、常に精密に語っている。それが魅力でもある」とまとめた。(Y)



湯川報告 「今日の時代をどうとらえるか? 戦略とは何か? ダニエル・ベンサイドの問題提起を考える」



 ベンサイドは、1990年代半ばから始まった社会運動の再生に焦点をあて次の可能性を展望する。「これは一時的な運動の上昇局面ではない」し、それは「新しい可能性の成立、ユートピアの出現」だと主張する。「新自由主義のグローバリゼーションに反対する気運の出現」と描き出し、「憤激は始まりだ! 決起と素晴らしい前進のための道だ。まず最初に憤激を覚え反旗をひるがえす、そうすれば分かる。この熱情の理由を理解する前であっても熱い憤激を感じる」(「不屈の人々 時代の風潮に対する抵抗の定理」)と集約する。

 具体的には、「1994年のサパティスタの放棄、1995年末のフランス公共部門のゼネスト、シアトルの反WTOデモ、世界社会フォーラム、アラブの春、ギリシャやスペインの民衆の抗議デモ、ウォルストリート占拠」という形で続いている。

 この「世の中の不正義に対する憤激の積極的意味」は、「マルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキー、チェ・ゲバラ、ウォルター・ベンヤミン、ジャンヌ・ダルク、シャルル・ペギーにも共通してその根源にあるものであって、もぐらが一杯にあふれる憤激であり、もぐらは「地下にある過去の障害物を執拗に掘り続けて突如として地上に姿を現す人々の象徴」(「抵抗--全体的なトートロジーに関するエッセイ」)である」と押し出している。

 この「ユートピアの時期」は、そもそも「1848年の段階」から考えることができるとした。すなわち、「解放の思想が可能なものの実践的適用に直面していない。だから、「『対抗』、『別の』、『もうひとつの世界』、『可能だ』、『もうひとつの左翼』、『別のキャンペーン』という用語が使われ、濫用される。このあり方は明確に定める必要をなくしてしまう。それは成熟が存在しないことを示している。私は悲観も楽観もしていない。われわれはこの段階から戦略を明確にするところへと移行すべきだと思う」(「今や戦略を定める時だ」)と強調した。

 つまり「共産党宣言」が出た「1848年の時期」だと言う。このことをベンサイドは、「時代の支配的要素は1980年代の歴史的敗北にいぜんとしてとどまっている。われわれはまだそこから抜け出していない。それはそれはまだ勝利していない時間との競争である。急進的左翼の抵抗の重要な位置はまだ伝統的左翼の衰退を埋め合わせてはいない」(「今や戦略を定める時だ」)と言う。「われわれをとりまく時代の趨勢」は、そういう意味で「ユートピアの思想」だ。



 なかでも「潮流としてのアナーキズムが強固に存在するわけではなくて、運動する側の強固な風潮」という時代の雰囲気が感じられる。だから「権力を取らずに世界を変える」というホロウェイ、あるいはネグリの思想が出てきていると分析する。そのうえでベンサイドは、「この時代はどれだけ続くのか」と問いかけながら「長い闘いが必要」だと結論づける。

 これは私の評価だが、「1848年あるいはロシアにおけるナロードニキの時代」だと言えるのではないか。「1917年ロシア革命」にすぐに行くわけではなく、もっと長い射程が「ユートピアの時期」が続くのではないかと思う。

 だからこそ「戦略=政治=政治潮流が必要」だとベンサイドは、次のテーマに踏み込むのであった。

 考え方のヒントとしてベンサイドは、「19世紀後半の時点での資本主義」と「その当時のグローバリゼーション(イギリス・ヴィクトリア朝時代)」を取り上げる。今日のグローバリゼーションと似たような状況として、「交通、通信の技術革命の飛躍的発展によって世界が狭くなる」「汽船、汽車、無線、印刷用輪転機の発明による大衆的な新聞の出現」「空前の株式、投機ブームと倒産、スキャンダル」「植民地への探検(ジャック・ロンドンの小説)と進出と軍事的冒険(ナポレオンⅢ世のメキシコ遠征)」をピックアップし、マルクスは「資本の、資本主義体制の謎を解明する」ために資本論を書いた。それは「アルセーヌ・ル・パンやシャーロック・ホームズのように」「他人の労働をいかに誰が盗んだ、その犯人を突き止める」ことに到達したと言う。

 このように分析しながらベンサイドは、戦略にひきつけて「戦略は、社会運動の成立抜きに、抽象的な頭の中で練り上げられるものではない。現実の社会運動の豊かな実践的経験から導き出されるのであるが、社会運動の延長上に自動的に生まれるもではない。それは意識的な闘いによって勝ち取られなければならないものである」と断言する。



 「戦略とは何か」についてベンサイドは、「自分個人の要求を充足にとどまらず、人々を要求のもとに組織することを考えること--人々を結集することのできる要求やスローガンを考えること=政治的に考えること、戦略を考えること」だと提起している。

 さらにそのプロセスを掘り下げていくために「差し迫る破局、それとどう闘うか」、「過渡的綱領」、「統一戦線」、「過渡的要求」、「労働者政府」について歴史的に運動の中で勝ち取られた考え方からのアプローチが重要だと言っている。

 さらに「この社会運動の中には社会運動の可能性に対する過大評価、政治的なものに対する不信が存在した。政党、政治勢力に対する不信、「権力を取らないで世界を変革する」、「対抗権力だけですますことができる(ホロウェイ、ネグリ、リチャード・デイなど)、戦略的なアプローチに対する拒否、の雰囲気が強固である」とスケッチし、この状況を「マルクスの『ユダヤ人問題によせて』」からアナロジーして次のように指摘する。

 「ユダヤ人の解放、政治的な平等の市民権の獲得だけで十分」というのは、「社会的解放を考えていない」と同じだ。「社会的解放こそが重要であり、政治的解放必要なし、というのは幻想だ」と批判する。だからこそベンサイドは新自由主義と手を切った反資本主義左派政治潮流の形成に着手した。その途上半ばでベンサイドは亡くなってしまったが(2010年1月12日死去。63歳没)。



中村報告 「政治闘争家でもあった哲学者ベンサイドの遺産」



 私がフランスに行ったのが1998年です。パリには、13の国立大学がある。ベンサイドは、第8大学だった。私は、10年いて、第8には登録していなかったが、ベンサイドの講演会とかに参加しておもしろい人だなと思っていた。後に知り合いになって、交流が始まった。

 ベンサイドは「責任と謙虚」の人だった。責任の中には実践を踏まえていた。そして、労働者の文化(連帯)に非常に誠実であった。集団との関係で全てが作ら、集団として考えることが非常に大切だと言っていた。彼は哲学者だけれども、非常に謙虚に、「私は哲学の一教員である」という言い方を常にしていた。1968年の闘いは、学生と教師のヒエラルキーとかを壊していった。つまり、教師と学生の関係は、教える、教えられる関係だが、彼の場合は常に対等であった。



 彼は、複数性とその中の固有性の重要性をわかっていた。彼はトゥルート出身でものすごい訛りがある。パッと聞くだけで、どこのフランス語なんだという感じだ。それを絶対に手放さなかった。家は貧しかった。だが優秀だったのでエリートコースの学校にいった。パリのブルジョワが集まるような場でもトゥルート訛りを通した。一つの表現だった。自分が体得してきた文化、ある種の固有性の重要さを表現していた。普遍性とは単純な抽象的ではなく、個別の活動とか、実践の中から繋がっていく普遍性を大切にしてきたところと結びついている。

 ベンサイドの言語に対する感性、思考は、両親がトゥルートに来てから生まれているのだけれど、ユダヤ人の流れであり、そこの文化と言語がねじれているところにある。だから複数性の原理と固有性の重要性の考えに結びついているのかなと思います。



 私は2001年、ベンサイドの教授資格の公開審査に参加したことがある。ベンサイドがいて指導教授が4人ぐらいいた。審査員たちは、ベンサイドの今までの業績や彼の本を積み上げていた。ところが審査員の中の一人は、ベンサイドの人格を褒め称えた。普通ではありえないことだ。彼の学問的業績を踏まえつつ、まずベンサイドの人格を取り上げざるをえなかったといえる。単純な人柄ということではなく、集団で考えていくこととかに繋がっているから、当然出てきたと評価している。

 審査員の一人であるデリダはベンサイドの本を見ながら、「あなたはランデブー(人と何か会う、約束)のこだわりがある。非常に強い結びつきというか、こだわりがあなたの中にある。あなたが革命を語るときは、活動家というものが、革命家とランデブーする感じを受ける」と言っていたことが印象的だった。



 1968年の五月革命。最初は五月の前に第10大学からベトナム戦争に対する反戦運動が激しく行なわれた。逮捕者が出て、それに対する抗議を契機としている。第10大学は封鎖されてしまった。機動隊とか導入した。逆に大学生の闘いは燃え上がった。労働者、市民も加わり、ゼネストまで行った。

 その年の秋、フーコーなども力になったのだが、社会に開かれた大学を作ろうということでできたのが、第8大学だった。非常に保守的な大学制度に対してアンチなものを作る反アカデミズムを軸にしていた。教師と学生の間に敷居を設けない、あるいは大学と社会の関係を見直していく、現在の政治に対して開いていかなければならないという主張だった。

 だから第8大学は、高校資格もいらないという感じで開いていった。授業も社会人が働いた後でも来れるように夕方に開講する。外国人にも開いていく。大きな教室でマイクを使って授業をすることはしない。普通の教室に教師を中心に学生たちが囲んで熱気に満ちていた。

 ところ80年代に入ると、第8大学はパリの郊外サン・ドニに移転させられてしまった。この地域は、2005年ぐらいに郊外の若者たちが暴動を起こしたという言い方で報道された(サン・ドニ県クリシー・ス・ボワ)。

 自由で始まった大学ですから、反権力・反アカデミニズムでいろんな人たちと結びついていた。当局は、それを嫌がって郊外に移転させた。



 1990年代に入ってから、サパティスタの闘い、世界社会フォーラムの実現、マルクスの国際的研究会議も実現した。ある種の社会的見直しが始まった。ジャーナリズムも批評を武器にして発言していくべきだという状況が生まれた。

 しかし第8大学は、「普通化」してしまった。本来あった批判的勢力としての第8は、制度面でも他の大学と変わらなくなってしまった ベンサイドは、その現象を「くそったれ」と言っていた。これは第8だけではなく、教育制度が日本とまったく同じで、民営化、市場原理が入ってくるなかで進行していった。学長の権限も集中させ、教授会の意見を聞こうとしない。  第8大学の「普通化」について紹介しておこう。他の大学と違って、少しは政治的な人たちがくる。パレスチナ問題なんかを積極的に取り組んでいるグループが世界からパレスチナ研究者を集めて講義を開こうとした。そのタイトルは、「イスラエルはアパルトヘイト国家か」というものだった。イスラエル・ボイコットを呼びかけた。



 この企画に大学は、最初、OKを出していたが、経済的支援もすると言っていたにもかかわらず、シオニストの圧力によって直前に、学長判断で中止させられた。これは不当だということで、学生たちは行政裁判所に訴えた。だが却下されてしまった。学長の判断は秩序をまもるために正当だとした。つまり大学でパレスチナ研究をするなということだ。パリの第8大学でこういう状況になってしまった。

 とはいえ日本と違うのは、私が行ったときは、年間学費は1万ちょっとだった。今でも安いはずだ。そういうところはフランス革命をはじめいろんな革命を経て獲得してきた価値、教育をあらゆる人に平等に開かれたものであるという理念は続いている。だから奨学金、安い学生寮も存在している。

フランスの反原発の現段階


▲3月11日、リヨンとアビニョンを結ぶ230㌔を6万人で人間の鎖

1年後のフクシマ――そしてフランスはどうか?



ミシェル・レヴィ、ヴァンサン・ガイ



 福島の原発災害から一年がたった。原子力発電の廃止を求める大規模な動員が組織されている。

 原子力エネルギーの歴史においては、フクシマ以前・以後が区切られることになるだろう。チェルノブイリ事故の後、西側の原子力ロビーは防衛線を見いだした。事故はソ連邦システムに典型的な、不十分で非効率な官僚的運営がもたらしたものだ、という理由付けだ。「そんな事故はわれわれの国々では起こりえない」というのだ。

 日本の民間産業の技術の粋をつくした原発で事故が起きた今、こうした主張はどのようになっているのだろうか。今年一月末以後、日本で運転中の原発はわずか三基になっているが、電力不足など起きてはいない。この「擬似脱原発」的モデルは(津波の結果だという点はさておいても)望ましいことではない。なぜならその急速な供給回復には大規模な化石燃料への依存が必要だったからだ。しかしそれは、フランスがその最前線に立っている一部の諸国で見られるような原子力エネルギー中毒が、まさに不治の病であることをも示しているのだ。

 この状況は、エネルギー部門の多国籍企業がわれわれに押し付けているウソと危険なジレンマを、明らかにしている。「最も汚染のひどい」化石燃料(石炭、沖合油田、タールサンド、シェールガス)への大規模な依存は、原子力エネルギー放棄の代わりとなる解決策ではないのであり、「きれいな」放射能による死か、地球温暖化によるゆるやかな窒息死かの二者択一的選択をする必要など、われわれにはないのだ。



原子力エネルギーは安全ではありえない



 一年前、メディアは、安全よりも利益に関心を持つ東京電力(TEPCO)の無責任、事故への備えのなさ、ウソについて、原子力産業の統制に責任のある諸機関や政府当局・地方自治体の積極的な共謀と合わせて、焦点化していった。こうした事実は論議の余地なく本当のことだ。しかしこの側面についてのみ強調しすぎれば、もっと重要なことを見落とすことになりそうだ。危険は、原子力エネルギーにとって固有のものなのである。

「ヒューマン・エラー」、内部的機能不全、地震、飛行機事故、爆弾攻撃、あるいは予見しえない事件が引き起こすもう一つのチェルノブイリやフクシマは、遅かれ早かれ起きるだろう。ジャン・ジョーレス(訳注一)の言い方を借りれば、雲が嵐を伴うように原子力は破局を伴う、と言うことができる。われわれは、仏大統領選挙の主要候補がこの問題を取り扱うやり方の中で、そのことにいっそうの不快感をおぼえるのだ。

欧州エコロジー―緑の党と社会党との破滅的な合意は、原子力の廃絶に関して緑の党がその目的のためにあいまいな形であっても交渉しえずに屈服し、二〇二五年までに原発の比率を七五%から五〇%に減らすだけに終わったことを明らかにした。したがって、緑の党の大統領選候補エヴァ・ジョリーが、支持の反響を得られなかったことに誰が驚くだろうか。フランス共産党においても現状維持の立場が支配的である。かれらの逆行的立場は、左翼戦線(訳注二)の意思表明をマヒさせるものなっている。

サルコジ(大統領)とベッソン(エネルギー担当相)のUMP(国民運動連合)やその同僚たちは、原子力産業に働く労働者たちをおじけづかせるために、社会党が多くの原発を閉鎖したいと思っている、と信じるふりをしている。実際のところこれは、社会党の立場についての、そして原子力産業労働者の状況との関係での、二重のごまかしなのだ。原子力産業の労働者は、他の労働者と同様に、不安定な下請雇用であり、職業病に苦しんでいる。原発の廃止に伴う新たな雇用創出については、この問題に関するさまざまな報告についてサルコジやオランド(社会党の大統領選候補者)が何も言わないにもかかわらず、可能なのである。われわれが見ていることは、それとは全く逆に、そもそも当初、耐用期限三〇年で設計された原子炉の耐用年数を四〇年に延長しようという無謀な試みである。



二一の原子炉をただちに廃炉にすべきだ



原発の耐用年数の問題は今や最重要の課題になっており、われわれの要求は、すでに三〇年間運転してきた原子炉の廃炉である。現在なお運転し続けているが即座に廃炉にすべき原発は二一基あり、それ以外の二一基も二〇一七年には耐用期限年数に到達する。こうした要求は、原発を一〇年で廃止せよというNPA(反資本主義新党)の提案、ならびに現在進行中の原発プロジェクトを中止せよという提案との完全な一貫性を持っている。

こうした要求は、反核運動の中で広範な支持を得る必要がある。三月一一日にリヨンとアヴィニョンの間で組織される人間の鎖は、この理由から言っても失敗させてはならない。それは、フランスで最も原発の多い地域で数万人を組織することを意味している。しかし日本での原発災害から一年後の日になされる一日行動だけでは、原子力ロビーを退却させるには不十分であり、われわれは、人間の鎖、デモ、核廃棄物を運搬する列車の阻止などさらなる行動について検討しておくべきである。原子力を止めるために、ともに原発を阻止する行動に立ちあがろう。



二〇一二年三月六日



(訳注一)二〇世紀初頭のフランス社会党の指導者。第二インターナショナルの中では「修正主義」の立場に立っていたが、第一次大戦に反対し右翼によって暗殺された。

(訳注二)共産党と仏社会党から分かれた左翼党との選挙ブロック。左翼党のメランションが左翼戦線の大統領候補になっている。 
 

▼ミシェル・レヴィはブラジル出身の哲学者・社会学者であり、フランスの反資本主義新党(NPA)ならびに第四インターナショナルのメンバー。彼はアムステルダムのIIREの特別研究員であり、フランス国立科学研究センター(CNRS)の前主任研究員である。彼には『チェ・ゲバラのマルクス主義』、『マルクス主義と解放の神学』、『父なる祖国か母なる大地か』、『ラテンアメリカにおける宗教と政治』など多数の著書がある。邦訳書に『若きマルクスの革命理論』(山内昶訳 福村出版、一九七四年)、『世界変革の政治哲学』(山本博史訳、つげ書房新社、一九九九年)がある。彼は「国際エコ社会主義宣言」の共同起草者であり(ジョエル・コーヴェルとともに)、二〇〇七年にパリで開かれた「第一回国際エコ社会主義会議」の組織者の一人でもある。ヴァンサン・ガイは仏NPAのメンバー。
 

(「インターナショナル・ビューポイント」2012年四月号)


▲1977年7月、フランス東中部クレイ=マルヴイルでの
抗議側に死者が出た6万人の高速増殖炉建設計画反対闘争

【フランス】NPA、大統領候補にフィリップ・プトゥー選出

npa

ブザンスノーを引きつぐ者は「労働者である候補者」


ダニエル・マンヴィエル


 5月28日の『リベラシオン』紙の「フィリップ・プトゥー 機械を再起動するための労働者」と題する、プトゥーについて書かれた記事の最後にはブトゥー自身の労働者代表の候補者ではなく、労働者である候補者だ」という彼自身の言葉で締めくくられている。同紙の別の記事には、こう書かれてあった。「問題の機械、それはNPA(反資本主義新党)である。この党は、週末に開催された全国協議会で『あらたな亀裂』を見せた、これは、おそらく、『活動家の資産』をすべて『浪費してしまった』NPAの二年間の過程の結果として『最後の亀裂』であろう。孤立を強いられていた社会運動とその政治的出口との仲介をその当時約束するであろうとされ、多くの人がその結成に託した希望をNPAはこの二年間の過程で無にしてしまった……」。

 同紙は、わが党を今日分岐させている民主的討論によって引き起こされた緊張を強調することに満足を見出したのであった。しかし、真の危機はNPAの内部にあるのではなくて、社会全体を揺り動かしている危機なのである。そして、この危機に直面して、活動家たちは、行動における党の統一を活性化させ、われわれを統一させている思想と綱領を掲げたいと望んでいる。フィリップは、この展望を具体的で信頼できるものとしてくれる。「労働者である候補者」として、彼は、下から、搾取され抑圧された人々に訴え、元気を取り戻し、自らの権利のために闘う必要に応える。この必要性は、オリビエ・ブザンスノーが来るべき大統領選に立候補しない選択を表明した手紙の中で語った点である。今まさに引継ぎはなされた。プトゥー自身が今回の出馬表明で仕事仲間から受けた最初の反応は、皆んな彼の言いたいことは分かったと口々に語ってくれたことであった。

 今回の立候補は、フィリップをよく知る人々にとっては意外なものではない。彼は、青年時代の最初から全生涯にわたってずっと活動家であり、社会の不正義に反対し、もう一つの人間関係、もうひとつの社会を目指す希望を抱いて決起してきた。庶民の家庭出身であり、父親は郵便労働者であったが、今では定年退職している。彼は、ボルドーの「労働者の闘争派」に加盟する前は、アナーキストを自称し、17歳の時から仲間とともに活動を始めた。その彼は、1997年3月に、ボルドーとルーアンの「労働者の闘争派」のほぼすべての活動家とともにこの派から除名される。その当時、「労働者の闘争派」指導部は、そのスポークス・パーソンのアルレット・ラギエが出した一連のアピールを通じて、新しい労働者党の建設を追求するとしていたからである。

 だが、「労働者の闘争派」指導部は、革命勢力派の建設、「労働者の闘争派」とLCRの統一という展望からすぐに後退して自分自身の中に閉じ込もってしまった。プトゥーとその仲間たちはこのアピールを真剣に受け取った。彼はこの時に、この統一の建設に参加し、この政策を追求する「労働者の声」グループの政治生活に参加した。2001年7月、「労働者の声」派とLCRの合同が実現された。その後、フィリップはNPA建設に参加し、新党のジロンド県の指導的メンバーとなった。

 フィリップの政治生活は、最初から社会的闘争と結びついていた。辛い臨時職の数年間を経て、彼は1996年にボルドー近郊、ブランクフォールにあるフォード工場に雇われた。そこで、自らの政治的闘いを否定することなく積極的な組合活動家となった。彼にとっては、社会的活動と政治的活動は密接不可分なのである。彼は、LCRの、その後はNPAのさまざまな選挙での候補者となり、とりわけ先の地域圏選挙ではアキテンヌ地域圏での共同候補者リストのトップに名を連ねた。それと並行して、彼はCGT(労働総同盟)フォード工場支部の書記として、この数年来この工場の労働者による工場閉鎖反対闘争のために活動し、そのためのさまざまなイニシアチブを発揮し、この闘争の永続的な結びつきを作り出して成功させ、他の労働者や他の左翼政治勢力や地区の団体の支持を取り付ける活動を展開してきた。

 そのとおりだ。フィリップは労働者である候補者であり、「社会運動の候補者」であり、政治を実践する労働者である。日常のそれぞれの闘いの機会と同様に、彼は、支配階級によって引き起こされた危機と対決し、もうひとつの展望を掲げるために、再度、われわれの党の内部はもちろんだが、それだけにとどまらずより広範な労働界の勢力や青年の勢力を結集することに貢献できると考えている。 『トゥテタヌー』(109号、2011年6月30日)

オリヴィエ・ブザンスノー、2012年大統領選に不出馬を表明

オリビエ・ブザンスノーは2012年選挙のNPA候補者にはならない
http://www.internationalviewpoint.org/spip.php?article2147 
 

 さる5月2日、反資本主義新党(NPA)指導部は、その最も著名なスポークスパースンであるオリビエ・ブザンスノーが2012年の大統領選挙に党の候補者にはならないと知らされた。NPA創設の基礎を築いたのは、2002年と2007年におけるLCR(革命的共産主義者同盟、第四インターナショナル・フランス支部)によるオリビエの選挙運動が成功したことによるものだった。五月四日のNPA執行委員会の次の会議の後に、オリビエはNPA党員に次の書簡を送った。(「インターナショナルビューポイント」編集部)



 「諸君への最善の奉仕をする者は、諸君とともに自らの生活を送り、同じ苦しみを受ける人びとの中から諸君が選ぶ者だということを忘れてはならない。

 自分自身の利益だけを考える者は、つねに自らを不可欠の存在だと見なすようになってしまうのだが、諸君は大志を抱いた新参者のように挑戦しよう……。

 諸君の票を追い求めようとしない者を選べ。最も重要な徳とは謙虚さであり、有権者にとってそれは、自らの選んだ代表を認めることであり、人目を引くように振る舞わせることではない」。

 パリコミューン国民衛兵中央委員会のアピール 1871年3月25日
 
besacenot 同志諸君。

 私は2012年の大統領選挙において反資本主義新党の候補者にはならない。これは私が行った政治的決断である。そして私が本日、バトンを同志の一人に手渡すのだとしても、私はもはやわれわれのすべての闘争に参加するつもりはない、などと言うつもりはない。全く逆だ。むしろ私は、以前よりも私に刺激を与えている解放のプロジェクトに従って、新しい基盤の上にNPAが自らを確立する機会が存在していることを確信する。

 第一に私は、この機会をとらえて、この10年間にわたり私がスポークスパースンを務めてきた協同の活動に積極的に関わってきたNPA――ならびに前LCR――の人びとに感謝したい。ポスターを貼り、リーフレットを配り、集会を組織した地域支部のすべての同志たち(そしてわれわれを手を広げて歓迎してくれた人びと)に、2002年に、そして2007年にも立候補のための署名を集めてくれた人びと、議論、方針の作成、コミュニケーション、弾圧対策で活動した指導部の同志たち、皆さんすべてに私は感謝の言葉を述べたい。このチームは私に多くのことを教え、スポークスパースンになったことによるこの愉快な経験に多くの貢献を果たしてくれた。

 私は、われわれの思想と信条を広範な聴衆に伝えるために私のレベルで最善を尽くしてきた。そして私は、われわれの綱領を伝え、われわれの行動を促進し、われわれの得票を増大させるために活動し続けたいと強く思っている。NPAの活動家、そしてより全般的に言えば、世界を変えるために闘っているすべての人びとは、私の献身を当てにすることができる。 

 したがってこれは政治的決断なのであり、大きな驚きとすべきではない。私はこの数カ月間、過剰なまでに誇張された特定の個人の押し出しがもたらす政治的リスクについてわが党に警告してきた人びとのうちの一人だった。この考え方は特別な社会的・政治的状況の中で具体的な形をとった。一方で、公的代表制を通じて活動家の課題を委任――特別に時期を区切った委任――することは必要である。それは階級闘争における真の草の根からの行動の代用物としてメディアのゲームにうつつをぬかすこととは全くの別物である。

 われわれは、疎外・搾取・抑圧の社会を最終的に片付ける展望を擁護するために、職場で、闘争の場で、選挙の時も日々組織化を行っている。隷属の現代的形式からの解放は、必然的に現在のシステムとの決裂を意味する。この決裂は、政治への民衆の関与の拡大を前提としている。可能な時にはいつでも、明日になるまで革命的約束の沸騰を抑えるのではなく、この決別がいま、この場で推し進められなければならない。

 それはいま、この場ですべての名もなき市民に対し、自分の運命の所有者となるよう、倦まずたゆまずていねいに、われわれが呼びかけることを意味する。われわれがつねに民衆的諸階級に対し、そこでわれわれの生が実現される闘いの場からわれわれを引き離すために政治家たちが擁立したスピーカーたちと決別し、政治の場に飛び込むよう促しているのはそのためである。われわれが活動しているところではどこでも、この家屋資産、ビジネス、学校、大学、路上の市場への独自の破壊的なメッセージを選挙期間中の抗議の主張として、われわれは伝えている。このメッセージは、わが党の特徴を示すものであり、われわれは選挙上の一定の条件反射を理由にしてそれを曇らせてはならない。

 LCRが2002年の大統領選で、若い労働者、「郵便屋」を引き出すという大胆さを持った時、われわれはセンセーションを作り出した。われわれの現実のあり方――集団的手段であり、不均質なグループであるというあり方――を浮かび上がらせるような無名の候補者を次の選挙で立てることによって、再びセンセーションを巻き起こそうではないか。われわれには自分自身を表現する政治家は不要だということを示すこと、解決策を理解し、提案するために力を注ぐことは、進歩的な行為である。われわれは「安全運転」をすべきだと考えて自らを安心させることは、逆に他の人びとのものであるべき有害は保守的本能を生み出すことになる。しかしわれわれは、他の政党がするようには政治を認識しない。

 私の見解では、このような動きは擁護できない矛盾に分解する。その矛盾とは、一方では政治が市場調査の一形式となってしまうシステムを批判しながら、他方ではわれわれの運動と思想を儀式的議論の中にはめこむことで、われわれ自身を無意識のうちに伝統的政治の場に組み込むものである。この危険は、結果としてわれわれを、われわれ自身の戯画、さらにはシステムの失敗のアリバイにすら変形させてしまうのだ。

 皆さんすべてと同様に、これは私にとって個人的に耐えることのできない展望である。


私は、自分が一般大衆にとって伝統的政治家の一人であるように映るようになることを望まない。それは近年、われわれの立場に影響を与えてきたことである。私が郵便局での仕事を続けてきたこと――私が決して手放すことのない活動――は、合意された選挙の戦場やメディアに継続的に強制された力学に対抗する上で十分に強力な長期的予防血清ではない。2002年に政党政治に攻撃をかけるために闘いを始めた若い労働者は、不可避的に2007年には「仕事を続けながら政治をする」者となり、2012年にはおそらく「手短に政治をする」者となるだろう。

私は戦士であり、活動家であり、そうあり続けたいと望んでいる。この矛盾から私を解放することは、私が公的な場で、しかし異なったやり方でNPAの先頭を続けるための最善の保障である。

 そこで私は、私の選択がNPAを最終的に自己確立するための願いだと認識し、支持していただけるよう訴える。皆さん自身で、余り知られてはいないが、より意識的でより一貫した基盤の上に配置することを可能にする集団的アイデンティティーを再確立できる名前を見つけてほしい。現在のシステムとは明確に区別された革命的・国際主義的で、生き生きとしてオープンなプロジェクトを遂行する必要性に、いっそうの注意を払ってほしい。日常生活の全体的活動によりコンスタントに関わり、職場や住居の問題や青年たちの間での活動に恒常的に関与し、社会運動の活動的な抵抗ネットワーク――労働、反レイシズム、環境保護、フェミニズムなどなど――を主導すべきである。

 一年以内に大統領選挙が行われる。それはわれわれに対して、準備し、われわれの再建プロセスの中で2012年を大きなステップとするための時間を与えている。

 私は、自らを100%、わが党=NPAに投入し、そして私ができるかぎりの最善をつくしてわが候補者を支援する準備をしている。われわれが効果的に次期大統領選挙に介入することができるようにするためであり、そのためにわれわれは、自らを世界からこり離すのではなく、幾百万人の民衆にわれわれのメッセージを伝えなければならない。フランスの労働運動が経験している不確実性の時は、資本主義システムがこの三年以上にわたって直面しているグローバルな危機によって多くの場合引き起こされた不安定な政治情勢に暗い影を投げかけるべきではない。

 アラブ革命は一つのことを実証した。歴史の風は変化しており、急速に転換させることができる。
 

革命的あいさつを送る。

オリビエ



▼オリビエ・ブザンスノーは革命的共産主義者同盟(LCR、第四インターナショナル・フランス支部)が呼びかけて2009年に結成された反資本主義新党(NPA)の最も著名なスポークスパースン。彼は2002年、2007年の大統領選でLCRの候補者としてそれぞれ120万票(4.5%)、150万票(4.2%)を獲得した。
 

(「インターナショナルビューポイント」2011年5月号)
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