虹とモンスーン

アジア連帯講座のBLOG

Middle East

【報告】 1.15 「イスラエルの平和運動は今――アダム・ケラー講演会」

IMG_1582 一月一五日、東京・御茶ノ水の明治大学リバティタワーで「イスラエルの平和運動は今――アダム・ケラー講演会」が開催された。アダム・ケラーさんは一九五五年生まれのイスラエルのジャーナリストで、平和活動家。一九九三年に創設された平和団体「グーシュ・シャローム」のスポークスパーソンで、同団体の機関紙「ジ・アザー・イスラエル(別のイスラエル)」の編集長。パレスチナにおける第一次インティファーダのさなかの一九八八年には、イスラエル軍の戦車や軍用車に反戦スローガンを書き、三カ月間投獄されたという経験も持っている。

 「グーシュ・シャローム」は、イスラエルによる占領の終結=一九六七年占領地からの完全撤退、イスラエルと並ぶ独立パレスチナ国家の設立、イスラエル人入植者の退去、入植地は帰還するパレスチナ難民のために利用、エルサレムは両国共通の首都とし、西エルサレムはイスラエルの首都、東エルサレムはパレスチナの首都とする、パレスチナ難民の固有の人権としての帰還権を原則的承認、歴史的事実の評価のための「真実和解委員会」の設立、水資源の共同管理と公正な分配、この地域からの大量破壊兵器の一掃、などの基本的立場を明らかにしている。



 集会実行委員会から奈良本英佑さん(パレスチナ現代史研究、アル・ジスル―日本とパレスチナを結ぶ)が、集会の趣旨を説明した。

「昨年一一月にイスラエルはガザを爆撃し一七〇人を殺害したが、停戦後、国連総会では圧倒的多数でパレスチナが『オブザーバー国家』を認められるという大きな前進が勝ち取られた。しかしイスラエルのネタニヤフ政権は、その報復として新たな入植地拡大を進めている。一月二二日はイスラエルの国会(クネセト)の選挙があり、この重要な時期にケラーさんからイスラエルの平和運動について学ぶことには大きな意味がある」。

続いてアダム・ケラーさんの講演に移った。

「私は中学生の頃から平和運動に取り組んできた。今は髪の毛もなくなるほどの年齢になったが、イスラエルで平和運動をするためには短距離競走ではなくマラソンレースを行う気構えが必要だ。状況が悪い時でも悲観的にならず、良くなっても楽観的にならないことが必要。平和運動家にとってはつねに同じ場所に立ち続けることが求められている」とケラーさんは切りだした。

「重要なことはイスラエル、パレスチナという二つの民族が共に強いアイデンティティーを持ち続けていることであり、またオスマン・トルコの時代から一〇〇年以上にわたって両民族の闘いが続いているのを知ることだ。そしてもう一つ重要なことは、エルサレムが二つの国の共通の首都になるのをイスラエルの中で話題にすること」。

「イスラエルでは、エルサレムが『永遠の分かつことのできない首都』であるという合意が存在している。これは東エルサレムのパレスチナ人を犠牲にすることを意味する。私たちは一九九〇年代に東エルサレムのパレスチナ人とともに、『両民族にとってのエルサレム』という運動を行い、一〇〇〇人以上の署名を集めて五回にわたり新聞に掲載した。回を重ねるたびに新しい名前が加わった。エルサレムを分けるという主張は、今では頭ごなしに拒絶される意見ではなくなっている。このように少数者の側からの対抗的主張で多数の見解を統制することは、変化を引き起こす上で重要なのだ」。

「徴兵拒否運動、あるいは占領地やレバノンでの兵役拒否運動について。この運動では当局に『私は自分の国を守る。しかし他民族の土地を奪うために兵役に就いたのではない』という請願文を送りつけ、現にレバノンや西岸地区では約一〇〇〇人の兵士が刑務所送りとなった。私は、一八歳の時に徴兵を拒否して半年刑務所に入り、一九八八年に西岸地区でのイスラエル軍の作戦に予備役として動員されたが、その時一七〇台の戦車・軍用車に『占領者となるべきではない』と落書きして、三カ月の刑に服すことになった」。



「われわれに何ができたのか、何ができなかったのか。それはなぜか。一九九三年、オスロ合意が成立した時には、もう勝ったも同然だという気分が広がった。しかしなぜオスロ合意はうまくいかなかったのか。ラビン首相の暗殺が決定的な転機だった。その時の平和集会には一〇万人が参加し、ラビンがバルコニーからあいさつすることになった。もしもあの時ラビンが暗殺されていなかったら、一九九九年にはパレスチナ国家が成立し、両民族が平和に生きることができていただろう」。

「しかしラビンを理想化することへの批判が平和活動家の中でも生まれた。オスロ合意以後、イスラエルでもパレスチナでも状況は悪化し続けている。平和を実現するためには国際的な市民団体からの圧力が必要だ」。

このように語ったケラーさんは、西岸のパレスチナ人が自分の土地に植えたオリーブの実を収穫するのをユダヤ人入植者が暴力的に阻止して、その土地を自分のものにすることに抗議して、ともに収穫する運動を行っていることも報告した

フロアからの質問に答えてケラーさんは、パレスチナ問題の解決方針に関して「イスラエル国家」と「パレスチナ国家」という二国家案と「民族共生国家」という一国家案の論争に関して「私は一国家案に原則的に反対するわけではない。しかし新しい世代のイスラエル人はアッバース(パレスチナ自治政府大統領)が隣国の大統領になることは受け入れるだろうが、自国の大統領としては受け入れないだろう」と語り、「一国家案」はきわめて困難であるという見解を述べた。

また西岸にパレスチナ国家が建設された場合、イスラエルの入植者の多くは残らないだろうが、パレスチナの法に従い、友好を求めて残る人もいるかもしれない、とケラーさんは語った。

さらに「真実和解委員会」という「グーシュ・シャローム」の主張について、それが南アフリカのアパルトヘイト体制清算にあたって取られた措置を参考にしたものであり、「報復・処罰ではなく、何が行われたかを明らかにして、和解を実現しようとするものだ」と説明した。

集会では来日中のカナダ・モントリオール大学の歴史学者、ヤコブ・ラブキンさんもコメントした。『トーラーの名において』などの邦訳書もあり、一九世紀末に生まれたシオニズムの政治運動がユダヤ教の教えとは根本的に反するものだという主張で大きな反響をよんだ。

ラブキンさんは、「私はカナダでアダムさんの話したことをやりたいと思って活動してきた」と語り、アメリカの若いユダヤ人の三分の一は「ユダヤ人国家」という主張に「何、それ」という違和感を表明していると語り、シオニスト国家イスラエルに対するBDS(ボイコット、投資引き上げ、制裁)キャンペーンの有効性について述べた。そして「小さな運動が変化を作り出すことができる」と訴えた。

(K)
 

【報告】11.18ガザ攻撃をやめろ! イスラエル大使館前緊急行動

IMG_1491 11月18日、ガザ攻撃を止めろ! イスラエル大使館前緊急行動が有志の呼びかけで行われた。

 11月14日、イスラエルはパレスチナのガザで、ハマスの幹部アフマド・ジャアバリ氏の乗った車を空爆し、ガザへの大規模な空爆を開始した。この空爆はきわめて執拗であり11月15日以来で約950回にのぼり、ガザ自治政府の建物も破壊されている。18日午前9時段階で少なくとも40人の死者が出ている。すでにイスラエルの予備役兵七万五〇〇〇人が動員され、大規模な地上侵攻作戦も準備されている。

 このイスラエルの理不尽きわまる暴挙に対して国際的な抗議の声が高まっている。この日の行動は前日に呼びかけられたものだが、緊急の呼びかけにもかかわらず午後二時からのイスラエル大使館前行動には六〇人が集まった。イスラエル大使館方面に曲がる角で待ち受けていた麹町署の警官は、拡声機を使うのは住民の苦情があるのでやめろと不当な規制をかけてきた。今までになかったことだ。参加者はこうした規制を拒否して、堂々と一時間以上にわたって抗議活動を貫いた。

 最初に「ミーダーン・パレスチナ対話のための広場」の田浪亜央江さんが、行動の趣旨を説明した後、パレスチナ現代史研究者の奈良本英佑さんが今回のイスラエルの暴挙の背景について説明した。

 「イスラエルでは来年一月に国会選挙が行われる。今回の軍事作戦は選挙で有利な立場に立つことを狙ったきわめて計画的・意識的な行動だ。そもそもネタニヤフ政権とハマスの間では、停戦交渉がまとまりかけており、その交渉の最中に相手の司令官を殺害するのはぶちこわし以外のなにものでもない。その数日前にはイスラエル軍の司令官はシリア戦線の視察に出向いていた。それはガザ攻撃がないと思わせるための陽動作戦だった。これを『イスラエルの自衛権の行使』として容認したオバマ米大統領も弾劾しなければならない」。

 パレスチナ子どものキャンペーンの北林岳彦さんは、「四年前のガザ空爆も選挙を目前にした時期だった。シオニズム国家の本質がここに現れている」と批判した。

 その後、行動参加者にマイクをまわして一言アピールが行われ、さらにヘブライ語、アラビア語、英語、日本語で「占領やめろ」「壁はいらない」「破壊はうんざり」などのシュプレヒコールが塀の向こうのイスラエル大使館に向けて何回も繰り返された。アラブ人男性からのシオニスト国家とそれを支える米国への怒りの発言も行われた。

 この日のイスラエル大使館への申し入れ文書は、イスラエル大使館がかつては門に設置されていた郵便ポストも取りさってしまった中で、参加者それぞれが郵送することになった。(K)

【アラブの反米暴動】エジプト革命派の声明

lzqzyq(画像は看護士・医師アシスタントのストライキ "革命的社会主義運動"のサイトから)

 

ムスリムへの侮辱を引き起こしたもの


 
エジプト 革命的社会主義運動
http://www.internationalviewpoint.org/spip.php?article2747
 
二〇一二年九月一四日
 
 イスラム教の預言者ムハンマドを誹謗した映像に抗議してアラブ諸国全域で反米暴動の波が広がっている。二〇一一年のアラブ革命を反欧米・反キリスト教の宗派主義的激情に流し込もうとするイスラム主義潮流の活性化に対して、エジプトの革命的社会主義グループは、この怒りの爆発をアメリカ帝国主義とイスラエルに対する闘いに向けることよう訴える声明を発した。かれらは二〇一一年のアラブ革命を、民衆の自由と国際的連帯に向けて発展させるよう訴えている。(K)



革命的社会主義運動は、ムスリムであろうとキリスト教徒であろうと宗教的施設やシンボルへのあらゆる攻撃を完全に拒否することを確認する。そうした行為は労働者・農民、貧しく抑圧された大衆の大多数の隊伍を破壊し、宗派的傾向と分極化を強化している。こうした攻撃は、幾百万人もの人びとの生計と運命を支配・統制する搾取者と投資家たちの一団に対する戦闘の中で、大衆の闘争、統一、かれらの自己意識と自主的組織化の発展を弱めている。

 またわれわれは、アラブ革命の真の闘いとはアメリカ帝国主義に対する闘いであって、別の文化や表現の自由に対する闘いではないことを強調する。この闘いは、勤労民衆、抑圧されたすべての民衆による内外の搾取者、苦しみを与える者どもに対するラディカルな闘争の発展を通じる以外には勝利しないだろう。

 アメリカ帝国主義に対するこの闘いは、「文明の衝突」の問題に切り縮めることはできない。小グループによるリビア、エジプト、イエメンの大使館や米軍基地に対する暴力は、独立と民族解放を求める下からの大衆闘争の代用品になることもできない。

 かれらがアメリカに対する怒りに火をつけたその時、ムスリム同胞団とサラフィスト(暴力的イスラム原理主義の一派)の指導者たちは、米国との外交的・経済的・軍事的関係の維持を強調していたのである。かれらは、帝国主義政権との協力をやめるための、いかなる真剣なステップに踏み込もうとしなかったし、民族独立無駄に浪費するシオニスト国家との恥ずべき平和協定を破棄する真剣な努力を行おうともしなかった。政府当局者がシナイ半島で犯した虐殺に汚れた手を洗うやいなや、かれらはガザ地峡を取り巻くトンネルを破壊した。それはアメリカとイスラエル政府の直接的支持を獲得し、かれらとの協力の連携を強化した作戦の中で行われたことであった。

 この事件は、アラブ革命をその集団的・民主主義的価値のレベルで打撃を与える企図を示している。これはグローバルな抵抗の運動に示唆を与え。これらの革命とともに形を取り始めた虐政からの自由を求める全世界の民衆の連帯モデルに対する打撃である。

 この地域における米国の役割を、ムスリムとキリスト教徒、あるいは東と西との文化的・宗教的侵略として描き出す、こうした怒りの言葉と行動は、帝国主義に対決するイスラム主義のレトリックに影響された大衆をふくむ民衆の爆発的怒りを宗派主義的・排外主義的方向に向けるのに資するだけであり、それは根本的な間違いである。これは、街頭からの圧力を感じないまま、外交的手練手管を弄して米国やイスラエルをなだめることに異議をさしはさまないイスラム主義潮流指導部に機会を与えるものとなるだろう。

 革命的社会主義運動は、選挙で選ばれた政府当局に圧力をかけるため、自らの力を動員し、その隊伍を組織化するよう人びとに訴える。



●米軍に反対し、米軍とのあらゆる形での協力を阻止せよ。

●キャンプ・デービッド協定(訳注:米国のカーター大統領が仲介し、一九七八年九月にエジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相の間で結ばれた平和協定)をきっぱりと破棄せよ。

●あらゆる可能な方法でパレスチナの抵抗運動を支持せよ。



革命的社会主義運動

二〇一二年九月一四日

■革命的社会主義運動
http://www.e-socialists.net/
 

【シリア】革命から見た情景


エジプトでのシリア民衆連帯デモ

シリアの革命的マルクス主義者の立場からのシリア情勢分析です。

……………
 
シリア――革命から見た情景
 

モニフ・ムルヘム



 本稿は二〇一二年二月二一日に書き上げられ、シリア革命的左翼潮流のアラビア語機関誌に掲載されたものである。



 シリアにおいて、自由と尊厳のために立ち上がった民衆と、四〇年間にわたりこの国に重圧を強いてきた抑圧的独裁体制との衝突が始まった。シリアをめぐる対立は一九四六年の独立以来やむことがなかった。

シリアの現在、あるいはシリア・アラブ共和国(訳注1)という国家が、二〇世紀の初めにサイクス・ピコ協定(訳注2)でイギリスとフランスが分割した「大シリア」の残り物でしかないことを思い起こすだけで十分である。シリアと近隣諸国(レバノン、イラク、パレスチナ、ヨルダン)との関係のもつれ、そしてシリアへの影響力をめぐるエジプトとサウジのライバル関係は、それ以来ずっと続いている。帝国主義の構想と同盟関係はそうした関係を封じ込めたものであり、その最も有名なものはアイゼンハワー計画とバグダッド条約(訳注3)であった。こうした目論見はこの一〇年間、とりわけ米国のイラク侵攻後のテヘラン―ダマスカス枢軸の登場と、核開発計画を口実とした米国のイラン包囲の願望で強まった。

現実には、外国の介入あるいは不介入は、西側諸国の利害、そしてその国内的・地域的・国際的諸条件にのみ依存したものである。現在こうしたタイプの策謀にとって、諸条件は有利なものではない。シリア人たちの意見は、かれら西側諸国の関心を最もひかない問題である。かれらにとって介入する上でだれかの同意など必要ないのであり、かれらがそうしたい時には、もっともくだらない事柄であっても十分な正統性と口実を見つけることになるだろう。結局のところシリア政府の立場、その態度、そして革命のその時点での発展局面におけるシリアの状況が、軍事介入の条件と口実をつくる多くの諸要素――実際には唯一の要素――となるのだ。



シリアの反対派



 シリア民衆が決起し、政権が革命に対して開始した残虐きわまる弾圧――それは全方向で拡大し幾千人もの死者と幾万人もの逮捕者をもたらした――に直面してから数カ月後に、シリア国民評議会が設立された。国民評議会は多くの政治的・宗教的潮流とリベラルな潮流から形成され、政治的潮流が明らかに優位を占めていた。民衆運動はこのイニシアティブを歓迎し、評議会への支持を表明した。それは評議会の憲章に書かれた言葉やその内部的構造に同意したからではなく、早いうちに、すべての潮流を代表する構造の内部で、運動により勢いと力をつけ、支持を広げるために団結し、闘争を集中化することが必要だったからである。

 しかし国民評議会は、民衆運動を支え、活性化し、統一するための努力を方向づけるのではなく、そこから目をそむけてしまった。影響力のある国際的パワーの方に身を転じ、リビアの経験から示唆を引き出すことを求めて――リビアとの相違と対照性を考慮することなく――幻想の取引に身をゆだねてしまったのである。

 繰り返し要求された「緩衝地帯の設置にいたるまでの飛行禁止」からはじまり、さらに自由シリア軍に関するためらいがちの立場や、市民の保護と安全なルート確保の要求を通じて、国民評議会は革命への具体的な方針を提起できないことを立証してしまった。

 国民評議会の形成に伴って、もう一つの反政府グループである全国調整委員会が設立された。この組織は、三〇年以上にわたり弾圧と迫害を受けてきた、政権に反対する諸政党や個人を結集したものだった。しかしこの組織は、革命の各段階において大衆が達成したレベルにまで到達しなかった。全国調整委員会はその創設の段階から、政権の打倒に集中するのではなく、外国からの軍事的介入に焦点を合わせてきた――軍事的介入という問題はこれまでどこからも提起されてこなかったし、今も提起されていないにもかかわらず。

この組織は、政権と闘うよりも全国評議会との衝突に多くの関心を抱いてきたように思える。実際のところ、全国調整委員会の言説は、街頭での反乱ではなく、恐れおののき、ためらい、沈黙するというタイプに属するシリア人たちの表現だった。



共産主義者と革命



 シリアの政治的舞台は、伝統的(スターリニスト)共産党以外の他の共産党が存在しなかったという点で、他のアラブ諸国と異なっていた。伝統的共産党は一九二〇年代に創設され、一九七〇年代初頭までその統一を維持していた。その後、この党は分解・亀裂を開始し、二〇〇〇年代初頭までに四つの党が誕生した。

そのうち三つはモスクワへの忠誠を続け、支配政党である「バース党戦線」に参加したり、外部から政権の経済政策へのきわめておずおずとした批判を定式化したりするなど、独裁体制の付属物となってしまった。革命の勃発後、かれらの活動家や支持者の一部は指導部との合意のないままに民衆運動に参加したものの、ラディカルな変革の要求を理解しなかった。

この分裂から生まれ四番目の党は、一九七〇年代半ば以後は政権との距離をとり、反対派に参加して、それ以後の数十年間、弾圧と迫害に身をさらすことになった。二〇〇〇年代になって、この党は民主人民党と呼ばれるリベラル派の政党になり、現在はシリア国民評議会の一部である。

一九七〇年代末に、共産主義行動党(CAP)と呼ばれる新しい共産主義政党が設立された。この党はその隊列の中に革命的スターリニスト潮流や、さらにはトロツキスト潮流さえ含んでいた(訳注4)。体制打倒という問題が一九七九年以後提起され、この党は打ち続く弾圧と迫害の波と連続的な逮捕にさらされた。そのため一九九〇年代初頭までに、同党は政治的・組織的なマヒ状態に陥った。

二〇〇〇年代初頭、指導部の一部が獄中から釈放され(その中には一七年以上投獄されていた者もいた)、CAPの名前が再び聞かれるようになった。同党は、分裂と、リベラリズムからスターリニズムを経由した革命的関与にまで広がるイデオロギー的転換を経験している。党員の一部は党の再建と、共産主義的伝統に源流を持つ別の組織との連合を形成する――マルクス主義左翼の再編――ことができた。それは現在、全国調整委員会の構成要素の一つとなっている。革命と民衆運動の登場の中で、幾つかの左翼組織も出現したが、それらは行動力と影響力の点で限定されたものにとどまっている。



自由シリア軍



 政権の側の弾圧のひどさと殺人犯罪にもかかわらず、民衆運動はその最初の数カ月間、平和的に展開された。デモ参加者が時に武器に訴えることがあったとしても、それは治安機構の残酷な殺人行為によって挑発された個人的行動であり、運動の指導者による統制が可能だった。

 治安部隊は、平和的な革命家の殺害を正当化し、自分たちは「武装集団」に対処しているのだと世論に信じ込ませるために、民衆の運動を武装させる策謀を行った。そのためにかれらは二つのプロセスに依拠した。第一は、武器商人と治安部隊の間のコネクションを通じて、市民が安価な軽火器を手に入れるのを促したことである。第二は、民衆運動にとってははるかに危険なことだが、指導部を一掃することによる市民の平和な運動の首の切断、デモ中の殺害、牢獄での処刑、指導者の拘留などである。

 こうしたことにより、新しい指導者たちは、殺害や終わりのない不当な強要行為を犯した治安部隊との武装衝突にいっそう傾くようになっていった。海外からの諸要素が武装闘争的方法を尻押ししたりすることがなければ、あるいは軍の隊伍内でますます目立つようになった脱走行為――それは自由シリア軍の創設をもたらした――がなければ、運動が平和的で市民的なものであり続けることも可能だったかもしれない。

 自由シリア軍の部隊と司令官は、いかなる反抗や集団的不服従も不可能にされていたアサドの父の時代に形作られた。かれらに割り当てられた役割――政権を守るための民衆的抗議行動への弾圧、あらゆる残虐な弾圧形態の行使、民衆への差別――に直面したシリア軍の一部の要素は、可能な場合には武器を取って反乱する以外の選択肢はなかった。そしてそれはしばしば起こったのである。

 もしそうした軍隊内の反乱が脱走(その数は、最も楽観的な見積もりによっても数千人を超えるものではなかった)という形のままで止まっていたならば、自由シリア軍は政権にとって危険なものにはなり得なかっただろう。しかし自由シリア軍部隊の根幹は新たに形成された文民部隊であり、かれらは革命への興奮の外側から部隊に参加した者であるか、デモに参加したことで治安部隊の追跡を受けた者である。自由シリア軍への市民志願兵のほとんどは、周辺化された社会階層の出身である。

 自由シリア軍の規模は、現在数万人と見積もられており、今や政権側は自らの軍への信頼を日々失っており、その部隊をより信頼に値する要素、すなわちその一部は治安機構に全面的に従属した部隊によって軍部隊を強化しなければならなくなっていることを強調すべきである。われわれは、革命への同調という推測によって投獄されている軍人の数が数千人に上り、その多くは士官であることも明らかにすべきである。この事実は、政府軍の動員の規模やモラルについての状況がどうなっているかを教えてくれる。

 経済的利益によって政権に結びついている社会階層は、次第にそこから離れつつある。一部の者は国際的経済封鎖の強化とともに船を乗り移り、別の一部は片足を政権の側に乗せ、もう一方の足を革命の側に乗せている。早晩、政権は最も親密な顧客と弾圧装置のみに頼ることになるだろう。これらは、正規軍部隊というより、その構造からして私兵に類似した機構である。政権側が「サムソン・オプション」(訳注5)を行うことになれば、こうした機構は革命にとっての一つの問題となりうる。

 自由軍による危険性も残ったままである。しかし自由軍が外部のパワーによって支持され、武装化されることになれば、それは体制の打倒にあたって効果的な役割を果たすだろう。



政権は防衛のために攻撃を仕掛けている



 この間、都市や村落で行われている軍事作戦は、革命を抑え込むための攻勢のように見える。しかし現実には、政権は毎日のように革命の火が新しい都市や地域(ダマスカス、アレッポ)に広がっているのを見ており、革命が最初に起こった地域(ホムス、デラア、ハマ)でその闘いを窒息させ、新たに革命に結集した地域に脅しをかけ、体制維持への可能性についての確信が揺らいできた政権支持者たちの士気を高めようと願っているのである。それはまた、同盟国(とりわけロシア)との交渉期間中に手持ちのカードを保持するためのものである。二〇一二年二月一九日に行われた中国外務次官との会談での、シリアを脅かす内戦と分離に関するアサド大統領の言葉は、その最初のサインにすぎない。

 今や、シリア革命がルビコン川を渡ったこと、後戻りはできないことを、われわれは見ることができる。四〇年以上にわたってシリアを支配してきた政権は、終わりを迎えつつある。いつ、そしていかにして終わるのか。この問いに正確に答えるのは難しい。アサド政権と同じ性格を持ったあれこれの政権が、その崩壊という点では観察者たちを驚かせてきたからである(シャーのイラン、東欧)。

 革命とその将来にとってのもう一つの危険は、シリアが大国間の影響力と利害をめぐる闘いの地域に変わってしまうことだ。私の意見では、周囲の環境はそのようなものではない。米国が、とりわけイスラエルの利害にそって、政権を破壊するためではなくシリアを破壊するために、紛争を永続化することを熱心に願う政策を取っているにもかかわらず、少なくともロシアはそうではない。シリアの反対派が理解し、阻止すべきなのはこの点である。なぜなら政権の打倒はシリア民衆の諸勢力によってなされるべきだからである。これこそ最短の道――いかに長かろうとも――であり、シリアの情勢の代価が国際的諸勢力のバザールにおいて高騰していたとしても、これこそ最もコストのかからない道だからである。



▼モニフ・ムレヘムは一九八一年に逮捕されてから一五年以上をアサド一家独裁政権の監獄で過ごしたシリアの革命的マルクス主義者。彼は共産主義行動党の党員だった。



訳注1;シリアの正式名称

訳注2:オスマン・トルコ帝国の分割をめぐってイギリスのサイクスとフランスのピコの二人の特使により一九一六年に結ばれた秘密協定。この協定によって現在のシリアはフランスの勢力圏に、現在のイラクはイギリスの勢力圏とされた。

訳注3:一九五五年、ソ連の影響力に対抗するためにイギリス、トルコ、イラク、イラン、パキスタンが結んだ安全保障条約。米国はオブザーバー参加。中東条約機構(CENTO)の別名。

訳注4:一九九一年に開催された第四インターナショナル第一三回世界大会では、シリア共産主義行動党の活動家からのアピールが紹介された。

訳注5:多くのものを道連れにして自分も滅びること。旧約聖書士師記で、捕えられた豪力の英雄サムソンが縛りつけられた神殿の柱を引き倒し、自分も周りの者も瓦礫の中で命を失ったという故事に由来する。

(「インターナショナルビューポイント」二〇一二年六月号)
 

【第四インター声明】シリア民衆革命に連帯を アサド体制を打倒せよ!

声明
シリア民衆革命に連帯を アサド体制を打倒せよ!

第四インターナショナル国際委員会
 
imagesCAWQS165 シリア民衆は、血まみれの腐敗した専制の弾圧の下で幾十年も生きてきた。息子のバッシャールが後を継いだ前独裁者ハフェズ・アル・アサドの家族の盾の下で、バース党が権力を独占してきた。

 アラブ地域の革命の始まりの後、この政権は革命のプロセスから逃れられるだろうと思った人もいるかもしれない。グローバル帝国主義とイスラエル国への抵抗という見せかけと、弾圧機構の強さがその理由である。

 しかし民衆の決起は、こうした信念を無価値なものにした。一年後の今、シリアの大衆は街頭に進出し、日常となった虐殺を前にしながら英雄的かつ平和的に地歩を固めてきた。権力によるこの弾圧は、一万人以上の死者、数万人におよぶ負傷者と行方不明者、拷問による死の危険にさらされながら拘留されている人々を作り出している。拷問と殺人のセンターとなった病院に、負傷者を運びこむことはできない。弾圧部隊は、すべての民衆的抵抗を粉砕するという決意をもって、全国、とりわけ犠牲の町となったホムスで、幾百もの住居や公共のビル、そして全地域を破壊してきた。

 ロシア、中国、イランの政府は、恥ずべきことにバッシャール・アル・アサドの側に立ち、プーチンはアサド政権への軍事的支援を保障している。しかし、それと並行した米国、欧州諸国、トルコ、カタールとサウジ王制の策謀に対して、第四インターナショナルはシリアへのあらゆる類の軍事的介入に反対することを確認する。そうした軍事介入は、ここに挙げた世界と地域の諸国の自己利益を強めることを目的にしたものであり、シリア民衆にとってはいっそうの破局的事態をもたらすことになる。

 決起したシリアの民衆は、その英雄的なプロセスの中で、自由と社会的公正という目的に向かって下部からの組織化を進め、行動を調整し、闘争の手段を発展させてきた。かれらは、シリアの政権と一部の湾岸諸国が進める、あらゆる宗派的分裂の策動を拒否してきた。

 恐るべき虐殺に直面しているシリア民衆は、闘いを持続している。全世界の民衆は、この血まみれの体制を最後的に解体する闘いへの連帯を、確認しなければならない。われわれは諸国政府の外交的策謀に、いかなる信頼も置かない。これまでシリア民衆の支援への訴えに余りにも小さな応答しかしてこなかった労働者運動、民主運動に、この連帯を真のものにすることがかかっている。シリアの左翼活動家勢力は、民衆の自己組織化の発展のために、政治的・社会的平等に基づく新しいシリアを可能にさせる、民主主義的で社会的で政教分離で反帝国主義的なオルタナティブのために、この蜂起に参加している。第四インターナショナルは、この闘いを支援するために可能なあらゆることを行う。

盗賊と人殺しの体制を打倒せよ!
バッシャールは出ていけ!
シリア民衆革命万歳!

二〇一二年二月二九日、アムステルダムにて

【報告】1.16「原発? No. Thank you! ヨルダンの国会議員・弁護士は訴える」

IMG_0805 一月一六日、東京・水道橋の在日韓国YWCAで「緊急集会 『原発? No,
thank you!』ヨルダンの国会議員・弁護士は訴える」が行われ、一〇〇人以上が参加した。主催はミーダーン≪パルスチナ・対話のための広場≫。FoE Japan、JACSES(「環境・持続社会」研究セ ンター)、JSR(アル・ジスル――日本とパレスチナを結ぶ)、JIM―NET(日本イラク医療支援ネットワーク)、NINDJA(インドネシア民主化支援ネットワーク)、福島原発事故緊急会議、アジア太平洋資料センターが共催した。

 集会には一月一四日、一五日に横浜で開催された脱原発世界会議のために来日したヨルダンのモオタシム・アワームレさん(国会議員、医師、議会の保健・環境委員長)、ジャマール・ガッモーさん(国会議員・エネルギー委員長)、ムナ・マハメラーさん(弁護士)が発言した。

 昨年一二月、臨時国会はわずか半日ほどの審議でヨルダンとの原子力協定を承認した。


通常国会では、八月二四日に参考人として発言したJACSESの田辺有輝さんが人口密集地域での原発建設の危険、水資源に乏しい砂漠地帯で冷却水の供給が首都アンマンの下水処理場の処理水しかない問題、シリア・アフリカ断層の上に位置する地震多発地域であること、さらに被占領パレスチナ、シリアなどと接する紛争地域であることを指摘し、そのこともあって承認は見送られた。だが原発輸出競争で勝ち抜くことに原発延命の活路を見出そうとする資本の圧力によってヨルダンとの原子力協定はついに承認されてしまったのである。

 しかしヨルダンでは国王が議員を任命する上院(六〇人)は別にしても、普通選挙で選ばれる下院(一二〇人)では反対する議員が多数派であり、福島第一原発事故以後は世論でも反原発の気運が高まっている、と言われる。この日の緊急集会は、野田政権が進める「原発輸出」政策を批判し、ヨルダンの人びとの生の声に耳を傾けるために設定された。
 
 田浪亜央江さん(ミーダーン)が進行役をつとめた集会では、最初にフリーランス・ジャーナリストの鈴木真奈美さんが、原発輸出の問題点を鋭くえぐり出した。

 鈴木さんは、日本での原発の新設は、かりに福島原発事故がなかったとしてもきわめて困難であったこと、新設がなければ運転年数の上限四〇年なら二〇四五年にはすべて終わり、仮に六〇年に延ばしても二〇六五年にはなくなることを指摘した。米国では価格競争力、事故リスクなどの面で一九七〇年代以後新設原発はゼロとなり、原子炉の設計能力はあるものの製造・建設の技術と人材が衰退してしまった。米国は核兵器という軍事用技術に特化した形でしか人材を維持できていないこうして今のままでは世界で運転される発電用原子炉は二〇五五年にはほぼゼロになってしまう。

 こうした中でいま新興市場・途上国市場をねらった原発輸出で原子力産業の延命を図ろうという動きが進んでいる。中国、インド、ベトナムでは電力供給の拡大と将来の原発輸出国となることを目標として、リトワニアではロシアへのエネルギー依存を減らすために、中東・インドネシアでは石油・天然ガス資源を外貨獲得用に残すために、など新興国・途上国の側の思惑はさまざまだ。

 澤明・三菱重工原子力事業本部長はヨルダンを契機に他の新興国市場への原発輸出を進めていくこと、そしてそのためにフランスのアレバ社との協力を強めていく、と語っている。二〇〇六年の「原子力立国計画」では、建て替え需要が始まるまでに輸出により技術と人材を維持し、法的・制度的整備を進めていくと述べている。二〇〇七年の「日米原子力共同行動」では、日本が米国の新規原発建設を支援するとともに日米でパートナーを組んで「世界の原子力拡大に貢献」することをうたっている。こうして、原子力輸出とは核産業の延命策であり、輸出国と輸入国の双方の政治・社会・経済を核のしがらみにしばりつけるものだ。

 鈴木さんは、このように語って「ポスト・フクシマ」の時代での「開かれた議論」の必要性を訴えた。



 次にヨルダンからの三人のゲストが報告した。

 ジャマール・ガッモーさんは「福島の悲惨な事故がヨルダンでも世界のどこでも起こってはならない」と述べ、次のように語った。

 「ヨルダンは被占領パレスチナ、イラク、シリアに接しており、そうした地域では数々の戦争で禁止された兵器が使われてきた。木も枯れ、植物も育たなくなった。イラクでは劣化ウラン弾が使われた」。「二〇〇三年以前、ヨルダンはイラクから非常に安く石油を輸入してきた。半分は無料、半分は半額だった。したがってエネルギー自立など考えてこなかった。二〇〇三年以後、イラクからの石油は止まりそれへの代替戦略として、国内備蓄への依拠、エジプトからの天然ガス、国内のウラン採掘などが挙げられた。そして国内のウランを使って貧しい国から豊かな国になることができる、との希望が呼び起こされた」。

 「このウラン開発で中国、ベルギー、フランスとの交渉が始まったが、三年後中国とベルギーは撤退した。国内には十分な量のウラン鉱がないことが分かったからだ」。

 「いまどこに原発を作るのかの場所もはっきりしないまま、入札が行われてきたが、ヨルダンには十分な冷却水供給減もないし、人材面でも運営に限界があり、廃棄物処理技術もない。結局、利益だけを求める企業に食い物にされてしまうだけだ」。

 モオタシム・アワームさんは「ヨルダンでは代替エネルギーとしての太陽光の発電の可能性が大きい。しかしその可能性は意図的に無視されてきた」と語り、次のように批判した。

 「核大国クラブは原発ルネッサンスの計画で途上国を説得している。しかしそれは技術を持つ国への依存を深めるだけだ。私は議会の環境委員長として、また医師として放射能の危険性を認識しており、その影響は一時的なものではない。米国、ソ連、日本といった先進国でも事故が起こった。こうした事故がヨルダンで起こればどうなるのか。ヨルダンはトルコから紅海に至る断層の上に位置している。政治情勢も不安定だ。かつてイラクやイランの発電施設が攻撃された。廃棄物処理はだれが責任を持つのか、その費用はだれが負うのか。被害をもたらすエネルギーではなく、農業などへの支援をこそ期待する」。

 弁護士のムナ・マハメラーさんは「ヨルダンは世界で最も水資源の乏しい国の一つであり、電力を化石エネルギーに依存している。その九七%が輸入だ。うち七五%がエジプトからの天然ガスだ」と説明した。

 「パレスチナの正義と平和を求める国連決議は一貫して無視されてきた。近隣にはイスラエルという核保有国、そして核兵器開発を進めているとされるイランがある。事故や戦争の危険性に私たちは取り巻かれている。もし日本がヨルダンに原発を輸出すれば、ヒロシマ・ナガサキの惨劇に同情してきたヨルダン人の日本へのイメージが変わるだろう。ぜひ日本政府に原子力協定を取り下げる運動をしていただきたい」。

 この呼びかけに参加者たちは共感の拍手で応えた。

 原発輸出政策をやめさせ、世界の人びととともに脱原発を実現しよう。

(K)

ビンラディン虐殺についてのパキスタン左翼の見解

ft

インターナショナル・ビューポイント オンラインマガジン : IV436 - May 2011

復讐の感情はオサマが死んでも終わらないだろう―パキスタン左翼の見解
http://www.internationalviewpoint.org/spip.php?article2138
 
ファルーク・タリク



 オサマ・ビンラディンの死から四日たった今、パキスタンの大衆的反応はきわめて錯綜している。パンジャブ州(中東部の州、州都:ラホール)ではオサマへの一般的同情が見られるが、シンド州(南東部の州、州都:カラチ)ではその共感を公然と表現する人は多くはない。しかし市によって反応は異なっている。例えばカラチではオサマへの同情とアメリカへの非難はより能動的である。

 驚くべきことに、オサマが殺害されたカイバル・パクトゥンカワ州(旧北西辺境州、州都:ペシャワール)では多くのことが起きているわけではない。同様にバロチスタン州(西部の州、イランに隣接)では殺害に対する反応は穏やかなものだ。しかしながらアボタバードの住宅地区への攻撃に対する厳しい反応は、広範に広がっており、他の地域にも拡大するだろう。多くの宗教的原理主義者たちは、アフガニスタンから逃げ出してバロチスタン州とカイバル・パクトゥンカワ州に難民として流れ込んでいる。かれらは2002年から08年までこうした州を統治してきた。

 原理主義者の支配が生じたのは、ムシャラフ将軍がアメリカ帝国主義との二元的ゲームにうつつをぬかしていた時だった。彼は一方で「対テロ戦争」連合に参加し、他方では原理主義者との闘いという名目でアメリカ帝国主義からより多くの軍事的・経済的援助を引き出すために、原理主義者の成長に依拠していたのである。この時期に、オサマ・ビンラディンは国境を越えてパキスタンに入ったに違いない。

 2011年5月の攻撃は誰をも驚かせた。人びとは当惑し言葉を失った。今年初めラホールで白昼堂々と二人のパキスタン人を殺したCIAの工作員デービッド・レイモンドが釈放された直後に、こうした厚かましい行為がなされるとは誰も予測していなかった。オサマ暗殺への穏やかな反応と対比すれば、デービッド・レイモンドの殺人行為への大衆的反応はきわめて強力なものだったため政府は受け身に追いやられた。今回の攻撃によってアメリカ帝国主義は、パキスタン征服を前進させたように見える。

 ジャマアト・イスラミ、ジャミアト・ウレマイ・イスラムなどの宗教政党は、アルカイーダが行った殺害や残虐行為には沈黙しているが、アメリカについては「パキスタンの主権侵害」として厳しくこきおろしている。ジャマト・ダワの強硬派であるハフィド・サイードは、一部の地域においてオサマ・ビンラディンの霊を慰め、ナマ・ジェナザ(ムスリムの死に際して行われる祈り)を捧げる最も行動的な宗教的原理主義者になっている。こうした諸政党がオサマへの支持を組織し、襲撃に反対して街頭に出るのもそれほど先の話ではないだろう。

 パキスタン人民党、パキスタンムスリム連盟Q(訳注:カーイデ・アザム派)、パキスタンムスリム連盟L(訳注:シャリーフ派)などのブルジョア政党はアメリカの行為を支持し、オサマ殺害は宗教的原理主義の高揚に対決する偉大な勝利と見なしている。政府はいまだに一貫性のある説明を行っていない。そのかわりに様々な高官が矛盾だらけの声明を発表している。



パキスタン・米国同盟



 昨年いっぱいを通じて、パキスタンと米国の政府は両者の関係を打ち固めた。それは情報当局間の相互訪問がより頻繁に行われたことや、CIA要員へのビザ発行数からも分かることだ。さらに政府は、米国政府に無人機による攻撃へのフリーハンドを与え、攻撃の最初の局面では行っていた非難の見せかけをも放棄した。ワシントンはオサマ・ビンラディンがパキスタンにいたことを知っていたように思われる。

 米国政府は、きわめて脆弱な人民党(PPP)政権に全面的な政治的支援を行った。パキスタン政府はなんのためらいもなく、アメリカ帝国主義、IMF、世界銀行のアドバイスに従って行動した。米国政府は、最も腐敗した反民衆的な部分が主導するこの政府以上にましなパートナーを持つことができなかったのである。さらにワシントンは、ムスリム連盟Q(PMLQ)――ムシャラフ将軍と政権を共有していた――が現政権に入ることをも支持していたように見える。オサマが殺されたまさにその日、PMLQの一四人の新閣僚が宣誓を行い、新たに就任したかれら閣僚たちが「沈みかけた船」と呼んでいた政府に参加したのである。

 米国がオサマ・ビンラディンを「テイクアウト」(殺害)するために海軍特殊部隊(SEALS)を送りこみ、パキスタンの主権をあからさまに侵害したことは、二国の支配階級間の関係を悪化させないだろう。オバマと彼の補佐官たちは、パキスタン政府に反対するようなことを一言も語らなかった。それどころか、彼らは情報の共有を称賛したのである。



共同の努力



 オサマ・グループへの攻撃は、パキスタンとアメリカの情報機関の共同の努力によるものだった。ムシャラフが大統領だった当時から軍を指導していたキアニ将軍は、ISI(パキスタン国軍情報部)の前長官である。

彼にはアメリカ帝国主義と密接な関係を持って活動してきた長い歴史がある。2007年に立ち戻れば、彼はムシャラフとの権力分有の交渉をベナジール・ブットとの間で開始した一人であった。ベナジールがムシャラフ将軍に対して軍における彼の地位から退くよう圧力をかけた際、キアニ将軍がその地位を引き継いだ。彼の監視の下で、パキスタン軍の機構は宗教的過激派との伝統的連携を切断し始め、かれらへの軍事作戦を発動した。宗教的過激派は軍司令部をターゲットにして反撃し、軍の幹部を殺害した。



軍内部の分極化



 その結果、軍内部で将校と下部兵士との間での分極化が生じている。軍の上級士官はアメリカ軍上層部との密接な関係を形成した。かれらは莫大な資産を支配し、よりリベラルな生活様式を維持している。しかし軍の下部は依然として宗教的であり、原理主義者や宗教政党を支持しており、いまなお反インド・反西側の感情を保持している。

この分極化ゆえに、パキスタンの軍と情報機関が反テロ戦争を精力的に遂行する能力に信頼を置くことについて、米政府はためらいを見せているのである。



宗教的テロは終わらない



 ビンラディンの死という重大な打撃にもかかわらず、アルカイダや他の宗教的過激テロリスト集団は成長するだろう。レオン・トロツキーは彼の素晴らしいパンフレットで「なぜマルクス主義者は個人テロに反対するのか」と問い、「復讐の感情にはけ口を与えようとすることは、常にテロリズムの最も重要な心理的要因である」と述べている(訳注:トロツキー「テロリズム」、1911年。邦訳『トロツキー研究』一七号所収)。

復讐の感情は、オサマの死によっては終わらない。彼の殺害、オサマの遺体のアラビア海への投棄は、テロリズムに終止符を打つことにはならないだろう。実際、宗教的テロリズムはアメリカ帝国主義の行為の結果として拡大するだろう。アメリカ帝国主義に反対する道を探し求めているムスリム青年の一定の部分はテロリズムに引きつけられるかもしれない。新しいテロリストグループが形成されるだろう。

それは宗教的過激派がパキスタンで権力を獲得することを意味しない。パキスタン軍部は残虐な勢力であり、かれらは幾度かにわたって、ひとたび自分たちの権力が脅かされるや、どれだけの暴力を行使するかを見せつけてきた。パキスタン軍は過激派がイスラマバードを手中に収めたり、同国の核技術に手をつけることのないようにするためにアメリカとぐるになって活動するだろう。

世界的観点を持った過激派による個人テロの脅威は、一国に封じ込められるものではない。かれらは民族解放の名において闘うIRA(アイルランド共和国軍)と似通った存在ではなく、イデオロギー的な戦争を闘い、きわめて狭い社会基盤しか持っていなかったために粉砕されてしまった赤い旅団により似通った存在である。

アルカイダやその他の宗教的過激派は、幾百万人ものムスリムの宗教的感情を利用している。こうした過激派はイスラム教内部の幾つかの異なる傾向や宗派を代表しているが、幾つかの国々で大衆的社会基盤を植え付けることができた。

アルカイダは疑いなくこれまで世界で見られたテロリスト組織の中で最も成功したものの一つである。彼らは20年以上にわたって生き延び、幾度か目標への攻撃計画を立て、成功裏に実行した。かれらは自分と他人を殺害することによって天国に行く用意のある自殺部隊を持っている。主要指導者の殺害にもかかわらず、かれらが消滅する兆候はない。しかし個人テロ行為は、かれら自身の限界である。



個人テロの限界



国家テロリズムを個人テロリズムと切り離すことはできない。両者は同じ性質と方針を持っている。両者は同一の結果を引き起こす。しかし国家テロ行為はその立場を継続し、幾つかの課題に逃げ込むことができる。

アルカイダの最も成功したテロである「9.11」は、ムスリムたちを利することなく、幾百万人ものムスリムの生活は完全な悲惨な状態に置かれてしまった。それはオサマのような少数の過激派の魂を満足させたが、幾百万人もの魂は打撃を受けた。帝国主義はこの攻撃に対して、恐るべき暴虐をもって応えた。

ロシアで1911年の閣僚殺害後に起こった情勢についてコメントしたロシア革命の主要な「建築家」の一人であったレオン・トロツキーは以下のように書いている。

「テロリスト的企図が、たとえ『うまくいった』場合でも、支配層に混乱をもたらすか否かは、具体的な政治的事情に依存している。いずれにせよ、この混乱は一時的なものでしかない。資本主義国家は大臣に依拠しているのではなく、彼らを殺害したからといって滅びるものではない。その国家が奉仕している階級は常に新しい人物を見つけだす。メカニズムは全体として維持され、機能し続ける」。

「テロリスト的行動が『効果的』であればあるほど、それが大きな印象を引き起こせば引き起こすほど……それだけますます大衆の自己組織化と自己啓発にたいする関心を低めることになる。しかし爆発の煙が晴れ、パニックが収まり、殺された大臣の後任者が登場すると、生活は再び旧来の軌道に入り、資本主義的搾取の車輪が以前と同じように回転し、警察の弾圧だけがより過酷で下劣なものになる。そしてその結果、燃え上がらされた希望と人為的にかきたてられた興奮の後に、幻滅とアパシーとが始まる」(前掲 トロツキー「テロリズム」1911年)。



殺害は宗教的原理主義を終わらせるのか



 ワシントンがかつてアフガニスタンのムジャヒディン(イスラム聖戦機構)を支持したことについて、ヒラリー・クリントン米国務長官が行った二〇〇九年の発言を検証してみよう。

 「ISI(パキスタン軍情報部)とパキスタン軍に処理させよう。そしてこうしたムジャヒディンたちを雇おう。……それはソ連邦を終わらせるための悪くはない投資だが、われわれが撒いた種について注意を払おう……。われわれがそれを収穫することになるのだから……」(ヒラリー・クリントン、2009年4月23日)。

 この10年以上にわたってワシントンと過激派は、ともに自らの撒いた種を収穫している。一つの復讐行為がもう一つの復讐をもたらしている。

 宗教的原理主義を力ずくで打ち負かすことはできない。アメリカ帝国主義の戦争と占領の政策は、成功ではなく失敗の例を提示している。その教訓は鮮明である。「思想を殺すことはできない」。普通の人びとの生活にとって宗教的原理主義の真の意味は何かを暴きだす政治的闘争がなければならないのだ。



政治的イスラムの勃興



 政治的イスラムの勃興は、ムスリム世界における左翼政党の弱体化の広がりと結びついている。一方で、1990年代においてはソ連邦の崩壊後に社会主義は敗北したように見られた。他方、ポピュリスト、反帝国主義者、ブットの人民党のような大衆的基盤を持った政党も信頼を失った。宗教は、唯一手に入れることができる反帝国主義の政綱であるように思われた。

実際には、タリバンやアルカイダといった宗教的過激派は、決して帝国主義に対するオルタナティブにはならなかった。かれら自身が、かれらの宗教的信条を共有しない人びとを搾取し、抑圧し、殺害したのである。かれらは政治的反対派の物理的絶滅を信奉している。かれらは帝国主義の覇権に反対して闘う進歩的勢力ではなく、極右反動である。かれらは、歴史の時計の針をむりやり逆戻りさせるよう望んでいる。宗教的過激派は新しいファシストである。

 宗教的過激派と帝国主義諸国は、おたがいに暴力のエスカレーションを正当化している。これは終わりのない循環である。

 宗教的原理主義者の成長は、パキスタンの文民政権と軍事政権がともに労働者階級と農民の基本的問題をなに一つ解決できないという完全な失敗への反応でもある。歴代の政権は、封建主義の支配、パキスタンの資本家たちの抑圧的・搾取的本質、労働者への侮辱的扱い、国内の少数民族の抑圧と天然資源の搾取を終わらせることができなかったのだ。



文民政権の失敗



 パキスタンの支配階級は、どのような民主主義的基準をもたらすという点においても悲惨な失敗を遂げてきた。その結果、文民政府が軍事独裁によって打倒された時、大衆の圧倒的多数は抵抗の姿勢を見せなかった。現在、文民政府の政策は、パキスタンの国民に悲惨な結果を指令するアメリカ帝国主義やIMF、世界銀行といった機関によって支配されている。日々の自爆攻撃とならぶ戦争と経済的悲惨により、住民は恐怖状況に置かれている。全般的心理は不確かな未来というものだ。希望は消滅している。パキスタン政府がその政治的・経済的政策の優先順位を変えなければならないのは明らかである。政府は、腐敗を終わらせ、自らをアメリカ帝国主義に縛りつけている紐帯を断ち切らなければならない。

 左翼の混乱は9.11の後で頂点に達した。オルタナティブを築き上げる必要はないと語り、宗教的過激派に反対してNATO軍との協力を支持する人びとがいた。「宗教的過激派はファシストであり、NATOは彼らを消滅させるに十分なほど強力だ」という主張が押し出された。「NATOはわれわれのなすべきことをやっている。軍事的解決こそ唯一のオルタナティブだ。われわれは沈黙を守り目を閉じてアメリカ人と協力しなければならない。大衆を巻き込んだ反戦運動を作る必要はない」というのが、その主張の路線だった。

 もう一方で、紛争の支配的な担い手たちの中心的な理論的枠組を強めるために、問題を「米国VS彼ら」、「善と悪との戦い」、「イスラム・テロリズムに対決する十字軍」、「文明VS混沌」として提出する人びとがいた。国家、メディア、リベラル派は一部の進歩派と手を携えて、こうした議論を支配することができた。



われわれは何をなすべきか



 アメリカ人によるオサマの殺害は、対決の新たな時代を切り開いている。アルカイダ、あるいは他のテロリスト的宗教的原理主義者とつながっている諸グループや個人は、この事件を利用し、かれらの反動的路線を支持して民衆を動員しようとするだろう。

 われわれは米帝国主義、原理主義者、ならびに双方の勢力とのパキスタン政府の共謀に反対しなければならない。この議論においてわれわれは、帝国主義、資本主義国家、宗教的原理主義者についてのわれわれ自身の立場を提起してきた。われわれはかれらの宣伝と行き詰りに陥った解決策を暴露しなければならない。



●われわれは宗教的過激派と闘うために、包括的で広範な政治・経済戦略を呼びかける。パキスタン国家はあらゆる形態での宗教的マドラサ(イスラム教の教義に基づく教育を行う私設宗教学校)への支援をやめなければならない。少なくとも国家予算の10%を教育に支出すべきである。教育はすべてのパキスタン人に対して大学のレベルまで無償にしなければならない。国家は宗教的実践とのつながりを断ち、マドラサへの制度的オルタナティブを提供しなければならない。

●われわれはIMFと世界銀行の経済政策への従属を終わらせるよう呼びかける。政府は労働者と農民の利益に奉仕しなければならない。

●われわれは米帝国主義と戦争機構との結びつきを断つよう呼びかける。



 宗教的原理主義の勃興は、支配的エリートの政府政策、ならびにアメリカなどの帝国主義諸国への従属の直接的結果である。帝国主義と植民地化、そして新植民地化との闘いは、宗教的過激派へのいかなる譲歩も行うことなく、われわれのあらゆる宣伝における主要な優先課題でなければならない。

 いまやオルタナティブは大アラブ地域の春によって提起されている。自爆攻撃、爆弾、無人機攻撃その他の暴力的手段の時代は、大アラブ地域の独裁者、独裁体制に対する大衆的決起に比べればはるかに効果のないものになっている。反撃のためのアラブの道は、体制の変革から社会主義オルタナティブへと至る道筋を進む確信を大衆の間に、ついにもたらし始めているのだ。(2011年5月6日)

▼ファルーク・タリクはパキスタン労働党(LPP)の全国スポークスパースン。

(「インターナショナルビューポイント」2011年5月号)

オバマ政権によるビンラディン殺害を糾弾する

real terrorists(戦争ゲームのように虐殺を観戦する米政府首脳)
 
●「裁く」のではなく「殺す」ことだけが目的
 
 五月二日午前一時(現地時間)、パキスタンの首都イスラマバードに近い近郊のアボタバードの住宅地で、米海軍特殊部隊(SEALS)によって編成された約八〇人の部隊が、「イスラム原理主義」テロ組織であるアルカイダの指導者オサマ・ビンラディンへの殺害作戦を敢行した。

 アフガニスタンの基地を発進した二機のヘリコプターがビンラディンの住む邸宅を襲い、ビンラディンとその息子、側近らを銃で殺害した。最初の発表ではその時銃撃戦が起きて射殺したとされていたが、その後の発表ではビンラディンとその家族らは武器をもっておらず、一方的な虐殺であったことを米政府も認めた。ビンラディンの遺体は、米空母に運ばれてアラビア海に投棄された。遺体写真の公開も米国は拒否している。

 この一連の経過から判断する限り、今回の米軍によるビンラディン殺害作戦は、「テロ犯罪容疑者」を逮捕し、裁判にかけることが目的なのではなく、はじめから見せしめと口封じのために「殺す」ことだけを目的にしたものであった。2001年の「9.11」によって当時のブッシュ米政権がアルカイダとアフガニスタン・タリバン政権への「報復戦争」を開始した時点から、米国の目標はビンラディンを「裁く」ことではなく、「抹殺」することだけを目的にしていていた、と言わなければならない。

 今回の作戦は一方的に国境を越えて主権国家パキスタンの領土内に軍の特殊部隊を侵攻させたものであり、かつ無抵抗の「容疑者」の逮捕ではなく、殺害するために発動したものであった。これが国際法にも国際人権法にも違反する犯罪行為=国家テロであることは明らかである。

 アフガニスタンからイラクへと至る米国の「対テロ」戦争は、市民の無差別大量虐殺、アブグレイブやグアンタナモの収容所での凌辱・拷問に示されるようにレイシスト的人道犯罪に貫かれたものだった。今回のビンラディンに対する無法極まる虐殺と死体遺棄行為にも、「対テロ」戦争のレイシスト的本質がくっきりと示されている。

例えば今回の作戦指令においてビンラディンを「ジェロニモ」(白人の侵略に抵抗した米先住民族の指導者)と呼んでいることは、その白人至上主義と先住民族差別の西部劇的価値観の現れである。

われわれはオバマ政権によるビンラディンとその家族虐殺という犯罪を厳しく糾弾する。それはアフガニスタンとイラクにおける米国を中心とした侵略戦争が、いかに不正に満ちたものであるかを明らかにしている。
 

●「対テロ」戦争からの撤退戦略か?



 オバマ米大統領は、自らの責任において発動したビンラディン虐殺=「国家テロリズム」の発動について「パキスタン政府との協力」(しかしパキスタン軍はこの作戦自体については知らされておらず、パキスタン軍・政府にも秘密で米特殊部隊によるビンラディン宅襲撃が決行されたと報じられている)の下で行われたものであり、ビンラディン虐殺によって「正義はなされた」との声明を発表した。潘基文(パンギムン)国連事務総長もオバマと同様に「正義が達成された」と語った。ブッシュの「報復戦争」に同調してアフガニスタンに軍を派遣した西側の帝国主義諸国もほぼ一様にビンラディン殺害作戦を「対テロ戦争」の勝利に向けた区切りとして高く評価している。

日本政府も、小泉政権の下でブッシュのアフガニスタン戦争を全面的に支援し、「テロ特措法」を成立させて自衛隊をインド洋に派兵した。そして菅直人首相は今回の無法きわまるビンラディン殺害について「テロ対策の重要な前進を歓迎する」と称賛する談話を発表した。「9.11」で倒壊したニューヨークの世界貿易センタービル跡の「グラウンドゼロ」では、10年前と同様に市民による「USA! USA!」の愛国主義的興奮が吹き荒れ、オバマ政権の支持率は急上昇している。

 しかし言うまでもなくパキスタンや中東諸国では、民衆の反応は全く異なっている。各国の米大使館前にはビンラディン虐殺に抗議する、大衆的抗議のデモが繰り返されている。パキスタンでは米国に全面的に依存し、無人機によるパキスタンへの越境爆撃・市民の虐殺に対しても暗黙の了解を与えてきた政府・軍首脳に対する批判が拡大しており、軍自身の分解も生じている。

 オバマは「ビンラディン殺害」声明の中で「彼の死は、アルカイダへの戦いにおいて最も重要な偉業だが、これで終わったわけではない」とも訴えている。実際はどうなのだろうか。現実にはオバマの「ビンラディン殺害」声明には、泥沼化したアフガニスタンからも手を引きたいという願望が透けて見えるのではないだろうか。その意味で「ビンラディン殺害」は、「正義の実現」を宣言してアフガニスタンから撤退するための口実づくりと捉えることもできるのではないだろうか。

オバマは2011年中にイラクからの米軍撤退を完了させる計画を立てるとともに、「対テロ戦争」の主戦場と位置づけたアフガニスタンに軍を増派した。しかし米軍・多国籍軍が支援するアフガニスタンのカルザイ政権は、その腐敗・統治能力の欠如によってタリバン勢力の浸透・拡大を抑えることができない。

 今年でまる10年になるアフガニスタン戦争は、GDPに匹敵する米国の深刻な財政赤字の重要な要因となっている、アフガニスタン戦争における米軍の死者は一五〇〇人を超えており、国際治安支援部隊(ISAF)全体では死者数は二五〇〇人近くに達している。アフガニスタン側の死者(武装組織・市民ふくめて)の正確な数は不明だが、おそらく外国軍死者の数十倍となり、それをはるかに上回る難民が生み出されていることは明らかだろう。

 米軍をはじめとする外国軍の投入が続き、占領が長期化すればするほど、アフガニスタン民衆の反占領。反西欧の感情が拡大し、カルザイ政権を不安定化させる結果になることは明らかだろう。またアフガニスタン戦争のパキスタンへの拡大によって、米国にとって「対テロ戦争」の最大の同盟国であるパキスタンにおけるイスラム主義政治勢力の拡大に拍車がかかっていく、それはパキスタンの永続的政情不安を必然化する。

 かくしてオバマ政権によるビンラディンの殺害という犯罪行為は、米帝国主義にとって重荷となった「対テロ」戦争からの「出口戦略」ということもできる。もちろんそれがうまくいく保障はどこにもないのだが。
 

●米国の戦争にも反動的テロリズムにも反対
 
 
 われわれは「9.11」の無差別テロが、帝国主義に対するムスリム労働者民衆の抵抗を表現する正当な闘いの表現ではないこと、ビンラディンやアルカイダに代表される「イスラム原理主義」テロリズムが、ムスリム民衆の民主主義と人権を暴力的に抑圧し、帝国主義の抑圧と搾取に対する闘いの大義に敵対する反動的イデオロギーであると捉えてきた。

 われわれは「テロにも報復戦争にも反対! 市民緊急行動」の一翼を担い、「9.11」の無差別テロに反対するのは帝国主義を擁護するものだという左翼の中に根強く存在する傾向を批判してきた。それはブッシュのアフガニスタン・イラク戦争に反対する広範な運動を、新自由主義と一体となったグローバル資本主義に対する闘いと結びつける上で不可欠の立場であった。

 オバマ米政権によるビンラディン殺害に対する態度に関しても、われわれの態度は基本的に同一である。われわれは国際法の観点から見ても違法きわまる米軍によるビンラディン虐殺を糾弾する。われわれはアメリカ帝国主義とEU・日本など西側陣営によるムスリム諸国民衆への搾取と抑圧、植民地主義とレイシズムを強化する「対テロ」戦争に反対し、アフガニスタンでの侵略・占領の即時終結と撤退を求める。米国に支援されたシオニスト国家イスラエルによるパレスチナ占領の即時終結、入植地の撤廃、難民の帰還の権利を含むパレスチナ民衆の自決権のための闘いを支持する。

 日本政府に対しては、イラク戦争を支持・参戦した経過の事実検証を進める作業を進め、小泉政権の責任を追及しなければならない。海賊対処法の廃止、ソマリア沖・ジブチへの自衛隊派兵をやめよ。

 ビンラディンの虐殺は、そして資本主義の危機の中で吹き荒れるムスリム移民をターゲットにした西側諸国内でのレイシズムは、ムスリム民衆の中で「報復テロ」「自爆テロ」による「西側との闘い」を主張するイスラム主義的テロリズムの流れへの共感を拡大する可能性がある。しかしこうした「西側への抵抗」は、労働者・民衆自身の運動にはなりえない。真に大衆的な反帝国主義闘争の道は、チュニジア、エジプトの革命が示した労働者民衆の民主主義的・社会的運動によってこそ切り開かれるのである。(五月八日 K)
記事検索
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

  • ライブドアブログ