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【フランス】NPA結成から7年:計画、現実、問題

_89839304_89839303(一連の写真は現在闘われている労働法制改悪反対闘争)

NPA結成から7年:計画、現実、問題

ピエール・ルッセ

 

 以下の論考はギリシャDEAの理論誌「Kokkino(赤)」のために書かれたものである。かなり長文だが、問題の全側面を扱っているわけではない。実際には、これは決して完結しない論文であり、常に書き直しや補足を必要とする。その主要な目的はNPAについて、その誕生から今日までの成功と失敗の教訓に関する集団的な思考を促すことである。


 ヨーロッパのラディカル左翼の諸組織は最近における突出した政治的経験や選挙の経験に関心を集中する傾向がある。ギリシャのシリザから始まって、スペインのポデモス、ポルトガルの左翼ブロック、さらには、多くの場合ドイツの左翼党やイタリア共産主義再建党、デンマークの赤緑連合、その他の政党がそれに含まれる。これは全く正当なことである。しかし、それ以外の「何か新しいことをする」試みも、たとえその成功がささやかで、短期間であったとしても、分析の価値がある。それは広範な国内的条件について思考するための素材を提供する。


 重要なことは、「何か新しいことをする」試みが本物であり、単なる表面的なものではないことである。二〇〇九年のフランスにおけるNPA(反資本主義新党)の結成がまさにそうだった。言うまでもなく、このイニシアチブは革命的共産主義者同盟(LCR)そのものによって開始されたが、LCRは特別大会で自らを解散した。われわれ、あるいは少なくともわれわれのうちの何人かはわれわれがルビコン川を渡ろうとしていることを知っていた。次に何が起ころうとも、過去に戻ることは不可能だろうということを。その後の経過は、実際に戻ることは不可能だということを証明した。


 LCRそのものが再編のための枠組であった。分裂だけでなく、いくつかの統合も経験してきた。しかし、それは「時代遅れ」の組織にとどまり、一九六〇年代と七〇年代のラディカル化の産物だと見られていた。


 フランスでは、ポルトガルやギリシャと違って、「同時代的」な大衆運動の政治的表現を創出しようとする最近の試みはすべて失敗してきた。韓国やブラジル(初期の労働者党)のような、階級的労働組合運動を基礎とした、あるいは基礎の一部とした労働者の党は設立されなかった。共産党や社会党から分裂した左翼がラディカルな政治的行動のパターンに持続的な影響を及ぼすこともなかった。斬新で広範な社会運動が「怒れる者たち」とポデモスのような新しいタイプの力学をもたらすこともなかった。


 そのような手詰まり状態の中で、LCRはこれまで踏み入れたことのない道に進むことを選択した関心を持つ個人、活動家グループ、組織に新しい反資本主義政党を作ろうという呼びかけを発すことによって、下から再建していくという道である。この呼びかけに非常に積極的な反応があったことから、ジャンリュック・メランション(注一)は自分たちも社会党を去るべき時が来たことを理解した。彼と彼の潮流はこの直後に左翼党を結成した。NPAと左翼党のアプローチは非常に異なっていた。NPAは、最初の呼びかけに応えて形成された膨大な数の地域的活動家集団が参加する設立準備の活動の中から生まれた。このことからわれわれは〇八―〇九年以来の二つの異なる経験を比較することができる。一方はより斬新であり(NPA)、他方はより保守的である(左翼戦線)。左翼戦線は共産党、左翼党、およびアンサンブルに結集したいくつかの小さなグループによって構成される。


 二〇〇八年一一月に南アフリカの「アマンドラ」誌が私に、われわれがあまり一般的でないタイプの組織を作ろうとしている理由についての寄稿を求めてきた。それから七年が経過して、われわれは実際にはどのように事態が展開したのかを見ることができる。以下の叙述の中で、私は政治的世代間の関係の問題に大きな関心を集中する。そのため、私自身がどこから来たのかを正確に述べておくことが有益かも知れないと思う。私は学生だった一九六五―六六年に第四インターナショナルに加盟し、一九六六年にJCR(革命的共産主義青年)、のちにLCRの結成に参加した。一九七三年以降二〇年間、国際活動に従事してきた。一九九三年にフランスに戻ってからはさまざまな役職に就いてきたが、全国指導部のメンバーにはなっていない。そのため私は、中からの視点(五〇年の継続性の中で)と外からの視点の両方から見ることができる。外にいた二〇年間は、私の組織が経験してきた漸進的な、そして後には非常にラディカルな変化を直接には経験していない。私はNPAの計画を積極的に支持していたし、今でもわれわれがこの大胆で新しい冒険を始めたことは正しかったと考えている。


 NPA内の論争やNPAに関する論争は多くの場合、戦術的な選択(その多くは選挙の戦術)に焦点を当てている。私は以下で一つの例を検討するが、それらの問題は常に複雑であり、その性質上、非常に特殊であり、この国の事情をよく知らない人にはわかりにくい。いずれにしてもこれは主要な問題ではない。ともかく社会党より左に位置するグループ、つまり左翼戦線、共産党、左翼党、アンサンブル、NPA、そしてもっと小さなグループはさまざまな戦術やアプローチを採用してきた。しかしこれらの組織のすべてが今、深刻な危機にある。

 

CjuRpXeUgAAnCZA1「何か新しいことをする」必要

 

 LCRが「何か新しいことをする」ことを真剣に望んだ理由は、時代がどれほど根本的に変化しつつあるか、そしてそれが党建設にとって何を意味するかをわれわれが知っていたことである。しかし、われわれはおそらくそのすべての意味を理解していなかった。言い方を変えれば、その根本の要因はその性質上、普遍的なものであるが、時としてフランス(およびヨーロッパ)では特に激しいものになる可能性があることをわれわれは十分に理解していなかった。

 

■長い「幕間」。一九八〇年代半ばに、フランスLCRがその一翼を担っていた第四インターナショナルの中の私の世代の活動家たちは、われわれが最初に政治に参加するようになってからの二〇年間の自分たちの経験の戦略的な教訓について考え始め、しばしばそれを他の極左派潮流の経験と比較した(注二)。われわれはLCRが将来の革命党の核であるわけではないことを十分に理解していたが、一九六〇年代から八〇年代までの教訓を新しい危機の中でそれが再び重要になる時まで継承しておきたいと考えていた。過去の記憶を失うことなく現在を分析する手がかりとしてである。確かに新しい危機はやってきた。しかし幕間が長すぎた。私自身は、二〇一〇年にダニエル・ベンサイドが死去するまでこのことを理解していなかったのだが、彼の卓越さと権威は巨大だった。彼は巨大な木であり、その大きさのために森の存在を気付かせなかった。マルクス主義思想の発展的継続性とラディカルな関与がフランスにおいては断ち切られていた。おそらく他のヨーロッパ諸国よりも完全にである。当時、結成後わずか一年だったNPAにとって、ダニエルの死は巨大な打撃だった。

 

■基準の崩壊。個人的な会話では、われわれはよく自分たちが「最後の10月革命世代」(一九一七年と一九四九年)であると語り合った。われわれにとってロシア革命と中国革命によって開始された闘争のサイクルに参加することはごく自然なことだった。ソ連邦の崩壊、スターリニズムの失敗、社会民主主義のブルジョワ政党化を経て、若い活動家たちはわれわれと同じようには歴史と自分を関連付けない。大多数の人たちは歴史を清算している。ある意味では世界社会フォーラムや資本主義的グローバリゼーションに対する抵抗は全世界の膨大な数の若者にとって新しい集団的で国際的な「原初的な歴史的経験」となった。それはわれわれが一九九〇年代前半に経験していた耐えがたい孤立から脱出し、インターナショナリズムのかつての栄光を復活させ、多くのネットワークを確立するのを助けた。しかし、それはわれわれが現在の大きな戦略的問題に共同で取り組むことができる前に勢いを失ってしまった。

 

■新自由主義的秩序。われわれはまだわれわれの政治的世代の敗北の代償を払い終えていない。資本主義的グローバリゼーションと新自由主義的秩序は草の根の空間を切り刻み、人々の意識を断片化し(個人を集団に対立させる)、社会の組織構造を破壊し、公共的政策を衰弱させ、「アイデンティティー」を相互に対立させるようにしてきた。制度ゲームのルールが変わってしまった。過去には労働者階級の運動が三〇〇万人の人々を街頭に動員すれば、フランス政府はその要求の一部を受け入れていた。今ではそうではなくなったが、労働組合官僚はこの新しい非妥協性に対応できておらず、また、不安定雇用の労働者を組織するために必要な資源を投入する意志も能力も示していない。

 

■一九九〇年代半ばに登場した新しい社会運動。失業者や労働許可証のない労働者の組織、住宅の権利の運動、「権利も発言権もない」人々の支援、女性の闘争の触媒的役割(特に一九九五年)など。ラディカル左翼の政治勢力はこれらのイデオロギー的、社会的、制度的な激変が意味するものによって、自分たちのオペレーティング・システムを更新しなければならなかった。それは容易な作業ではなかった! 特に、それは新しいやり方で社会経済的問題をめぐって人々を組織化することを意味しており、単に政治路線を転換するよりもはるかに難しいことだった。

 

■社会の構成。ヨーロッパではこの必要とされている転換は非常に複雑にならざるを得なかった。「典型的」な第三世界の国でも人民の運動はわれわれと同じパラダイムの激変に対応しなければならず、それは場合によってはわれわれよりもはるかに深い世代間ギャップ(特に武装闘争に関わった世代とその後の世代の間の)を伴っている。しかし、組織的な活動という点ではより大きな継続性がある。たとえば、以前から存在していた運動の拠点地域(スラム、インフォーマルセクター、都市貧困層)は今日でも依然として存在している。運動はすでにこれらの地域に根を張っている。フランスをはじめヨーロッパのいくつかの国では、断絶は顕著である。どの組織も長期失業者と不安定雇用の貧しい労働者階級の地区や、新しい都市貧困層を組織するために必要な知識や経験を持っていない。これは学ばなければならないことであり、われわれが学ぼうとしなければならないことだった。

 

■党の建設。フランスでは、他の国と同様に、政党に対する反発が巨大であり、特にラディカル化した若い人々の中でそうである。そのような環境の中で、新党を作ろうというわれわれの呼びかけは自主的な選択のためにはかなり厳しい基準であると思われた。しかし、すぐに明らかになったように、党という概念そのものが多くの人たちにとってあまりにも漠然としていたため、それは強力な接着剤とはなりえなかった。結成当時、NPAの門戸は大きく開かれていた。加盟したいものは誰でも加盟できた。私はほかにやり方があったとは思わない。われわれは〇二年と〇七年の大統領選挙でのLCRの候補、オリビエ・ブザンスノーのキャンペーンの思いがけない成功によって生み出された手応えのある楽観主義の波に乗っていたのである。一部の人々は、われわれが社会党の左の政治的空間をまるごと獲得できると考えたし(それはありえないことだった)、選挙における成功が将来も続くだろうと考えた。

しかし、NPAの結成大会が開催された時点では、すでに風向きは変わっていた。党の建設は流れに逆らって成されなければならなかった。「左翼の左」に予期しなかった競争相手が現れ(メランションの左翼党)、また、多くの敵がわれわれの試みを失敗させるために手段を選ばなかった。われわれは、将来の厳しい状況を予想して、意識のレベルの不均等性に対応した「可能な党」の建設から「必要な党」の建設へと転換せざるを得なかった。実際に、状況は当時われわれの中の最も洞察力がある人たちが恐れていたよりもはるかに厳しいものとなった。この非常に決定的な問題が真剣に、集団的に議論されることはなかった。

 

■フランスだけなのか?資本主義的グローバリゼーション、超大国ブロックの終焉、民主主義的空間の縮小、地政学的激変、新しい帝国主義の誕生、極右の新しい勢力、アイデンティティあるいは市民権の危機等々。振り返ってみれば、時代の変化はわれわれが当初想像していたよりもはるかに根本的であり、左翼における何か新しいものの出現ははるかに複雑だった。しかも、われわれにとっては、一つの重要な問題が背景を成している。フランスは少なくとも一九九五年から二〇一〇年までの間、巨大な闘争の波を経験してきた。その大部分は敗北に終わった。闘争の波は、遅れてではあるが選挙にも反映され、LCRのブザンスノーや、その後の左翼戦線のメランションの成功、この二人の前にはLO(労働者の闘争)のアルレット・ラギエの成功があったが、その性質と衝撃力において「怒れる者たち」の運動に類似するものは何もなかった。


 ヨーロッパでこれほどの規模の闘争が起こったにも関わらず創造的で継続的な要素がこれほど欠落していた国は少ない。その理由の一つとして考えられることは、社会保障制度が、常に攻撃されているとはいえ、まだ残っており、不安の増大を緩和している可能性である。たとえば、フランスではまだ、学歴が上がるほど失業率が下がっている。スペインやモロッコのように、大量の大卒以上の失業者という現象は起こっていない。もちろん状況は変化しつつある。労働組合や社会運動の一連の敗北に続いて、労働法や公共部門労働者に関する法律に対する本格的な攻撃が現在進行中である。

 

■ある日、「大混乱が起きる」。ブザンスノーによると、「フランスで現在欠けているのは、形態(ストライキ、デモ、占拠等)の問題を超えて、社会的問題が政治の前面に浮上するということです。……デモがあり、大衆動員があり、時には勝利することさえあります。しかし、それらはあまりにも演出されていて、あまりにも古典的です。……社会的爆発の不在は顕著です。しかしそれはいつかは、何らかの形で表れるでしょう。課題は、そのことに備え、将来における情勢の転換に柔軟に対応できることです。そのような爆発のきっかけとなる闘争は天から降ってくるわけではありませんが、そのような爆発のために必要なすべての要素はすでに存在しています。そこから一つの問題が提起されます。現在、私たちが行っていることはすべて、以前よりも伝統的、反復的になっていると言えるでしょう。そして変化が抑制されればされるほど、また、抑圧や弾圧が強ければ強いほど、爆発は一層大きなものになるでしょう。そして大混乱が起きるでしょう」(注三)。

 

■世代。力量を蓄積し、根を張り、経験を内面化し、社会的な結合を確立することはすべて時間を必要とし、それは活動家の世代間の連続性を必要とする。この連続性は上記の理由によってだけでなく、フランスに固有の古い政治的理由のために断ち切られてきた。英国でマーガレット・サッチャーが登場した時、フランスではフランソワ・ミッテランが登場した。結構なことだと思うかもしれない。よく考えてみよう。社会党と共産党の「共通綱領」をもとに選出され、しかもその綱領は今日の環境の中では無責任な極左的なものだ(EU条約に違反していることは言うまでもない)と非難されかねないものだったが、そのような政府が一九八三年に緊縮政策への急転換を行ったのである。こうして新しい新自由主義的秩序は社会党によって主導され、共産党が入閣している左翼政権の下で公式に開始された。

その政権が今でも、それまで四半世紀にわたって政権の座にあった右翼に対する勝利の栄光として称賛されている。それがいかなる抵抗からも推進力を奪うことを容易にしたし、一九八〇年代には極左派の組織のメンバー獲得が止まった。それは単に数の問題ではなかった。過去と比べるとこの時代には献身性も部分的で、控えめになっていた。学生自治会は政治的急進化の源泉であることをやめた。われわれの隊列の中でさえ、「ポスト一九六八モデル」への拒絶感が強かった。しかし、それに代わるモデルは、この時代の社会的危機の深さに対応するには全く適していないことが明らかになる。


CjdlrzdWgAEQM69 LCR、そして後のNPAは実際にはリーダーの世代交代が最も進んだ組織だった。若い郵便労働者であるブザンスノーがそのことの明確な象徴だった。これは本当の前進だった。しかし、NPAの結成から1年後にNPAを襲った危機の中で、世代の断絶が非常に明確になった。解決策が古い世代に権力を委ねることでないことは明らかだった。実際、フランス共産党の再建派の元指導者で、現在はアンサンブルの党員であるロジャー・マッテルリは最近の回想の中で左翼戦線の経験について検討し、古い世代の堅固な位置が結局のところ、この計画にとって致命的だったと結論付けている。「われわれは継続するためには後退しなければならない。若い世代だけが何か新しいものを生み出すだろう」。この点でNPAの経験と左翼戦線のそれを比較するのは興味深いことだろう。

 

■再建?このセクションの最後に、われわれがNPAの結成につながる呼びかけを行った当時、われわれは何が可能だと考えていたのかを振り返ってみよう。二回にわたるブザンスノーの大統領選挙キャンペーン(〇二年と〇七年)の目覚ましい成功の後、われわれは動きを作らなければならないことを理解していた。LOが一九九五年におけるラギエの成功を扱ったやり方とは対照的にである。成果を外に向かって広げることはわれわれの責任だったし、外に向かって広げるということは時代の変化を誠実に評価することを意味していた。そのためにわれわれは「新しい時代、新しい綱領、新しい党」について語った。これまでの数十年間の重要な教訓を放棄することなしにである。しかし、われわれは「新しい時代」について考えていたのであり、「一つの時代の終わり」について考えていたのではなかった。われわれは楽天主義的に一九九五年の大規模なストライキと、グローバル・ジャスティス運動の高揚と、厳しい弾圧に耐えることができる新しい世代の戦闘的な形での登場(たとえば〇一年のジェノバでの反G8の抗議行動)と、〇五年の最初のEU憲法に関する国民投票における「ノー」の勝利の間を点線でつないでいた。


 われわれは抵抗闘争の高揚の波の真っ只中にいたし、そこには多くの特筆すべき特徴があった。しかし、現実には階級的力関係は急速に不利になっていった。しかもわれわれは選挙での成功によって、「大リーグ」の政治に取り込まれていった。実際には、われわれの組織の現実や社会的基盤を考えれば、明らかに自分の重量よりも上の階級で試合をしていた。われわれは状況を最大限に活用しなければならなかったが、状況は長くは続かなかった。われわれは〇七―〇八年の金融危機が反資本主義のためのカンフル注射になるかも知れないと感じていた。現実にはそれは最初の取り逃がした機会となった。銀行を公有化することによって金融の独裁を打倒しようという呼びかけはどこにも届かなかった。それを最初の警告とみなすべきだった。


 われわれは左翼の左に何かを再建することに向けて、この運動の勢いを過大評価していた。われわれは後退局面の中で再建を試みる時に遭遇する困難を理解していなかった。楽天主義は容易に突撃主義につながり、統一の問題や政治的内容、組織、指導部の問題に十分な注意を払わないことにつながる。

 

2成功、停滞、衰退

 

 NPAの結成過程の初期は純然とした成功であり、この計画が現実の期待と希望に対応していることを証明した。NPAの党費を払っている党員の数は九〇〇〇人に達して(必ずしも全員が活動的であったわけではないが)。結成大会の議論は非常に真剣だった。基本的な政治的原則と暫定規約が採択された。どのレベルの指導機関でも旧LCR同盟員が半数以上を占めることは禁止された。


 LCRと比較すると、NPAの数的、地理的、社会的基盤はかなり大きかった。われわれがこれまで協力関係にあった左派労働運動の指導者たちや著名人たちはこの冒険に参加しなかったが、これまであまり知らなかった人たちが参加した。結果として、非常に多様な組み合わせができた。それぞれの組織がさまざまな地区活動家と、その背後にある固有の歴史によって特徴づけられていた。それぞれのグループ、個人(特に著名人たち)が自分たちの固有の特徴、期待、そして場合によっては野望を持ち寄った。彼ら・彼女らはしばしば、NPAが自分たちの個別の領域や活動方法に全国性を与えてくれることを期待した。ある人たちは非常に堅実で持続的な選挙結果に期待をかけており、ブザンスノーやLCRの最高の得票を、超えるべき最低限の基準とみなしていた。多くの人たちはこれまで政党に関わった経験がなかった。さらに、LCRの解散に伴って、LCR内の分派や潮流が羽を広げることができた。

 

 この当初における不均一性は、NPAの結成過程の特徴から考えれば避けられないものだった。ジャガイモ(グループ)とマメ(個人)が入った袋にたとえてみよう―これはネガティブな連想を意図しているのではない。袋のサイズはちょうどよいが、ちょっとした混乱があるたびにジャガイモとマメがこぼれ落ちそうになる。中身が徐々に失われていく恐れに直面して、党はその凝集性、集団性、団結、献身性のレベルを高めなければならない。NPAの指導部はこの課題の実現を先に述べた運動の勢いに依存し、その結果、組織面での自然発生主義に進んだ。

 

■選挙。NPAは結成から間もなく、最初の選挙によるテストに直面した。〇九年六月の欧州議会選挙である。この選挙における戦術的および政治的座標は複雑だった。左翼党とNPAはどちらも結成直後であり、多かれ少なかれ突撃主義的な自己確認の段階にあった。また、欧州議会選挙においては連合や政党間の関係の問題は、通常の国内選挙と同じようには提起されない。そのため一九九九―二〇〇五年にはLCRはEU議会の欧州統一左翼・北欧グリーンレフト(GUE・NGL)グループに参加できた。このグループにはLOとPCFも参加していた(ただし、われわれはフランスではPCFの社会党主導の政権への参加に反対していた)。


 当時GUE・NGLグループの代表はPCFのフランシス・ウルツだったが、LCRは自由にその活動を展開できたし、しばしばこのグループの支援を得ていた。私は当時このグループに雇用されており、特に社会フォーラムをめぐってウルツと緊密に協力していた。現実には欧州議会は本当の議会ではなく、本当の政府と顔を突き合わせているわけではない。その運営の方法全体が非常に特殊であり、理解するのに若干の時間がかかる。しかし、フランス国内で誰がそのことを知っているだろうか? 平均的な人々にとって欧州議会選挙は大統領選挙や議会選挙の前哨戦となる国内の選挙サイクルの一部に過ぎない。


 欧州議会のこのような特徴に沿って、より統一的なアプローチを想像することは正当なことだったが、そのような提携はその後のフランス固有の選挙においても採用するべきモデルとして見られる可能性があった。したがってNPAは統一の前提条件として、今後の選挙を含めて、社会党や社会党が主導する社会自由主義政権からの完全な独立性を維持するという合意を望んだ。これはセクト主義として猛烈な批判を浴び、NPAはこの政治的闘争に敗北した。多くの人々はNPAがこのような立場を取ったのは間違いだったと言っている。そして今日でも、誰もが知っているように左翼戦線はまさにこの社会党との関係の問題をめぐって(特に)、混乱を続けている。


 
〇九年のEU議会選挙では、もう少しのところで一人または二人の候補を当選させることができた(注四)。これは信頼性という点では大きな違いをもたらしただろう。残念ながら、このような問題では、わずかの差で負けたとしても負けたことに変わりはない。もう少しだったが及ばなかった。左翼活動家や著名人の間でのNPAのアピール力は重大な打撃を受けた。

 

■取り逃がした機会。NPAの指導部は(また、左翼戦線やNPAの前身のLCRの指導部も)左翼の左との選挙上の連合や政治的連合に執着した。私の意見としては、これは過度に政党政治重視の選挙至上主義的な(目先しか見ていない)優先順位だった。NPAの結成はわれわれに労働者階級の地域への多様かつ多くの入口を提供し、われわれの最も重大な弱点を克服しはじめる機会を提供した。

われわれはこれらのすべての入口、つまり、失業者や不安定雇用の労働者のためのセンター、虐待を受けた女性のためのシェルター、「問題地区」で働く医師や教員のチーム、文化センターや青少年への法律上の保護に関わっている団体などの若い指導者たち、ソーシャルワーカー、反レイシスト・グループ、就労許可証を持たない労働者やホームレスの運動とその支援者たちなどを結合できたかも知れない。大事なことは経験を交流し、そのような地域で生活している人々の要求に注目し、相互に支援してそれぞれの活動領域に固有の困難を克服し、どの活動家およびコミュニティー・グループと連携するかを決定する(地区の組織はNPAがこれらの地区―行政の怠慢と政治的縁故主義の結果、見捨てられてきた― を中から再び政治化するのを支援することを期待していた)こと等だろう。


 
この作業は行われなかった。NPAは職場への介入のための委員会を設立した(これは現在は危機にある)が、賃金所得者の多くの部分(失業者や不安定雇用の労働者など)はこのような方法だけでは組織できない。貧困地区・労働者居住地区委員会について言えば、この委員会の活動は課題ベース(主要には反レイシズム)であるように思える。そのことはこれらの地区において住民自身から提起される要求(その多くは社会経済的要求)に焦点を当てた労働者階級の住民の共同の地域組織の確立について考え、行動するメカニズムが存在していないことを意味する。これらのコミュニティーに対する外部者的な関係がラディカル左派の主要な弱点の一つであるという事実(これは新しいことではない)にもかかわらずである。

 

□アヴィニヨン。「アヴィニヨンの危機」が発生した時に、われわれはこの取り逃がした機会の高い代償を払った。アヴィニヨンのアブデル・ザヒリを中心とするAJCREVという地域活動家グループがNPAに加盟した。10年の地方選挙に向けて、AJC REVのメンバーの1人であるイルハム・モサイドがNPAのボークリューズ選挙区の候補者リストに挙がった。

彼女はモスリムの女性で、スカーフを着用していた。いくつかの非常にローカルな例外を別にすれば、フランスではそのような女性の立候補は初めてのことだった。それは移住者を起源とする女性がフランスの選挙や政治には不在であるからではなく、そのような女性はスカーフを着用しないからである。これはフランスにおける世俗主義の程度(たとえば、非常に反動的なカトリック右翼の非常に大きな影響力にもかかわらず、どの主要政党も宗教の問題に明示的に言及することはない)だけでなく、移民の固有の歴史とも関係している。


 
そのような候補者が全国的な注目を集めることは予想できたはずである。この当時私はパキスタンを訪れていたが、この話題はパキスタンの新聞にも出ていた。パキスタンの同志たちは私にこれは良いことなのかどうかを訪ねた。私は天がわれわれの頭上に落ちてくるだろうと答えた。モサイドはたちまちNPAではブザンスノーに次ぐ有名人になった。残念なことに、組織はこの事態の展開に全く準備ができておらず、彼女の立候補をメディアで知ったメンバーもいたほどである。サルコジが選挙を民族問題にしようとする中で、われわれは社会経済的な問題に焦点を当てることでそれに対抗しようとした。それが精一杯だった。われわれは多くの敵から吊し上げられた。彼らはわれわれに根拠のない批判を浴びせかけた。われわれはまた、いくつかの正当な質問にも直面した。女性の解放にとってのスカーフの意味について等である。そのような質問に対してわれわれは集団的に考え、議論してきた回答を持っていなかった。


 
ブザンスノーはモサイドの立候補を徹底的に擁護した。彼は最近のインタビューの中でこのエピソードを回顧して次のように述べている。「ムスリム社会の一部には、イルハムの問題で私たちに憤慨している人たちもいました。私たちは、論争を利用していると疑われました。……彼ら・彼女らが私たちに尋ねたのは、いっしょにやれる具体的な行動がないかということでした。彼ら・彼女らは私たちに、その前に何かの宗教的なテストに合格することを求めはしませんでした。・・・この問題を扱う一つの方法は、新しいタイプの連合の形成にあるかもしれません。それはあらかじめ態度が決まっている文化的・宗教的なコミュニティーの代表とみなされる人たちとの連合ではなく、当事者自身との連合です。彼ら・彼女らは多くの場合、貧困地区に集中しています」(注五)。1つの問題は、AJCREVの計画がまさにこのような地区に(ムスリムの)宗教的な角度から足場を確立することを目指していたことだった。

モサイドの名前が挙がったのは彼女が社会的闘争を率いているからでも、彼女がたまたまスカーフを着用していたからでもなく、スカーフそのものがAJCREVの政治的計画を体現していたからだった。アヴィニヨンでのこの計画が終わった時、モサイドはNPAを離れ、スカーフを外した。

 

□抑圧反対の政治。アヴィニヨンのエピソードによって触発されたNPA内の激しい論争は、貧困地区・労働者居住地区の現実を出発点とするのではなく、非常にイデオロギー的(そして感情的)だった。考えられるあらゆる立場が表明された - 「教会の塔だろうがミナレット(イスラム教会の尖塔)だろうが、宗教なんか消えてしまえ」という立場から、ブルカ(顔全体を覆うベール)は女性解放のための闘いの象徴だという立場まで。どのような立場が提起されたかに関わりなく、数千件(あるいはそれ以上)の電子メールや数十の意見書の中に、さまざまな形の抑圧(民族差別、性差別、社会経済的抑圧等)に反対する闘争をどのように関連付け、結合するのか、また、今日のフランスにおいてライシテ(世俗主義、政教分離)についてどのようなアプローチを取るべきかという決定的に重要な問題に関する体系立った議論はごくわずかだった(注6)。その帰結が全く混乱した全国大会だった。それは若い党にとってトラウマとなるような経験だった。


 
1つの派生的な論争は国際的な事態の進行をめぐるものだった。タリバンは反帝国主義者なのか? その後の事態はこの問題に対する全党員の意見を明確化させたと思われる。他のすべての問題について、論争の分岐線は消えておらず、実質的にNPA内の現在の各潮流を横断している。抑圧に反対する意志を宣言したとしても、人々はしばしば抑圧の形態に序列を付ける(たとえば、反レイシズムが反セクシズムに優先する、あるいはその逆)というアプローチに導かれる。これがすべての抑圧された人々の擁護を非常に困難にする。

 

Cjc89aRWkAA419q■個人化。フランスにおける大統領制は、選挙政治における個人化を極限化している。副大統領さえ存在しない。フランスではこの制度は1人の人物(これまではすべて男)と人民の間の直接的な関係に関わることであるという神秘的な信仰がある。ブザンスノーの人格と政治的才能はLCR、のちにはNPAにこれまでなかった広範な政治的影響力をもたらした。

彼はしかし、生涯にわたって候補者でいること(LOのラギエがまさにそうだった)を拒否し、フランスの人民および国民の将来を自分の将来と同一視すること(これはメランションの考え方である)を拒否した。そして問題の核心において、ブザンスノーは明らかに正しかった。11年5月に彼は12年の大統領選挙には出ないと表明した。組織の運営のあり方から考えると、彼の決断はNPAの指導部の危機を引き起こし、当時はまだ潜在的だった危機に組織全体を叩き込んだ。選挙の見通しを判断根拠として、かなりの数の旧LCRの活動家が未来はメランションと共にあり、左翼戦線の内部での活動にあるという結論に至った。

 

□分裂。NPAは大きな打撃を受けた。それまでの離党やブザンスノーの次期大統領選挙に出ないという決断の結果として、全体で登録党員数の3分の2を失った。元メンバーの大部分は活動家に戻り、労働組合の活動に戻ったが、一部は完全に政治から離れた。新しい組織は生まれたけれども、われわれが望んでいた組織とは多少違っていた。11-12年の危機は旧LCRの指導部の中心を2つに分裂させ、同様に組織全体の最高の組織チームにも影響を及ぼした。組織の少数派はNPAにこれ以上期待するものはないと考えて左翼戦線に加わった。始めは反資本主義左翼(GA)として参加し、後にアンサンブル潮流の共同設立者となった。残念なことに左翼戦線の計画自体も深い危機に陥った。アンサンブル潮流について言えば、イスラム主義の問題や選挙至上主義の問題などをめぐってさまざまな矛盾に直面しており、おそらくはNPAよりも爆発的な状況にある。


 
実際、旧GAの中心的な指導者たちは独立的なラディカル派の組織を建設するという展望を放棄した。それはLCRのアイデンティティーの大きな部分だったし、今でもNPAが強くアイデンティティーを感じているものである。そのことを述べた上で、彼ら・彼女らの危機とわれわれの危機には共通の特徴がある。特に、指導部と現場活動家の間の溝である。指導部にはそれ自身の歴史があり、同じように地域の党活動家たちはますます自分たちのやりかたで活動するようになる。それは全国指導部から独立したものである。政治というものを公式の政治路線の問題だけに還元するのなら、これはそれほど政治的な問題ではない。しかし、組織や献身性の問題も優れて政治的な問題だと考えるなら、それは非常に政治的な問題となる。

 

3献身性と組織の機能

 

■選挙における引力の法則。その起源と目的を考えれば左翼戦線の歴史が選挙を軸に展開してきたのは驚くことではない。より不思議なことは、NPAの指導部についても同じことが言えるということである。郵便労働者であるオリビエ・ブザンスノーはわれわれの最高の候補者だったが(これは本当に驚くべきことだった)、彼が主要には労働者階級の闘争や社会運動を通じて政治に関与していて、選挙至上主義の強力な誘惑について心配するようになったのは逆説的なことである。彼は次のように述べている。「選挙のサイクルはフランスではいつでもあり、私たちを窒息させています。それは単に、選挙前の数カ月間、あるいはまるまる1年間にわたって、政治的生活を完全に占領してしまうという問題ではありません。選挙の問題は1日の例外もなくフランスの政治的状況を重く包み込んでいます。特に、世論調査のデータが絶えず流布されることを通じてでです。


 だから人間解放のための計画という観点から考えるなら、大事なのはそのような政治的サイクルを抜け出して、別の空間、別の時間、別の暦を作り出そうとすることです。それは必ずしも選挙をボイコットすることを意味しませんが、他の勢力と共同して、そのような選挙の圧力から自由であり、あらゆる問題に別の角度からアプローチするような大衆運動を作ることができるならば、もっと大きな計画の中で選挙に参加することについて考えることができます」(注7)。


 NPA内の潮流、分派、ブロックは主要に選挙の問題や選挙をめぐる状況との関連で自己を規定している。どのような特徴を打ち出すのか、誰を候補にするのか、どのような連合を追求するのか、NPAが候補を立てない場合にだれに投票するのか等々である。確かにこれらの立場は現実の問題に対するより開かれたアプローチ、あるいはより閉鎖的なアプローチを反映し、同時に現在の脈絡においてわれわれの組織が果たすことができる役割に関する異なる考え方を反映している。単純化すれば、われわれは広範なイニシアチブの確立(たとえば、気候変動に関して、あるいは非常事態と市民権はく奪への反対)への参加を優先するのか、それともわれわれ自身の境界をはっきりさせ、あらゆる機会にわれわれの反資本主義的綱領を主張することに焦点を合わせるのかという問題である。明らかにこのような論争には重要な問題が含まれている。

 

問題はそれらが選挙との関係で提起されていることである。この領域でわれわれがますます周辺化されている – 立候補の要件がますます厳しくなっていること、資金がないこと、極右の国民戦線が政治エリートに反発する層の支持を獲得するのに成功していること等によって ―という事実にもかかわらずである。

 

■分派主義の蔓延。われわれはNPAを種々の革命的伝統(批判的マルクス主義、左翼リバタリアニズムなど)の歴史的貢献と統合する「るつぼ」にしたいと考えていた。結成大会で採択された基本原則は出発点に過ぎないものであり、種々の不明確な点や取り上げられていない点(たとえば、NPAは自らをマルクス主義者の組織としては規定していない)は、その後の異なる意見のすり合わせによって対応することになっていた。しかし、綱領委員会は軌道に乗らなかった。しかも党はそもそも共同の計画に参加する意志がなく、NPAが提供する大きな枠組みを利用して自分たちの組織の確立を目指していただけの組織まで組み込んでいた。


 ここでは指導者の選出の方法が問題である。NPAにおいては執行委員会は大会で各潮流が獲得した得票に比例して選出された。それらの潮流は永続化し、分派となっている(もともと分派ではなかった場合)。組織化や組織の建設への功績を基準にしてではなく、自分たちの潮流のイデオロギー的指導者だったという功績だけで全国指導部に選出されることができた - 声明を起草するにはそれで十分かもしれないが。この内的論理はLCRの最後の時期にすでに作用しており、NPAの中でさらに発展した。


 分派は保守的である。継続するためには分派結成の理由となった論争をいつまでも蒸し返さなければならない。別の角度からの議論が始まったなら ―それは不可避である―分派はあらゆる方向へ分散してしまう。だから彼らは組織の政治的・民主主義的な息継ぎのためのスペースを閉じてしまう。その最初の結果は機能マヒである。NPAの指導者の一部は今ではこの事態を理論化している。彼らはわれわれの組織が現実にはいくつかの革命的グループから成る戦線である、あるいはそうであるべきであると主張している。これは 「るつぼ」とは正反対の極である。これに対して組織内の一部には潮流を形成する権利を、一時的なものを含めて全面的に否定し、それを破壊的な分派主義と同一視する者もいる。


 
「るつぼ」の問題は左翼戦線の中でも発生した。左翼戦線には個人も参加できるのか(加盟組織の1つとしてではなく)、また、個人にも適切な役割を与える集団的な機構があるのかという問題である。どちらも答えはノーである。左翼戦線は依然としてその基礎となった政党のイデオロギー的な方向付けと、CGTの労働組合官僚と、ジャン・リュック・メランションの強烈な個性への依存に束縛されている。

 

■革命的?社会党からの独立やオランド政権に対する左からの反対派を確立するという決意はフランスの脈絡の中では重要な試金石である。それは何らかの意味のある政治的立場にとって基本的な問題である。違った意味で、単なる新自由主義反対のオルタナティブを超えて反資本主義のオルタナティブを提唱することも重要なカギになる。

それは現在のフランスでは具体的な意味を持っている。それは単に具体的な綱領を掲げるという問題ではなく、われわれが建設しようとする党が、長年にわたって社会的政治的状況を特徴づけている深く広範な体制への敵意を結集するのにふさわしいかどうかという問題である。

 一方、一部の人々が問題にしている「反資本主義」と「革命的」の形式的な区別には政治的意味はない。革命的呪文を果てしなく反復することも意味はない。説得の技法は所詮は技法でしかないことを忘れるべきではない。


 
より重要なことは、巧みな言辞で人を騙すことはできないということである。現在のフランスで(あるいはヨーロッパで)、言葉の本当の意味で「革命的」な組織を建設することは単に不可能である。綱領がいかに重要であっても、党は綱領だけによって定義されるのではなく、その実際の活動(その公式の目的とかけ離れていることもある)によって定義される。非常に控えめに定義されている場合でも、十分に有望な社会的政治的条件がなければ、いかなる初歩的な革命的活動もありえない。そのような条件が存在する時には、ラディカルな組織のメンバーの「日常生活」は改良主義政党のメンバーのそれとはかなり異なったものになる。一九六〇年代と七〇年代がそうだった。しかしその後はそうではなくなった。しかし、いつか再びそのようになることは間違いない。

 

■献身性。現在のフランスでは、革命的組織の建設は何か水平線のかなたにあるもののようである。しかし、それがいつまでも続くと考えることはできない。危機と不安定性の拡大と治安国家の台頭に伴って、一九八〇年代と九〇年代のフランスの気ままな政治活動の様式は力と効果を失っている。弾圧が社会運動や労働運動を打ちのめし、全般化している不安がますます多くの層を飲み込みつつあり、人的な災禍が全世界で拡大し、地球環境の危機が現実になっている。そのような時に、退屈な日常の、決まりきった活動を続けることは、われわれ自身を周辺に追いやり、最終的には降伏に導く確実な道である。


 NPAの結成当初から、この問題は非常に具体的な問題をめぐって浮かび上がってきた。旧LCRの中心的指導者で、NPA結成の計画を体現することとなった世代に属しているメンバーの中から、新しい組織の専従になろうとする者が一人もいなかった。ここでそれぞれの個人について評価することが重要なのではない―大きな決断をするには二〇代のほうが四〇代よりも気が楽である。取り上げるべきなのは集団としての問題である。われわれは常に広範な情勢の力学をあてにすることはできない。それがなければどんな重要なことも不可能であるが、十分に検討された組織方針がなければ、情勢の力学が魔法のようにわれわれのすべての問題を解決してくれるわけではない。


 NPAの建設において、この計画に二〇〇%の献身性を発揮し、リーダー・チームが効果的に機能するのを助ける少人数のチームがなければ、舵取りは不可能だった。もちろん専従スタッフになることは、限られた期間であっても、その後の人生に影響を及ぼすことは避けられない。しかし、われわれはラディカルであるためには活動家としての献身性 ―それは長年にわたって影響をもたらす ―が要求される時代に生きている。


 実際、若者の一部は進んでそのような献身性を発揮している。たとえばZAD(「守るべき土地」)運動の活動家たちは、「意味のない特権階級的な計画」に抵抗して守るべき土地があれば、どこにでもキャンプを設営する。また、ノートルダムの新空港に反対して、この地域で農業を始めた者たちもいる ―一九七〇年代にラルザックで軍事基地拡張に反対して多くの活動家がそうしたようにである。NPAの地域の活動家はこのような闘争に参加しているが、ZAD活動家たちは政治党派に対しては極度に警戒心が強い。

 

■再評価。NPAの危機は、LCRの中で熟成していた危機 – それは限界に達していた - の規模を明らかにした。それはわれわれが何か新しいものを生み出そうとしなかったとしても、いずれにせよ破裂していただろう。この試みは最初の重大な失敗にも関わらず、非常に教育的な試みだった。一一年の分裂は転換点だった。分裂が組織拡大を凌駕し、組織内のセクト主義的なグループに一層広い空間を提供した。その後すべてが変わってしまった。


 
現在のNPAバージョン2・0は対立と矛盾に取り囲まれている。確かに依然としてフランスの政治的状況の中でNPAが占めることができる客観的なスペースは残っているし、他のどの組織もそのスペースに手を付けようとしていない。NPAは現在、部分的にそれに挑戦しているだけであり、全国指導部にはそのイニシアチブを発揮する力量がない。分裂は深いが、活動的なメンバーは依然としてその最も貴重な資産であり、それを無駄にしてはならない。闘争のためのより有利な条件が開かれた時にそれは再び活性化されるだろう。

このことに留意しながら、われわれは組織の社会的基盤の確立、内部的な機能と献身性などの大きな問題をめぐる新しい思考方法を育て、守勢の時代における活動家のネットワークを強化するべきであり、選挙にあまりに大きく依存しないようにするべきである。

 


一)ジャンリュック・メランションは元・元老院議員(二〇一〇年まで)、元・職業教育大臣(〇〇―〇二年)であり、社会党左派に属していたが、08年の党大会後に離党した。 

二)この集団的作業は特にIIRE(国際調査教育研究所)の「アムステルダム学校」で行われた。私は一九八二年から九三年まで同研究所の所長を務めていた。

三)「党と運動」(オリビエ・ブザンスノーとのインタビュー)。日本語訳は本紙二四〇八―一一号に掲載。以下の引用において、フランス語から英語への翻訳は一部変更されている。

4議席を獲得するためには、当該選挙区で5%以上の得票が必要とされる。

5「党と運動」(オリビエ・ブザンスノーとのインタビュー)。

6ESSF(ヨーロッパ国境なき連帯)のウェブサイト(http://www.europe-solidaire.org/spip.php?mot6425)にこの論争のいくつかの論文が掲載されている(フランス語、英語)

7「党と運動」(オリビエ・ブザンスノーとのインタビュー)。

 

(「インターナショナル・ビューポイント」誌、二〇一六年一月三一日付)

【フランスCOP21】反資本主義新党声明-非常事態宣言反対 デモの権利を!




非常事態宣言反対 デモの権利を!

NPA(反資本主義新党)



 フランス政府が布告した非常事態宣言によって、COP21の開始にあたってクライメート・ジャスティス(気候正義)を求める11月29日のデモは禁止された。一部の組織はデモ呼びかけを維持し、レプブリュク広場からナシオン広場に至る街路でヒューマンチェーンを登場させた。このデモには警察発表で五〇〇〇人、主催者発表で一万人が参加した。

 デモ禁止に抗議するデモの呼びかけもあった。警察はこのデモに対して、はるかに厳しい弾圧を行った。以下の声明は11月29日にNPA(反資本主義新党)が発したものである。



COP21に反対するすべてのデモ参加者をただちに釈放せよ! 警察国家反対!



 五〇〇〇人が参加した公正を求めるデモは、警察によって暴力的弾圧を受けた。催涙ガスや警棒を使って何十人もの人びとを暴力的に逮捕した政府は、COP21に反対するデモを阻止するためあらゆる手段を取ることに何のためらいも感じなかった。政府は、11月13日の犠牲者たちの追悼に際しては、スポーツイベント、コンサートなどの開催を許容したが、デモは弾圧するのだ。政府はデモ参加者を守ることについては関心をもたず、その政策を実施することにだけ関心があるのだ。

 EDF(以前の国営電力会社)、BNPパリバ(大手銀行の一つ)、GDFスエズ(以前の国営ガス会社)はいずれもCOP21のスポンサーであり、世界的な最大の汚染排出企業である。全世界の独裁者たちがファビウス(外相)とオランドから名誉ある歓迎を受けているが、よりよい世界のために抗議しようという人びとは弾圧されている。11月13日の攻撃は世界の腐朽をあからさまに示した。気候ではなく、システムを変えよう! デモ参加者ではなく、汚染をまき散らす者たちを止めよう!

 現在、パリのレプブリュク(共和国)広場では、COP21に反対する数百人のデモ参加者が包囲されており、警察による大量逮捕が行われている。その中には、NPAスポークスパースンのクリスティーヌ・プパンとオリビエ・ブザンスノー、そしてNPA、オルタナティブ・リベルテール、アンサンブルの数十人の同志たちが含まれている。こうした逮捕は、国家緊急事態から発する特別措置が、ISISのテロリズムに対してではなく、最も基本的なデモの権利を行使する人びとに対して効果を発揮していることの証拠である。

 明日パリのCOP21会議で国家元首たちが会合を持つが、かれらにこの地球と人類の運命を決定させることを望まないすべての人びとは、弾圧されている。昨日、一昨日と環境活動家をターゲットにした自宅監禁と家宅捜索が行われたが、今日、彼らはデモ中に逮捕された。ノーモア警察国家! パリで逮捕されたデモ参加者を釈放せよ。



 NPA 11月29日午後6時 パリ

【パリの大規模テロ】反資本主義新党(NPA)声明

906039_940215566058484_7727983206451669702_o(声明の仏語原題「やつらの戦争、私たちの死者」)

声明:帝国主義の凶暴な戦争は、凶暴なテロリズムをもたらしている

                             
2015年11月14日
フランス:反資本主義新党(NPA)




NPA(反資本主義新党)は、一一月一三日夜のパリでの襲撃事件をうけて、二〇一五年一一月一四日に以下の声明を発表した。



 金曜日の夜、パリで起きた恐るべき襲撃で一二〇人が殺され、多くの負傷者を出した。この理不尽きわまる暴力は反感と憤怒を引き起こしている。NPAはこうした感情を共有し、被害者と密接な関係にあった人びとともに、被害者への連帯を表明する。この悲劇は、なんの罪もない被害者に対して加えられたという点で、いっそう悪質なものだ。この殺人襲撃は、一般の住民をねらったものだった。

 パリの中心で起きたこの卑劣な暴挙は、フランソワ・オランドとその政府の決定によるフランス軍機のシリア爆撃という、テロと同様に無謀で、より致命的でさえある行為への返答である。

 こうした攻撃はイスラム国=テロリスト・ジハーディストとの闘いと見なされているが、実際のところはロシアによる介入・爆撃といっしょになって、シリア人民の苦難に責任のある体制=アサド独裁体制を守っているのだ。

 そして実際のところ、ここでも一般の市民こそ恐怖の下で生きることを強制され、あるいは生命の危険を賭けて脱出するところに追い込まれている、最初の犠牲者なのだ。

 帝国主義の凶暴さとイスラム主義者の凶暴さは相互に促進しあっている。原油供給を支配するためにそうしているのである。

 オランドは哀れを誘う発言の中で、共和国に関する幾つかの言葉を取りみだした調子で発し、口ごもった。戦争指導者の役割を演じ、この新たな悲劇に重大な責任を負っている彼は、「信任」を求めている。彼は、その回答が根本的自由を踏みにじるものであることを考慮しながら、フランス全土に非常事態を発令した。彼はただちにサルコジ(前大統領)からの支持を受けた。これから政治権力による大衆集会の禁止や出版物への統制が可能になる。

 再び、この文明破壊的暴力の荒波に責任のある主要な人物が、国民的統一を呼びかけている。かれらは憤怒と反感を抑え込み、この劇的な情勢を自分たちの利益に転じようとしている。彼らはムスリムというお仕着せのスケープゴートを持っている。ブルジョアジー、オランド、サルコジそしてルペンといった戦争の責任者とのいかなる国民的統一をもわれわれは拒絶する。実際には民主主義的権利が脅かされているのをテロリズムとの闘いと偽装し、「共和国の諸価値」なる名目でなされている国家的諸装置のレイシズムをわれわれは非難する。われわれは非常事態の撤回を求める。

 戦争とテロリズムへのただ一つの回答は、その出自、肌の色、宗教を越え、国境を越えて、かれらを黙らせ、支配しようとする連中に対して闘い、残虐を生み出す資本主義システムを片づけるために共に闘う労働者と民衆の団結なのである。

 テロリズムを終わらせるためには、多国籍企業の支配による民衆の富の収奪を永続化するための帝国主義戦争に終止符を打ち、フランス軍がいるすべての諸国、とりわけシリア。イラク、アフリカ諸国からフランス軍を撤退させることが必要である。

【パリの大規模テロ】パキスタン・アワミ労働者党書記長のファルーク・タリクのコメント

48249121_cachedパリの大規模テロ事件について、パキスタン・アワミ労働者党書記長のファルーク・タリクからのコメントが送られてきました。

以下、紹介します。

 パリはムスリムの宗教的テロリストによって襲撃された。今日の午前8時までに160人以上が亡くなっている。パリには非常事態と夜間外出禁止令が敷かれている。

 われわれは最愛の人を亡くした家族に心から同情するとともに、フランスの人びとに連帯する。

 とりわけヨーロッパに住む一般のムスリムの生活は、こうした事件の後ではとりわけ困難なものとなるし、労働者階級の間で、レイシズムがさらにその基盤を広げることになる。シリアなどの諸国から欧州に迎えられた難民たちの生活は、さらに厳しいものとなる。

 右翼の思想は、、左翼の多くの新組織によってこの間、その地歩を奪われてきたが、新しい余地を見いだすことになる。

 難民を守り、レイシズムと闘う進歩派は、その機会を維持することが難しくなる。

 宗教的原理主義者は世界のどこでも、人道への最大の脅威となっている。

 宗教的原理主義に対しては、イデオロギー的地盤において闘わなければならない。

 原理主義に対する通常の軍事的解決策は、9・11後に起こったような否定的な結果をもたらすことになる。9・11の後、米国とNATOの軍隊はアフガニスタンを占領したが、宗教的過激派はさらに広がり、新しい国にもその基盤を拡張した。

 他の勢力と闘っている宗教的原理主義への支援は、それがいかなる勢力であろうとも、大きな誤りである。どこでもファナティックな過激派を孤立させなければならないし、あらゆるファナティックなグループとのつながりを終わらせ、宗教的ファナティック派のあらゆる形態を支援してはならない。

ファルーク・タリク
アワミ労働者党書記長

【フランス】「シャルリー・エブド」への恐るべき攻撃への「国民的団結」は罠だ

1月11日にパリでは、オランド政権が呼びかけた大規模な「テロ」反対デモが行われたが、NPAはその呼びかけを拒否し、以下の声明を発した。

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左から欧州委員会のジャンクロード委員長、イスラエルのネタニヤフ首相、サルコジ前仏大統領、
マリのイブラヒム・ケイタ大統領、オランド仏大統領、ドイツのメルケル首相、パレスチナのアッバス議長



「シャルリー・エブド」への恐るべき攻撃への
「国民的団結」は罠だ

民主主義と連帯のためにレイシズムに反対する団結を


2015年1月11日

NPA(反資本主義新党)



 フランシスコ・オランドの社会党、ニコラ・サルコジのUMP(国民運動連合)、そしてフランスの政党の圧倒的多数や、政府の多くの高官たちがならんで一月一一日にパリで行われる「国民的統一」のデモにNPAは参加しない。

 重火器を携えた襲撃で、「シャルリー・エブド」のパリ事務所で一二人が殺されたことは、同情、憤慨、怒り、嫌悪の感情を全国的に引き起こした。このテロリストによる攻撃は全く受け入れられないことである。職員や漫画家たちの殺害は、われわれすべてに向けた犯罪であり、民主主義と表現の自由に対する犯罪である。われわれはこの血の惨劇の犠牲者に全面的な連帯をささげる。

こうした犯罪に関わった者たちは、テロを望んだのであり、意識的に恐怖を挑発したのである。かれらは極度の緊張に満ちた状況を作り出し、衝突とその過激化を引き起こそうとした。そこには、レイシズムとイスラム憎悪の高まりに直面するという大きな危険が存在する。われわれはすでに、モスクや住民への攻撃といった反ムスリム活動を見ている。われわれは、一切の妥協なくこうした事態に抗しなければならない。われわれは以前にも増して、あらゆる形での共同体に烙印を押し付ける行為や、いかなる形態の差別にも反対して闘わなければならない。われわれはまた、治安部隊により大きな権力を与えたり、市民的自由を制限することも拒否しなければならない。

オランドは国民的団結を訴えている。彼の社会党とサルコジのUMPは、国民的団結のデモを組織しており、オランドは一月九日に国民戦線と会い、そのデモに国民戦線が参加するよう招き入れたのである。こうしたやり方でかれらは、われわれが生きている政治的環境の質的低下と有害な雰囲気への自らの責任を覆い隠そうとしているのだ。かれらはそうでないように装いながら、外国人嫌いでレイシスト的な空気、外国人や自分とは違った人びとへの恐怖をはぐくんでいるのだ。それは憎悪の地盤の育成なのである。かれらは、勤労民衆を分断し、勤労民衆をかれらの政策に従属させ、また勤労民衆を自分たちが反対していると主張している文明破壊を引き起こすかれらの社会秩序に従属させることを望んでいるのだ。シニシズムの縮図はマリーヌ・ルペンである。彼女のおもな活動とは移民と外国人をターゲットにしたゼノフォビア(外国人嫌悪)の煽りたてである。

絶望とバーバリズム

 この殺害の暴力は、どこからもたらされたのだろうか。それは、労働者階級の資産で生活している多くの若者たちにとってきわめてよくある社会的・モラル的暴力の核心において作り出されたものである。それはレイシズム、ゼノフォビア、差別と、失業と搾取の暴力である。この文明破壊的暴力は、右派と左派の財政支出をめぐる社会的戦争が生み出した「モンスター・チャイルド」(恐るべき子どもたち)なのである。その頂点においてかれらがイラク、アフガニスタン、リビア、アフリカ、シリアに対して行った戦争がある。さらに数十年にわたるパレスチナ人民に対する戦争がある。

これらは、そのただ一つの目的が多国籍企業の支配とかれらの略奪の権利を維持しつつ、もっとも反動的な原理主義者を力づける戦争なのである。この文明破壊的な暴力は、もう一つの異なった形での文明破壊的暴力を創造する。「シャルリー・エブド」に対する犯罪がその劇的な表現となった社会的解体に対する回答は、それを可能にした政治に対してわれわれが闘うことぬきには、存在しないのだ。

労働者と諸民族の連帯

われわれの「シャルリー・エブド」への連帯、そしてこの憎悪に満ちたテロリスト犯罪の犠牲者――その何人かはわれわれの闘争にしばしば参加していた――への連帯は、諸民族や個々の男女を相互に敵対させるすべての反動的愚行、そしてすべての後ろ向きの偏見に対して闘うことである。民主主義と表現の自由は、民衆や人命の尊厳と同様に不可分のものである。

われわれが職場、家庭、大学で、反動派や政府から完全に独立した形で、民主主義と自由を生きたものにするために、討論し、会合し、デモを行うのはそのためである。


【フランス】オランドと国民的統一、そして分化した怒り、憤激:NPAの声明

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1月7日 パリ・レピュブリック広場での「シャルリー・エブド」連帯集会

オランドと国民的統一、そして分化した怒り、憤激
NPA(反資本主義新党)の声明


2015年1月7日


 フランソワ・オランドは、この劇的な情勢においてさえ、ふたたび何も語るべき言葉を持たなかった。


 独立した、自由で風刺に満ちた、体制に順応しないジャーナリストたちへの文字通りの「死刑執行」、そして週刊新聞「シャルリー・エブド」への死の強制に対する憤激と怒り、強い嫌悪感を全国の民衆が表明している時、オランドは統一したフランスをほめたたえ、国民的統一を呼びかけたのである。彼はそのようにすることで、彼と彼の政府が遂行している、大国によって組織された略奪と軍事介入が悲惨と混沌の種をまいている世界の各地の住民に対する戦争を正当化しているのだ。


 したがってNPAは、ジャーナリスト、従業員たち、すなわち「シャルリー・エブド」とそのジャーナリストに対する残忍で反動的な攻撃の犠牲者たちに全面的に連帯するのであって、この国民的統一、フランスのこの国民的合意に参加するわけではない。


 われわれは、この政府の背後に整列すること、すなわち勤労民衆に対する戦争に参加することに反対である。サルコジもオランドと同じことを言っている。マリーヌ・ルペンは、イスラム原理主義に対して闘うという口実で、この「シャルリー・エブド」襲撃を利用してレイシスト的で外国人嫌悪を煽るキャンペーンを行っている。


 社会的・民主主義的逆行が、かれらの政策である。社会的というのは、反動的かつ蒙昧な偏見の名において表現の自由、出版の自由に対する恐怖の種をまき、この蒙昧な残忍、卑劣な暴力を隠ぺいしているからである。


 回答は、国民的統一ではなくここでも労働者の運動である。すなわち資本家の政策が投げ込んだ後退、混沌から社会を抜け出させる労働者の攻勢なのである。


 われわれは、かれらの国民的統一から完全に独立するかたちで、テロ犠牲者への連帯の意思を表明するだろう。


【フランス】残虐で反動的な暴挙:週刊新聞「シャルリー・エブド」事務所襲撃と12人の殺害についてのNPA(反資本主義新党)の声明

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生前のステファヌ・シャルボニエ(通称シャルブ) 2012年

mxフランスでの週刊紙「シャルリー・エブド」襲撃事件で殺害された同紙編集長ステファヌ・シャルボニエ(通称シャルブ)は、ダニエル・ベンサイドの『マルクス[取扱説明書]』の挿絵を担当していた。

宗教だけに限らず、政治、経済などあらゆる権威や非寛容に対する風刺を行ってきた。生前、彼は地元メディアに「ひれ伏して生きるより立って死ぬ方がいい」と語っていたという。最近では「イスラム国」と闘うクルド民族を熱心にサポートしていたようで、コバネの戦線からもシャルブへの弔意が伝えられている。以下はフランスの反資本主義新党(NPA)による緊急の声明。





フランス:残虐で反動的な暴挙
週刊新聞「シャルリー・エブド」事務所襲撃と
12人の殺害についてのNPA(反資本主義新党)の声明


2015年1月7日

 以下は、フランスの新聞「シャルリー・エブド」への襲撃事件に対するNPA(反資本主義新党)の声明である。この襲撃事件では、編集者で著名な漫画作家であるステファン・シャルボニエをふくむ一〇人のジャーナリストと二人の警官が殺された。「ムハマドの漫画」問題以来、同紙事務所は武装警官によってガードされていた。

 風刺新聞「シャルリー・エブド」事務所へのこの攻撃は、ジャーナリストや従業員に対するこうした無分別で殺人的暴力に対する憤激と怒りを引き起こした。この暴力は、反動的で蒙昧な偏見によって、表現の自由、報道の自由への恐怖をまき散らすことをねらったものである。

 われわれはしばしば、きわめて論争的な方法であったとしても、「シャルリー・エブド」の漫画家やジャーナリストと討論し、かれらと共同の闘争を行ってきた。

 NPAは犠牲となった人びとの友人と家族、「シャルリー・エブド」のジャーナリストと従業員たちへの連帯を表明する。

 しかしわれわれは、レイシズムをもてあそび、外国人、とりわけムスリムへの憎悪をかきたてたり、この事件を利用して新しい弾圧法規を作成しようとする魔法使いの弟子たちとのいかなる全国的連合にも加わらない。こうした連中は、われわれが今日生きている外国人嫌悪の有毒な空気への重大な責任を負っているのだ。

 双方ともに民主主義と自由への敵である。かれらは労働者や民衆的諸階級の敵である。連帯の世界への敵なのだ。

 NPAは、本日(一月七日)午後五時に、パリの共和国広場で開催される「シャルリー・エブド」に連帯するデモへの参加を呼びかける。

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生前のシャルブ(右)とベンサイド(中央)

仏NPA声明 ガザの停戦:イスラエル国の政治的・軍事的敗北

▲7月19日、デモが禁止された日のパリ

ガザの停戦をどうとらえるか。仏NPAの声明を翻訳・転載します。


…………

声明 ガザの停戦:イスラエル国の政治的・軍事的敗北



NPA(フランス反資本主義新党)

2014年8月29日



イスラエルがガザに対して行った七週間以上に及ぶ空と地上からの殺人的・破壊的軍事作戦の後、イスラエルは、七年以上にわたった小さな海岸の地峡(ガザ)に対する、殺人的で不法な封鎖を縮減するための様々な意識的措置を伴った、停戦協定を受け入れざるをえなかった。

漁業区域は部分的に拡張され、再建に必要なさまざまな物資が封鎖された地域に運ばれなければならず、ガザ空港、港湾の再開の問題についての議論が一カ月以内に行われるべき、などである。

こうした措置は、ガザの住民が尊厳ある生活を送ることを可能にするにはきわめて不十分であり、イスラエル国はこの責任や合意を尊重するという点で名声を博しているわけではないが、NPA(フランス反資本主義新党)は、イスラエルのこの政治的・軍事的敗北を歓迎する。イスラエルはガザにおいて、軍事的攻撃による耐え難いまでの暴力にもかかわらず、それに立ち向かった住民とその組織の抵抗によって、目標を達成しなかったのである。

封鎖を完全に撤回するための闘いは継続しており、NPA(反資本主義新党)はパレスチナ人、ならびにかれらの正当な民族的権利を獲得する闘いへの連帯のイニシアチブに参加し続ける。イスラエル国への圧力は、この政治的・軍事的敗北をパレスチナ人民の勝利へと転化させるものでなければならない。とりわけボイコット・投資引き上げ・制裁の運動の発展は、イスラエルにその犯罪的政策の代価を支払わせる唯一の道である。


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【フランス】ゲイ結婚法案の投票

arton5147-77be1_preview(デモで掲げられた「同性愛嫌悪に死を」の横断幕)

ゲイ結婚法案の投票


ガブリエル・ジラール

 4月23日、フランス国民議会の第二回投票でゲイの結婚を認める法案が成立した。ここに掲載する文章が書かれて以後、「すべての人びとの結婚」法案への反対運動が急速に激化し続けた。極右の国民戦線指導部――マリーヌ・ルペンはそうではなかったが――と並んで「議会内右派」もデモに参加する姿が見えた。

 同性愛嫌悪が恐ろしいほど目立つようになり、多くの都市でゲイバーから出てきた人びとが襲われるようなことまで起こった。法案支持者のデモは、社会党やその左にいる別の政党(左翼党と共産党をふくむ左翼戦線、NPA[反資本主義新党])が支持していたにもかかわらず、反対派と同じような広範な動員を行わなかった。これは明らかに、社会党政権への全般的な幻滅のせいである。「インターナショナル・ビューポイント」は、この問題をめぐる分極化について近いうちに、さらに別の論文を掲載する予定である。(「インターナショナル・ビューポイント」編集部)

 
 2月12日の午後5時になる少し前、フランス国民議会は、いわゆる「すべての人びとの結婚」法案を大多数の賛成で可決した。同法案は同性カップルに市民的権利、ならびに養子縁組の権利を与えるものである。これは第一段階であり、法律になるためには上院での審議と可決が必要だが、両院で左派が多数を占めているため夏前に原案が確実に採択されることは疑いない。

 この投票は、平等の権利に関するフランス社会内部での賛成・反対双方による、数カ月の集中した討論の結果、もたらされたものだった。LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)運動の古くからの要求が実現されたことは、だれも否定しえない成功である。しかしこのようにして獲得された形式的平等は、同性愛嫌悪やトランスジェンダー嫌悪との闘いを終わらせるものではない。平等への道にとって不可欠の段階である法の採択は、しかしながら、ゲイとレズビアンの間の差異化が発展する過程を際立たせることにもなりうる。

裕福な層にとっては、同性愛のライフスタイルは、さまざまにある選択肢の一つに入るようになってくる。コミュニティーの中のより不安定な周辺部分(若者、トランスジェンダー、女性、エスニック・マイノリティー、HIVポジティブの人びとなど)では、経済危機が家族への依存を強め、解放の物質的諸条件を掘り崩す中で、同性愛のライフスタイルがごく平凡な存在になることなどほとんど見られない。

「ホモ・ナショナリズム」内の一部の批判的アクターたちは、ここ数週間、あぶなっかしい形でこうした裂け目の存在を強調しようとしている。とりわけ住民たちの居住区と、移民出身の若者たちの間においてである。LGBTコミュニティーでのレイシズムと帝国主義に関する論争を復活させた一部の危険な立場は、国際的なレベルで運動を通じて広がっている。それはこうした課題の建設的な論議にとって、けっしてよい雰囲気ではない。

異性愛規範からの批判的解放の展開は、それがいかにLGBTの多数派の動員と政治化のリズムにとって注意深さを必要とするものであったとしても、LGBT運動のラディカルな活動家と左派にとっての挑戦課題である。



状況



 社会党候補のマニフェストの限界内に封じ込められたフランソア・オランドは、2012年の大統領選挙運動の期間中、フランスのLGBT運動が15間提示してきた同性婚の権利の要求に直面した。

 1999年、左翼政権はPaCS(連帯市民契約)を制度化した。それは同性カップルに法的枠組みを提供する市民契約であるが、結婚に関連する諸権利のすべてが付与されたわけではなかった。当時それは、いかにおずおずしたものであれ最初の前進であり、左翼の間で熱気を帯びた討論を引き起こした。一部の人びとは、同性の結びつきを承認したことが家族の「象徴的秩序」を脅かすと恐れた。こうした危惧をよく示すものとして、PaCSの採択は左翼の議員たちの動員が弱かったため数カ月遅れることになった。かれらは議案の最初の投票では議会内の少数派だった。
 
LGBT運動にとって、とりわけHIVポジティブのパートナーを持つカップルにとって、それは防衛的成果だった。しかしただちに差別的立法だとして挑戦を受けることになった。それが同性愛者と異性愛者の間に法的不平等を作り出したからである。
 
2000年以後、右翼が政権を取る状況の中で、権利の平等が急速にLGBT運動の主要な要求となった。2004年にスペインが同性婚の権利を法制化した時、緑の党の国会議員、N・マメレは法律の抜け穴を利用して二人の男性間の結婚生活に入った。結婚したカップルの性別は市民契約に特定されていなかったからである。この象徴的な不服従行動は、メディアで大きく取り上げられたが孤立したものであり。他のどの議員も後に続かなかった。それに続く年月、結婚の要求は、LGBTの闘争の優先的課題であり続けた。しかし右翼が政権の座にある限り勝利は不可能だという認識により、ほとんどの組織は左翼が選挙で勝利するまで待機するということになった。したがって、ゲイ・プライドマーチの主要テーマは平等の問題だったが、この課題で目立った政治的キャンペーンは行われなかった。

こうした課題で力関係を築き上げるという点での展望の弱体化が、2012年九月の右派とカソリック教会が議論に参入した時、活動家グループの相対的分解が引き起こされてしまった理由のかなりの部分を占める。



基層勢力



 1990年代後半にPaCSに関する議論が起きた時、右派ならびにカソリック教会に近いその周縁部分は、このプロジェクトに熱をこめて反対し、パリで十万人近いデモを組織した。反PaCS右翼の象徴となったクリスチーヌ・ボータン議員は、彼女の主張の支えとして国民議会で聖書を見せびらかすこともためらわなかった。全般的やりかたとして、議論は同性愛嫌悪の氾濫をもたらすことになった。その中で左翼とLGBT運動の主張はほとんど聞き取れず、社会党はこの問題では意見が分裂していた。

 2012年の状況は、きわめて異なっていた。社会党はまさに選挙に勝利したところだった。右翼は敗北し、内部の指導部競争で弱体化し、選挙では国民戦線と張り合っていた。したがってUMP(国民運動連合、サルコジの党)指導部は、左翼に反対する課題を探していた。オランドが緊縮政策を追求していたため、自分たちを差異化する余地がほとんどなかったからである。「すべての人びとの結構」法案は、右翼にその機会を与えた。PaCSに関する議論とは対照的に、反対派は外見上より「巧みな」アプローチを進めていった。

 公然たる同性愛嫌悪の言説は、少なくとも公式には放棄され、議論は何よりも「親権」の問題(養子手続き、医学的支援出産、代理親など)に集中した。「反平等運動」の表看板――結婚に反対する二人のゲイと、二流の歌手/ユーモア俳優――は、この戦闘において政治的ではない顔を表に出そうとするものだった。「子どもを持つ権利」への批判と家族的価値の防衛が、右翼の言説的枠組みを提供した。

しかし、法案への反対が右翼とカトリックのネットワークに強く結びついた、極度に反動的な運動に依拠していたのは驚くことではない。そしてデモでは同性愛嫌悪のスローガンが支配的だった、2012年11月17日、2013年1月13日に二つの大きなデモが組織され、UMPと国民戦線、そしてカトリックや他の一神教宗教の主要な代表の支援の下で、数十万人が参加した。カトリック教会はこの闘いに全力を上げ、デモ参加者のパリへの交通手段を大規模に組織した。

メディアの領域を占拠した反平等勢力は、ジェンダー問題や異性愛的家族秩序について、本質主義的で性差別主義的言説を採用した。かれらは、親権問題についての論議を分裂させ、法案に反対する議員たちを動員することに成功した。オランドが動揺し、法案に敵対的な市長に「良心条項」(宗教・良心上の理由である法律の条項に従わないことを許容すること)を持ち出した時、混乱はその目標とするところに到達した。これは、11月17日の大衆的デモと結びついて、LGBTの活動家とその支援に電気ショック的効果を与えるものとなった。さらに右派の言説は、日ごとに同性愛嫌悪に新たな生命を吹き込むものとなっていった。
 
12月16日、さまざまな社会的組織、労働組合、左翼政党の呼びかけで15万人近い人びとが平等の権利を支持し、フランス全土でデモを行った。政治的左派は全体(NPA、左翼戦線、社会党、緑の党)として法案を支持した。このデモに続いて1月27日に新しい、さらに大きなデモが行われたのは予期し得ない出来事だった。それはゲイ・プライドマーチ(近年ではパリで50万人近くが参加する)を別にすれば、LGBT運動としてこの四〇年間で最も目立った動員だった。

しかし政府は、矛盾に満ちたシグナルを送り続けた。政府その決意を述べつつ、親権問題について後退し、女性のカップルへの人工授精へのアクセスは法案には含まれないと説明した。そうした中でオランドは反結婚デモの組織者を個人的に受け入れ、政府は代理母制度を明確に非難した。2月12日の採決はLGBT運動の主要な要求の一部を満足させたが、希望にはほど遠いものにとどまっている。

総括をするには早すぎるが、この秋と冬の平等の権利を支持するデモはLGBTコミュニティーの政治化への重要なベクトルとなった。こうしたデモの中で、ラディカリズムの極が登場した。ピンク・ブロックは反資本主義、反レイシズム、異性愛基準との闘いを明確にした。とりわけパンセレ・ロゼの周囲に結集した「ウィ・ウィ・ウィ」コレクティフは社会党政権のためらいと向き合い、明確な平等の要求を防衛した。より広範に見れば、数十万人のゲイ、レズビアンが街頭に登場し、社会的ネットワークに参加し。自分たちの学ぶ場、働く場で右派の同性愛嫌悪の言説に日常的な抵抗の力を発揮したのである。



LGBT運動の戦略的課題



 しかしながら、この動員の限界についても注記されるべきである。戦略的には。それは統一した要求への合意に不可欠なものとして急速に登場した。しかし平等を支持する運動は、なによりも右翼の動員に対する対応として設立され、立法のカレンダーに従ったものであったため、法律がはっきりと可決されたことで動員解除も強力なものになった。運動の制度的機関(とりわけLGBT相互間の)はこの点で大きな責任を持っている。同性愛嫌悪の言説や行為の再発がここ数カ月で観察される時、この領域での基本的闘争を継続する必要性が決定的に強調されてきた。

 平等の「中身」に関して、最近の動員では、より深い論議をすることが認められなかった。したがって結婚の制度へのフェミニスト的批判や、代理母制度への必要な討論を耳にすることがなかった。LGBT運動の左翼活動家にとって「漸進的」戦略が押し付けられた。最初に結婚や養子縁組問題で成果を勝ち取り、その後で家族や夫婦の基準に関する討論を進めていく、というものだ。しかし民主主義的構造が不在である場合、こうした討論のための政治的可能性は、何週間か経つうちに切り縮められてしまうのだ。



▼ガブリエル・ジラールはフランスとケベックで、おもに反エイズ運動に参加している反資本主義活動家。

(「インターナショナル・ビューポイント」13年4月号)
http://www.internationalviewpoint.org/spip.php?article2950

【フランス大統領選一つの総括】「左翼戦線」、そしてその現在は?

front de gauche soutiensフランス:左翼戦線、そしてその現在は?
 
フランソワ・サバド

 二〇一二年のフランス大統領選挙で起きた驚くべき事態の一つは、左翼戦線とジャン=リュック・メランションの運動だった。その集会には何万人もが参加し、第一回投票で一一・〇一%を獲得するという注目すべき数字を残した。

 確かに左翼戦線の指導者たちは一五%以上獲得すること、何よりも国民戦線の指導者マリー・ルペンを抜いて第三位につけることを望んでいた。しかし選挙戦当初の世論調査での五%という予測を超えて一一%に達したことにより、かれらは「ラディカル左派」のスペースを支配し、革命的左翼の周縁化に成功したのである。



現実の力学



 この選挙運動期間中、大衆的影響力を持つ左翼改良主義勢力が再建された。これは幾つかの要因の結果である。

●社会的敗北に刻印された情勢。それは「闘争で妨げられたものであっても選挙で妨げられることはない」という希望と幻想に有利に作用した。

●共産党勢力の再動員(ポルトガル、スペイン、ギリシャでも見られた)。それはかれらがここ数年間、政権に参加しておらず、制度的機構や労働組合での位置を保持していたという事実に基づいていた。

●メランションのなかなかみごとなキャンペーン。最低賃金一七〇〇ユーロや公共サービスの防衛といったラディカルな目標を擁護する彼のスピーチは、ヴィクトル・ユーゴーの作品や、労働運動の最も輝かしい時期への革命的想像力を喚起した。この魔力は、左翼戦線諸党(訳注:左翼戦線は共産党と、社会党から左分裂した左翼党を中心に形成された選挙ブロック。メランションは左翼党のリーダー)を超える政治的力学を解き放つことになった。その運動はなによりも、とりわけあいまいで退屈きわまる(最も穏健な言い方をすれば)フランソワ・オランドとの対比で、際立つものとなった。



あいまいさと矛盾



 しかしメランションの強い印象を与える選挙運動は、あいまいさと重い矛盾を抱えたものであり、それはNPAの独立的な運動を正当化させるものだった。NPAと左翼戦線は、社会的課題(賃金、雇用、公共サービスの防衛)や民主主義的要求(比例代表制や移民の権利の擁護)については、共通の立場を取っていた。二つの組織は、国民戦線に反対する闘いでは統一していた。他方、別の課題については、両組織は鋭く分かれていた。核エネルギー問題では、フランスの原子力産業との多くのつながりの糸にまとわりつかれていたフランス共産党(PCF)指導部とNPAの間には、大きな不一致があった。

 われわれは多くの目標を共有しており、左翼戦線の運動をめぐる力学は、新しい政治的可能性を現実化する道を開いている。だが、重要な闘争に関わり、われわれの要求の実現を勝ち取る上で、PCFとジャン=リュック・メランションは資本家たちの権力との対決を拒否している。かれらは資本家の所有権ではなく、金融政策を非難する。かれらは公的な銀行部門を求めているが、銀行の収用や社会的統制の下での国有化を拒否し、公的銀行部門と民間銀行部門の競争を支持する。かれらは債務スキャンダルを非難するが、債務帳消しを拒否する。メランションは数年間にわたる債務返済を提案し、資本家と大衆の負担を相殺する。

ここでも一貫性が必要だ。われわれが市民による債務監査の運動に参加するのは、債務帳消しの土台を準備するためであって、漸次的支払いのためではない。左翼戦線の指導者は、「エコロジー的計画化」について、その計画に必要な戦略的資源、とりわけ経済の中枢部門である交通・運輸部門やエネルギー部門の社会化について示すことなく提示している。

 左翼戦線指導部の改良主義的方針は、政治的・歴史的レベルにおいてメランションの「共和主義」的立場と手を携えたものである。それは、ブルジョア階級に反対して社会的共和国を主張したパリコミューン派ではなく、「国民」「共和国」「国家」という言葉を一体化させて共和国を擁護した共和派の立場なのである。この概念は、「市民革命」あるいは「投票箱による革命」を、支配階級の国家の諸制度に対する尊重に従属させるものだ。メランションは、米帝国主義については自由に批判を喚起するが、フランス帝国主義に対してはそんなことはしない。彼は大統領選挙期間中に「現情勢の下では、核抑止力は依然としてわれわれの防衛戦略の中心的要素である」と再確認したのである。

 詳細にわたって疑問を呈するわけではないにしても、こうした概念はメランションの政治における中心的要素である。彼は大衆運動を方向づけ、従属させ、共和国の諸制度との両立・調和をはかるために、彼のなしうるすべてのことをやるだろう。



左翼戦線への方針は?



 左翼戦線との政治的関係について、われわれは以下の諸要素を考慮に入れる必要がある。運動力学だけではなく政治構想も。動員力だけではなく全般的政治プログラムも。活動力(アクティビズム)の再生だけではなく指導部の政策も。

 幾万人もの活動家、幾十万人もの有権者たちが、その投票あるいは左翼戦線のイニシアティブへの参加に、ラディカルで社会的・民主主義的な内実を与えることになった。それはかれらにとって、右派の緊縮政策への拒否であるだけではなく、左派の緊縮政策への拒否でもあった。かれらは最低賃金一七〇〇ユーロ、レイオフ禁止、公共サービスの防衛、公共部門での非正規・不安定労働者の正規化、登録証を持たない人びとの擁護といった死活的な要求で共に動員を行うことで、それを示したのである。

われわれの側は、行動における期限付きの統一を超えてさらに先に進むことが必要だと確信している。オランド政権が準備している緊縮政策に対して、われわれは左翼戦線ならびに他の組織(LO[労働者の闘争]と「オルタナティブ」)に、政権への統一反対派勢力の建設を提案する。NPAにはその用意がある。そして左翼戦線はどうするのか? この闘いは国民戦線が反対派の旗振りをすることを許さないために決定的である。左翼戦線の活動家や支持者と共同の行動の中で対話しなければならないのは、こうした問題である。

同時に左翼戦線がPCFとメランションが指導する政治的組織であって、たんなる統一戦線ではないことを忘れるべきではない。それは党ではないが、すでに政治的運動である。この事実は、すべてが決定されているわけではなく問題が残されていることを意味している。現段階では左翼戦線の指導者たちは、政権に参加する意思がないようだ。メランションは「一〇年以内に権力を、全権力を取る」ことを目標にし、彼が率いるわけではない政権への参加を排除している。

危機の強制の中でPCFは、過去に使われた「参加しないが支持」という定式を選択するように思われる。PCF指導部とメランションの間で緊張が浮上する可能性もある。PCF全国書記のピエール・ローランは、議会選挙の目標を「左翼戦線を最大限に増やした上で国民議会での左翼多数派の選出」に設定している。PS(社会党)とともに左翼多数派を形成するのか? オランド政権の予算案の票決の際に左翼戦線の国会議員はどうするのか。ほとんどすべての地方議会で、左翼戦線の議員がすでに社会党と連携しているようにか。こうした諸問題が残されている。共同行動を可能にするために、われわれの側からする適切な戦術的政策が必要になる。

この段階で、左翼戦線によって描かれている仮説のどれも、その改良主義的構想に挑戦していない。かくして左翼戦線に参加しようという呼びかけが、NPA内部からも発せられている時、われわれはそれとは違って、反資本主義組織は左翼戦線の戦術的展開に依存することはできない、と考える。左翼戦線に参加するということは、PCF指導部とメランションを受け入れることである。政治的場に重点を置けば、統一行動の活性化と批判へのあらゆる可能性を保持することは、左翼戦線からのNPAの独立性を必要にする。反資本主義組織の独立は戦術的な選択ではない。それは、革命的潮流の歴史的継続性を維持する戦略的選択なのだ。NPAには二重の挑戦が提起されている。その組織的建設を再開すること、そしてとりわけ左翼戦線との関係での統一政策の設定である。



▼フランソワ・サバドは第四インターナショナル執行ビューローのメンバーで、フランスNPA(反資本主義新党)の活動家。彼は長きにわたって革命的共産主義者同盟(LCR)の全国指導部メンバーだった。



(「インターナショナルビューポイント」二〇一二年五月号)
 

報告:4.7アジ連公開講座 「生きたマルクス主義を次世代に ベンサイド『21世紀マルクス主義の模索』を読む」

7_017 4月7日、アジア連帯講座は、文京シビックセンターで「生きたマルクス主義を次世代に ベンサイド『21世紀マルクス主義の模索』を読む」の公開講座を行った。

 2世紀におよぶ階級闘争の歴史的射程のもとでいかに「現在」をとらえ、世界変革を展望するのか。その方向性を探求していく取組みの一環としてフランスのマルクス主義思想家であるダニエル・ベンサイドの『21世紀マルクス主義の模索』をテキストにして論議した。

 講師の湯川順夫さん(翻訳家)は、「今日の時代をどうとらえるか? 戦略とは何か? ダニエル・ベンサイドの問題提起を考える」というテーマで報告した(別掲)。

 中村富美子さん(ジャーナリスト)は、ベンサイドのパリ第8大学での講演会やゼミに参加した経験から 「政治闘争家でもあった哲学者ベンサイドの遺産」について報告した(別掲)。

 討論では、以下の論点が焦点化した。

 ①LCRのメンバーであるベンサイドの活動への支持の背景やフランスでのトロツキズムの歴史的地位と成果。

 ②ベンサイドの「緑の党」批判と原発労働者に対するアプローチの仕方の検証。

 ③仏大統領選でのブザンスノーの立候補辞退とNPAの大統領選候補―フィリップ・プトゥー(元CGT(労働総同盟)フォード工場支部書記)の取り組み報告。

 ④この時代に対する問題設定とマルクス主義の継承の方向性。



 討論の集約として湯川さんは、「ベンサイドは、第二インターから第三インターのローザ、レーニンなどを含めて、複数主義のマルクス主義があって、批判的に継承していくと言っている。ただ遺産は、何も手をつけずということではなく、われわれが主体的に変えていくという意味での遺産の継承と言っている。どういう労働者が主流になるか。それはまだはっきりしていない。そういう意味で労働者階級についても、過渡期だ。労働者として意識すること自体が、非常に重要だ」と述べた。

 中村さんは、「フランス共産党は、プロレタリアという言葉を使わなくなっている。だがベンサイドは、現在のプロレタリアがどういうものであるのか、例えば、第三次産業の女性の位置について分析した。プロレタリアは、政治的な言説であり、現在的に読み返しが重要だ」と指摘した。

 最後に司会は、「ベンサイドは、共産党宣言一五〇周年の論文で『世界を変革することは、同時に世界を解釈することだ』と書いた。マルクスの『フォイエルバッハに関するテーゼ』をもじったものだ。つまり、一般論ではなく、世界を再解釈しなければ世界を変えることはできない時代にいる、という強烈な自覚があった。だから、私たちが漠然と『常識』だと思っていること、例えば、民主主義、国家、政治、独裁、プロレタリアート、革命、マルクス主義などについて、ともにコミュニケーションできる状態にならないと新しい運動は成立しないのではないか。そのように考えるベンサイドは、常に精密に語っている。それが魅力でもある」とまとめた。(Y)



湯川報告 「今日の時代をどうとらえるか? 戦略とは何か? ダニエル・ベンサイドの問題提起を考える」



 ベンサイドは、1990年代半ばから始まった社会運動の再生に焦点をあて次の可能性を展望する。「これは一時的な運動の上昇局面ではない」し、それは「新しい可能性の成立、ユートピアの出現」だと主張する。「新自由主義のグローバリゼーションに反対する気運の出現」と描き出し、「憤激は始まりだ! 決起と素晴らしい前進のための道だ。まず最初に憤激を覚え反旗をひるがえす、そうすれば分かる。この熱情の理由を理解する前であっても熱い憤激を感じる」(「不屈の人々 時代の風潮に対する抵抗の定理」)と集約する。

 具体的には、「1994年のサパティスタの放棄、1995年末のフランス公共部門のゼネスト、シアトルの反WTOデモ、世界社会フォーラム、アラブの春、ギリシャやスペインの民衆の抗議デモ、ウォルストリート占拠」という形で続いている。

 この「世の中の不正義に対する憤激の積極的意味」は、「マルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキー、チェ・ゲバラ、ウォルター・ベンヤミン、ジャンヌ・ダルク、シャルル・ペギーにも共通してその根源にあるものであって、もぐらが一杯にあふれる憤激であり、もぐらは「地下にある過去の障害物を執拗に掘り続けて突如として地上に姿を現す人々の象徴」(「抵抗--全体的なトートロジーに関するエッセイ」)である」と押し出している。

 この「ユートピアの時期」は、そもそも「1848年の段階」から考えることができるとした。すなわち、「解放の思想が可能なものの実践的適用に直面していない。だから、「『対抗』、『別の』、『もうひとつの世界』、『可能だ』、『もうひとつの左翼』、『別のキャンペーン』という用語が使われ、濫用される。このあり方は明確に定める必要をなくしてしまう。それは成熟が存在しないことを示している。私は悲観も楽観もしていない。われわれはこの段階から戦略を明確にするところへと移行すべきだと思う」(「今や戦略を定める時だ」)と強調した。

 つまり「共産党宣言」が出た「1848年の時期」だと言う。このことをベンサイドは、「時代の支配的要素は1980年代の歴史的敗北にいぜんとしてとどまっている。われわれはまだそこから抜け出していない。それはそれはまだ勝利していない時間との競争である。急進的左翼の抵抗の重要な位置はまだ伝統的左翼の衰退を埋め合わせてはいない」(「今や戦略を定める時だ」)と言う。「われわれをとりまく時代の趨勢」は、そういう意味で「ユートピアの思想」だ。



 なかでも「潮流としてのアナーキズムが強固に存在するわけではなくて、運動する側の強固な風潮」という時代の雰囲気が感じられる。だから「権力を取らずに世界を変える」というホロウェイ、あるいはネグリの思想が出てきていると分析する。そのうえでベンサイドは、「この時代はどれだけ続くのか」と問いかけながら「長い闘いが必要」だと結論づける。

 これは私の評価だが、「1848年あるいはロシアにおけるナロードニキの時代」だと言えるのではないか。「1917年ロシア革命」にすぐに行くわけではなく、もっと長い射程が「ユートピアの時期」が続くのではないかと思う。

 だからこそ「戦略=政治=政治潮流が必要」だとベンサイドは、次のテーマに踏み込むのであった。

 考え方のヒントとしてベンサイドは、「19世紀後半の時点での資本主義」と「その当時のグローバリゼーション(イギリス・ヴィクトリア朝時代)」を取り上げる。今日のグローバリゼーションと似たような状況として、「交通、通信の技術革命の飛躍的発展によって世界が狭くなる」「汽船、汽車、無線、印刷用輪転機の発明による大衆的な新聞の出現」「空前の株式、投機ブームと倒産、スキャンダル」「植民地への探検(ジャック・ロンドンの小説)と進出と軍事的冒険(ナポレオンⅢ世のメキシコ遠征)」をピックアップし、マルクスは「資本の、資本主義体制の謎を解明する」ために資本論を書いた。それは「アルセーヌ・ル・パンやシャーロック・ホームズのように」「他人の労働をいかに誰が盗んだ、その犯人を突き止める」ことに到達したと言う。

 このように分析しながらベンサイドは、戦略にひきつけて「戦略は、社会運動の成立抜きに、抽象的な頭の中で練り上げられるものではない。現実の社会運動の豊かな実践的経験から導き出されるのであるが、社会運動の延長上に自動的に生まれるもではない。それは意識的な闘いによって勝ち取られなければならないものである」と断言する。



 「戦略とは何か」についてベンサイドは、「自分個人の要求を充足にとどまらず、人々を要求のもとに組織することを考えること--人々を結集することのできる要求やスローガンを考えること=政治的に考えること、戦略を考えること」だと提起している。

 さらにそのプロセスを掘り下げていくために「差し迫る破局、それとどう闘うか」、「過渡的綱領」、「統一戦線」、「過渡的要求」、「労働者政府」について歴史的に運動の中で勝ち取られた考え方からのアプローチが重要だと言っている。

 さらに「この社会運動の中には社会運動の可能性に対する過大評価、政治的なものに対する不信が存在した。政党、政治勢力に対する不信、「権力を取らないで世界を変革する」、「対抗権力だけですますことができる(ホロウェイ、ネグリ、リチャード・デイなど)、戦略的なアプローチに対する拒否、の雰囲気が強固である」とスケッチし、この状況を「マルクスの『ユダヤ人問題によせて』」からアナロジーして次のように指摘する。

 「ユダヤ人の解放、政治的な平等の市民権の獲得だけで十分」というのは、「社会的解放を考えていない」と同じだ。「社会的解放こそが重要であり、政治的解放必要なし、というのは幻想だ」と批判する。だからこそベンサイドは新自由主義と手を切った反資本主義左派政治潮流の形成に着手した。その途上半ばでベンサイドは亡くなってしまったが(2010年1月12日死去。63歳没)。



中村報告 「政治闘争家でもあった哲学者ベンサイドの遺産」



 私がフランスに行ったのが1998年です。パリには、13の国立大学がある。ベンサイドは、第8大学だった。私は、10年いて、第8には登録していなかったが、ベンサイドの講演会とかに参加しておもしろい人だなと思っていた。後に知り合いになって、交流が始まった。

 ベンサイドは「責任と謙虚」の人だった。責任の中には実践を踏まえていた。そして、労働者の文化(連帯)に非常に誠実であった。集団との関係で全てが作ら、集団として考えることが非常に大切だと言っていた。彼は哲学者だけれども、非常に謙虚に、「私は哲学の一教員である」という言い方を常にしていた。1968年の闘いは、学生と教師のヒエラルキーとかを壊していった。つまり、教師と学生の関係は、教える、教えられる関係だが、彼の場合は常に対等であった。



 彼は、複数性とその中の固有性の重要性をわかっていた。彼はトゥルート出身でものすごい訛りがある。パッと聞くだけで、どこのフランス語なんだという感じだ。それを絶対に手放さなかった。家は貧しかった。だが優秀だったのでエリートコースの学校にいった。パリのブルジョワが集まるような場でもトゥルート訛りを通した。一つの表現だった。自分が体得してきた文化、ある種の固有性の重要さを表現していた。普遍性とは単純な抽象的ではなく、個別の活動とか、実践の中から繋がっていく普遍性を大切にしてきたところと結びついている。

 ベンサイドの言語に対する感性、思考は、両親がトゥルートに来てから生まれているのだけれど、ユダヤ人の流れであり、そこの文化と言語がねじれているところにある。だから複数性の原理と固有性の重要性の考えに結びついているのかなと思います。



 私は2001年、ベンサイドの教授資格の公開審査に参加したことがある。ベンサイドがいて指導教授が4人ぐらいいた。審査員たちは、ベンサイドの今までの業績や彼の本を積み上げていた。ところが審査員の中の一人は、ベンサイドの人格を褒め称えた。普通ではありえないことだ。彼の学問的業績を踏まえつつ、まずベンサイドの人格を取り上げざるをえなかったといえる。単純な人柄ということではなく、集団で考えていくこととかに繋がっているから、当然出てきたと評価している。

 審査員の一人であるデリダはベンサイドの本を見ながら、「あなたはランデブー(人と何か会う、約束)のこだわりがある。非常に強い結びつきというか、こだわりがあなたの中にある。あなたが革命を語るときは、活動家というものが、革命家とランデブーする感じを受ける」と言っていたことが印象的だった。



 1968年の五月革命。最初は五月の前に第10大学からベトナム戦争に対する反戦運動が激しく行なわれた。逮捕者が出て、それに対する抗議を契機としている。第10大学は封鎖されてしまった。機動隊とか導入した。逆に大学生の闘いは燃え上がった。労働者、市民も加わり、ゼネストまで行った。

 その年の秋、フーコーなども力になったのだが、社会に開かれた大学を作ろうということでできたのが、第8大学だった。非常に保守的な大学制度に対してアンチなものを作る反アカデミズムを軸にしていた。教師と学生の間に敷居を設けない、あるいは大学と社会の関係を見直していく、現在の政治に対して開いていかなければならないという主張だった。

 だから第8大学は、高校資格もいらないという感じで開いていった。授業も社会人が働いた後でも来れるように夕方に開講する。外国人にも開いていく。大きな教室でマイクを使って授業をすることはしない。普通の教室に教師を中心に学生たちが囲んで熱気に満ちていた。

 ところ80年代に入ると、第8大学はパリの郊外サン・ドニに移転させられてしまった。この地域は、2005年ぐらいに郊外の若者たちが暴動を起こしたという言い方で報道された(サン・ドニ県クリシー・ス・ボワ)。

 自由で始まった大学ですから、反権力・反アカデミニズムでいろんな人たちと結びついていた。当局は、それを嫌がって郊外に移転させた。



 1990年代に入ってから、サパティスタの闘い、世界社会フォーラムの実現、マルクスの国際的研究会議も実現した。ある種の社会的見直しが始まった。ジャーナリズムも批評を武器にして発言していくべきだという状況が生まれた。

 しかし第8大学は、「普通化」してしまった。本来あった批判的勢力としての第8は、制度面でも他の大学と変わらなくなってしまった ベンサイドは、その現象を「くそったれ」と言っていた。これは第8だけではなく、教育制度が日本とまったく同じで、民営化、市場原理が入ってくるなかで進行していった。学長の権限も集中させ、教授会の意見を聞こうとしない。  第8大学の「普通化」について紹介しておこう。他の大学と違って、少しは政治的な人たちがくる。パレスチナ問題なんかを積極的に取り組んでいるグループが世界からパレスチナ研究者を集めて講義を開こうとした。そのタイトルは、「イスラエルはアパルトヘイト国家か」というものだった。イスラエル・ボイコットを呼びかけた。



 この企画に大学は、最初、OKを出していたが、経済的支援もすると言っていたにもかかわらず、シオニストの圧力によって直前に、学長判断で中止させられた。これは不当だということで、学生たちは行政裁判所に訴えた。だが却下されてしまった。学長の判断は秩序をまもるために正当だとした。つまり大学でパレスチナ研究をするなということだ。パリの第8大学でこういう状況になってしまった。

 とはいえ日本と違うのは、私が行ったときは、年間学費は1万ちょっとだった。今でも安いはずだ。そういうところはフランス革命をはじめいろんな革命を経て獲得してきた価値、教育をあらゆる人に平等に開かれたものであるという理念は続いている。だから奨学金、安い学生寮も存在している。

フランスの反原発の現段階


▲3月11日、リヨンとアビニョンを結ぶ230㌔を6万人で人間の鎖

1年後のフクシマ――そしてフランスはどうか?



ミシェル・レヴィ、ヴァンサン・ガイ



 福島の原発災害から一年がたった。原子力発電の廃止を求める大規模な動員が組織されている。

 原子力エネルギーの歴史においては、フクシマ以前・以後が区切られることになるだろう。チェルノブイリ事故の後、西側の原子力ロビーは防衛線を見いだした。事故はソ連邦システムに典型的な、不十分で非効率な官僚的運営がもたらしたものだ、という理由付けだ。「そんな事故はわれわれの国々では起こりえない」というのだ。

 日本の民間産業の技術の粋をつくした原発で事故が起きた今、こうした主張はどのようになっているのだろうか。今年一月末以後、日本で運転中の原発はわずか三基になっているが、電力不足など起きてはいない。この「擬似脱原発」的モデルは(津波の結果だという点はさておいても)望ましいことではない。なぜならその急速な供給回復には大規模な化石燃料への依存が必要だったからだ。しかしそれは、フランスがその最前線に立っている一部の諸国で見られるような原子力エネルギー中毒が、まさに不治の病であることをも示しているのだ。

 この状況は、エネルギー部門の多国籍企業がわれわれに押し付けているウソと危険なジレンマを、明らかにしている。「最も汚染のひどい」化石燃料(石炭、沖合油田、タールサンド、シェールガス)への大規模な依存は、原子力エネルギー放棄の代わりとなる解決策ではないのであり、「きれいな」放射能による死か、地球温暖化によるゆるやかな窒息死かの二者択一的選択をする必要など、われわれにはないのだ。



原子力エネルギーは安全ではありえない



 一年前、メディアは、安全よりも利益に関心を持つ東京電力(TEPCO)の無責任、事故への備えのなさ、ウソについて、原子力産業の統制に責任のある諸機関や政府当局・地方自治体の積極的な共謀と合わせて、焦点化していった。こうした事実は論議の余地なく本当のことだ。しかしこの側面についてのみ強調しすぎれば、もっと重要なことを見落とすことになりそうだ。危険は、原子力エネルギーにとって固有のものなのである。

「ヒューマン・エラー」、内部的機能不全、地震、飛行機事故、爆弾攻撃、あるいは予見しえない事件が引き起こすもう一つのチェルノブイリやフクシマは、遅かれ早かれ起きるだろう。ジャン・ジョーレス(訳注一)の言い方を借りれば、雲が嵐を伴うように原子力は破局を伴う、と言うことができる。われわれは、仏大統領選挙の主要候補がこの問題を取り扱うやり方の中で、そのことにいっそうの不快感をおぼえるのだ。

欧州エコロジー―緑の党と社会党との破滅的な合意は、原子力の廃絶に関して緑の党がその目的のためにあいまいな形であっても交渉しえずに屈服し、二〇二五年までに原発の比率を七五%から五〇%に減らすだけに終わったことを明らかにした。したがって、緑の党の大統領選候補エヴァ・ジョリーが、支持の反響を得られなかったことに誰が驚くだろうか。フランス共産党においても現状維持の立場が支配的である。かれらの逆行的立場は、左翼戦線(訳注二)の意思表明をマヒさせるものなっている。

サルコジ(大統領)とベッソン(エネルギー担当相)のUMP(国民運動連合)やその同僚たちは、原子力産業に働く労働者たちをおじけづかせるために、社会党が多くの原発を閉鎖したいと思っている、と信じるふりをしている。実際のところこれは、社会党の立場についての、そして原子力産業労働者の状況との関係での、二重のごまかしなのだ。原子力産業の労働者は、他の労働者と同様に、不安定な下請雇用であり、職業病に苦しんでいる。原発の廃止に伴う新たな雇用創出については、この問題に関するさまざまな報告についてサルコジやオランド(社会党の大統領選候補者)が何も言わないにもかかわらず、可能なのである。われわれが見ていることは、それとは全く逆に、そもそも当初、耐用期限三〇年で設計された原子炉の耐用年数を四〇年に延長しようという無謀な試みである。



二一の原子炉をただちに廃炉にすべきだ



原発の耐用年数の問題は今や最重要の課題になっており、われわれの要求は、すでに三〇年間運転してきた原子炉の廃炉である。現在なお運転し続けているが即座に廃炉にすべき原発は二一基あり、それ以外の二一基も二〇一七年には耐用期限年数に到達する。こうした要求は、原発を一〇年で廃止せよというNPA(反資本主義新党)の提案、ならびに現在進行中の原発プロジェクトを中止せよという提案との完全な一貫性を持っている。

こうした要求は、反核運動の中で広範な支持を得る必要がある。三月一一日にリヨンとアヴィニョンの間で組織される人間の鎖は、この理由から言っても失敗させてはならない。それは、フランスで最も原発の多い地域で数万人を組織することを意味している。しかし日本での原発災害から一年後の日になされる一日行動だけでは、原子力ロビーを退却させるには不十分であり、われわれは、人間の鎖、デモ、核廃棄物を運搬する列車の阻止などさらなる行動について検討しておくべきである。原子力を止めるために、ともに原発を阻止する行動に立ちあがろう。



二〇一二年三月六日



(訳注一)二〇世紀初頭のフランス社会党の指導者。第二インターナショナルの中では「修正主義」の立場に立っていたが、第一次大戦に反対し右翼によって暗殺された。

(訳注二)共産党と仏社会党から分かれた左翼党との選挙ブロック。左翼党のメランションが左翼戦線の大統領候補になっている。 
 

▼ミシェル・レヴィはブラジル出身の哲学者・社会学者であり、フランスの反資本主義新党(NPA)ならびに第四インターナショナルのメンバー。彼はアムステルダムのIIREの特別研究員であり、フランス国立科学研究センター(CNRS)の前主任研究員である。彼には『チェ・ゲバラのマルクス主義』、『マルクス主義と解放の神学』、『父なる祖国か母なる大地か』、『ラテンアメリカにおける宗教と政治』など多数の著書がある。邦訳書に『若きマルクスの革命理論』(山内昶訳 福村出版、一九七四年)、『世界変革の政治哲学』(山本博史訳、つげ書房新社、一九九九年)がある。彼は「国際エコ社会主義宣言」の共同起草者であり(ジョエル・コーヴェルとともに)、二〇〇七年にパリで開かれた「第一回国際エコ社会主義会議」の組織者の一人でもある。ヴァンサン・ガイは仏NPAのメンバー。
 

(「インターナショナル・ビューポイント」2012年四月号)


▲1977年7月、フランス東中部クレイ=マルヴイルでの
抗議側に死者が出た6万人の高速増殖炉建設計画反対闘争

【リビア情勢】フランスNPAのコミュニケ

npa lybieフランスの反資本主義新党(NPA)の、リビア情勢に関するコミュニケを転載する。

NATOを通じてリビアに軍を派兵している当事国の左翼の態度表明として、読まれてほしい。





コミュニケ

民衆に自己決定権を 帝国主義とアラブ独裁体制の介入を許すな
 http://www.npa2009.org/content/communiqu%C3%A9-du-npa-kadhafi-tomb%C3%A9-aux-populations-de-d%C3%A9cider

反資本主義新党(NPA)
 

 (チュニジアの)ベン・アリと(エジプトの)ムバラクが倒された後の2月15日と16日、今度は、42年間にわたる時代遅れの独裁体制に反対する民衆の運動の発展が見られることとなったリビアの番であった。

 カダフィの反撃としての残忍な弾圧の中で、自らの解放を要求する暴動の口火となったのはベンガジでの一人の人権活動家の逮捕であった。

 弾圧によって生み出されたのは逆効果であった。抵抗、カダフィの代理人たちのくびきからのベンガジの解放、反乱の近隣都市への拡大、が発展した。

 チュニジアとエジプトの革命的過程もこうした苦難を潜り抜けたのであり、両国の革命的過程は弾圧への抵抗に勇気を与えたのだった。

 この六ヵ月間、反乱が発展したが、同時に、反乱から一ヵ月後に、国連決議という覆いのもとで、NATO諸国が空からの軍事介入を通じて進行中のこの過程を自らのものにしたいと考えた。NPA(反資本主義新党)はこの介入を弾劾する。その目的は明白である。それは、過去と現在にわたって、この独裁体制を最後まで自らが支持してきたという事実を忘れさせるためであり、石油と天然ガスの資源が豊かなこの国を支配するためである。

 独裁体制の崩壊は人民にとってはよい知らせである。NPAは、アラブ地域で継続している革命的過程に全面的に連帯している。この過程を完成させるには、人民は反革命の二つの顔を打ち破らなければならない。反革命の一つはシリアのアサド体制をはじめとするアラブの独裁体制であり、もう一つは帝国主義大国による民衆の運命を奪い取ろうとする試みである。

 リビア民衆に切り開かれたのは新しい生活である。自由、民主的諸権利、天然資源によってもたらされる富を人民の基本的必要を満たすことに使うこと。こうしたことが日程にのぼっている。



  2011年8月21日

【フランス】NPA、大統領候補にフィリップ・プトゥー選出

npa

ブザンスノーを引きつぐ者は「労働者である候補者」


ダニエル・マンヴィエル


 5月28日の『リベラシオン』紙の「フィリップ・プトゥー 機械を再起動するための労働者」と題する、プトゥーについて書かれた記事の最後にはブトゥー自身の労働者代表の候補者ではなく、労働者である候補者だ」という彼自身の言葉で締めくくられている。同紙の別の記事には、こう書かれてあった。「問題の機械、それはNPA(反資本主義新党)である。この党は、週末に開催された全国協議会で『あらたな亀裂』を見せた、これは、おそらく、『活動家の資産』をすべて『浪費してしまった』NPAの二年間の過程の結果として『最後の亀裂』であろう。孤立を強いられていた社会運動とその政治的出口との仲介をその当時約束するであろうとされ、多くの人がその結成に託した希望をNPAはこの二年間の過程で無にしてしまった……」。

 同紙は、わが党を今日分岐させている民主的討論によって引き起こされた緊張を強調することに満足を見出したのであった。しかし、真の危機はNPAの内部にあるのではなくて、社会全体を揺り動かしている危機なのである。そして、この危機に直面して、活動家たちは、行動における党の統一を活性化させ、われわれを統一させている思想と綱領を掲げたいと望んでいる。フィリップは、この展望を具体的で信頼できるものとしてくれる。「労働者である候補者」として、彼は、下から、搾取され抑圧された人々に訴え、元気を取り戻し、自らの権利のために闘う必要に応える。この必要性は、オリビエ・ブザンスノーが来るべき大統領選に立候補しない選択を表明した手紙の中で語った点である。今まさに引継ぎはなされた。プトゥー自身が今回の出馬表明で仕事仲間から受けた最初の反応は、皆んな彼の言いたいことは分かったと口々に語ってくれたことであった。

 今回の立候補は、フィリップをよく知る人々にとっては意外なものではない。彼は、青年時代の最初から全生涯にわたってずっと活動家であり、社会の不正義に反対し、もう一つの人間関係、もうひとつの社会を目指す希望を抱いて決起してきた。庶民の家庭出身であり、父親は郵便労働者であったが、今では定年退職している。彼は、ボルドーの「労働者の闘争派」に加盟する前は、アナーキストを自称し、17歳の時から仲間とともに活動を始めた。その彼は、1997年3月に、ボルドーとルーアンの「労働者の闘争派」のほぼすべての活動家とともにこの派から除名される。その当時、「労働者の闘争派」指導部は、そのスポークス・パーソンのアルレット・ラギエが出した一連のアピールを通じて、新しい労働者党の建設を追求するとしていたからである。

 だが、「労働者の闘争派」指導部は、革命勢力派の建設、「労働者の闘争派」とLCRの統一という展望からすぐに後退して自分自身の中に閉じ込もってしまった。プトゥーとその仲間たちはこのアピールを真剣に受け取った。彼はこの時に、この統一の建設に参加し、この政策を追求する「労働者の声」グループの政治生活に参加した。2001年7月、「労働者の声」派とLCRの合同が実現された。その後、フィリップはNPA建設に参加し、新党のジロンド県の指導的メンバーとなった。

 フィリップの政治生活は、最初から社会的闘争と結びついていた。辛い臨時職の数年間を経て、彼は1996年にボルドー近郊、ブランクフォールにあるフォード工場に雇われた。そこで、自らの政治的闘いを否定することなく積極的な組合活動家となった。彼にとっては、社会的活動と政治的活動は密接不可分なのである。彼は、LCRの、その後はNPAのさまざまな選挙での候補者となり、とりわけ先の地域圏選挙ではアキテンヌ地域圏での共同候補者リストのトップに名を連ねた。それと並行して、彼はCGT(労働総同盟)フォード工場支部の書記として、この数年来この工場の労働者による工場閉鎖反対闘争のために活動し、そのためのさまざまなイニシアチブを発揮し、この闘争の永続的な結びつきを作り出して成功させ、他の労働者や他の左翼政治勢力や地区の団体の支持を取り付ける活動を展開してきた。

 そのとおりだ。フィリップは労働者である候補者であり、「社会運動の候補者」であり、政治を実践する労働者である。日常のそれぞれの闘いの機会と同様に、彼は、支配階級によって引き起こされた危機と対決し、もうひとつの展望を掲げるために、再度、われわれの党の内部はもちろんだが、それだけにとどまらずより広範な労働界の勢力や青年の勢力を結集することに貢献できると考えている。 『トゥテタヌー』(109号、2011年6月30日)

オリヴィエ・ブザンスノー、2012年大統領選に不出馬を表明

オリビエ・ブザンスノーは2012年選挙のNPA候補者にはならない
http://www.internationalviewpoint.org/spip.php?article2147 
 

 さる5月2日、反資本主義新党(NPA)指導部は、その最も著名なスポークスパースンであるオリビエ・ブザンスノーが2012年の大統領選挙に党の候補者にはならないと知らされた。NPA創設の基礎を築いたのは、2002年と2007年におけるLCR(革命的共産主義者同盟、第四インターナショナル・フランス支部)によるオリビエの選挙運動が成功したことによるものだった。五月四日のNPA執行委員会の次の会議の後に、オリビエはNPA党員に次の書簡を送った。(「インターナショナルビューポイント」編集部)



 「諸君への最善の奉仕をする者は、諸君とともに自らの生活を送り、同じ苦しみを受ける人びとの中から諸君が選ぶ者だということを忘れてはならない。

 自分自身の利益だけを考える者は、つねに自らを不可欠の存在だと見なすようになってしまうのだが、諸君は大志を抱いた新参者のように挑戦しよう……。

 諸君の票を追い求めようとしない者を選べ。最も重要な徳とは謙虚さであり、有権者にとってそれは、自らの選んだ代表を認めることであり、人目を引くように振る舞わせることではない」。

 パリコミューン国民衛兵中央委員会のアピール 1871年3月25日
 
besacenot 同志諸君。

 私は2012年の大統領選挙において反資本主義新党の候補者にはならない。これは私が行った政治的決断である。そして私が本日、バトンを同志の一人に手渡すのだとしても、私はもはやわれわれのすべての闘争に参加するつもりはない、などと言うつもりはない。全く逆だ。むしろ私は、以前よりも私に刺激を与えている解放のプロジェクトに従って、新しい基盤の上にNPAが自らを確立する機会が存在していることを確信する。

 第一に私は、この機会をとらえて、この10年間にわたり私がスポークスパースンを務めてきた協同の活動に積極的に関わってきたNPA――ならびに前LCR――の人びとに感謝したい。ポスターを貼り、リーフレットを配り、集会を組織した地域支部のすべての同志たち(そしてわれわれを手を広げて歓迎してくれた人びと)に、2002年に、そして2007年にも立候補のための署名を集めてくれた人びと、議論、方針の作成、コミュニケーション、弾圧対策で活動した指導部の同志たち、皆さんすべてに私は感謝の言葉を述べたい。このチームは私に多くのことを教え、スポークスパースンになったことによるこの愉快な経験に多くの貢献を果たしてくれた。

 私は、われわれの思想と信条を広範な聴衆に伝えるために私のレベルで最善を尽くしてきた。そして私は、われわれの綱領を伝え、われわれの行動を促進し、われわれの得票を増大させるために活動し続けたいと強く思っている。NPAの活動家、そしてより全般的に言えば、世界を変えるために闘っているすべての人びとは、私の献身を当てにすることができる。 

 したがってこれは政治的決断なのであり、大きな驚きとすべきではない。私はこの数カ月間、過剰なまでに誇張された特定の個人の押し出しがもたらす政治的リスクについてわが党に警告してきた人びとのうちの一人だった。この考え方は特別な社会的・政治的状況の中で具体的な形をとった。一方で、公的代表制を通じて活動家の課題を委任――特別に時期を区切った委任――することは必要である。それは階級闘争における真の草の根からの行動の代用物としてメディアのゲームにうつつをぬかすこととは全くの別物である。

 われわれは、疎外・搾取・抑圧の社会を最終的に片付ける展望を擁護するために、職場で、闘争の場で、選挙の時も日々組織化を行っている。隷属の現代的形式からの解放は、必然的に現在のシステムとの決裂を意味する。この決裂は、政治への民衆の関与の拡大を前提としている。可能な時にはいつでも、明日になるまで革命的約束の沸騰を抑えるのではなく、この決別がいま、この場で推し進められなければならない。

 それはいま、この場ですべての名もなき市民に対し、自分の運命の所有者となるよう、倦まずたゆまずていねいに、われわれが呼びかけることを意味する。われわれがつねに民衆的諸階級に対し、そこでわれわれの生が実現される闘いの場からわれわれを引き離すために政治家たちが擁立したスピーカーたちと決別し、政治の場に飛び込むよう促しているのはそのためである。われわれが活動しているところではどこでも、この家屋資産、ビジネス、学校、大学、路上の市場への独自の破壊的なメッセージを選挙期間中の抗議の主張として、われわれは伝えている。このメッセージは、わが党の特徴を示すものであり、われわれは選挙上の一定の条件反射を理由にしてそれを曇らせてはならない。

 LCRが2002年の大統領選で、若い労働者、「郵便屋」を引き出すという大胆さを持った時、われわれはセンセーションを作り出した。われわれの現実のあり方――集団的手段であり、不均質なグループであるというあり方――を浮かび上がらせるような無名の候補者を次の選挙で立てることによって、再びセンセーションを巻き起こそうではないか。われわれには自分自身を表現する政治家は不要だということを示すこと、解決策を理解し、提案するために力を注ぐことは、進歩的な行為である。われわれは「安全運転」をすべきだと考えて自らを安心させることは、逆に他の人びとのものであるべき有害は保守的本能を生み出すことになる。しかしわれわれは、他の政党がするようには政治を認識しない。

 私の見解では、このような動きは擁護できない矛盾に分解する。その矛盾とは、一方では政治が市場調査の一形式となってしまうシステムを批判しながら、他方ではわれわれの運動と思想を儀式的議論の中にはめこむことで、われわれ自身を無意識のうちに伝統的政治の場に組み込むものである。この危険は、結果としてわれわれを、われわれ自身の戯画、さらにはシステムの失敗のアリバイにすら変形させてしまうのだ。

 皆さんすべてと同様に、これは私にとって個人的に耐えることのできない展望である。


私は、自分が一般大衆にとって伝統的政治家の一人であるように映るようになることを望まない。それは近年、われわれの立場に影響を与えてきたことである。私が郵便局での仕事を続けてきたこと――私が決して手放すことのない活動――は、合意された選挙の戦場やメディアに継続的に強制された力学に対抗する上で十分に強力な長期的予防血清ではない。2002年に政党政治に攻撃をかけるために闘いを始めた若い労働者は、不可避的に2007年には「仕事を続けながら政治をする」者となり、2012年にはおそらく「手短に政治をする」者となるだろう。

私は戦士であり、活動家であり、そうあり続けたいと望んでいる。この矛盾から私を解放することは、私が公的な場で、しかし異なったやり方でNPAの先頭を続けるための最善の保障である。

 そこで私は、私の選択がNPAを最終的に自己確立するための願いだと認識し、支持していただけるよう訴える。皆さん自身で、余り知られてはいないが、より意識的でより一貫した基盤の上に配置することを可能にする集団的アイデンティティーを再確立できる名前を見つけてほしい。現在のシステムとは明確に区別された革命的・国際主義的で、生き生きとしてオープンなプロジェクトを遂行する必要性に、いっそうの注意を払ってほしい。日常生活の全体的活動によりコンスタントに関わり、職場や住居の問題や青年たちの間での活動に恒常的に関与し、社会運動の活動的な抵抗ネットワーク――労働、反レイシズム、環境保護、フェミニズムなどなど――を主導すべきである。

 一年以内に大統領選挙が行われる。それはわれわれに対して、準備し、われわれの再建プロセスの中で2012年を大きなステップとするための時間を与えている。

 私は、自らを100%、わが党=NPAに投入し、そして私ができるかぎりの最善をつくしてわが候補者を支援する準備をしている。われわれが効果的に次期大統領選挙に介入することができるようにするためであり、そのためにわれわれは、自らを世界からこり離すのではなく、幾百万人の民衆にわれわれのメッセージを伝えなければならない。フランスの労働運動が経験している不確実性の時は、資本主義システムがこの三年以上にわたって直面しているグローバルな危機によって多くの場合引き起こされた不安定な政治情勢に暗い影を投げかけるべきではない。

 アラブ革命は一つのことを実証した。歴史の風は変化しており、急速に転換させることができる。
 

革命的あいさつを送る。

オリビエ



▼オリビエ・ブザンスノーは革命的共産主義者同盟(LCR、第四インターナショナル・フランス支部)が呼びかけて2009年に結成された反資本主義新党(NPA)の最も著名なスポークスパースン。彼は2002年、2007年の大統領選でLCRの候補者としてそれぞれ120万票(4.5%)、150万票(4.2%)を獲得した。
 

(「インターナショナルビューポイント」2011年5月号)
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