ブラック・フェミニストのベル・フックスが2021年12月15日に亡くなりました。こういう活動を始めてしばらくたった2004年ころ、偶然『フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学』を知り、大変勉強になったことを憶えています。近年ではあまり思い出す事がなかったのですが、第四インターの三里塚女性差別事件を考える機会をきっかけに、『ベル・フックスの「フェミニズム理論」周辺から中心へ』をぼつぼつと読み始めていたところでした。本文の冒頭にも書いていますが、ベル・フックスを知ったのは香港の仲間の機関紙から(こちら)ですが、彼女の死去を知ったのも香港の独立ウェブメディア「端傳媒」の記事(こちら)からでした。もう15年以上も前の古い文章ですが、押し入れの奥から探し出した『青年戦線』2004年2月1日号に掲載した読書案内を、追悼と反省の気持ちを込めて再掲します。(早野一、2021年12月23日)
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読書会を始めるにあたって
『フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学』
(ベル・フックス著、堀田碧 訳、新水社1600円)
早野 一
◎スバリと核心に迫り明快
香港のトロツキストが出している機関紙『先駆』2003年秋号に、中国大陸で2001年10月に翻訳・出版されたベル・フックスの『フェミニズム理論──周縁から中心へ』(邦訳『ブラック・フェミニストの主張』清水久美
訳、勁草書房、1997年)の書評が掲載された。情けない話だが、この著書どころかベル・フックスの名前すら知らなかったので、「ベル・フックス」とウェブで検索してみたところ、この本と一緒に検索されたのが『フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学』という2003年5月に発売されたばかりの本だった。
しばらく気にかけていたが、ふと立ち寄った大型書店のフェミニズムのコーナーを眺めていると、この本が目にとまった。価格もお手ごろで、ざっと見たところ20のパーツに分かれた各章は、フェミニズムの何たるかをほとんど勉強してこなかった僕にとっては、とてもとっつきやすかったのだ。
「欲しいものは、コンパクトで読みやすく、分かりやすい本だ。長たらしいものでも、学者にしか分からないような専門用語で書かれた分厚い本でもなく、ズバリと核心に迫り明快で──読みやすいけれど、けっして短絡的というのではないような本」(7頁)を目指して書き下ろしたのだから、当然だ。実際に、フェミニズム運動の歴史の中で作り上げられてきた理論のエッセンスが、ほとんどのテーマを包括する各章の中にちりばめられている。そう厚くもない本書だが、読むほどに引き込まれ、あっという間に読み終わってしまった。こんな爽快な読了感をあじわったのは久々だ。
◎思い描くのは、支配というものがない世界にいきること
それも、第一章「フェミニズム わたしたちはどこにいるのか」の冒頭で「ひと言でいうなら、フェミニズムとは〈性差別をなくし、性差別的な搾取や抑圧をなくす運動〉のことだ。」(14頁)と社会主義革命を目指す人間にとっては、非常にストレートに納得のいく基調がこの本を貫いていたからかもしれない。「思い描くのは、支配というものがない世界に生きること。女は男と同じではないし、いつでもどこでも平等というわけではなくても、交わりの基本は互いに相手を思いやることだという精神がすみずみまで行き渡った世界に生きることだ」(11頁)という彼女の目指す世界は、僕らの目指す世界とそう大差のないものだと感じる。そうだ、僕らの目指す社会はフェミニズムの社会なのだ。この本を読み終えたいま、そのことをはっきりと自覚することができる。
◎はっきりしていたのは、リーダーは男性で、女性はただ従うことがもとめられている、ということだった
またこの本は、アメリカを中心とするフェミニズム運動の変遷の中で、支配的システムに女性が参入することがフェミニズムであるかのように主張するフェミニスト(ヒラリー・クリントンのような女性をいうのだろうか)を批判する。アメリカを中心としたフェミニズム運動の歴史を反映したものといえるが、一般的にはすべての国や地域のフェミニズム運動にいえることだろう。
その一番の大きな理由は、フェミニズム運動にたいするオトコどもの敵対があるだろう。第一章「フェミニズム わたしたちはどこにいるのか」では、簡潔にフェミニズム運動をまとめており、僕にとっては深く印象に残った。少々長くなるが、その箇所を引用する。
「初期のフェミニズムの活動家(その多くは白人の女性だった)のほとんどは、階級闘争や反人種差別運動に参加したとき、そうした運動の中の男性たちが、得々として自由の大切さを語りながら、運動のなかで女性を差別するのを見て、男性支配とはいかなるものかという意識を高めていった。社会主義運動に参加した白人女性にとっても、公民権運動や黒人解放運動に参加した黒人女性にとっても、先住民の権利のために闘ったネイティブ・アメリカンの女性にとっても、事態は同じだった。はっきりしていたのは、リーダーは男性で、女性はただ従うことが求められている、ということだった」(16頁)
◎フェミニズムをみんなのものに!
さて、本編の紹介は、連動で企画される「フェミニズムをみんなのものにする読書会」の報告を反映していくという形で共有化していきたいと考えている。一つの章は短いので、レジメ作りもそう苦にはならない。読書会での発言もできるだけこの連載に掲載していきたい。遠くにいて参加できないという同志や友人も、ぜひこの本を読み、部分的にでも、箇条書きにでも、殴り書きでもいいので感想を寄せてほしい。
目次
はじめに フェミニズムを知ってほしい
一 フェミニズム─わたしたちはどこにいるのか
二 コンシャスネス・レイジング─たえまない意識の変革を
三 女の絆は今でも強い
四 批判的な意識のためのフェミニズム教育
五 わたしたちのからだ、わたしたち自身─リプロダクティブ・ライツ
六 内面の美、外見の美
七 フェミニズムの階級闘争
八 グローバル・フェミニズム
九 働く女性たち
十 人種とジェンダー
十一 暴力をなくす
十二 フェミニズムの考える男らしさ
十三 フェミニズムの育児
十四 結婚とパートナー関係の解放
十五 フェミニズムの性の政治学─互いの自由を尊重する
十六 完全なる至福─レズビアンとフェミニズム
十七 愛ふたたび─フェミニズムの心
十八 フェミニズムとスピリチュアリティ
十九 未来を開くフェミニズム
訳者あとがき
◎「爽快な読了感」のあとの「一抹の不安」
「爽快な読了感」からしばらくして、この「爽快な読了感」に対する一抹の不安がよぎった。不安の根源は、本書で書かれている内容やベル・フックス本人によるものではない。どういうことかというと、「フェミニズム運動は男性に反対する運動ではないということだ」(8頁)、「もしフェミニズムについてもっとよく知れば、男性たちはフェミニズムを恐れなくなると思う。なぜなら男性たちがフェミニズムに見いだすのは、自分自身が家父長制の束縛から解き放たれる希望なのだから」(9頁)という、おそらく進歩的フェミニズムとしては当然の理論が、受け止め方によってはオトコの免罪符になるかもしれないということ。また、これまで、そして今まさにオトコや家父長制と格闘している女性たちに対するオトコの「冷ややかな眼差し」を再生産させかねないのではないか、と感じたからである。
ベル・フックスは何十年にもわたって、フェミニズムの歴史の中で鍛えられてきた理論と実践をこの本に凝縮したが、整理され、理路整然と提起される文言の行間には、苦闘する女性たちの存在が見え隠れする。抵抗する人々の訴えや行動は、ときには「乱暴」で「整理」されていない。本書を読んで「フェミニズムとは理路整然とした訴え」であると勘違いするオトコどもが、「乱暴」で「整理」されていない「抵抗」に直面したらどうなるのか。僕にはそうならないという保証があるのか、自信があるのか、いまだに答えは出ない。これが「爽快な読了感」のあとに感じた一抹の不安だ。
そういう漠然とした不安を抱きながら、本書を購入したのと同じ書店で手にしたのが『ドウォーキン自伝』(柴田裕之 訳、青弓社、2003年7月30日初版)だった。彼女の活躍は、キャサリン・マッキノンとともに、人権侵害であると当人から告発されたポルノグラフィーを禁止するインディアナ・ポリス条例の制定や、レイプ被害者やサバイバーへの取り組みで有名だ。この本には深く踏み込まないが、痛快でエッセー風の本書は、ドウォーキン自身の叫びであり、オトコどもへの絶望が語られ、オトコどもに深く突き刺さる言葉がちりばめられ、そして女性たちのために涙を流している。
ベル・フックスの著書を読んで「スッキリ」したオトコが、現実を再確認するためにも必読の一冊だ。あわせての一読をおすすめする。
(『青年戦線』163号、2004年2月1日発行:日本共産青年同盟「青年戦線」編集委員会)