中国の「左翼」ナショナリストとは?
ナチスの思想家の作品に強い関心を示す中国の知識人集団
ブレイン・ハイオレン
【解説:この文章で主な批判対象となっている汪暉(1959~)は現在清華大学教授、魯迅研究者として出発したが、幅広く現代思想、世界状況を論じ、一九九〇年代の中国思想界の論争では、「リベラル派」からは毛沢東主義復興を目指す「新左派」の一人と見なされていた。區龍宇氏の『台頭する中国』(2014年、柘植書房新社)にも汪暉批判の論考が掲載されている。近年、習近平寄りのナショナリスト的言説が物議を醸している。本稿は在外香港人左翼のプラットフォーム「流傘/LAUSAN」のウェブサイトに掲載されたものを翻訳した。原注は( )、訳注は[ ]に入れた。:週刊かけはし編集部】
米中の緊張が高まる中、多くの人が国際情勢の現状を表現するために歴史的な比喩に向かいがちである。中でも、勢いづく突出した比喩の一つが、中国をナチス・ドイツに例えることである。これには多くのパターンがあり、「CHINAZI」(チャイナチ)のような下品な罵詈や、習近平国家主席のことを「Xitler」(シトラー)と呼ぶなど、ナチスとの連想で惹起される罪の形も含まれる。-中国のナチス・ドイツとの関連性は、中国政府が新疆ウイグル自治区で運営している大量収容所への怒りの声が広がっていることでさらに強まっている(脚注1)
。これはウイグル人や他の先住、少数民族集団を多数民族の漢民族に強制的に同化させようとする民族浄化と名付けられてきた企図の一環である。
一方で、中国の知識人の中には、ナチスの法学者カール・シュミットに代表されるナチスの思想家の作品に強い関心を示す者もいることが注目されている(脚注2)
。彼らにとって、シュミットの魅力は、その反個人主義、国家の優位、一人の指導者に委ねられた中央集権的権力の擁護という点にある。興味深いことに、これらの中国の知識人たちもまた、明らかに伝統的左派の出身であり、「中国新左派」といった緩いグループの一員である。私はこうした知識人たちを中国左翼ナショナリストと呼ぶ。
中国の美術評論家で元研究者の栄剣(ロン・ジエン)の最近のエッセイは、中国の最も著名な左翼ナショナリストの一人を批判して波紋を呼んだ。汪暉(ワン・ホイ)である。栄剣は、汪氏をナチス党のメンバーであり支持者でもあったドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーに例えている。栄剣によれば、汪はレーニンや毛沢東のような20世紀の革命家によるカリスマ的な政治的指導力の重要性を主張しているが、それは同時に、習近平の周囲の個人崇拝の高まりを擁護するものでもある。それは、ハイデガー自身が行った、ファシスト的形而上学の中心的、神話的人物としての[ヒトラー]総統賛美を私たちに想起させる主張である。
◆新自由主義と民主主義に反して
中国の左翼ナショナリストは、中国を西欧諸国から切り離す本質主義的な差異を信じている。この差異の源は、文明化した術語でいえば、「中華文明」と「西洋文明」のような、あるいは、より近代的な術語で言えば共産主義と資本主義の違いというように考えられてきた。これらの思想家にとって、この違いの本質は、中国の文脈における党・国家の優位性と、西洋の文脈における自由市場や規制されていない民主主義の優位性との間の衝突にある。これはまさに、中国の民族主義的左翼が、国家統制主義概念を支持するシュミットのような人物の方に引き寄せられてきた理由である。実際、シュミットの政治活動を「友と敵」の区別に還元する見方は、中国の民族主義者が、冷戦時代にすでに存在し、今日の米中地政学の中で復活している二項対立で現在の世界秩序を描き続ける限り、彼らに訴えかけるのである。シュミット主義的な考えに寄り添うことで、彼らは主権者としての国家の優位性を保証し、外部の脅威に対抗して国境を強化したいという願望を正当化することができるようになる。
過去数十年間、中国の左翼ナショナリストたちは、欧米左翼学界の新マルクス主義やポスト構造主義的なアプローチを参考としてきた。80年代から90年代にかけての中国の自由市場への移行を、西洋左翼の新自由主義分析に沿って位置づけてきたのである。このような流れの中で、デヴィッド・ハーヴェイやナオミ・クラインのような西洋の理論家は、中国の新左派を同伴者として見る傾向があり、この親和的関係は、ハーヴェイの『新自由主義』やナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』のような新自由主義秩序批判の基礎となる書物の中で、汪暉がたっぷり引用されていることからもわかるだろう。しかし、中国の左翼ナショナリストのシュミットへの関心が開花したのもこの時期である。
汪はまた、民主主義を実践していないにもかかわらず、民主的コンセンサスを表現する思想を提供しているとして、歴史的に党を擁護してきた。その一例が、毛沢東が政策決定の際に大衆に相談するために用いた戦術である「大衆路線」を過大評価したことである。彼は、このような実践は、欧米のモデルでは成し遂げられなかった民主主義の表現であると主張している。汪は次のように述べている。「人民戦争の基本戦略は大衆路線であった......階級の自己表現、ひいては政治的意味での階級を生み出したのは、人民戦争の状況下での党とその大衆路線であった」(脚注3)。
汪はまた、国家は民主的ではありえないという主張から国家を擁護して、こう主張する。「国家の政治システムが問題に対応する能力を持っているならば、その社会には民主主義の要素があり、その可能性があることを示している。しかし、私たちの民主主義に関する理論は、その政治的形態に焦点を当てすぎたため、これらの実質的な可能性を無視してきた」と(脚注4)。
◆党=国家体制の防衛
対応力のある国家装置は必ずしも民主的なものではないが、おそらく効率的なものであるとよく言われている。民主的であるふりをすることに関心のない権威主義国家はときに、民主的なシステムよりも効率的であると主張することで、その支配を正当化してきた。
実際、歴史を通じて、党や国家は、たとえ特定の利益集団を代表していたとしても、人民の代弁者であると主張してきた。多くの人は、現代の中国の党=国家体制[党が国家を代行しているシステム]は、まさにこのように批判してきた。それは中国国民全体の制度というよりは、党の創始者の子孫である少数の権力者や政治的に影響力のある一族を守ろうとしているだけの制度である、と。ニーチェが言ったように、「国家はすべての冷酷な怪物のうち、もっとも冷酷なものとおもわれる。それは冷たい顔で欺く。欺瞞はその口から這い出る。『我が国家は民衆である』と」。[『ツァラトゥストラはかく語りき』]
汪暉は、党と国家を区別してきており、党と国家が完全に同一ではなかったことが中国のシステムの強みであり、鄧小平時代に両者が次第に合体していったときにその区別は失われたと主張している。今なお汪は、党と国家の双方を立て直そうとしている。
これは[党に比して機能を]減じつつある国家の弁明に他ならない。国家は西洋の政治モデルと並置して評価されているが、その西洋政治モデルの主要な欠点は、中国の政治システムにおける国家の比較的強い役割とは対照的に、国家の役割が弱いことであると汪は見ているのである。このような党=国家体制の擁護は、人民、党、国家の差異を解消して一つに融合しようとするものである。汪は頻繁に大衆路線を参照することで隠そうとしているが、党=国家はルソーの一般意志[全人民の総意]のようなものを表現することができると主張しているのである。
もちろん、ここでの分析の基本的な単位は国家(中国の場合は党=国家)である。国家を欠く人民とは関わることができないため、汪は自己決定の原則に否定的な評価を下すことになる。特に、汪は、国家不在の場合の自己決定の要求を真剣に考えていない。汪が中国の周縁地域でも自決に広く反対してきたのは、このような分析的なレンズを通してであった。彼は、チベットとウイグルの独自のアイデンティティは、中華国家の支援の下では歴史とともに消えていくだろうと主張してきた。香港と台湾のアイデンティティに関する彼の見解は一貫しているが、汪によれば、これらのアイデンティティの出現はかなり最近のことであり、同様に突然崩れる可能性があるのだと。
このように考えると、中国の左翼ナショナリストに属する胡安鋼のような人物たちが、中国の民族国家化を直接主張しても不思議ではないかもしれない。胡氏は2012年の論文の中で、「いかなる国家であれ長期的な治安と安定は、統一された民族(ナショナル)アイデンティティを構築し、ナショナル・アイデンティティを強化し、エスニック・グループ(民族)アイデンティティを希薄化させるようなシステムの構築の上にこそ成り立つ」と書いている。胡の主張はその後、文字通り、エスニック・グループのアイデンティティを希釈するために漢人とウイグル人との結婚を奨励する努力を正当化するために使用され、汪氏のアイデンティティに関する見解に論理的帰結をもたらした。
◆革命的人格
汪暉の断固とした党=国家体制擁護は、最近では習近平の「革命的人格」に対する擁護へとシフトしているが、これは実際彼の初期の研究とは矛盾していることがわかる。汪はかつて、大衆路線の利用が民主的意思決定の効果的なシステムであると主張して党=国家体制を合理化していたのに対し、最近では、声を張り上げ、党の他の指導者たち─彼らが党を指導しているのであるが─を凌駕する権威を持つ非凡な指導者を支持している。汪暉はこの指導者を「革命的人格」と呼んでいる。
COVID-19パンデミックの最中に書かれた最近のテキスト『革命的人格と勝利の哲学』の中で、汪は次のように述べている。「差し迫った瞬間に神話的な方法で使命を果たした党指導者は、党システムそのものと完全に同一視することはできない。レーニン、毛沢東、その他の革命的指導者たちは、しばしば自党とその指導路線に反対し、長期にわたる、時には痛苦に満ちた理論的・政治的闘争の後にようやく指導権を獲得したのである」。その結果、汪によれば、「労働者運動、階級政党、社会主義国の衰退を背景に、革命的人格(特に革命的指導者の人格)の問題をあらためて探求することは、現代世界の再政治化を推進しようとする者にとって、意義がないわけではない」とのことである。ここでの政治指導者についての例外論者的見方は、国家主義的プロジェクトに対する汪暉の傾注を圧倒しているように見える。「革命的人格には独特の力があり、社会的・政治的条件が熟していないときでも、この巨大な能力を使って革命を推し進めることができる」のだそうだ。
であるなら、栄剣が汪暉の「革命的人格」にハイデガーの総統観を想起するのは驚くに当たらないだろう。この点において、「革命的人格」とヘーゲルの世界精神やニーチェの「超人」のような他のメシア的思想家との比較が可能となる。しかし習近平が、毛沢東や鄧小平型の無制限の権力を持つ他の指導者の台頭阻止を意図して、安全装置を解除した今、汪が「革命的人格」の重要性について書いたのは、習近平の政治的台頭によるものであることは間違いないだろう。たとえ、汪があからさまに個人崇拝を推奨しているわけではないにせよ、汪の「革命的人格」の重要性に対する評価は、習近平の最上位の地位を公認するものである。
◆国際主義に扮した膨張主義
中国の新左派の中でも特に汪暉の作品の主たる内容は、中国の左翼ナショナリストが、国家とは関わらない者の間で連帯を構築しようと願ってはおらず、中国と西洋の間の大国競争で勝利したいと願っているだけだということを明らかにしている。これは、国際主義的な労働者運動によってのみ対抗できる総体化する力としてのグローバル資本の論理を危険なまでに捨象した偏狭な見方である。その代わりに、汪は、歴史の動因としてのカリスマ的な指導者を持つ党=国家のみを見ているのである。
これらの中国の左翼ナショナリストによれば、西洋は資本主義を代表するものであり、中国の国家権力によってのみ対抗可能なのである。この論理では、中国の社会主義は、国家権力にのみ結び付けられ、もっぱら国家権力の行使という観点から構想されており、マルクスが描いた「国家の死滅」に続く無階級社会については、ほとんど言及されない。世界的なポスト資本主義の未来は提示されず、結局のところ、「社会主義」とご都合主義的に名付けられた中国の国家的繁栄という限定的なビジョン以外、何も提示されていないのである。
国家権力とポスト資本主義の未来をめぐるこのような議論は、根本的に古く、現在の問題の多くは、第三インターナショナルの形成に伴うソビエト連邦の初期の歴史の中でも論点となっていた。しかし、スターリン政権下のソ連の場合、国際主義的な社会主義プロジェクトを推進すると主張していた第三インターナショナルは、実際にはソ連の国益を推進するために利用されたにすぎなかった。(栄剣は汪が、「革命的人格」を称賛する言い回しをスターリンにではなくレーニンに置き換えることで、スターリン主義的個人崇拝の復活をあからさまに擁護するのを回避している点に注目している)。
習近平の中国とスターリンのソビエト連邦の類似性は、非西洋圏の帝国主義プロジェクトと今日の帝国主義の形態にまで及んでいる。1930年代、日本帝国主義は「大東亜共栄圏」を展開し、東アジア諸国間の文化的・経済的統一を促進した。当時の日本の知識人たちは、これを、具体的な日本的「伝統」概念を破壊したとされる西洋近代を克服する世界史的なプロジェクトであると主張して正当化した。中国の左翼ナショナリストにとって悪名高い試金石は、1942年に東京で開催された「近代の超克」座談会であるが、彼らは日本帝国主義に対する知的擁護と自分たちの政治的プロジェクトとの間にある居心地の悪い類似性について、いまだに意識的無知を保ったままであるように見える(脚注5)。中国人の日本に対す鋭い敵意─現代の中国の国家主義の中心的構成要素である─が説明するように、[中国以外の]他の集団でも日本帝国主義を解放者と見たものはまずいなかった。国際主義を装った中国の国家主義プロジェクトもこれと同様である。
この意味で、多くの中国の左翼ナショナリストの「左翼主義」は、実際には、社会的生産手段の根本的な再構築としての資本主義的国家主義に根ざしている。その結果、中国周縁部での自決闘争の排除、内部植民地主義の正当化、中国の地政学的拡大の擁護など、国家主義的なプロジェクトは、左翼的な国際主義的イニシアチブとして甚だしく誤った枠で考えられてしまうのである。
対照的に、アメリカ帝国主義は、自由と民主主義を世界的に広めるための努力として自らを正当化する。この点で、中国の左翼ナショナリストは、西洋のオルタナ右翼[アメリカの伝統保守に対して、新興の人種差別主義的、白人至上主義的、排外主義的等々の傾向をもつ極右的右翼勢力]の懐古趣味で、現代の世界秩序を考えている。オルタナ右翼は中国の左翼ナショナリストと同様に中国とアメリカの対立を文明の衝突と見なしている。このようにして、現在のグローバル資本の危機は、アメリカと中国の間で類似の反応を引き起こしており、双方が置かれた状況を背景に、国境を強化し、取り締まることに強い焦点が当てられている。これは中国では、チベットや新疆のような内部国境の取り締まりや、香港や台湾のような外部国境の確保に重点が置かれていることからも明らかである。アメリカでは、国内的にはマイノリティグループに対する悪意に満ちた反移民言説や暴力の増加という形を取っている。したがって、アメリカと中国の衝突は、たとえ双方の民族主義者は、行動において同一化するのだというようなことはイデオロギー的に認めることはできないとしても、帝国としてはそのような民族主義的行動を共有する近代的国民国家の衝突なのである。
20世紀の歴史は、帝国主義プロジェクトの残骸で埋め尽くされている。かつて植民地化された国や、不均等発展によって不利益を被った国は、支配的な西洋の勢力に取って代わろうとする企てにおいて最高潮に達するような民族主義的自強プロジェクトに乗り出している。西洋の覇権に対抗するプロジェクトは極めて重要なものであるが、そのようなプロジェクトの多くは、大国間の競争のサイクルから完全に脱却するというよりは、むしろ歴史的に西洋に押さえられてきた世界の覇権的地位を切望することに終始してきた。これは現在の中国に見られるものであり、中国の左翼ナショナリストたちが、極右のプログラムやファシスト的な理想に頼って精力的に支持してきたものである。これらの考えを論議するまでもなく、この米中近代帝国の衝突は、それ以前の帝国の衝突と同様に進行すると予想できるのである。
2020年12月13日
(脚注1)ここで「新疆」とは、新疆ウイグル自治区(別名「新疆」、「西北中国」、「東トルキスタン」、「ウイグル」、「グルジャ」、「タルバガイ」、「アルタイ」、「ズンガルスタンとアルティシャール」、「ズンガリアとタリム盆地」、および/または「ズンガリアとタリム盆地」とも呼ばれ、以後「新疆」と呼ぶ)のことである。「新疆」という固有名詞は、18世紀の乾隆帝が最初に使ったもので、19世紀後半の左宗棠の再占領によって獲得されたものである。中国語では、「新しい領土」、「新しい国境」、「新しい辺境」を意味する。
(脚注2)Sebastian Veg, “The Rise of China’s Statist Intellectuals: Law,
Sovereignty, and ‘Repoliticization’” in The China Journal, Volume 82, Number,
July 2019, P. 23-45,
https://www.journals.uchicago.edu/doi/10.1086/702687https://www.journals.uchicago.edu/doi/10.1086/702687
(脚注3)同上、P.140
(脚注4)Wang Hui, China’s Twentieth Century: Revolution, Retreat and the
Road to Equality, ed. Saul Thomas, London: Verso Books, P. 160
(脚注5)Harry D. Harootunian, Overcome by Modernity: History, Culture, and
Community in Interwar Japan, Princeton: Princeton University Press, 2000.