虹とモンスーン

アジア連帯講座のBLOG

公開講座

【3.29アジア連帯講座:公開講座】中国、北朝鮮はどこへ

3.29アジア連帯講座:公開講座
中国、北朝鮮はどこへ


報告:永井清隆(中国研究)/テーマ:資本主義のおくりびと~立ち上がる中国の労働者

報告:荒沢 峻(新時代社)/テーマ:張成沢はなぜ粛清されたのか? 市場経済システムへの参入と新興層の形成

日時:3月29日(土)/午後13時30分
会場:文京シビックセンター3階会議室C(地下鉄春日、後楽園駅下車)
資料代:500円
主催:アジア連帯講座
  東京都渋谷区初台1-50-4-103 新時代社 気付 TEL:03-3372-9401 FAX03-3372-9402
    ブログ「虹とモンスーン」 http://monsoon.doorblog.jp/
                                                                             sumitomososyu01 (画像は住友電工蘇州でのストライキ闘争 2013年8月)

アジアをいかに捉えるか。そのためには各国の政治、経済、民衆など丁寧な分析が優先されなければならないと考えます。今回は、中国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に焦点をあててアジア分析を豊富化していきます。

 中国はGDPが世界第二位になり「世界の工場」と言われてますが、その経済成長の裏側で経済格差がひろがり、中国共産党と治安機関による人権侵害、労働者・農民の闘いに対するすさまじい弾圧が繰り返されています。

 労働者は、日本企業をはじめとするグローバル資本による搾取に抗して、賃上げ、労働条件の改善を求めてストライキなど様々な闘いを押し進めています。永井は、中国労働者をとりまく状況分析、変革への闘いについて報告するとともに日本の労働者の課題を明らかします。

 荒沢は、2013年11月の張成沢(チャンソンテク)国防委員会副委員長の粛清に至る一連の経過を通して見えてきた粛清劇の意図と目的を解き明かします。ここを入り口にして金正恩体制、労働党と軍部、経済、民衆の状況について報告します。

 さらに 北朝鮮の核施設再稼働が伝えられているなか核惨事の危険性を訴えています。韓国在住の脱北者たちによる核施設やウラン鉱山の労働者が被曝している情報などを通して、「北朝鮮核開発と核惨事の最大の被害者は北朝鮮人民自身だという観点からの暴露と報道が今こそ必要とされている」と強調します。

 2人のアプローチを踏まえ、参加者の意見もクロスさせながら論議を深め、今後の課題、方向性を提示していくことに挑戦したいと思います。ぜひご参加ください。

【アジア連帯講座1.25公開講座】沖縄の「自治・自決・独立」論にどう向き合うべきなのか

アジア連帯講座:公開講座

沖縄の「自治・自決・独立」論にどう向き合うべきなのか



講師:国富建治(新時代社)

日時:2014年1月25日(土)/午後6時30分

場所:豊島区民センター第6会議室(JR池袋駅下車)

主催:アジア連帯講座

  東京都渋谷区初台1-50-4-103 新時代社 気付 TEL:03-3372-9401 FAX03-3372-9402

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tiikinobori稲嶺市長の再選を 辺野古基地建設反対・普天間基地閉鎖

 安倍政権と自民党執行部は、1月19日投開票の名護市長選で、「辺野古基地件反対」の明確な立場を掲げている稲嶺進現市長の再選を阻み、仲井真沖縄県知事に辺野古沖の公有水面埋め立て許可を受けいれさせるために強力な圧力を沖縄県政や自民党沖縄県連にかけている。10月25日、沖縄選出の自民党国会議員五人全員が党本部の「辺野古移設案」を受けいれ、11月27日には、自民党沖縄県連も県議団による議員総会で「辺野古移設」を容認することになった。

 この攻撃は「オール沖縄」の「基地県内移設反対」の構造を解体することにある。同時に新防衛大綱と新ガイドラインの策定をはじめとする、米国の軍事戦略と一体化した「戦争する国家体制」づくりにとって、沖縄の米軍基地維持・強化と「離島防衛」を旗印にした自衛隊の沖縄での態勢強化が必要だからである。

 「本土」(ヤマト)の労働者・市民は、政府・自民党による沖縄への強権的脅しを許さない闘いを築いていくことが急務である。一月名護市長選で、稲嶺市長の再選を勝ち取る市民の運動を支援しよう。

沖縄の「自治・自決・独立」問題

 沖縄の反基地闘争は、普天間基地返還の代替とされた名護市・辺野古への新基地建設反対の攻防を経て保守層をも含めた「島ぐるみ」の闘いとして現れている。その中で改めて沖縄に対する米国と日本による共同の軍事植民地支配、沖縄への日本(ヤマト)による「構造的差別」の問題が強く意識され、「沖縄の自治・自決」「独立」の問題が沖縄の知識人や活動家の間だけでなく、一般の人びとの間でも論じられるようになっている、と言われる。沖縄の人びととともに闘おうとする日本(ヤマト)の私たちにとっても「沖縄の自立・独立」論議に日本(本土)のわれわれがどう向き合い、ともに闘っていこうとするのかを検討していきたい。

報告:10/26アジア連帯講座:公開講座 アベノミクスがねらう労働規制緩和 徹底批判!

無題 - コピー報告:遠藤一郎さん(全国一般全国協副委員長)

企業が世界で一番活動しやすい国づくり 雇用破壊攻撃、解雇特区・ブラック企業特区攻撃ゆるすな!





 安倍政権による労働分野の規制緩和攻撃は、特区構想も含めて事態はどんどん進んでいる。闘いの方向性について提起していきたい。



 ●労働法の変化の流れ



 小泉政権による構造改革は、「解雇をしやすくすれば、企業は安心して人を雇って、失業が減る」など言っていた。誰が聞いてもおかしいと思うが平気でこのようなことを言っていた。

 しかし小泉構造改革による行き過ぎた労働分野の規制緩和の動きに対して現場の労働運動と法改正の要求が結合して政治を動かした。

 第一がホワイトカラーエグゼンプションだ。第一次安倍政権の時に、労働政策審議会で建議までされて、法案要綱まで準備し、閣議決定して国会に提出する直前までいった。ところが私たちは、「過労死法案」、「過労死促進法案」、「残業ゼロ法案」だとして多くの労働団体が結集し、安倍は国会上程を断念した(2007年1月)。大衆闘争で法案要綱までできていたのに吹っ飛んだ。大きな出来事だった。

 リーマンショック後、派遣切りが起こり、年越し派遣村が作られていった(2008年12月)。派遣労働者が職を失うだけではなく、家がなくなり、生活のための賃金も失う状況を可視化させた。派遣企業は、派遣先から自分のマージンを取って労働者に賃金を払う。さらにそこから派遣労働者を管理するためのコンピューターに費用がかかるからと称してデータ管理費などをとっていた。派遣労働者は、二重のピンはねではないかと本社にむけて抗議行動をやった。

 例えば、私のところの組合で言えば、パナソニツクで二十数年近く働いていた佐藤昌子さんが派遣切りにあった。彼女は派遣ではないと思って働いていた。しかし、会社に色々と聞いてみたら派遣だった。2008年12月4日に「派遣法抜本改正日比谷集会・デモ」の集会で東北全労協から30人が闘争旗を林立させ、佐藤さんは壇上から発言を行った。さらに有期労働契約の規制緩和の攻撃に対しても反撃していった。

 このように労働運動と法改正を求める運動が結合しながら政治を動かしていった。それが自民党が敗北し、民主党政権に交代した(2009年8月)ことにつながった。労働者民衆の期待が民主党政権に込められる。中曽根から小泉まで日本の新自由主義的な攻撃と流れを転換させなければいけないのではないかという運動が起こり、自民党政権を退陣に押しやったという事態が進んだ。

 しかし民主党は、改正労働者派遣法、有期労働契約規制、高齢者雇用安定法に対して自民党政権はノーだと押し上げたエネルギーと比べ、きちっと実現させる立場をとれなかった。やがて民主党政権の変質と財界の巻き返しによって3つの法改正は、換骨奪胎、全く不十分な内容に終わる。

 大衆闘争の押し上げがあったが、政治的表現としては限界にぶちあたり、民主党政権に対する失望が拡大していった。労働法制だけの問題だけではなく、沖縄の問題とか、多くの問題について民主党政権の弱さが暴露された。民衆の期待が大きかったぶんだけ、その反動も大きく自民党政権への交代が再び起こり、安倍政権が登場した。労働運動の闘いの積み上げと、法改正へと結びついた流れが、残念ながら逆転してしまった。安倍政権の登場によって一挙に流れが反転した。



労働規制に穴を開ける



 安倍は、「日本を世界で一番、企業が活動しやすい国にする」と宣言し、成長戦略の柱とした。新自由主義路線の本質をそのまま、ものすごくわかりやすく表現している。国の首相は、少なくともこれまでの統治のあり方からすれば、国民全体を幸せにするという装いをともないながら、現実に資本の利益を追求する。そうでなければ国民統合ができなかったからだ。ところが安倍は、日本の政策目標の決定的な主語を企業にした。企業、財界の六重苦と言われる円高、高い法人税、FTAへの対応遅れ、労働規制、環境規制、電力不足を克服するということで、アベノミクス、TPP参加、原発再稼働・輸出で対応していくことを押し出した。残る最大の課題が岩盤のような労働規制に穴を開けるんだというのが安倍の成長戦略のポイントだ。

 すでにOECDの労働市場研究が世界の全体的な経済成長の限界、停滞のなかで、一国だけではなく、先進国の経済全体の危機の中でどのように乗り切るかと模索してきた。1980年代の終わりから90年代初頭に、その柱としてヨーロッパ大陸型の雇用のあり方を転換しなければならない、つまり緊縮財政と解雇規制緩和をはじめとする雇用破壊、労働分野の規制緩和、雇用改革が決定的だと方針を打ちたてた。

 さらに対日審査報告書を出し、日本的雇用関係の全面的批判をおこった。これに対して日本政府はまったく反対しなかった。この報告が基礎になって日経連が「新時代の経営戦略」(1995年5月)を提起した。このように緊縮財政、福祉の切り捨て、労働分野の全面的な見直し、搾取を露骨に行う流れが90年代から強まってきた。

 安倍政権は、もう一度、小泉構造改革の手法に戻って経済財政諮問会議、規制改革会議などの審議会、委員会を設置して、トップダウンで規制改革をやろうとしている。本来は、労働法制はILOの規制もあって、政労使の三者の構成による審議を経て、労働法の改正が進められるのだが、そういうあり方そのものを全部ぶっ壊して、上からやるというやり方だ。



 ●安倍政権の具体的狙い



 経済財政諮問会議、日本経済再生本部、規制改革会議、産業競争力会議は、全部、労働者の代表なしで進められている。八田 達夫、竹中平蔵、八代尚宏、鶴光太郎など名うての規制改革
論者が参加している。

 鶴光太郎は経産省上がりの慶応大学の教授で規制改革会議雇用ワーキンググループの座長だ。

 鶴報告は、①雇用維持型から雇用流動型へ。失業なき円滑な労働移動をめざす②正規・非正規二極化の是正、非正規労働の規制と待遇改善・均等待遇でなく③「正社員改革」ジョブ型(限定)正社員の普及・拡大、解雇ルールの明確化――を示した。

 経団連は今年四月に「労働法制提言」を行ったが、「労使自治の尊重」「良好な労使関係の下での労使自治に任せろ」という主張だ。つまり、「各規制を撤廃する方向で努力するのは当たり前だ」、「しかしその前提に牙がぬかれた良好な労使関係があるのだから、本来の労使自治にまかせろ」という主張だ。

 この間、これらが合わさって労働分野の規制緩和の議論が進行している。「日本再興戦略-JAPAN is BACKー」としてまとめ、そのうえで規制改革会議の実施計画を6月14日に閣
議決定している。

 雇用改革は、①限定正社員―多様な働き方、多様な正社員モデルの普及②労働時間法制の見直しだ。評判が悪いから「ホワイト・カラー・エグゼンプション」を再びやるとは言えずに裁量労働制条件緩和と提起している。さらに③労働者派遣法の見直し④有料職業紹介事業の規制改革を提起している。

 この四つを日本再興戦略として閣議決定した。財界は、解雇自由、ホワイト・カラー・エグゼンプション、有期雇用の規制緩和をねらっていたが載せることができなかった。だから有期と解雇の問題が残されているわけだ。



●多様な社員?



 厚生労働省は、日本再興戦略の着実な実施について9月18日に発表した。労働改革の次のように進行している。

 第1が「雇用維持型から労働移動支援型への政策転換」だ。

 これは労働運動をやっているものからすると大事な問題だ。これまでの雇用調整助成金から労働移動支援助成金へのシフトするということだ。今まで景気が変動すると、労使で交渉して申請をして、雇用調整助成金をもらう。生産が低下して仕事がない時に、助成金で生き延びる。再び景気が回復したら助成金を打ち切る。解雇をしない体制を作ってきた。

 ところが15年までに予算規模を逆転すると主張している。中小企業だけでなく大企業にも移動支援金を拡大すると言っている。

 すでに14年度予算案の労働移動支援助成金は、1・9億円から301億円へと概算要求している。雇用調整助成金は、前年には1175億円あったのを545億円にしてしまった。需要があるにもかかわらず削ってしまった。

 第2は、「民間人材ビジネスの活用によるマッチング機能の強化」を掲げた。要するにハローワークの民営化だ。

 第3が「労働者派遣法の見直し」だ。

 8月20日、「今後の労働者派遣制度の在り方に関する研究会」が報告を発表した。続いて労政審の労働需給制度部会で審議を開始し、年内に結論を得て、14年度通常国会で法制上の措置を行う。

 審議は超スピードだ。1998年の労基法改正、有期法制改正を強行した労政審の審議のやり方と同じだ。

 報告の問題点は、派遣の全面自由化だ。つまり、派遣が全面的に自由化され、業務の規制もない、期間の規制もないというのだ。派遣が一般的な働き方だとなれば、企業中枢は持ち株会社だけ持っていれば、丸投げしてもかまわないとなってしまう。正社員のごく一部の幹部要員だけを残して、あとは全部派遣でいい、有期でいい、こういうことになってしまう。本来の派遣という間接雇用という働き方は、口入れを禁止した職安法44条の特例として生まれた。派遣が全面自由化されれば口入れ屋がどんどんはびこるのだ。

 「『多様な社員』の普及・拡大のための有識者懇談会」が9月10日に発足し「限定正社員」の普及・拡大にむけて一六年度中にまとめようとしている。

 「限定正社員」は、今だって一般職、総合職とかで正社員の種類がある。しかし、この「限定社員」を普及・拡大するという考え方は、処遇の低い、解雇しやすい第二正社員を作るということだ。アルバイト、臨時の非正規の労働者を第二正社員に引き上げていくのかというと、そうじゃない。

 これは大変なことだから、有識者懇談会でどういう手続をしたらいいか、本人同意がかならず必要だとか、色々と論議している。

 今の無法化している職場環境では、「君は第二正社員になってくれ」と言われれば、実質的な命令と同じだ。だけどいちおう本人の同意を得なければいけないみたいなことを有識者懇談会で論議している。



●日本再興戦略と国家戦略特区



 産業競争力会議の国家戦略特区ワーキンググループ(座長・八田達夫大阪大学招聘教授)は、日本再興戦略で盛り込めなかった雇用規制をめぐる問題を突破するために雇用特区を持ちだし(9月20日)、特例諸措置を設けることを提言した。

 「有期雇用」については、すでに労働契約法18条が4月1日に施行されている。五年有期で働いたら無期転換権を付与することになっている。しかしまだ誰一人、その法律の恩恵に預かった人はいない。五年たっていないからだ。しかしこの労働者の権利をもう一度なくしたいというのがねらいだ。

 第2は「解雇ルール」について。契約締結時に解雇の要件・手続きを契約条項について「特区で定めるガイドライン適合する契約条項に基づく解雇は有効となる」とした。契約締結時に契約条項を拒否できる労働者はほとんどいないだろう。

 例えば、3回遅刻したら解雇という約束をして雇った場合、解雇できるというのだ。さらに特約条項で企業に都合がいい条件を付して雇用して、その条件が発生したら解雇できることにしてしまう。例えば、企業の業績が停滞したら解雇する。契約が打ち切られる。そういうようなことができるようにするということだ。特区内は解雇自由になってしまう。

 第3が「労働時間」の問題だ。

 一定の要件を満たす(年収など)労働者が希望する場合、労働時間・休日・深夜労働の規制をはずして、労働条件を定めることを認めるというのだ。

 「雇用特区」設定について、さすがに厚生労働大臣は、憲法・労働法との関係から特例措置導入は無理と抵抗した。竹中、八田は、厚労省の省利益を代弁する大臣だとして、特区戦略会議に入れておくからいけないんだと言った。結果として、特区戦略会議をやる場合、担当大臣は外すことになった。

 憲法で認められた法の下の平等を無視してある特定の地域には、労働時間を八時間働いても、10時間働いても、同じ扱いでいいようなことを、36協定を結ばなければ残業ができないという労基法法規をごまかして労使で勝手にできるというのは、いくらなんでもできませんというのが当然だ。

 だが安倍は、これを制して、具体的提案の提示を厚生労働大臣に求めた。竹中は、大臣に向かって「できないことをやるのが特区なんだ」と言った。憲法違反をやれと言ったに等しい。

 さらに10月8日、ワーキンググループは最終決定(雇用条件の明確化、有期雇用の特例)を出したが、朝日新聞が「解雇特区」と報道した。八田と竹中は、朝日新聞に乗り込んで「誤報だ」と抗議し、「われわれは、この特区で働きやすい労働条件を守るための制度を作ろうと思っている」などと言った。



特区構想とは



 ワーキンググループの特区構想は、東京圏、名古屋圏、近畿圏を設定し、圏内に本社を置くところが対象となる。また東京に本社があり、特区の適用が受ければ、系列の全国工場が全部適応される。東京圏、名古屋圏、近畿圏は、日本の大企業はほとんど入っている。これは特区という名を借りた労働分野の規制の岩盤に穴を開けるということだ。

 ところが財界から文句が出た。3つの経済圏に入らないところにある企業は、まったく別の条件でやらなければならない。ひどいじゃないかと財界で文句が出た。

 最終的に特区内では、雇用条件の明確化と有期雇用の特例の二つに絞られた。雇用条件の明確化とは、「雇用労働相談センター(仮称)」を特区内に設置して、企業に「雇用ガイドライン」を適用して、個別の相談について対応すると言っている。しかし、この中身は、日本の解雇裁判の判例を資料にして、それを免れるために対応することだ。雇用条件について相談窓口を作り、解雇自由特区を作りたかったが、とりあえずこれでやらざるをえなくなった。

 有期雇用の特例では、5年の期間を取っ払って、有期雇用18条の適用を除外させたかったが、5年の有期の期間を10年に伸ばせと提言している。これは特区じゃなくて全国対象であり、労政審で検討せよと言っている。要するに今年4月1日に施行された法律を、また一からの有期規制の見なおしをやれというのだ。

 日本再興戦略で決めた労働分野の規制改革、特区でねらったものはかなり削った。だけれども特区のほうで切り縮められたから、いいかというとそうはいかない。もうすでに4項目は、どんどん進めている。



●反撃の視点



 労働の規制緩和は、派遣法、有期法、限定正社員などパックになって押しかかっている。つまり、職場の無法化地帯をねらっている。ブラック企業がどんどん増えていくことだ。

 この攻撃に反撃していくためには、個別労働法改悪の問題だけではなく、トータルで跳ね返していかなければならない。労働分野だけではなく安倍政権がやろうとしていることに対して反撃していくことだ。

 例えば、JAL争議の集会では、争議と憲法改悪反対の闘いを結び付けないと勝てないと強調していた。労働法制だけではなく特定秘密保護法、憲法改悪、集団的自衛権、原発、沖縄などの問題など安倍政権と全面対決する行動の中に労働分野の規制緩和を許さない闘いを行っていくことが求められている。

 職場の闘う勢力として物分かりが悪い、異議申立てができる、必要な時に実力行使ができる、そういう職場の力を、労働組合をどのように作るか。全体の政治状況の中で労働法制の改悪反対闘争と結びつけて、政治闘争を闘っていくことだ。この二つがないと喧嘩にならない。

 全労協は、今後、対労政審闘争に取り組み、広範な戦線づくり、共同闘争を追求していく。すでに労働法制プロジェクトを設置し様々な取組みを展開している。さらに安倍政権の雇用破壊に反対する共同アクションにも参加している。

 労働は商品ではない、人間らしい労働と生活の確立!直接雇用原則、安定雇用原則、均等待遇原則を主張していこう。非正規雇用の規制こそ必要だ。入り口規制を!均等待遇の確立を実現しよう。

【10.26アジア連帯講座:公開講座】アベノミクスがねらう労働規制緩和-徹底批判!-

10.26アジア連帯講座:公開講座 

アベノミクスがねらう労働規制緩和-徹底批判!-


講師:遠藤一郎さん(全国一般全国協副委員長)

日時:10月26日(土)/午後1時30分

場所:文京シビックセンター地下1階・学習室(地下鉄三田線春日駅下車)

 安倍政権は、経済財政諮問会議のもとに産業競争力会議と規制改革会議を設置し、とりわけ労働分野について日本経団連が求める「労働分野の規制緩和」攻撃=「労働ビッグバン」を押し進めようとしています。今国会から一挙に加速化が予想されます。

 講座では遠藤さんを迎え、労働者の権利侵害と生活破壊のための「解雇自由」、派遣法改悪など政府・資本のねらいを暴き、徹底批判します。ともに「労働ビッグバン」を許さない闘いに向けて共に論議し、模索していきましょう。


 【以下は、遠藤さんが今年の宮城全労協メーデーの学習会「労働分野の規制緩和攻撃」の発言要旨です。】


13春闘総1「雇用制度改革」のターゲットとは

 産業競争力会議では、「雇用制度改革」について①「多様な労働契約(3年超の有期雇用、地域限定、職種限定、プロジェクト限定など)の自由化」②「地域限定、職種限定、プロジェクト限定」の社員をつくる③「過剰な派遣労働規制、有期雇用規制の見直し」を進める④「解雇ルールの明確化」を要求している。労働者の闘いを通じて解雇にはさまざまな制約や規制を加えてきたが、その歴史を反故にしようということだ。

 経団連は、「労使自治を重視した労働時間法制改革」で企業が労働者に労働時間管理をゆだね、その上【裏へ】でトータル何時間の労働と把握すると主張している。かつての「ホワイトカラー・エグゼンプション」(「残業代ゼロ法案」「過労死促進法案」)だ。ホワイトカラーの労働時間管理を外してしまえと経団連は、法案化を望んいる

 第2が解雇しやすいように勤務地限定、職種限定、プロジェクト限定の正社員をつくることだ。「雇用保障責任ルール」をつくって、「特定の勤務地ないし職種が消滅すれば契約が消滅する旨を労働協約、就業規則、個別契約で定めた場合には、当該勤務地ないし職種が消滅した事実をもって契約を終了しても、解雇権濫用法理がそのまま当たらないことを法定化すべき」と主張している。

 さらに「労使自治の尊重」では「特段の事情がある場合の36協定の特別条項に関する基準の柔軟な運用」とあり、「全体として1年の半分を超えない」という要件を緩和せよと主張している。会社の役員と「モーレツ社員」、そして会社の幹部予備軍たちが担っている大企業労働組合という構造にまかせておけば、いくらでも長時間の働かせ方ができる。経団連は「労使自治」にまかせろと言っている。

解雇自由のための「限定正社員」

 つまり「雇用制度改革」の攻撃の柱は、第1に「雇用維持型から労働移動型」へ政策をシフトさせることにある。具体的には中小企業への雇用調整助成金制度などの保護が淘汰をじゃまし、不採算部門の維持につながったから、そういうことは、もうやめようという構造改革路線の一環だ。これからは新しい雇用支援のための助成金は企業に回すという新しい労働力移動のシステムの構築をめざというのだ。いま、予算も含めて、実行されようとしている。

 第二は、「限定正社員」をつくって、解雇をしやすくする。労働者の同意が不要な、労働者に有無を言わせず強要できる制度だ。推進側は、労働審判で解雇が争われた実態を調査している。金銭解決の金額は10万円から20万円が40%だという。一回、あるいは三回程度の審判で決められる労働審判だから、金額は低く出るだろう。その「統計値」を「金銭解決」に適用しようという。これは「解雇自由」に道を開くだろう。

 たとえ裁判で負けても解雇するのが先決だと、労働組合攻撃の武器に使われることにもなるだろう。不当労働行為だ、組合つぶしだと言われようが、気にくわないやつは解雇すると。これが、いわゆる「解雇ルールの見直し」という向こう側のポイントだ。

 さらに「派遣法の規制緩和」「労働契約法、有期規制の撤廃」「女性の雇用機会の拡大」「労働条件不利益変更ルールの明確化」へと攻撃が続く。

 安倍首相は、「成長戦略」の重要項目として「女性」を取り上げ、育児休暇の3年への延長を強調した。ところが、3年延長には何の保障もない。実効性はまったくない。その前に政府はまず、パート労働法をきちっとやるべきだ。育児を語るならば、男にも等しく責任があることをはっきりさせるべきであり、その上で大幅時短にまじめに取り組むべきだ。

安倍政権の野望をはね返していこう

 以上、「第二正社員」や派遣法改悪、「解雇自由」の金銭解決を許してはならないなど、重点テーマを確認しながら、向こう側の狙いの全体像をとらえて反撃の道筋を立てていくことが必要だ。全労協は「労働ビッグバン」に対抗するプロジェクトを立ち上げ、闘いを進めている。「労働ビッグバン」を許さない闘いを労働運動は組織し、安倍政権の野望に反撃していこう。 

9.7アジア連帯講座:公開講座『マルクス 取扱説明書』

マルクス本19.7アジア連帯講座:公開講座

『マルクス 取扱説明書』
今どきのマルクスがわかるやさしくない入門講座




■日時:9月7日(土)/午後1時30分

■場所:豊島区民センター第6会議室

講師

◆湯川順夫さん(ダニエル・ベンサイド著の『新しいインターナショナリズムの胎動』、『21世紀マルクス主義の模索』(柘植書房新社)など翻訳している。)

◆中村豊美子さん(ジャーナリスト。フランス2のルポルタージュ番組制作ほか、週刊誌、月刊誌の執筆。ベンサイドへのインタビュー(『世界』2006.2)。)



 現在のグローバル資本主義にいかに切り込み、次の指針を提示していくことができるか。このテーマについて簡単に回答することはできないが、いくつかのヒントをカール・マルクスは投げかけていた。それをキャッチしていたフランスの思想家であるベンサイドは、『マルクス 取扱説明書』(ダニエル・ベンサイド/つげ書房新社/2013.5)で「マルクスの思想を駆使して、21世紀に生きる私たちが深く考えていくための重要な問題提起」(訳者あとがき)を行っている。

 講座は、『マルクス 取扱説明書』を翻訳した湯川順夫さん、中村豊美子さんからベンサイドの提起の整理とコメントを行ってもらいます。現代社会を分析していくためのステップにしていきたいと思います。


■ダニエル・ベンサイド略歴

ベンサイド1946年3月25日生まれ

1968年5月 大学・工場占拠の闘い。共産主義者同盟(LC)の結成に参加。

第四インターナショナル・フランス支部である、革命的共産主義者同盟(LCR)の創設に加わる。

政治哲学者としてパリ第八大学教授を務める。

2002年10月、東京恵比寿・日仏会館で行われたシンポジウム「グローバル化時代のフランス政治思想」に参加。

2008年1月 NPA(反資本主義新党)創設に参加。

2010年1月12日死去。63歳没。




■『マルクス 取扱説明書』(ダニエル・ベンサイド/つげ書房新社/2013.5)

目次
/1.どのようにして、ひげ面の男に成長し、共産主義者になったのか
/2.神が死んだとは、どういうことか
/3.なぜ、闘争は、階級的なのか
/4.亡霊は、どのようにして生身の人間になるのか、そして、どうして微笑むのか
/5.なぜ、革命はいつも、定刻と通りにいかないのか
/6.なぜ、政治は、時計の針をくるわせるのか
/7.なぜ、マルクスとエンゲルスは、党のフリーターなのか
/8.だれが、剰余価値を盗んだのか―資本の犯罪小説
/9.なぜ、"ムッシュー資本"には、恐慌という心臓発作のおそれがあるのか
/10.なぜ、マルクスは緑の天使でも、生産力主義の悪魔でもないのか
/11.マルクス博士は、何について、どのように考えたのか
/12.新たな著者を探し求める、所有者なき遺産


■ベンサイド「はじめに」から

 「本書は、マルクスの思想がいかに生きているかを示すことによって、彼の思想の可能な使い方のひとつを提案しようとするものにすぎない。それは、発見への招待であると同時に論争への招待でもある。

 本書は、彼の著作に対する楽しい入門であると同時に、考え行動するための手引き、工具セットでもあるのだが、大激動と試練が迫り、その結末が不確かな時代にあって、本書がわれわれの槌と鎌を新たに研ぎすますのに寄与できれば幸いである。」

【報告 アジ連4.20公開講座】原発立地・大熊町民の今-木幡ますみさんのお話を聞く-

木幡さん●3.11当日とその後の様子から

 2011年3月11日に地震がありまして、ほんとにすごい揺れが、ドスン、ドスンと下から突き抜けてくるようだった。これは大きな地震だなと感じた。私は、当時、友達のところにいて、止まると思ったらドスンと揺れが始まって、屋根が崩れてきて、窓が壊れ、私たちもここにいては大変だと思いながら、98歳のおばぁちゃんもいたので、みんなで助け合いながらいた。地震が止まったかなと思ったら、近くの石垣がくずれ、ごろごろと突進してきた。危ないと思って外に出た。外の道路は寸断され、地割れがして、これで家に帰れるかなと思いながら家に帰ろうとしましたが、途中一軒の家がくずれ落ちる寸前に出会い、数秒遅れていたら、瓦礫の下になっていたかもしれない。

 ところが私の野上という部落は、家が壊れてなかったんです。大熊町中心街は滅茶苦茶に壊れていた。ここは原発で潤ったところだった。原発で働いている方々が、よく建物の雑誌に出てくるような素晴らしい家に住んでいました。ところが土地は非常に水はけが悪くて、いつもじめじめした土地に、家を建てていた。だからこの周辺の家は、大変な状況になってました。また、原発周辺は、後で聞きましたが、津波でやられたみたいでした。

 野上の土地は、岩盤なんです。家が壊れてない、倒れていない。石垣も壊れていなかった。家の前に道路があるんですが、国道288号線の田村市に向かって全く右側は全くなかった。ところが左側は、お墓なんかもあるが、崩れていた。土地の材質によってかなり被害が違っていた。地震国日本において、原発がこのようなところで作ってはいけないということを、ほんとにまざまざと見せつけられた思いでした。

 地震の後、私は夫と二人で、夫は町会議員をやっていたので、ちょっと町内を見てこようということになった。しかし黒い大群が原発から、「もうだめだ。もうだめだ」と叫びながらも走ってきた。私が「どうしたんですか?」と聞くと、「原発は地震で、配管が上になったり、下になったり、滅茶苦茶壊れている。これから津波もくるけど、あれだけ配管が壊れているから、こんなところにいたら死んじゃうよ」と、 かなり蠢いていた人がいた。

 でも助けられない。必死に起き上がろうとする人がいたんですが、起き上がれない。私も原発の放射線が怖いから、助けることができなかった。さらにガソリンもなくなって、助けられなかった。ほとんど危ない感じの人が横たわっていた。みんな大きな声で叫びながら逃げて行った。

 私は、これはいけないと思って、とにかく水とか、食料を確保しようと思ってファミリーストアーに行った。だがそこは暴動化していた。人間って浅ましいなと思った。普通はお金を払って物を買うのだけけれど、みんな根こそぎ商品を持っていくんです。店の人は、対応しきれずに諦めたという感じだった。人間は、最後はこういうものだなと思いました。この日の夜、私と息子の二人で仙台に用事があったので長男と次男と私たち三人は、仙台に向いました。

 翌日の夜、私たちは家に帰ってきたが、当然、辺り一面真っ暗闇。皆どこに逃げて行ったかわからず、14日に夫が田村市の体育館に皆で避難しているから、ここはもうだめだから出ようということになった。

 犬と猫は車に入れられませんでした。普通、2匹とも追いかけてくるんだが、追いかけもしないでじーっと私たちを見送る様にたたずんでいた。えさは、全部袋をやぶって置いてきた。ただ水があまりないので、気が気じゃなかった。後ろ髪を引かれる思いで猫と犬は置いてきました。

 糖尿病の方、血圧が高い方、ほんとに薬が必要な方が薬を持たずに逃げた。看護士さんは、夜勤で病院に入っていたんですげと、その方は白衣のまま逃げていました。子どものオシメを持たずにお母さんたちは逃げてきたとか、とにかく悲惨な状態だった。野上部落の人々もこれはただらぬことだから持ち物を必要な物は車につめて逃げようということになったとのこと。連絡が野上の方まで入ってこなかったので。

 結局、薬を飲めなかった人は、糖尿病で血圧が高かった人などは大変だった。会津若松にいる間、バタバタと亡くなって行く状態でした。

★大熊町の人々

 避難した田村市の体育館には、非常に大勢の人々が避難していました。ところが体育館に入ろうとしたら役場職員が、「あなたたち入っちゃだめだ。もう一杯だから出ていきなさい」と言われた。私たちは、「じゃどこに出ていくんだ」と言えば、「それはわかんない」。「わかんないって、それじゃ困る。私たちだって、外にいれないのだから入れてください」と言った。役場の職員は、俺たちで一杯なんだという感じだった。自分のことで一杯、同じ町民でも関係ないという感じだった。

 しかし私は、どんどん入っていったんです。隙間があり、私が知っている人たちが何人かいたので譲ってくれた。一般的にこういう非常時の時は、助け合わなければいけないと言っていますが、そんなふうには絶対ならないということが証明された。自分のことだけで精一杯で終わってしまう。人のことなんてどうでもいい感じだった(特に公のひとたちはね)。

 さらに、体育館にいるあいだは、子どもが一人泣くと、「泣かせるな、静かにさせろ」と怒号が飛んでくるんです。あるお婆さんが「まるでどっかの防空壕にいるようなもんだ」と戦争中の防空壕のことを思い出して言っていました。障がい者の子どもたちは、もうじっとしていれないのでうろうろとして泣いたり、わめいたりしてしまう。それで怒ってしまう大人がたくさんいました。

 こういうことをするのは、だいたいが男性だった。男性は、自分が思ったことをなんでも言っちゃう。お婆さんなど女性は黙っていて、なにも言わない。女性もうるさいな、いやだなと思っていてもなにも言わなかった。逆に、こういう現場に来てからは、女性たちはお互い助け合ってました。

 役場職員の男性は、普段、防災訓練をしていますからと言ってましたが、まったく訓練が生かされていなかった。体育館の中で食べ物が来た時などは、我先に集まって来て、たびたび私たちが整列させる必要があった。しかし役場職員は整列させようとしない。

 だから私たちは、子どもの頃のように先生に「整列しなさい」と言われたよう整列させていたほだ。整列させてから、こっちに持ってきなさい、このようにしなさいと、そうしてはいけないと何度も大声で言ってました。

 なんで大の大人が私たちに言われなくちゃならないのか。なんでこんなことになってしまうのだろうかと、友達と話し合った。多分これは原発の後遺症だろうと判断した。原発でお金が入り潤い、嬉しい、嬉しい、お金さえあれば良いとおかしくなってしまった。その結果として、後遺症として出てきてしまったのではないかなと思いました。

 体育館に避難してから2、3日して役場職員に「ヨウ素剤はどうしましたか。ヨウ素剤を配りましたか」と聞いたら、役場の人たちは「なにそれ。そんなの知らないよ」と言っていた。やはり後で聞いたのですが、私の他にヨウ素剤を配ってくださいと言われた方がいましたが、誰も、役場職員の方は聞いてくれなかったとのことです。

 ところが三月の終りになって、木幡さんヨウ素剤がありますよと言ってきた。私は、「今頃では遅いんだ。なんのために訓練をしてきたのか。そのためにどれだけのお金が使われてきたのか。お金はどぶに捨てているようなものだ」と痛感しました。

 体育館から会津若松に避難するという知らされた。体育館の皆さんは町長に、なんで会津に行くのか話をしてもらいたかったが、話しをしてくれない。私は、トイレの前で町長を待ち伏せして、「あなたは町長なんだから、みんなになんで会津若松に行くのかをきちんとお話をしてくださいよ。そうしないとみんな納得しないし、暴動が起きますよ」と言ったんです。初めは、困ったなという顔をしていた。役場の人は、「そんな話をする必要はない」と聞く耳持たずでしたが、私は、「皆さん聞きたいんですよ。これからどうなるかを。ちゃんときちんと話して下さい」と詰め寄って、結局、話をするようにさせた。

 町民は、町長ががきちんと一言、二言でも、「会津若松に行きますよ、今大熊町には帰れないから会津若松に避難して待ちましょう」と言ってくれれば、ある意味で安心するというか、しばらく我慢しようかなとなると思ったからでした。

 すでに東電幹部たちは、3月11日に大熊町から逃げているんです。実は、大熊町に東電の副所長が、11日の夜の9時45分頃に「危ないから逃げてください」と来ていた。ところが町長は、放射線の認識が甘く、危機意識がないから、近辺3キロ以内の人だけを体育館に逃げさせた。ほとんど逃がしたことにならない状態だったのです。

 私は、3月の終りに夫が体調を崩して仙台の病院に入院していた。会津若松に避難してから役場に行って、私は一人なので、今何が起きているのかを聞き、メモをとって、それを人に伝えるために新聞を作った。飯田山のふもとのほうに追いやられた方々、会津の奥地に避難された方々、そういう人たちがどうしているかなと思って、役場から聞いた話を遠くにいる方たちに教えようと新聞を作りました。

 そしたらその方たちが、「私たちは騙された。役場の人は毎週一回、二回来ると言っていた。病院に連れていくとか、薬を持ってきてくれるとか、色々と約束してくれたから、納得して若松市内から遠いけど、役場から遠いげと来たんだ。ところが一回も来てくれない。どうなっているのか状況がわからない」と言ってました。

 避難者は、不安でしようがないのです。私はその話を聞いて、役場の人に伝えた。「大変だから誰か行ってあげて、病院にも連れてあげて」と言ったんです。言っているだけではおさまらないなと思いまして、書いたものを直接見せるしかないと思い、それで新聞を作ることになった。体育館で友達になった人や、元々の友達、三人で新聞をあちこちに配達した。

 その時にみなさんの話を聞いた。みんな帰れると思うから、今少し我慢すればいいという感じだった。話を聞いていくと、私のお父さんが昨日死んだだよとか、うちの息子おかしくなっちゃったんだよという話も耳に入ってきた。それを役場に行って言ったが、俺たちだって大変なんだから、そんな人の話を聞いていられるかという対応だった。

 これも原発立地である大熊町は、飼いならされてきた動物みたいなもんで、自分で何もできない人だなと思った。自分で考えて行動しようということが、なかなか難しのだなと感じた。

★「帰れないから、移住先をみつけてくれ。賠償をきちんとしてくれ」

 4月に会津に来てから私は、以上のことをやっていたので大熊町とはいい関係だった。町長さんも、「木幡さんありがとうな」という感じだった。私もいい気分になって、これはいいなと思って頑張ろうとやっていたが、そのうち町民の皆さんに大熊町にはもう帰れないんだからねと、お話をしていると、そういう話はやめてくださいと言われた。

 また、女性の会で一緒にやっている仲間たちにも「放射線汚染で帰れないんだ。しばらくはもう帰れないんだよ」と言いましたが、どんなに悪い状況になっても、なぜか皆さん帰れる、帰る、今年中に帰ると信じていたんです。

 ところが、だんだん状況が悪くなってきました。一時帰宅が始まりました。皆さんその際、線量計を渡されて計測しました。家の中で70μシーベルトとか、80μシーベルトとか、ひどいところは100μシーベルトもありました。さらに高いところでは120~30μシーベルトもありました。原発の中ではなく家の中ですよ。とんでもない高さだ。これはひどいな、帰れないなと感じてきました。

 しかしこのころはネズミは、まだ出てこないんです。カラスもいない。まだ家は綺麗なままだったんですが、泥棒によって荒らされていた。

 だんだん日にちがたち女性の会で知り合った友達と、「そろそろネズミが出てきたよ」とか、「放射線量がずっと下がらないから、もう帰れないんじゃないの」という話をしていた。だから今、どうなっているんだろうかと東電に聞くことになった。東電は、「大丈夫です、帰れますよ」と言うだけだった。町長さんも「大丈夫だ、帰れる」と言っていた。

 私たちは、なんという町長だと思った。これではどうしようもない、らちがあかないと判断して、国に直接行って話をしようということになりました。大熊町に国のほうに行かせてくれと、8月の終りに要望書を出しましたが、全然対応してくれませんでした。この間、会は支援物資を配ったり、弁護士さんを呼んで話を聞いたり、放射線と原発の学習会をやったりして時を過ごしていきました。

 ところが11月の町長選挙を前にして、町長は多分、票がほしいから、突然「行ってもいいよ」と言い出した。このころは私たち女性の会は、帰れないから次のところに移住しようという考えになっていた。しかし町は、会の国との交渉について「帰れるようにしてくれ」とか、「除染を早くしてくれ」とか、「中間貯蔵施設を作るな」とか、そういう話をしてくるんだろうと思って、私たちに行ってくれと言ったのでした。私たちは、ほとんはそうじゃないんだけどなと思いながら、国に別のをするために行きました。

 私たちは「帰れないから、移住先をみつけてくれ。賠償をきちんとしてくれ」と要求しました。さらに広島・長崎と同じように将来、私たちに起きるだろうと思われる被ばくの病気に対して、被爆者手帳を作り「双葉郡だけではなく福島県全体の医療費をただにしてくれ」と要求しました。

 ところが国との要求交渉について正確に報道されずに中間貯蔵施設だけを求めたみたいな形で報道されてしまった。これでは家に帰ったら「大変」なことになると思いながら帰ってきた。やはり「大変」でした。みんな怒り、コテンコテンに罵声を浴びせられました。「なんでお前は、そんなことを言ったんだ。帰れるのに帰れないと言ったり、中間貯蔵施設を作れと言ったり、とんでもない」と言われた。友達からも言われた。ある人は離婚までしました。

 私なんかは、ほんとうは中間貯蔵施設ではなく、最終処分場まで作れと言った。原発の核のゴミを集めるのではなく、今回、大熊町から出た除染した廃棄物を大熊町が引き取るべきだと言った。このことは新聞には、最後まで出ていない。

★大熊町では何が問題となっているか

 あれから2年が過ぎました。最近、中間貯蔵施設が話題になっています。それでも町長は、帰りたい人がいる限り作れないと言っています。今、汚染水タンクの水が一杯になるとか、地下水に漏れているとか報道されている。実際に原発で働いている人は、「地下水は地震の時から漏れているんだ。海に漏れている。公表したら大変な騒ぎになるからだ」と言ってました。

 だから大熊町は、原発の事故が起きたときから、帰れないんだということを肝に銘じて言っておくべきだった。政治を携わっている人たちがやらなけれはいけないことだった。それが安易に「帰ろう」といつまでも町民に言いつづけていたのです。町民はそれだけで聞けば満足するだろうと思いますが、現実なに起きていることはそんなに甘くありません。

 その間に何人が死ぬのか。すでに年寄りは亡くなっていく。そうすると東電は、シメシメ、今日は一人亡くなった、二人亡くなった、補償をやらなくていいとほくそ笑んでいるような感じだ。すでに最近は、一人亡くなると「東電は喜ぶんだよね。補償をやらなくていいからね」ということを平気で町民は言うようになってきている。

 昨日、弁護士さんを呼んで賠償問題について学習会をやった。現在の賠償は、帰れることを前提にやっている。だから財物賠償、家とか土地に関しては、5年~6年帰れないから、その間だけを賠償しますよということだ。だけど放射線が出たところに誰が帰れるのか。

 賠償は減価償却と、土地家屋士が現場に来て査定する方法があります。今までの減価償却で計算すると私の家は、築180年です。ぜんぜん計算にならない。家は三軒あるんですが、母屋はとくに古いので賠償額は、だいたい犬小屋ができるぐらい、また、それを証明する物がなければならない。これを使うと母家は800万円近くになるのだが……。これではどうやって家を作るというのか。好きで出たんじゃない。

 弁護士は、ダム作りなどの場合の立ち退きになり、その時の収用価格が同様の家と土地を持てる額になる。だけど帰れることを前提でやっているから、全然、低額だ。

 また、住民票がある人は補償される。しかし3月11日、大熊町にいたとしても住民票がなければ補償されない。長男の住民票は大熊にはない。筑波にあるが、3月11日には大熊町に居ました。夫の兄は病院に入院しているが、住民票は大熊町にある。だが、3月11日に大熊町にいたわけではないから、補償の対象になりませんというのです。だから二人とも補償されない。

 東電職員の場合は、実家が東京にあり、ときどき帰る人もいるが、そういう人は補償されるというのです。この間、東電と交渉しているが、東電という企業は、ほんとにどうしょうもない企業だ。大熊にいて被ばくしているかもしれないのにひどい会社だ。

 賠償はぜんぜん決まっていません。精神的な補償が1ヶ月10万円と言われるが、自分で細かいとこまで色々書き、提出しないと貰えない。だけど年寄には書けない。だから東電の職員が集会所に来て、初めはペコペコするが、そのうち「判子持ってきなさい」「なになに持ってきなさい」と命令口調になってくる。年寄は、「はいはい」と足早に家に戻ってきて、言われたとおりに書いてお金を貰っている状況です。

 だけど1ヶ月10万円しかない。10万円で生活ができるかというと、仮設にいて、光熱費など全部、自分持ちだ。

 老人の方は、息子たちが大変だと思うから、自分のカネをあげちゃう。自分は食べる物も、節約しながら生きている。私が「おばさんどうしたの」と言うと、「ご飯食べていないんだ」、「どうしてよ」、「カネみんなやっちまったからよ」と言うんです。みんなから「息子にカネをやったりしてはだめだよ」と言われるが、おばあさんは「息子が車が欲しいと言うからな。やっぱり会津からいわきに通うので」。「大熊町の原発廃炉の仕事に行っている」ということでした。

 みなさんは、バスとかで逃げているので車がないんです。帰って車を取ってくる人もいるが、放射線が高い車だから、持ってくると子どもに影響があると思って、持ってこれない人が大勢いる。だからおばあさんたちは、大変だと思ってカネをみんな渡してしまう。

 だから皆さんだんだんと生活が苦しくなってきている。貧富の差が出てきている。逆に、大熊町長や役場幹部たちは、多額の年間所得が確保されている。だから必死に役場にぶら下がっていようとしている。ぎりぎりのことろに来ると、人間の本性というか、持っているものが出てくる。私は、つくづく人間とは恐ろしいと思う。

 木幡仁が三月に仮設の選挙で自治会長になった。自治会選挙には、夫ともう一人立候補した。片方の方は、絶対自分が自治会長になると思っていた。酒の席も用意したりしていたが、その人は、見事に負けた。

 これは皆さんの考えが変わってきたことです。ものすごく町に対する怒りが増えてきたんだなと思います。今まで大熊の人は、自分の思いを行動とかで現すことができない人たちが多かった。東電力があってその中でずーっと生きてきて、上の者に「ははっー」と絶対に従えと、いう感じだった。そうしないと仕事は首になるから、絶対服従だった。だから町長、役場、自治会長に対しても絶対服従だった。

 これを自分たちの意志で、選挙で、木幡仁に投票するということが、初めて行動で示された。なるほど時代は変わったなと思った。みんなの意識が変わってきたんだなと思った。

 それで町長などは、びっくりしてしまい。今度は、町長が「もうしばらく帰れないのだから、この仮設でみんなで一所懸命に生きていきましょうね」と言ったんです。町長が私たちと同じような話をしていたので、なんだあの人はと仮設の皆さんは冷ややかに見てました。

 中間貯蔵施設の話も、以前は調査を簡単に受け入れませんよと言っていたのに中間貯蔵施設を受け入れますとあっさりと答えた。このように自治会長が変わることだけで、こんなに簡単に変わってしまうのかなと、あきれました。

 焦りだけが皆さん出てきたり、なかなか仕事に復帰できなくなった若者も一杯いらっしゃる。夜になるとドカドカと暴れ出す人もいる。他の仮設に行って「お前にやられたよな」とか、何もやっていないのに自分の頭の中で幻覚症状を起している人が、結構、最近多くなってきた。うつ病になる人も増えてきています。

 大熊町は、すごく住みやすかった。自然も豊かで静かなところだった。ほんとに田舎なんです。皆さん、静かなところで、みんな一軒一軒、けっこう広い家に住んでいました。長屋はなかったんですが、今の仮設は長屋です。だから隣りの人の声が聞こえるんです。「うるせー」という言葉が飛び交ってくるんです。

 みんなテレビなどのボリュームを低くして、静かな声で話したり、非常に遠慮しいる状態だ。だからちょっとでも大きな声で話すと、「うるさい」となる。部屋を交換してくれと言う人もいる。みなさん、追い込まれている状態だ。だけど野上の部落の人は、そういうことはない。貧乏でも、山仕事、農業とか、ずーっとやってきて、必要以上に物を持たなかった人たちだ。山仕事は大変だ。大きくな木を、男も女も関係なく、木の伐採をしたりする。みんなこういう事態になっても、私の近くには90歳近くのおばあさんがいますが、みんな一所懸命。お互いにおかずを作ってあげたり、助け合っています。

 町の中心に旭台という区がありましたが、ほとんど仕事が東電関係の住宅でした。トップに東電社員、下請けの幹部がいて、住宅ではその人たちに従うようになっていました。住宅雑誌に載っているような家ばかりでした。だけどこういう人たちが避難してくると、滅茶苦茶になっているんです。誰が自分を統率してくれるのか、誰がやってくれるのか、そればっかり待っているんです。自分では何もしようとしない。

 逆に子どもたちは、非常にたくましくなっています。ある意味で大熊町から出てきてよかったかなと思う。というのは、子どもたちも大熊町にいるときは、なにがなんでも東電職員になりたがっていた。東電の下請け会社の親たちに聞かされて、俺は大きくなったら東電に入るんだぞという感じでした。そのためには電気科に入ろうとか、勉強ができなくてもコネで入ろうという感じだった。

 ところが子どもたちは、 この事態になって原発って怖いんだね、と言うようになりました。親が原発は安全だと言っていたが、「ウソだね」と言いっています。うちの父ちゃんは原発で働いているけど、原発にはもう行きたくない、と言ってます。子どもたちのほうが、この2年間の経験でものすごくかしこくなってきた。私たちの話を一番聞いてくれるのは、子どもたちです。「原発は危ないから、もう日本、世界には原発はいらないんだよね」と言うと、子どもたちもいらないと言ってくれます。ましてや「地震がある国に、なんで原発が必要なんだよな」と。学校の授業でも、若い先生などは、今おおぴらに授業で、「原発は危ないんだよ」と言えるようになった。昔だったら大熊町でそんな話をしたらとんでもないことだった。

 子どもたちも家でも「原発はあぶないんだよね」と言えるようになって来た。子どもたちのほうが脱原発だ。それに対して大人は文句を言わない。3.11があったけれども、子どもたちはいろんなことを学んだと思う。

 以前は勉強をしない子どもが多かった。私たちが勉強しなさいと言うと、「なに言っているんだ」という感じだったんですけど、人の話をまじめに聞くようになってきた。大熊で「勉強します」と言うと、「あいつはちょっと変わっている」と言われるほどでした。

 ほとんどがコネで東電、東電の大手の下請会社に入って行った。退学した子どもでもコネで東電、下請けに入れました。以前、私とお父さんに仕事の誘いがきていました。高額の給与を提示しました。うちの娘にも高校卒業したら原発の東電社員にならないかと電話がかかって来た。

 原発に反対している人には、家族には危ないことが一杯ありました。襲われた人もいました。私たちは塾をやっていたのですが、最初は原発反対なので生徒が来なかった。家庭教師で原発の下請けの子どものところで教えていたが、あの人は原発に反対しているんだよと噂話が出ると、最初はさーっと引いていった。双葉町で反対派の酒屋さんは、暴漢に襲われたり、家族も襲われたり、商品を一切買ってもらえなかった。家計は火の車になっていき、最後は屈服させられた。

 以前から大熊町は、原発周辺は危ないよとと言われ続けていた。最近、浪江町で尻尾がないウサギが出たとか、耳がないウサギが出たとかという事実をブログで見ました。私の家にネズミがたくさんいるんです。ところが家のネズミが猫ぐらいに大きくなっている。気持悪いです。なんでこんなに大きいのか。周りの人たちもネズミが異常に大きくなっていると言っています。しかしカラスはいない。やはりからすは利口だからなと思いますが、やはりカラスは線量が高いところに来ない。

 私の家は、一時帰宅で何回か戻り、雨どいを測りました。1月の時が120μシーベルトだった。3月が220μシーベルト、4月が320μシーベルトだった。山沿いだから、高くなってきている。雨どいのところが積もり積もって高くなっている。叔母は具合が悪くなってしまい、苦しくなり、具合が悪くなると言ってました。

 大熊町は除染したと言っている。役場も除染したが、2週間後、測ったら15μシーベルト以上だった。除染して下がったと言っても6μシーベルトだ。ところが1ヶ月たたないうちに測ったら、ちゃんと上がっていた。元の数字に戻っており、役場の後ろは30μシーベルトだった。だから除染したってお金の無駄使いだと感じてきた。

 以前は、除染して帰ろうというのが圧倒的に多かった。しかし集団移住を要求してきた木幡仁が自治会長になったことに現れているように、だんだん年寄りも帰れないということが分かってきた。

 一時帰宅するたびに線量が高くなってきている。新聞、マスコミは下がってきたと言っているが、表向きは下がってきている。しかしセシウム134は、2年で半減だ。セシウム137は30年だ。これだけではなく、その他に公表されてないことが一杯あると思います。プルトニウム、ストロンチュウムとかの線量状況などが全然公表されていない。

 原発事故時、風がものすごく吹いていた。だからあちこちに飛んでいるはずだ。セシウムは、へばり付いたら絶対に落ちないらしいし、溶けない、消えない。いくら除染やったって、上から落ちてくる。大熊町など現地に除染に何億円かけたって、湯水のごとく使う感じで除染は必要ないと思います。

 やっぱり郡山、福島、いわき、伊達のほうは、ほんとは住んじゃいけない。会津以外はね。だけど住んじゃいけないけども、みんなどこにも行けないでしょ。東電は補償もしてくれない。金もそんなにない。必死になって県外に出ている人もいる。仕事がなく、外に出たら家もないでは、子どもをどうやって育てることができるというのか。出ていくのが大変だから福島県に残るしかない。だからそのためには、せめて人が大勢住んでいるところは除染してほしいと、みんなは思っている。

 だけどチェルノブイリでは、低線量被ばくの被害がどんどん出てきている。チェルノブイリの50年先の線量の移り変わりを予想図を見れば、福島も同じような危険性があるということだ。続きを読む

【アジ連4.20公開講座】原発立地・大熊町民の今 -木幡ますみさんのお話を聞く-

image[1]アジア連帯講座・4.20公開講座
原発立地・大熊町民の今
-木幡ますみさんのお話を聞く-

お話:木幡ますみさん〔被災者〕

日時:4月20日(土)/午後6時30分

場所:文京シビックセンター3階会議室A(地下鉄三田線春日駅下車)

資料代:500円

主催:アジア連帯講座(http://monsoon.doorblog.jp/)/東京都渋谷区初台1-50-4-103 tel 03-3372-9401 fax03-3372-9402

 2011年3月11日の東日本大震災による東京電力福島第一原子力発電所事故から2年が経とうとしています。福島県大熊町民は、震災と福島原発からの放射能被害から避難を余儀なくされ、田村市、会津若松市の仮設住宅で暮らしています。

 町民の木幡ますみさんたちは、「原発から遠く逃げれば逃げる程、心は落ち着かず、残してきた家やペット、家畜を思い涙する毎日でした。 私たち女性はいたたまれず、何とかこの状況を打破したいと思い、新聞の作成から始まって、『大熊町の明日を考える女性の会』」(会のブログから)を2011年6月15日に作りました。さまざまな困難な状況のなか取り組みを広げ、その報告を連れ合いの木幡仁さんとともに「原発立地・大熊町民は訴える」(柘植書房新社/2012・5・5)でまとめています。

 すでに会は、本年1月25日、町民の健康不安、賠償に関する不満が増大している中、大熊町役場に要望書(1.甲状腺検査を求めます。2.「健康管理手帳」作成を求めます。 3.財物賠償に関しての説明会を
求めます。 )を提出し、交渉を行っています。講座では木幡さんから本を出版して以降の会の取り組み、町民の暮らし、安倍政府や行政に対する要求と意見などのお話を伺いたいと思います。

●大熊町の明日を考える女性の会 (http://josei.jimdo.com/

●「原発立地・大熊町民は訴える」/  木幡 仁(前大熊町議)、木幡ますみ(大熊町の明日を考える女性の会代表)共著 /つげ書房新社、定価1700円+税

報告:1.26アジ連公開講座/「宮城からの報告/復興の名の下で何が起きているのか」

講座写真 1月26日、アジア連帯講座は、文京シビックセンターで「宮城からの報告/復興の名の下で何が起きているのか」について公開講座を行った。報告は、電気通信産業労働組合の日野正美さん、高橋喜一さんから行われた。

 報告者が所属する電通労組は、2011年3月11日の東日本大震災、福島原発事故以降、家屋損壊による移転や、福島県の緊急時避難準備区域をはじめ日常的被ばくの環境の中に生活を強いられる組合員・家族も抱えながら、被災地の組合として「希望を持てる復興と生活再建に取り組もう!」のスローガンを掲げ、救援活動やボランティア活動を取り組んできた。

 その過程で政府の復旧復興政策が被災地住民の地域コミュニティを基本とした復旧、復興ではなく、企業活動を重視した特区構想など新自由主義的復興であることがますます明らかとなった。とりわけ宮城県の村井知事が進める「宮城県方式復興策」(高台移転・職住分離、建設制限、復興増税、水産業特区、原発不問等)がその典型的な施策だ。「除染・廃炉ビジネス」も大手ゼネコンが大儲けし、ピンハネを通した下請け構造を作り出している。まさに大震災を利用した、社会を上から変えようとする「惨事便乗型復興」でしかなく、「住民一人ひとりが主体」となる復旧・復興とはほど遠いのが実態だ。

 しかも住居、医療・福祉・教育、水産業、農業、雇用問題など、最優先されるべき被災地の生活再建が進んでおらず、湾岸改修や被災学校の復旧、鉄道再建等の交通インフラ、被災家屋の修理などの課題に被災地は直面しつづけている。

 2人の報告を以下、紹介する。



■日野報告

 「地域コミュニティ(生業)再生として復興政策を!」




 遅々して進まない復旧、復興



 2005年4月に「平成の大合併」を強行した。石巻市と周辺六町が合併して新石巻市(16万6900人)ができた。被災後は、一万人ぐらいの人口が流失している。復旧・復興の要となる公務労働者が削減されてきたため復旧、復興の遅れを作り出してきている。自治体労働者の多くが被災した。死者・行方不明者が四八人。

 被災しながらも、不眠不休の自治体労働者が、先の見えない業務をこなしていた。長期化と過酷な労働環境でストレス増大、病休、心的外傷後ストレス障害(PTSD)、鬱病が多発している。

 復旧、復興を押し進めるために公務労働者を増やし、待遇改善することが必要だ。ところが麻生財務相は、「震災復興財源確保のため国家公務員の賃金をカット(7.8%)し、3000億円を二次補正予算に盛り込む。さらに自治体への地方交付金を削減して地方公務員の賃下げを行え」と強要している。公務労働者削減、労働条件の悪化では復旧、復興の遅れを取り戻すことはできない。

 数十万人の方が仮設住宅と「みなし仮設」に住んでいる。だが入居の仕方が地域コミュ二ティを重視した形ではなく、抽選等の方法によって断絶が進行した。寒冷地仕様でない施工(騒音等)のため施工変更が繰り返されている。結果としてプレハブ協会とハウスメーカ、ゼネコンに膨大な仮設建設費用が落ちているのが現状だ。

 「みなし仮設」は、民間の賃貸家屋を国が借りて被災者が住むことになっている。だが居住地から離れた隣接市町(人口流出)、支援活動が届かない問題がある。現在、災害復興住宅が作られており、県で24000戸をめざしているが、着工は半分に至っていない。被災者たちは、2014年度末の完成入居ができるのか不安状態にある。

 仮設住宅同様に入居方法が抽選のため地域コミュ二ティや、従前の人間関係が断ち切られ、居住者の孤立が進行している。阪神淡路大震災後、孤独死が950人だった。再発させないような取り組みが重要だ。

 被災者は、高齢化、失職している人が多く、低収入なので自力再建がかなり困難だ。また、地域の将来が見えないから、そこに住むということも決められない不安が続いている。

 国、県、市町村は場当たり的対応でしかない。平常時から大災害時の住宅復興の方針を持っておくべきだ。



 教育の現状



 被災した小学校、中学校は、高台にある小中学校の校庭にプレハブを建て教室として使っている。2~3年後に小中学校の統廃合と広域移転を行い、新校舎を建設する予定だ。沿岸部の学校は廃止となる。これまでの地域で子育てという繋がりの崩壊だ。

 震災時の津波によって大川小学校生徒74人が亡くなった。石巻市は、避難行動を検証する第三者検証委員会を設置した。検証委員にハザードマップを作った人物が入っていたり、事務局にコンサルティング会社が入っていたりして、保護者から異論があった。2月から検証作業が始まる。今後も注目していきたい。



 医療の現状



 自治体病院が被災し、当時、赤十字石巻病院が唯一救済する病院だった。現在、臨時診療所が開設されているが、病院、開業医も津波に襲われて医療従事者が流出してしまっており、医療・介護は深刻な状態だ。

 震災以前から宮城県地域医療再生計画はあったが、震災で地域医療復興計画も同時に進められている。自治体病院の統合・再編、集約と機能分担を行おうとしていた。被災地の沿岸部では人口流出もあり公立病院を再建しない方針である。在宅医療を基本に据えた診療所化を構想している。利用者のための医療体制の充実には程遠い。復興の名のもとに公共サービスが置き去りにされている。



 村井構想



 村井宮城県知事は、「富県戦略」を掲げて当選した。震災後も「特区」(資本のための規制緩和等を行う特定地域)による企業活動を主軸にした復興政策を押し進めている。

 水産業に対しては「特区」構想の押し付けに力を注いだ。すでに政府の規制改革会議が「日本の水産業の衰退と再生」を答申(2009年)しており、村井は震災を通して一気に押し進めようとした。

 昨年には水産特区第一号として仙台水産と石巻桃浦浜漁業者との合同会社を設立した。漁業の企業化だ。1つの会社で全過程を扱うことができる六次産業化(一次産業〔生産〕+二次産業〔加工〕+三次〔流通〕)の育成だった。

 漁業破壊につながるとして宮城県漁協は反対している。漁業権=海を守る自治形態として漁業権があるが、水産特区は漁業権の企業への解放であり、管理の権限を漁協から取り上げる。つまり、自治の否定でしかない。だが県は2月にも特区申請をする。一方、漁港港湾に関しては、「選択と集中」と称して、集約化が計られようとしている。

 水産加工業の再開も遅れている。必然的に女性雇用落ち込んでいる。政府は、被災中小企業がグループ化すればグループ化補助金を支出すると言っている。だが、予算額が少なく企業に行き渡らず、年度内消化で、復興の遅れで使われない困難もある。それ以前になかなかグループがつくれず、申請できないケースも多発している。

 農業も同様の事態が進行している。津波で被災した農地は、国が圃場整備で大規模化し、「農と食のフロンティア推進特区」によって、農業法人化と農業の六次産業化を目指している。高齢化、後継者不足を、震災復興を巧みに使った「農業改革」を進めている。

  

 瓦礫問題について



 宮城県は、ガレキを抱えたが、それをゼネコンに丸投げしてしまった。ゼネコンは、談合で気仙沼ブロックを大成建設、石巻ブロックが鹿島建設、東部ブロックがJFEエンジニアリングなどによって分け、瓦礫ビジネスで大儲けだ。



 統一地方選と衆院選挙



 統一地方選は、被災地のため11年11月に実施した。投票率は過去最低で50%切り、政治不信を示した。被災沿岸部の塩釜、石巻で共産党候補が初当選し、女川町議選では共産党候補二人が上位当選した。女川原発反対同盟の阿部宗悦さんの娘の阿部美紀子さんが初当選した。

 福島に隣接する県南の丸森町の県議選での投票率は、77%だったが、これは放射線測定や健康調査を求める町民の声を無視した県への批判の現われだろう。

 2012年12月16日の総選挙では、宮城県1区~6区の民主党候補は5区の安住淳民主党幹事長代行だけが当選したがその他は全員落選した。民主党不信の現われだが、自民党など保守が復活してしまった。



 女川原発について



 震災時、女川原発は、福島第一原発と同様な危機的状況だった。重油タンクの倒壊や原子炉建屋への海水の侵入、県原子力防災対策センターも津波で壊滅的な被害だった。なんとか商用電源の復旧で免れた。

 国の原子力災害対策指針は、10キロ圏から30キロ圏に拡大した。宮城県も地域防災計画の見直しと言っていたが、「原子力災害対策編」では「国の対策論議の動向を踏まえ見直し、修正する」と言っているにすぎない。つまり、全く主体性がないのだ。

 宮城県内の反原発団体は、あまりにもひどいということで県に申し入れ(①「被ばくゼロ」をめざす防災計画を②対象地域を30キロ圏内に限定してはいけない③住民の意見を取り入れるしくみを④関係するすべての自治体と東北電力が安全協定を⑤モニタリング体制の確立を⑥実効性のある計画の確定なしに再稼働は認められない⑦無駄な労力を避けるためには廃炉がベストの選択)を行った。

 石巻は、原発問題も含めて大変な状況にあるが粘り強く取り組んでいきたい。



■高橋報告

「被災地に見る鉄道の復旧問題から公共サービスを考える」
 
 

鉄道① 2011年3・11震災で全国七六鉄道路線が被害を受け、12年4月段階で68路線が復旧した。


 現在未開通区間は、以下のような状況だ。

●JR山田線(盛岡~宮古~釜石158キロ)

●大船渡線(一関~気仙沼~陸前高田から大船渡盛駅106キロ)

●気仙沼線(石巻 前谷地~気仙沼73キロ/不通区間の柳津~気仙沼間〔12年8月、BTR(軌道舗装バス)によるバス代行〕)

●石巻線(小牛田~女川45キロ、貨物鉄道区間小牛田~石巻28キロ、不通区渡波~女川間代行バス)

●仙石線(仙台~石巻52キロ、不通区間高城町~陸前小野間代行バス、貨物鉄道区間陸前山下~石巻、石巻港)

●常磐線(日暮里~宮城県岩沼350キロ、貨物鉄道区間三河島~岩沼、不通区間広野から原町・原発事故警戒区域、相馬~亘理津波被害区域)

●三陸鉄道北リアス線(宮古~久慈71キロ、路線のほとんどが長大トンネル、一部区間開通折り返し運転)

●三陸鉄道南リアス線(大船渡~釜石37キロ、全路線不通)



三陸鉄道の歴史から



 三陸鉄道は、東京の日暮里から常磐線を通り、石巻線~三陸鉄道~八戸から青い森鉄道に繋がっている。東京から太平洋沿岸をまわり青森までの人と物流を作ってきた。その意味で三陸縦貫鉄道は重要な位置を持っている。

 1896年6月15日に明治三陸地震津波があった。三陸沿岸地域の壊滅的被害で23000人の死者が出た。三陸沿岸の交通はなにもなかったが、住民は地域復興のために三陸を縦貫する鉄道が必要だと要求した。

 三陸沿岸の地域は、急峻な山が海沿いに迫り平地の少ない地形だ。沿線に「都市」がない。今回、被害にあったのと同じような地形だ。

 住民の要求から80年後の1969年に宮古線が開通。高度経済成長に伴って少しずつ鉄道が延びていった。しかし、三陸縦貫鉄道開通は国鉄民営化によって翻弄され宮古、久慈、盛の三線は1981年に廃止した。路線廃止基準が1キロあたりの換算輸送人員・4000人としたためだ。

 翌年に、地域の力で縦管鉄道実現を図る運動が起こり、県、沿線自治体による「三陸鉄道(株)」が設立された。第三セクターによる未開通区間の開通。それが、現在の北リアス線、南リアス線だ。「地域住民の悲願であり、地域が育んだ鉄道」だと言える。その後もチリ地震、津波による被害を被ったが、そのたびに復興してきた。



 鉄道復旧の重要性



 JRは震災直後、「すべてを復旧させる」(11年4月)と宣言していた。現実には、三陸沿岸の未開通部分があり、見通しがたっていない。早期復旧を地域住民は要求しているが「高台移転・職住分離」の街の復興構想が策定が前提になっており困難な状況が続いている。

 現在、大船渡、気仙沼、石巻、仙石、常磐の五線が不通区間だが、この沿線で集団移転が検討され、また仮復旧としてBRT(軌道舗装バス)を走らせている区間等、鉄道廃止につながるのではないかと地元住民は反対している。

 JRは、BRTは「鉄道復旧より短期」「鉄道と同じレベルの運賃」「本数の増加」「ニーズに合わせたルート」「停留所の設定」などをするから地域にメリットがあると主張している。

 しかし三陸鉄道全体で見れば第三セクターの三陸線が復旧し始めているにもかわらず、JR線にはBRT導入によって「鉄路廃止」という不安を地域住民は抱いている。東京から青森に通じる鉄道網がBRT導入によって寸断されることであり、BRTは物流の核とはならないと批判している。

 東北運輸局は、「特定の民間企業に財政支援はできないというのが大原則。しかもJRは黒字企業であり国費の直接投入をする理由を見出せない」と言っている。

 JRは、「地域にふさわしい公共交通のあり方を今後検討する」「黒字を生み出しているのは首都圏の路線。東北の在来線はすべて赤字路線であることを国や住民の理解が必要だ」という態度だ。つまり、赤字だから廃止もやむをえないということであり、住民のことは考えていない。
 
 駅の役割
 

鉄道② 国鉄民営化の前に地方路線の駅無人化を行った。当時の国労、動労などが地域住民とともに無人化反対運動を取り組んだ歴史がある。

 駅は、単純な鉄道の乗り降り場所だけではなく、駅員がいて、地域住民とのコミュニケーションの場であり、社会性を持っていた。「鉄路を守れ」を掲げた国労、動労の闘いは地域社会の崩壊をくい止める闘いでもあった。

 第三セクター、無人化駅されたところの街は、ほとんど廃れている。赤字路線の廃止によって地域社会の崩壊が生み出された。人の流出、さびれ行く駅前商店街、病院の統合・閉鎖(個人病院)が続いた。地域社会は高齢化し、交通弱者問題が起きた。鉄道に代わって民間バスが導入されたが、財政基盤が脆弱な自治体のところは不採算路線廃止、ダイヤ縮小していった。駅があれば人が集まり、商業が成り立ち、物流の拠点となり、バス等の交通拠点が生み出されてきたのだ。

 
 被災地と鉄道復旧の関係
 

鉄道図 被災地住民にとって鉄道、駅舎の復旧は生活再建にとって急務だ。住宅再建、仕事の再開、地域社会の復興と直結している。また、被災地域から避難している住民にとって戻れるかどうかの問題でもある。復旧が遅れれば遅れるほど人口流出が拡大し、とくに若者、働き盛りと呼ばれる層の流出は深刻だ。駅を中心とした地域社会の形成が必要だ。

 復興の名のもとに復興道路・復興支援道路の新規事業が決まった。三陸沿岸道路(新規区間一四八キロ)ができるということは、地域が作り上げてきた三陸縦貫鉄道が自動車と競争になることだ。道路整備が進めば鉄道需要減に拍車がかかる。鉄道復旧の「重し」となってしまう。

 地域が支えてきた交通サービスを支えきれなくなっていく。JRは、赤字路線を廃止し、三セクター化へと移行することになってしまう。地域交通の衰退の進行だ。



 高台で「医療・環境都市」の問題



 宮城県は、復旧・復興計画として高台移転と職住分離を構想している。例えば、東松島市の「復興まちづくり」では、持続可能な地域社会を作ると掲げ、民間資源を導入するものだ。官民連携による街づくりと言っている。さらにPPP(行政と民間が組んだ事業)、PFI(民間資金を利用して民間に公共サービスをゆだねる手法)を導入し「公共サービスの民営化」を押し進めていこうとしている。

 読売新聞(12年3月8日)が(東松島市は)「住民と病院や役所をつなぐ地域ソーシャルネットワークサービス(SNS)を構築。住民は日々の血圧などのデータを送信すると、データを分析した病院から高血圧対策のレシピや運動法などの情報が送られてくる」と紹介している。さらに「SNSには、警備会社、電力会社が加入。住民は防災情報の入手や、非常時の警備員派遣、住宅の室温管理などのサービスも受けられる」とPRしている。

 東松島市が内閣府の環境未来都市に選定された。住友林業は、協定を結び、この計画に参加することになった。「木化構想」では有料老人ホーム、保育園、学校などの公共施設、医療施設を木造化、木質化する「新たな都市モデルの創出」を謳っている。

 壊滅的津波被害を受けた女川町では、山を削って地盤を15メートルかさ上げして、津波がきても大丈夫だとしたが、この計画に住民は反対している。高台移転は山を削り、削った土を住宅地に使うことになるが、二次被害の問題が出てくる。台風がくれば山から水、土砂が平地に流れてくる。「盛り土」による地震による地盤沈下、地滑り等、住民の不安は当然だ。高台移転と職住分離は、重大な問題をはらんでいる。

 さらに二重ローンの問題もある。津波浸水区に住んでいた人は、住宅ローンが残ったままだ。かつて坪××万だったが、現在は七割以下の価格だ。しかも売れない。移転先の地価は上がり、新たな家を建てる場合、新たなローンを抱えることになる。高齢化しており支払いが厳しいから、高台に行けない人たちが多い。この問題は東松島だけでなく南三陸でも同様の問題が起きている。被災地3県では「27市町村40000戸」の集団移転計画がある。

 漁業権の免許更新は5年ごとにある。今年が更新の年なので村井宮城県知事は、漁民会社、水産業の儲けがあるところに免許を与える意図だ。特区は、漁業組合員資格の手続きがいらず、コスト削減で民間企業を参入させるのが目的だ。「権利取得」しながら「責任」を負わなくてもよい「低コスト型近代養殖経営」を目指している。

 1970年代以降、大手水産会社と漁業者が一緒にギンサケ養殖を展開した。だが、魚価が暴落すると企業は、養殖事業から撤退し、結局、負債が漁業者に残ってしまったことがあった。漁業者は、企業は利益が見込めないとすぐに撤退するという不信感を持っている。だから企業参入は弱肉強食のなかで地域漁業の習慣文化を崩壊させ、生活基盤と生活圏の侵害だという認識を持っている。

 住民、漁民の自治を無視した復旧・復興政策の問題を継続して監視し、批判していかなければならない。
 

【アジ連公開講座】〔宮城報告〕復興の名の下で何が起きているのか

アジア連帯講座・公開講座

〔宮城報告〕
復興の名の下で何が起きているのか

 
報告:
日野正美さん(電気通信産業労働組合)
 
高橋喜一さん(電通労組)



●日時:2013年1月26日(土)/午後6時30分

●場所:文京シビックセンター(障害者会館3階C会議室)〔地下鉄三田線春日駅下車〕 

●主催:アジア連帯講座(http://monsoon.doorblog.jp/
 
 電通労組は、2011年3月11日の東日本大震災、福島原発事故以降、家屋損壊で移転や、福島県の緊急時避難準備区域をはじめ日常的被ばくの環境の中に生活を強いられる組合員・家族も抱えながら被災地の組合として「希望を持てる復興と生活再建に取り組もう!」のスローガンを掲げ、救援活動やボランティア活動を取り組んできました。

 NTTに対しては、救援最優先、内部留保の解除や、過労や被ばくの労働者の健康等の権利尊守を要求して闘っています。

 さらに、この間の取り組みを通して政府の復旧復興政策が被災地住民の地域コミュニティを基本とした復旧、復興ではなく、企業活動を重視した特区構想など新自由主義的復興を批判してきました。それは宮城県の村井知事が進める「宮城県方式復興策」(高台移転・職住分離、建設制限、復興増税、水産業特区、原発不問等)であり、大企業が大儲けの「除染・廃炉ビジネス」などです。まさに大震災を利用した社会を上から変えようとする「惨事便乗型復興」でしかなく、「住民一人ひとりが主体」となる復旧・復興とはほど遠いのです。

 住居、医療・福祉・教育、水産業と農業、雇用など、最優先されるべき被災地の生活再建が進んでいません。湾岸改修や被災学校の復旧、鉄道再建等の交通インフラ、被災家屋の修理など大きな課題に被災地は直面しつづけています。

 電通労組の「2011年 年頭アピール」(
http://www.dentu-rouso.or.jp/)で「大地震、巨大津波、人災として原発事故の複合災害とどう向き合い、被災地、被災者、原発避難者と寄り添い、経済復興ではなく人間復興を目指し『脱原発社会実現』に向けて労働者が、労働組合が、何を、誰となすべきかが問われているのです」と問いかけています。
 
JPG 講座では日野さんから「復興の名の下で何が起きているのか」(『季刊ピープルズ・プラン』第58号)を報告していただき、「震災便乗型や規制緩和の復興に反対する被災者の『民意』に応え、自ら望む復興を果たそうという被災者の声と繋がりながら支えていく取り組み」について共に考えていきたいと思います。

 高橋さんからは、「宮城、福島の被災地から学ぶスタディーツアー」(四・28~30)、宮城全労協(ニュース―復興交付金配分の波紋/労働局への申し入れ/最賃審議会に意見書/「災害廃棄物」処理の現状/
http://www.ne.jp/asahi/miyagi/zenroukyou/)の取り組み、現地状況などを報告していただきます。

 ぜひご参加ください。


写真は犠牲になった子どもたちを追悼する鯉のぼり(2012.4.28 東松島市大曲地区/宮城、福島の被災地から学ぶスタディーツアー)






アジ連講座報告:いわき自由労組━「労働者を襲う解雇・失業・被曝労働に抗して」

DSCN3337 11月10日、アジア連帯講座は、文京シビックセンターで「労働者を襲う解雇・失業・被曝労働に抗して」というテーマでいわき自由労働組合の桂武さん(書記長)、齋藤春光さん(同組合員)から問題提起が行われた

 3・11東北大震災と津波によって、いわき市沿岸部は、壊滅的打撃を受け、同時に東電福島第一原発事故によって被災に追い込まれた。多くの労働者は、会社の自宅待機命令のまま、賃金未払いのうえ自己都合退職など震災便乗労基法違反や解雇の横行にさらされた。いわき自由労働組合は、「雇用なき復興はあり得ない!」を掲げ、地域再生、産業と農業・漁業を再建するための復興資金の要求、失業者雇用の取り組みを行ってきた。

 さらに原発の中で被曝労働を続けている作業員、除染作業に従事する労働者の被ばく問題を取りあげ、生涯の健康管理と生活保障を要求している。放射能除染問題の取り組みを通してゼネコンと下請け企業によるピンハネ構造、「危険手当」の未払いなどの問題を労働運動として位置づけ反撃を開始している。被ばく労働を考えるネットワークの立ち上げにも参加し、闘う陣形を作り出しつつある。



『仮の街構想』について



 講座は山谷・野宿者運動に参加している仲間からの司会あいさつで始まり、「山谷では福島原発収束のための被ばく労働の募集ビラが配布されたり、電子柱に募集ポスターが貼られていたりしている。都の清掃工場のダイオキシンまみれの炉の清掃作業の募集もしている。こういう危険な作業に貧困層をターゲットに雇い、ピンハネによる不当な搾取が強いられている。被ばくネットの立ち上げは、大きなバネとなる」と発言した。

 齋藤さんは、「脱原発運動の課題と今後」について住民の取り組みから報告した。

 「12年9月にいわき市議選が行われた。市民の多数は、原発はいらないだが、選挙結果は原発維持派が多数となってしまった。東北電力と下請け企業が、フル回転して圧力をかけて選挙運動を展開した結果だ。原子力村(電力労連電気工事企業)を使って町内会まで網の目で学習会を組織している。こういった流れに抗して、住民自身の自己決定権を強化していく取り組み、東京電力福島第一原発事故の責任をあいまいにさせないために福島原発告訴団が結成し、原発事故を起こし被害を拡大した責任者たちの刑事裁判を求め、福島地方検察庁へ告訴した」。

 「『仮の街構想』では住民コミュニティーの解体と分散についてどうしていくのかなど大きな課題が突きつけられている。だが原発がどうなっているのか、高線量状態、放射能廃棄物、高レベル汚染水をどうするのか、インフラ整備も必要だし、被ばくの可能性もある。こういったことが論議されず『帰還』が言われている。しかも使用済み燃料の最終処分場は未解決どころか展望も出口も見えない。谷中村住民(足尾鉱毒事件)には強制移転後の困難な生活が強いられたが、再び繰り返してはならない」と批判した。



被ばく労働者と結びつくために



 桂さんは、「除染労働者へのピンハネ、未払い賃金、労働争議」について報告。

 「朝日新聞(一一・五)が『除染手当 作業員に渡らず』『消えた危険手当』『業者が中抜きか』と報じた。下請けの企業の労働者が被ばくネットに相談するなかで明らかとなった。福島第一原発周辺の警戒区域などでは、除染作業を行う労働者に基本賃金とは別に特別勤務手当(除染危険手当)が支給されることになっている。しかしゼネコンと下請けの多重請負構造の中で正当に支給されていない。しかも二次下請、三次下請会社の採用時に説明はなく、日当額を最低賃金にまで減額し、宿泊費を天引きするというものだった。除染労働者は、これに怒り集団交渉をしたが、『そんな金はもらっていない』と居直るだけだった。後にいわき自由労組に加盟し、団体交渉を行うが進展がなかった。特殊勤務手当の『中抜き』を許さず全額を獲得していく」。

 「そもそも除染の雇用は、ほとんどが雇用契約書のない口頭契約であり、労基法に違反しており、労働条件の変更が一方的に行われている。除染特別地域で支給される危険手当は、その危険性に対する手当として労賃と別枠で労働者に支給されるのであり、業者がピンハネできるものではない。危険手当が支給されることを根拠に労賃減額や宿泊費・食費天引きが行われるのは、事実上、危険手当の減額であり、認められない」など今後の課題を語った。

 さらに「被ばく労働者はいい給料を貰っていると誤解している人たちがいる。いい給料を貰っているのは一人もいない。社会保険がないのだから給料から引かれる。労災隠しがあるから労災補償もない。短期で被ばく線量は一杯になってしまう。雇用保険の適用もない。今では日当一万円になっている。さらに宿代が引かれる」という実態を紹介し、「現地の労働者と繋がった運動、生活支援も含めた連帯のあり方が求められている。労働者を意識した取り組みをぜひやっていただきたい」と強調した。

 討論では「巨額の除染費用の多くが大手建設会社に流れ、ピンハネ下請け構造が続いている」、「除染の効果の検証なしに行われている。除染後も再び高線量が戻っている実態がある」、「東電に福島第一原発の廃炉はまかせてはだめだ。この作業にも金儲け優先でやろうとしている。国家の責任をはっきりさせ、労働者管理していくことだ」、「孤立した労働者と結びつくためには、現地とつながった運動作りが求められている。論議と実践がもっと必要だ」などの意見があった。

 講座は、提起された課題をさらに継続して深めていくことを確認した。

(Y)
 

【11.10アジ連公開講座】いわき自由労働組合の報告「労働者を襲う解雇・失業・被曝労働に抗して」

11.10アジ連公開講座:いわき自由労働組合の報告
「労働者を襲う解雇・失業・被曝労働に抗して」




報告:桂武さん(いわき自由労働組合書記長)/齋藤春光さん(同組合員)
 
日時:11月10日(土)/午後6時30分
 
場所:文京シビックセンター(障害者会館3階C会議室)
〔地下鉄三田線春日駅下車〕 
 
主催:アジア連帯講座
http://monsoon.doorblog.jp/ 03-3372-9401)
 
 講座では、いわき自由労働組合の桂武さん、齋藤春光さんから3.11以降の組合運動と今後の課題について報告していいただきます。

 第1は、「組合活動の針路」です。
 
jpg 3.11東北大震災と津波によって、いわき市沿岸部は、壊滅的打撃を受け、同時に東電福島第一原発事故によって原発被災民に追い込まれました。社会・生活システムがストップし、深刻な「地域崩壊」です。震災と原発事故直後に脱出していく人たちもいましたが、多くの労働者は、会社の自宅待機命令のままであり、具体的な指示もないまま身動きがとれない状態だったのです。震災と放射能被曝の次に労働者に襲い掛かってきたのが、資本による賃金未払い、予告手当未払いのうえ自己都合退職の強要でした。仕事がなく、失業状態の悪循環も続きました。

 いわき自由労働組合は、労働相談活動を通して資本の震災便乗労基法違反や解雇こそ、被災した労働者の生活基盤を奪うことだと反撃を開始しました。ある分会は親会社の意向による全員解雇通告があったが、「震災用・雇用調整助成金」を活用して雇用と企業経営を続ける方向にまとめさせました。「雇用なき復興はあり得ない!」を柱にした闘いの成果です。

 組合は、粘り強く地域再生、産業と農業・漁業を再建のための復興資金の要求、失業者雇用の取り組みを行っています。また、利権集団を排除し、復興事業を被災した人々と労働者の監視の下に置く共同の取り組みにも挑戦しています。

 第2は、「除染問題と被曝労働」です。

 東電は、福島第一原発事故の収束作業に携わる原発労働者に対して下請け構造を利用しながら被曝させています。それだけではありません。撒き散らされた放射性物質によって各地域の生活と労働も被ばくを伴う事態になっています。いわき自由労組は、被曝労働という健康犠牲を前提とした社会の変革、すべての原発廃炉の実現だと訴えています。

 とりわけ原発の中で被曝労働を続けている作業員、除染作業に従事する労働者の被ばく問題を取りあげ、生涯の健康管理と生活保障を要求しています。また、放射線量検査活動、放射能除染問題の取り組みを通してゼネコンがピンハネ横行の下請け構造のうえで儲けている実態や損害賠償をあいまいにしてしまう危険性なども浮き彫りにしています。

 講座では、リアルな現地報告を交えて今後の方向性について意見交換していきたいと思います。

【アジ連講座報告】橋下・大阪維新の会を批判する―反撃の闘いは今―

P6097590講師:寺本勉さん(「日の丸・君が代」強制反対ホットライン大阪事務局員、おおさか社会フォーラム2012事務局員)


 6月9日、アジア連帯講座は、文京シビックセンターで「橋下・大阪維新の会を批判する―反撃の闘いは今―」というテーマで講師に寺本勉さん(「日の丸・君が代」強制反対ホットライン大阪事務局員、おおさか社会フォーラム2012事務局員)を招き、公開講座を行った。


「橋下改革」の性格


 寺本さんの提起は、「橋下・維新の会による『改革』」の時間系列的整理から始まり(別掲)、「『改革』の性格」についてつぎのように分析した。

 「橋下・維新の会は、第一の目標として統治システム、政策決定システムの改変をあげ、維新八策の第一項目で参議院の廃止、道州制の導入、大阪都構想を掲げている。つまり、日本における政治的、経済的、社会的危機の深さに対して、既成の大政党が政治・経済・社会的展望を喪失していることへのアンチ・テーゼとして設定した。これは戦後民主主義政治の機能不全を巧みに突きながら、『独裁』をも許容する雰囲気を作り出し、常に『抵抗勢力』を作り上げながら、大衆的人気を維持しようとするものである。かつての小泉純一郎が『自民党をぶっ壊す』と叫びながら郵政『改革』などを強行したのと酷似点もあるが、決定的違いは、既成政党の枠外から行っていることだ」。

 「政策の柱は、新自由主義的規制緩和、民営化・民間企業の導入であり、経済成長のための原資を自治体機能の縮小から得ようとする。教育分野においても同様の攻撃を行っている。同時に労働組合への徹底した攻撃は、旧総評運動の中で最後に残った自治労(大阪市労連)運動と組織への攻撃としてある。つまり従来は、選挙運動、職場協議、当局との交渉・折衝、組合費のチェックオフなどを積み上げて、当局との一定のもたれ合い構造の中で正規職員の権利を擁護しながら、一方で政治課題への取り組みを行ってきた。これは非正規職員の組織化の軽視へとつながり、組合運動の弱点となってしまった。だから橋下は組合の権利擁護運動の弱さを突く形で一挙に権利剥奪をかけ、組合運動の基盤そのものを破壊しようしている」。

 「この延長で『新たな労使間ルール(案)』を提案してきた。管理・運営事項は団交事項でないとし、組合に意見を聞いてもいけないというのである。あげくのはてに組合収支報告書を提出させ、『適正』組合でなかったら職員団体の登録を取り消すとしている。具体的には七月市議会へ向けて『組合活動適正化条例』の制定をねらっている。立て続けの組合破壊の暴挙を許してはならない。従来の運動の弱さを対象化しつつ、新たな反撃陣形を強化していくことが必要だ」と述べた。


反撃の闘いは今


 そのうえで「橋下・維新の会に対する闘いは今?」を報告。
 「私が参加している『日の丸・君が代』強制反対ホットライン大阪は、2000年に結成し、『君が代』起立・斉唱強制条例への反対闘争を契機に必然的に反橋下・維新の会の闘いへと広がっていった。昨年五月以来、10回以上の集会・デモ・府教委抗議行動などを展開した。現在、反『君が代』の闘いとして不起立被処分者六人が人事委に不服申し立てをおこない、一人が準備中である。市民運動として支援を行っている」。


 「労働組合運動は、どんな状況になっているか。可能性ある方向性として、昨年11月に大阪市長選での『反独裁』共同アピールが出発点にして大阪労連、大阪全労協、国労近畿、関西MIC、全日建連帯近畿、全港湾関西、おおさかユニオンネットワークによる七労組連絡会が作られた。6月25日に中之島中央公会堂で反橋下集会が行われる。この集会は、法律家8団体(連合大阪法曹団・大阪労働者弁護団・民主法律協会・大阪社会文化法律センター・自由法曹団大阪支部・青年法律家協会大阪支部・大阪民主法曹協会・日本労働弁護団大阪支部)の主催で初めて連合、大阪労連、全労協、独立組合などが結集する決起集会が行われる。6・25集会は、橋下の矢継ぎ早の攻撃に対して労働組合が一致団結して反撃し切れていない困難な状況に対して、弁護団のイニシアチブによって集会が実現するようになった。共同行動を強化していく必要がある。いずれにしても橋下・維新の会を包囲していく陣形作りは急務であり、強化していかなければならない」と強調した。

 「反橋下運動の展望は?」について、次のように提起した。

 「第一は、橋下的『民主主義』に対するオルタナティブの提起だ。橋下的『民主主義』は、選挙での多数が唯一の『民意』、選挙と選挙の間は白紙委任という論理だ。ところが橋下を支持する20代、30代の層が(間接的にではあれ)経験した『民主主義政治』は、機能不全に陥った政治状況だけという深刻な状況に追い込まれている。だから少なくともこの層の相当部分が、自らが作り上げる社会運動を通じて、直接民主主義、参加型民主主義の経験値を上げていくことが重要だ」。

 「例えば、おおさか社会フォーラム(9月15日、16日/エルおおさか)は、いろんな運動の枠を超えて社会運動、市民運動、NGO、労働組合が集まれるような場として設定している。この中で若者世代が中心にYouthフォーラムが行われる。新たな運動の兆候として可能性があり、応援していきたい。橋下的現象に対して従来の運動圏の違いを超えて反撃していくことがキーワードだろう」とまとめた。


論点


 参加者からの質問は、「橋下の大飯原発再稼働容認をめぐる運動圏の反応」、「『日の丸・君が代』強制の大阪の地域的違い」と「教育委員会と校長の指導対応の経過」、「当局の教員攻撃に対する生徒たちの反応」、「大阪の新保守主義勢力の動向」、「大阪都構想に対する市民の評価」、「不起立教員へのバッシングと周辺教員の立ち振舞い」、「橋下のメディア利用」、「貧困と格差を根拠にした橋下支持の雰囲気」などが出た。

 寺本さんは、「橋下の政治スタイルが支持されているところがある。メディアの中でも支持、不支持的傾向がある。毎日放送・MBSは、『VOICE』で批判的な橋下特集を組んだ。ある記者が橋下に批判的ということで視聴者から『辞めさせろ』という攻撃メールが殺到する状況がある。橋下もその記者を徹底的に攻撃した。諸選挙結果を通して『反独裁』だけでは橋下は倒せない。貧困と格差を基盤にしながら橋下現象が社会的に登場していると言わざるをえない。橋下は、『家庭教育支援条例』のように批判されると引っ込める手法がある。柔軟に対応しつつみえるが、やることはやっている。単純なブームという捉え方ではだめだ。政策論議だけではすまない。橋下・維新の会包囲を全国的に広げながら論議の積み上げを共同で行い反撃していこう」と呼びかけた。(Y)


●「橋下・維新の会による『改革』」

2008.2   橋下、大阪府知事に当選、「財政非常事態」宣言

2008.4   「財政再建プログラム」案
非常勤職員の解雇、非常勤講師の賃金削減(約18%)、職員の賃金・一時金・退職金カット、教育・文化・医療・福祉の諸事業の廃止・縮減など
 しかし、宣伝された「黒字転換」は借金を収入にカウントしていたためで、府知事時代の3年間で府債は2151億円の増加

2008.8   府庁のWTC移転方針を表明
その後、府庁移転は府議会で否決されたが、WTC購入を強行、一部部局を移転、耐震問題で全面移転は断念、今後の財政負担は巨額に上る

2008.9   「教育非常事態」宣言、学力テスト結果の公表を市町村教委に迫る
その後、府立高校への特進クラス(文理科)設置、私立高校授業料の一部無償化などを実施

2010.4   地域政党「大阪維新の会」結成、「大阪都」構想の立ち上げ

2011.4   統一地方選挙で、維新の会が躍進し、府議会で単独過半数を確保

2011.6   「君が代」起立・斉唱強制条例成立
複数回の職務命令違反で免職方針を打ち出す

2011.9   教育基本条例、職員基本条例を大阪府議会、大阪市議会、堺市議会に提出、大阪市議会、堺市議会で否決

2011.11  維新の会がダブル選挙で「圧勝」

2011.12 府市統合本部の設置、特別顧問を多数任命し、統合本部の議論に参加させる

2011.12~ 橋下市長による大阪市職員、労働組合への攻撃はじまる
組合事務所問題、政治活動・組合活動アンケート、賃金切り下げ、民営化、入れ墨調査(回答拒否者への懲戒処分の動き)、組合費チェックオフ廃止、組合活動適正化条例制定の動き

2012.2~3 知事、市長提案で、教育基本2条例、職員基本条例を大阪府議会、大阪市議会提案
卒業式での「君が代」起立・斉唱の職務命令
 不起立者36名への戒告処分、2名に再任用取り消し

2012.3   府議会で教育基本2条例、職員基本条例が可決成立、公明・自民が条例案賛成
国政選挙進出へ~「維新八策」(憲法改正を含む内容)、維新塾など、公明との連携

2012.5   大阪市議会で教育行政基本条例、職員基本条例が可決成立、学校活性化条例は継続審議へ

報告:4.7アジ連公開講座 「生きたマルクス主義を次世代に ベンサイド『21世紀マルクス主義の模索』を読む」

7_017 4月7日、アジア連帯講座は、文京シビックセンターで「生きたマルクス主義を次世代に ベンサイド『21世紀マルクス主義の模索』を読む」の公開講座を行った。

 2世紀におよぶ階級闘争の歴史的射程のもとでいかに「現在」をとらえ、世界変革を展望するのか。その方向性を探求していく取組みの一環としてフランスのマルクス主義思想家であるダニエル・ベンサイドの『21世紀マルクス主義の模索』をテキストにして論議した。

 講師の湯川順夫さん(翻訳家)は、「今日の時代をどうとらえるか? 戦略とは何か? ダニエル・ベンサイドの問題提起を考える」というテーマで報告した(別掲)。

 中村富美子さん(ジャーナリスト)は、ベンサイドのパリ第8大学での講演会やゼミに参加した経験から 「政治闘争家でもあった哲学者ベンサイドの遺産」について報告した(別掲)。

 討論では、以下の論点が焦点化した。

 ①LCRのメンバーであるベンサイドの活動への支持の背景やフランスでのトロツキズムの歴史的地位と成果。

 ②ベンサイドの「緑の党」批判と原発労働者に対するアプローチの仕方の検証。

 ③仏大統領選でのブザンスノーの立候補辞退とNPAの大統領選候補―フィリップ・プトゥー(元CGT(労働総同盟)フォード工場支部書記)の取り組み報告。

 ④この時代に対する問題設定とマルクス主義の継承の方向性。



 討論の集約として湯川さんは、「ベンサイドは、第二インターから第三インターのローザ、レーニンなどを含めて、複数主義のマルクス主義があって、批判的に継承していくと言っている。ただ遺産は、何も手をつけずということではなく、われわれが主体的に変えていくという意味での遺産の継承と言っている。どういう労働者が主流になるか。それはまだはっきりしていない。そういう意味で労働者階級についても、過渡期だ。労働者として意識すること自体が、非常に重要だ」と述べた。

 中村さんは、「フランス共産党は、プロレタリアという言葉を使わなくなっている。だがベンサイドは、現在のプロレタリアがどういうものであるのか、例えば、第三次産業の女性の位置について分析した。プロレタリアは、政治的な言説であり、現在的に読み返しが重要だ」と指摘した。

 最後に司会は、「ベンサイドは、共産党宣言一五〇周年の論文で『世界を変革することは、同時に世界を解釈することだ』と書いた。マルクスの『フォイエルバッハに関するテーゼ』をもじったものだ。つまり、一般論ではなく、世界を再解釈しなければ世界を変えることはできない時代にいる、という強烈な自覚があった。だから、私たちが漠然と『常識』だと思っていること、例えば、民主主義、国家、政治、独裁、プロレタリアート、革命、マルクス主義などについて、ともにコミュニケーションできる状態にならないと新しい運動は成立しないのではないか。そのように考えるベンサイドは、常に精密に語っている。それが魅力でもある」とまとめた。(Y)



湯川報告 「今日の時代をどうとらえるか? 戦略とは何か? ダニエル・ベンサイドの問題提起を考える」



 ベンサイドは、1990年代半ばから始まった社会運動の再生に焦点をあて次の可能性を展望する。「これは一時的な運動の上昇局面ではない」し、それは「新しい可能性の成立、ユートピアの出現」だと主張する。「新自由主義のグローバリゼーションに反対する気運の出現」と描き出し、「憤激は始まりだ! 決起と素晴らしい前進のための道だ。まず最初に憤激を覚え反旗をひるがえす、そうすれば分かる。この熱情の理由を理解する前であっても熱い憤激を感じる」(「不屈の人々 時代の風潮に対する抵抗の定理」)と集約する。

 具体的には、「1994年のサパティスタの放棄、1995年末のフランス公共部門のゼネスト、シアトルの反WTOデモ、世界社会フォーラム、アラブの春、ギリシャやスペインの民衆の抗議デモ、ウォルストリート占拠」という形で続いている。

 この「世の中の不正義に対する憤激の積極的意味」は、「マルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキー、チェ・ゲバラ、ウォルター・ベンヤミン、ジャンヌ・ダルク、シャルル・ペギーにも共通してその根源にあるものであって、もぐらが一杯にあふれる憤激であり、もぐらは「地下にある過去の障害物を執拗に掘り続けて突如として地上に姿を現す人々の象徴」(「抵抗--全体的なトートロジーに関するエッセイ」)である」と押し出している。

 この「ユートピアの時期」は、そもそも「1848年の段階」から考えることができるとした。すなわち、「解放の思想が可能なものの実践的適用に直面していない。だから、「『対抗』、『別の』、『もうひとつの世界』、『可能だ』、『もうひとつの左翼』、『別のキャンペーン』という用語が使われ、濫用される。このあり方は明確に定める必要をなくしてしまう。それは成熟が存在しないことを示している。私は悲観も楽観もしていない。われわれはこの段階から戦略を明確にするところへと移行すべきだと思う」(「今や戦略を定める時だ」)と強調した。

 つまり「共産党宣言」が出た「1848年の時期」だと言う。このことをベンサイドは、「時代の支配的要素は1980年代の歴史的敗北にいぜんとしてとどまっている。われわれはまだそこから抜け出していない。それはそれはまだ勝利していない時間との競争である。急進的左翼の抵抗の重要な位置はまだ伝統的左翼の衰退を埋め合わせてはいない」(「今や戦略を定める時だ」)と言う。「われわれをとりまく時代の趨勢」は、そういう意味で「ユートピアの思想」だ。



 なかでも「潮流としてのアナーキズムが強固に存在するわけではなくて、運動する側の強固な風潮」という時代の雰囲気が感じられる。だから「権力を取らずに世界を変える」というホロウェイ、あるいはネグリの思想が出てきていると分析する。そのうえでベンサイドは、「この時代はどれだけ続くのか」と問いかけながら「長い闘いが必要」だと結論づける。

 これは私の評価だが、「1848年あるいはロシアにおけるナロードニキの時代」だと言えるのではないか。「1917年ロシア革命」にすぐに行くわけではなく、もっと長い射程が「ユートピアの時期」が続くのではないかと思う。

 だからこそ「戦略=政治=政治潮流が必要」だとベンサイドは、次のテーマに踏み込むのであった。

 考え方のヒントとしてベンサイドは、「19世紀後半の時点での資本主義」と「その当時のグローバリゼーション(イギリス・ヴィクトリア朝時代)」を取り上げる。今日のグローバリゼーションと似たような状況として、「交通、通信の技術革命の飛躍的発展によって世界が狭くなる」「汽船、汽車、無線、印刷用輪転機の発明による大衆的な新聞の出現」「空前の株式、投機ブームと倒産、スキャンダル」「植民地への探検(ジャック・ロンドンの小説)と進出と軍事的冒険(ナポレオンⅢ世のメキシコ遠征)」をピックアップし、マルクスは「資本の、資本主義体制の謎を解明する」ために資本論を書いた。それは「アルセーヌ・ル・パンやシャーロック・ホームズのように」「他人の労働をいかに誰が盗んだ、その犯人を突き止める」ことに到達したと言う。

 このように分析しながらベンサイドは、戦略にひきつけて「戦略は、社会運動の成立抜きに、抽象的な頭の中で練り上げられるものではない。現実の社会運動の豊かな実践的経験から導き出されるのであるが、社会運動の延長上に自動的に生まれるもではない。それは意識的な闘いによって勝ち取られなければならないものである」と断言する。



 「戦略とは何か」についてベンサイドは、「自分個人の要求を充足にとどまらず、人々を要求のもとに組織することを考えること--人々を結集することのできる要求やスローガンを考えること=政治的に考えること、戦略を考えること」だと提起している。

 さらにそのプロセスを掘り下げていくために「差し迫る破局、それとどう闘うか」、「過渡的綱領」、「統一戦線」、「過渡的要求」、「労働者政府」について歴史的に運動の中で勝ち取られた考え方からのアプローチが重要だと言っている。

 さらに「この社会運動の中には社会運動の可能性に対する過大評価、政治的なものに対する不信が存在した。政党、政治勢力に対する不信、「権力を取らないで世界を変革する」、「対抗権力だけですますことができる(ホロウェイ、ネグリ、リチャード・デイなど)、戦略的なアプローチに対する拒否、の雰囲気が強固である」とスケッチし、この状況を「マルクスの『ユダヤ人問題によせて』」からアナロジーして次のように指摘する。

 「ユダヤ人の解放、政治的な平等の市民権の獲得だけで十分」というのは、「社会的解放を考えていない」と同じだ。「社会的解放こそが重要であり、政治的解放必要なし、というのは幻想だ」と批判する。だからこそベンサイドは新自由主義と手を切った反資本主義左派政治潮流の形成に着手した。その途上半ばでベンサイドは亡くなってしまったが(2010年1月12日死去。63歳没)。



中村報告 「政治闘争家でもあった哲学者ベンサイドの遺産」



 私がフランスに行ったのが1998年です。パリには、13の国立大学がある。ベンサイドは、第8大学だった。私は、10年いて、第8には登録していなかったが、ベンサイドの講演会とかに参加しておもしろい人だなと思っていた。後に知り合いになって、交流が始まった。

 ベンサイドは「責任と謙虚」の人だった。責任の中には実践を踏まえていた。そして、労働者の文化(連帯)に非常に誠実であった。集団との関係で全てが作ら、集団として考えることが非常に大切だと言っていた。彼は哲学者だけれども、非常に謙虚に、「私は哲学の一教員である」という言い方を常にしていた。1968年の闘いは、学生と教師のヒエラルキーとかを壊していった。つまり、教師と学生の関係は、教える、教えられる関係だが、彼の場合は常に対等であった。



 彼は、複数性とその中の固有性の重要性をわかっていた。彼はトゥルート出身でものすごい訛りがある。パッと聞くだけで、どこのフランス語なんだという感じだ。それを絶対に手放さなかった。家は貧しかった。だが優秀だったのでエリートコースの学校にいった。パリのブルジョワが集まるような場でもトゥルート訛りを通した。一つの表現だった。自分が体得してきた文化、ある種の固有性の重要さを表現していた。普遍性とは単純な抽象的ではなく、個別の活動とか、実践の中から繋がっていく普遍性を大切にしてきたところと結びついている。

 ベンサイドの言語に対する感性、思考は、両親がトゥルートに来てから生まれているのだけれど、ユダヤ人の流れであり、そこの文化と言語がねじれているところにある。だから複数性の原理と固有性の重要性の考えに結びついているのかなと思います。



 私は2001年、ベンサイドの教授資格の公開審査に参加したことがある。ベンサイドがいて指導教授が4人ぐらいいた。審査員たちは、ベンサイドの今までの業績や彼の本を積み上げていた。ところが審査員の中の一人は、ベンサイドの人格を褒め称えた。普通ではありえないことだ。彼の学問的業績を踏まえつつ、まずベンサイドの人格を取り上げざるをえなかったといえる。単純な人柄ということではなく、集団で考えていくこととかに繋がっているから、当然出てきたと評価している。

 審査員の一人であるデリダはベンサイドの本を見ながら、「あなたはランデブー(人と何か会う、約束)のこだわりがある。非常に強い結びつきというか、こだわりがあなたの中にある。あなたが革命を語るときは、活動家というものが、革命家とランデブーする感じを受ける」と言っていたことが印象的だった。



 1968年の五月革命。最初は五月の前に第10大学からベトナム戦争に対する反戦運動が激しく行なわれた。逮捕者が出て、それに対する抗議を契機としている。第10大学は封鎖されてしまった。機動隊とか導入した。逆に大学生の闘いは燃え上がった。労働者、市民も加わり、ゼネストまで行った。

 その年の秋、フーコーなども力になったのだが、社会に開かれた大学を作ろうということでできたのが、第8大学だった。非常に保守的な大学制度に対してアンチなものを作る反アカデミズムを軸にしていた。教師と学生の間に敷居を設けない、あるいは大学と社会の関係を見直していく、現在の政治に対して開いていかなければならないという主張だった。

 だから第8大学は、高校資格もいらないという感じで開いていった。授業も社会人が働いた後でも来れるように夕方に開講する。外国人にも開いていく。大きな教室でマイクを使って授業をすることはしない。普通の教室に教師を中心に学生たちが囲んで熱気に満ちていた。

 ところ80年代に入ると、第8大学はパリの郊外サン・ドニに移転させられてしまった。この地域は、2005年ぐらいに郊外の若者たちが暴動を起こしたという言い方で報道された(サン・ドニ県クリシー・ス・ボワ)。

 自由で始まった大学ですから、反権力・反アカデミニズムでいろんな人たちと結びついていた。当局は、それを嫌がって郊外に移転させた。



 1990年代に入ってから、サパティスタの闘い、世界社会フォーラムの実現、マルクスの国際的研究会議も実現した。ある種の社会的見直しが始まった。ジャーナリズムも批評を武器にして発言していくべきだという状況が生まれた。

 しかし第8大学は、「普通化」してしまった。本来あった批判的勢力としての第8は、制度面でも他の大学と変わらなくなってしまった ベンサイドは、その現象を「くそったれ」と言っていた。これは第8だけではなく、教育制度が日本とまったく同じで、民営化、市場原理が入ってくるなかで進行していった。学長の権限も集中させ、教授会の意見を聞こうとしない。  第8大学の「普通化」について紹介しておこう。他の大学と違って、少しは政治的な人たちがくる。パレスチナ問題なんかを積極的に取り組んでいるグループが世界からパレスチナ研究者を集めて講義を開こうとした。そのタイトルは、「イスラエルはアパルトヘイト国家か」というものだった。イスラエル・ボイコットを呼びかけた。



 この企画に大学は、最初、OKを出していたが、経済的支援もすると言っていたにもかかわらず、シオニストの圧力によって直前に、学長判断で中止させられた。これは不当だということで、学生たちは行政裁判所に訴えた。だが却下されてしまった。学長の判断は秩序をまもるために正当だとした。つまり大学でパレスチナ研究をするなということだ。パリの第8大学でこういう状況になってしまった。

 とはいえ日本と違うのは、私が行ったときは、年間学費は1万ちょっとだった。今でも安いはずだ。そういうところはフランス革命をはじめいろんな革命を経て獲得してきた価値、教育をあらゆる人に平等に開かれたものであるという理念は続いている。だから奨学金、安い学生寮も存在している。

【案内】6・9公開講座 橋下・大阪維新の会を批判する―反撃の闘いは今―


講師:寺本勉さん(「日の丸・君が代」強制反対ホットライン大阪事務局員、おおさか社会フォーラム2012事務局員) 


日時:6月9日(土)午後6時30分

場所:文京シビックセンター障害者会館3A(地下鉄三田線春日駅、地下鉄後楽園駅下車)



 大阪府知事・市長選挙(昨年11月28日)以降、橋下徹大阪市長(大阪維新の会代表)と大阪維新の会は、矢継ぎ早に労働者攻撃の暴挙を強行している。


 松井一郎大阪知事(維新の会幹事長)は、府議会に「府教育行政基本条例」「府立学校条例」、「職員基本条例」(教育目標は実質上首長が決める、従わない教育委員は罷免、高校の学区廃止、職務命令違反三回で免職、部長・校長等の公募制、職員への相対評価など)を提出し、公明、自民とともに強行可決した(3月23日)。市議会でも維公自3党によって「日の丸・君が代」起立斉唱義務条例を可決した。市長の教育目標決定権を明文化した教育関連2条例案と、分限免職手続きなどを定めた職員基本条例案は継続審議としたが、5月の議会で成立させようとしている。


 さらに橋下は、不当労働行為が明確な「労使関係に関する職員アンケート調査」、労働組合事務所退去攻撃、市庁内メール調査、市営バス運転手賃金四〇%カット、捏造された「市長選推薦リスト」に基づく大阪交通労組への攻撃、など悪質な労組攻撃、人権侵害を繰り返している。


 大阪維新の会は、次期衆院選の公約として「維新版・船中八策」を発表し、憲法改悪を射程に「大都市制度の創設」「公務員の職員基本条例案の法制化」「首相公選制の導入」「参議院の廃止」などを掲げ、「300人擁立して200人当選させて国政を動かす」などと言い出している。


 寺本さんは、橋下・維新の会のねらいが「徹底した新自由主義的政策と競争原理を導入し、実行するために、意思決定システム、言い換えれば統治システムを変えていこうとすることにほかならない」と分析(『労働情報』834号)し、「改憲をも視野に入れながら、一気に国政に進出しようとしている今、この闘いは単に大阪だけのものではなく、全国的な闘いでなければならない。春闘と結合してハシズムを包囲する闘いの陣形を構築していこう」と訴える。


 講座では、「橋下政治をどう見るのか、どのように闘うのか」というテーマを設定しつつ、この間の反撃の闘いの「成果と課題」を踏まえて、「橋下政治の新自由主義的改革のためのシステム作り」に対するオルタナティブな水路、とりわけ「直接民主主義と参加型民主主義」の重要性について、寺本さんからの提起を受けて、論議していきたいと思います。

【4.7アジ連講座】生きたマルクス主義を次世代に-ベンサイド『21世紀マルクス主義の模索』を読む

4.7アジ連公開講座
生きたマルクス主義を次世代に
ベンサイド『21世紀マルクス主義の模索』を読む
 
日時:4月7日(土)午後6時30分

場所:文京シビックセンター障害者会館3A(地下鉄春日駅)

 
講師:湯川順夫さん(翻訳家)「ダニエル・ベンサイドのメッセージとわれわれの課題」  

コメント:中村富美子さん(ジャーナリスト) 「政治闘争家でもあった哲学者ベンサイドの遺産」(週刊金曜日2011.12.16掲載)
 
資料代:500円
 
 

db 二世紀におよぶ階級闘争の歴史的射程のもとでいかに「現在」をとらえ、世界変革を展望するのか。その方向性を探求していく取組みの一環としてフランスのマルクス主義思想家であるダニエル・ベンサイドの『21世紀マルクス主義の模索』をテキストとして取り上げます。

 提起されているテーマは多岐にわたります。例えば、、、

1989年のベルリンの壁の崩壊と1991年のソ連邦の自壊をどのように歴史的・政治的に規定するのか? 

そこからどのような政治的方向づけを持とうとするのか? 

プロレタリアートの独裁は、マルクスによってどのように提起されたのか? 

何のために国家権力を獲得しようとするのか? 

獲得した国家権力をもとに私有財産と国家の廃絶へと進んでいくために、何が現在的に求められているのか? 

そこでのヘゲモニー概念を、どのように実践的に再構築するのか? 

マルクスにおいて「政治」は、どのようにとらえられていたのか? 

「市場」に支配され、消滅しつつある被抑圧者の政治を、どのように再構築しようとするのか? 

エコロジーやフェミニズムなど、マルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキーなどにおいて明確になっていなかった課題に、現在のマルクス主義者はどのように取り組むべきか? …

…これらはいくつかの論文にまたがって関連しあいながら論じられています。

 本講座は『21世紀マルクス主義の模索』の訳者である湯川順夫さん、ベンサイドのゼミに参加したことがある中村富美子さんから報告していただきます。



■ダニエル・ベンサイド略歴

1946年3月25日生まれ

1968年5月 大学・工場占拠の闘い。共産主義者同盟(LC)の結成に参加。

第四インターナショナル・フランス支部である、革命的共産主義者同盟(LCR)の創設に加わる。

政治哲学者としてパリ第八大学教授を務める。

2002年10月、東京恵比寿・日仏会館で行われたシンポジウム「グローバル化時代のフランス政治思想」に参加。

2008年1月 NPA(反資本主義新党)創設に参加。

2010年1月12日死去。63歳没。



■『21世紀マルクス主義の模索 』ダニエル・ベンサイド著/湯川順夫訳 3800円+税 柘植書房新社

序 章 複数のマルクス主義――その過去・現在・未来

第1章 過ぎ去った20世紀とロシア十月革命の輝き

第2章 21世紀の世界を変革するマルクス主義の理論と戦略

第3章 新自由主義グローバリゼーションと世界の再植民地化

第4章 フランス反資本主義新党への挑戦

終 章 共産主義の力

【報告】10.29 アジ連公開講座「広がる放射能汚染 緩められる基準にNO!」

jpg 10月29日、アジア連帯講座は、「広がる放射能汚染 緩められる基準にNO!」というテーマで講師に松丸健二さん(原発いらない!千葉)、福島いわきの仲間を迎えて公開講座を文京シビックセンターで行った。

 講座開催にあたってアジ連の仲間は、「放射能汚染とどう向き合うのか」という観点から次のように問題提起した。


 「原発事故によって大量の放射能がばら撒かれた。私たちの力ではなくすことはできないが、現実に合わせて基準のほうがどんどん緩められ高められている。さらに下水処理場やゴミ焼却場から出る放射能汚染の汚泥だ。東京でも中央防波堤埋め立て処分場には、下水処理場から出た汚泥、ごみ焼却場から出た焼却灰で放射性物質が含まれていたものが、集められている。首都圏の各地で焼却場の周りに仮置きをしていたりして大量に存在している」。


 「これらの問題をどのように考えたらいいのか。福島原発事故は、いまだに放射能を出し続けている。大量にばら撒かれたので、食品だけではなく、身の回りに存在している。原発をやめることは当然だが、同時に放射能汚染問題についてどう向き合うのか。ともに考えていこう」。


 福島県いわきの仲間は、放射汚染の拡大と労働者の被曝問題をクローズアップし、低線量被曝の切捨てを止めさせようとアピールした。(要旨別掲)


 松丸さんは、「福島第一原発事故を被曝問題から考える」というテーマから①核技術②核災害③被曝問題④放射能を少なくする食生活⑤原発再稼働阻止――について報告した。(要旨別掲)



●福島県いわきの仲間の発言


 東京電力は福島第一原発を廃炉にするために、貫通した格納容器を塞ぎ、
そこに水を入れ水棺にすると言っている。仮に出来たと仮定して、私は現在の福島原発とりわけ第一原発地震の地震に対する安全性が心配だ。福島第一原発の近くには双葉断層という長い断層がある。東京電力は双葉断層について動く可能性の在る部分を短く評価している。


 福島県の浜通り地方は3月11日に海側を震源とする地震に遭い、その1カ月後には動かないと評価されていた湯ノ岳断層が動き、内陸型地震が発生した。3月11日の地震は最大震度7を宮城県で計測し、4月11日の地震は、福島県浜通・中通り等で震度6弱を記録し地表に長い断層が出現した。東京電力が動かないと評価した双葉断層が動く可能性が出て来たのではないか。双葉断層が東京電力の予測を外れて動いた時、福島原発はどうなるのか? このことが心配だ。


 今日、明日終わる事故ではない。私たちは3月11日に生活が変わった。世の中が変わってしまった。いまだに放射能が出続けている。あと30年以上続く、原発事故収束を見ることができないかもしれないとみんな思っている。そういう長い展望でやろうとしている。


 みんなそれぞれに不安を持っている。地元に残っている人達もそうです。それらの不安が復興のためということで切り捨てられようとしている。街、通学路だけ除染したらいいのではないかとなってしまっている。人が生きるとは、どういうことなのか。田舎ですから、土と親しみ、山に行ってキノコを採ったり、海に行って魚釣りをしたりしてきた。それは自分の幼いころの思い出とか、みんな繋がっている。これからはそういうことができない。


 いったい人がそこで生活していくことを、どのように考えているのか。矮小化されて考えられている。農産物の補償があっても、農民と漁民だけだ。廃棄物問題で弁護団の調査が入った。家庭菜園をやってきた人はいっぱいます。その作物の補償とかはどうなるのか。いろんな材料費だってある。これらが一切投げ捨てられている。


 ある農家の農作業を行っているのは高齢者だ。お爺さんの楽しみは、時折訪れる孫に「爺ちゃんの作った作物はうめーだろ。爺ちゃんが丹精して農薬を使わないで育てているからだぞ」と言って食べさせることだった。ところが今回の原発の事故で放射能が怖くて、自慢の野菜を孫に食べさせることができなくなった。このようなこと至るところで起きている。


 だから場当たりじゃなくて、どういうふうに汚染されているのか。詳細なデータが調査されなければならない。住民が自主的にそのデータに基づいて計画を作ってやっていかないと、どうにもならない。どこかの科学者が基準値を作るという話ではない。根本的な民主主義をどうするのか。そういう社会体制の問題だ。政府は県民の不安の声に動かされて国の責任で除染する基準を下げる報道があるが、基本は低線量被曝を切り捨てる方向で動いている。我慢しなさいと簡単に言うけど、誰が我慢するのか。その人に我慢を押しつけていいのか。少なくとも健康管理手帳を配布し、ちゃんと健康診断し、医療補償して、そういう体制を作る事が大事だ。


 福島原発の震災被曝者援護法を作ろうという動きがある。広島、長崎では、かえってそれが原爆被害者を切り捨てる役割を果した。その基準値をどうするのか。法律をどうするのか。誰でも使えるようにする必要がある。大きな全国的な運動が繋がってやっていく必要がある。全港湾の仲間たちは、放射能汚染のレンガを横浜の埋め立てに使おうとしたところ止めさせた。現場の労働者、市民が団結して止めさせた。そういうことが大事だと思う。

 


●松丸報告


 福島第一原発事故と他の核災害


 被曝のいろんな基準は、広島・長崎の、その後の調査とかで作られています。広島・長崎の場合は、ウランとプルトニウムの違いがありますけども、瞬間的に放射線が飛び核爆発、核分裂したウランやプルトニウムが死の灰になって、拡散して、被曝をもたらした。時間的には「短時間」です。

 チェルノブイリの場合は、原因が核暴走ということで、核爆発に近い。ウラン燃料が核暴走して破裂し、中性子の減速材として使われていた黒鉛ブロックの火災が起きた。この火災による高熱で死の灰、核分裂生成物が、高い大気層まで上昇したため、広範囲に放射能が飛んだ。


 福島では、メルトダウン後に水素爆発が起きました。水素爆発で建屋が破壊されるまでは、ヨウ素やセシウムなどが内部に充満。排気塔までのルートにはフィルターが付いているので、多くの放射能は外部には出ていなかったが、水素爆発によって撒き散らかされた。建屋が吹き飛んだ後は、除々に放射能が漏出し続けている。福島では3つの原子炉がメルトダウン。チェルノブイリ事故では一つだった。


 チェルノブイリと較べて、日本政府の発表は、確か7分の1とかの放射能しか放出していないんじゃないかというものでした。それに対してスウェーデン研究機関は、その三倍ぐらい出ているのではないかと発表している。幅があって、どちらが正しいのかという判断は置いておいて、私はチェルノブイリより低めの可能性があると考えています。


 さらにチェルノブイリの場合は、大陸の真ん中で起きて、人間の住んでい
る地域としては広い地域が汚染された。福島の場合は、海岸沿いに立地しており、大部分が海へ。一九%が日本列島に降り注いで、二%が日本以外の陸地に降り注いだと言っている。海の汚染、魚の汚染状況は、なかなか報道されてはいないのですが、陸に関してはチェルノブイリと比較すれば、少ないかもしれない。



 「チェルノブイリ原発のあるブリピャチ川流域の土壌は粘土鉱物が少なく、事故前より、セシウム137の作物への移行が大きいことが知られていた」(今中哲二『「チェルノブイリ」を見つめなおす』原子力資料情報室刊)


 今中哲二さんは小出裕章さんの同僚で、京都大学原子炉実験所の助教をやっている方です。五年前に原子力資料情報室が発行した今中さんのパンフレットによれば、チェルノブイリ原発周辺の多くは、セシウムが食品に移行しやすい土壌だということです。


 福島県二本松市の旧小沢町の米の予備検査で、基準ぎりぎりの500ベクレルが検出された。その後の調査では、高い値の出た小沢町の田んぼは、山からの湧き水を利用しているので、砂の比率が高くてセシウムを吸着する粘土質が少ないため、稲に移行したんじゃないかと考えられています。セシウムは水溶性です。(他の田んぼよりカリウムの施肥が少ないため、稲がセシウムを大量に吸い上げたことも考えられる。)


 福島第一原発後、数百キロ離れた地域の野菜やお茶などが汚染されていることがわかりました。有機農法を続けてきた三里塚にも放射能が流れてきました。柳川秀夫さんは、畑の周囲に植えていたお茶の木を切り倒してしまったと聞きました。


 東峰のワンパックのホームページを見たら、
 「畑の土の放射線量の結果がきました 2011.10.20 Thursday
 たんぽぽ舎の放射能汚染食品測定室に検体を出していました、べじたぶるんの3軒の農家の土の測定結果がきました。どれも放射性セシウムの値です。


 ピポカの畑(成田市新田)    101Bq/kg
 三つ豆ファームの畑(山武市)  90Bq/kg
 南実の音の畑(成田市伊能)  104Bq/kg


でした。空間線量から予想される数値としてだいたい予想の範囲内の数値だと思います。


 ピポカベジタブルの新米(成田市新田産合鴨除草米コシヒカリ)についても


 玄米3Bq/kg


 白米検出せず (検出限界は5Bq/kgですが、時間をかけより精度を上げて測定していただきました。) 

という結果でした。」http://blog.vegetablen.main.jp/?eid=1309996


 意外に日本の土はセシウムを吸着し、野菜などに移行しにくい。筑波山のふもと、茨城県石岡市に有機農業が盛んな地域があるんですが、40年ほど有機農業を続けている魚住道郎さんという方がいらっしゃいます。3・11以降に行われた講演会で、「土の力はすごい」、「土が強いと野菜にセシウムが移行しにくい」という言い方をしているそうです。


 おそらくチェルノブイリとは違いがあるのだろうと思います。政府は、このことをわかっていたのか、3・11直後、土が1キログラム当たり5000ベクレムを超える農地では、作付けをさせなかった。一キロ当たり500ベクレルのセシウムとストロンチウムが作物に10分の1が移行するかもしないので、500ベクレムという基準を作ったという見方があるようです。


 土壌の質が違うので、輸入食品の基準は370ベクレムなのに、それより高い500ベクレムとしたのは、日本の土の状況を知っていて決めたのか、チェルノブイリと較べてその基準を作ったのか、というのはよくわかりませんが、それに近いデータが出ているのではないかと感じています。現在、流通ルートの食品の線量を中心にした測定されていますが、その作物が収穫された農地の土がどれぐらい汚染されているのか、ということがほとんど発表されていません。

国や福島県は、今後のこともあるのでしょうから、どのぐらいの汚染の土地だったら、どれぐらいの放射能が、どういう作物にどういう土壌だったら、どのくらい移行するかという調査をし、発表するべきです。事故は早春でしたから、これから作付けを始めようと準備していた時期だったろうと思います。ちょうど一年間の農業のサイクルを考えれば、調査の材料として必要だし、農業の再建のためにも取り組むべきではないかと思っています。


 先々週、ベラルーシのベラルド研究所の副所長、ウラジーミル・バベンコさんが出版社の招きで来日しました。東京と福島での講演会や記者会見の様子が動画サイトで閲覧できます。福島の市民測定所と交流などもしています。


 べラルド研究所は、国の研究機関ではなくて、海外からのカンパで作っている研究所です。設立がチェルノブイリから四年後。住民は測定器もないし、どこも調べられなかった。そういうところに放置されていて、それを知った海外の人たちがカンパをし、地元で子どもたちを被ばくから守る行動を続ける人たちを支えていこうということでできた研究所です。


 この研究所がやっている活動は、自分たちで測定器を作り、食品測定器、環境測定器、体内被曝を測るホールボディカウンターを開発している。ベラルーシもウクライナも、独立したあと、民主化の力が強いので、住民の要求が高まり、18歳未満の子どもたちのために被曝をなるべくさせないためにという法律ができて、予算措置も行い、日本より厳しい食品の基準値も作りましたが、チェルノブイリ事故から20年以上たってしまえば、その対象となっていた18歳未満の子どもたちはみな成人してしまい、ベラルーシ政府は「今の子どもたち」への予算をカットしたそうです


 日本では、政府が新しい基準値を作るまでに市民が自主的に対応していかないと、現実の被曝、子どもたちの被曝は抑えられない。事故直後、放射性ヨウ素が甲状腺に溜まり、甲状腺がんが増えることが指摘されました。甲状腺がんは、被ばくから発症するまで3年~4年。他のがんと比較すると早く発症することがチェルノブイリの経験でわかっています。


 ベラルーシでは、風土病としてヨウ素欠乏症があったそうです。ヨウ素は昆布やわかめなどの海藻に多く含有されています。日本列島は太平洋という大きな池の真ん中なので、海藻を摂取しているのでヨウ素欠乏による風土病はないのではないかと思います。ベラルーシでは、保健政策としてヨウ素のサプリメントを飲ませていたそうです。ベラルーシの人々は日常的に体内のヨウ素が欠乏しているので、チェルノブイリの事故の後、余計にヨウ素を甲状腺に溜めやすかった。

 バベンコさんは、平均的な日本人はヨウ素を多く含む海藻を食べているので、放射性ヨウ素をとりくむ率は低いだろう。チェルノブイリと同じような被害にはならないだろう。不安はたぶんあるんですが、結果を勝手に予測していいのかわからないが、だいぶチェルノブイリ、ベラルーシと日本は、違うだろうと発言していました。


 バベンコさんはストロンチウムについての話もしていました。体内でカルシウムが不足していると、生物はカルシウムと間違えストロンチウムを取り込んでしまうという性質があります。カルシウムは普段から取らなくてはならない。なるべくカルシウムを取って、体に充足させておけば、ストロンチウムを食べてしまっても、それを蓄積しにくい。


 産地で食物を選ぶことは、防衛行動として当然なことだとは思いますが、測定できる場所が増えてきていますから、どういう土だったらそこでの収穫物にセシウムが移行するか予測できるかもしれない。データを積み重ねれば、この畑にはこういう野菜を作付けすれば、セシウムが移行しにくい。あるいは、この畑では、肥料としてカリウムが少ないため、作物が放射性セシウムを取り込みやすいとかの判断もできるようになるのではないか。今の段階としては、そうしたデータが増えて対応方法がわかるまでは、防衛行動としてなるべく放射能を体の中に溜め込まないようなことも必要だと考えます。


 被災地、福島はただでさえ放射線の外部被曝が高いところで、学校給食などの地産地消は危険性を指摘する人も多くいますが、次の段階について考えていかなくてはいけないのではないかと思います。


 再稼働の問題が運動としては課題となっています


 経産省としては、電力需要が高まる来年の夏前に照準を定めているようです。やらせ問題で九州電力と佐賀県知事の関係が問題となっていますが、プルサーマルを最初に始めたところが佐賀県の玄海原発で、その次が愛媛県の伊方2号炉。浜岡は始める前に地震の関係で取りやめた。福島4号炉でプルサーマルが始まった。佐賀のように電力会社と自治体との関係が強いところから再稼動が始まるのではないかと感じています。


 原子力安全・保安院を推進機関である経産省から離して、環境省の下に原子力安全庁を作る。その設立が2012年4月。私は4月に原子力安全庁が設立してから再稼働がはじまると思うので、この原子力安全庁というものが、どういうことをやろうとしているのか、原子力安全庁ができるまでに保安院がどう変わっていくのか。原子力安全委員会も統合されるわけだから、どうなっていくのかということを監視、チェックをしていく必要があります。


 原子力安全庁の設立に向けた環境大臣のアドバイザーに、原子力資料情報室の共同代表の伴さんや環境エネルギー政策研究所の飯田代表とかが、有識者として加わると報じられていますが、安全庁が再稼働を前提にするような設置の仕方で準備されるのであれば、そういう方々はアドバイザーを辞め、開かれた場所で議論すべきだろうと思っています。


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【10.29 アジア連帯講座 公開講座】 広がる放射能汚染 緩められる基準にNO!

【10.29 アジア連帯講座 公開講座】
広がる放射能汚染 緩められる基準にNO!
 
10月29日(土) 18:30~

場所 文京シビックセンター

 3階 会議室A

(東京メトロ 「後楽園」駅、都営地下鉄「春日」駅 徒歩1分)

講師 松丸健二さん(原発いらない!千葉)

資料代 500円



◆低線量、長期の内部被ばくは無視?
 
 大量の放射性物質を環境に放出した福島第一原発事故。事故現場や公衆の被ばく線量、食品、廃棄物の汚染に対する規制値が緩められています。汚染を封じこめ人々の健康を守るのではなく、被ばくの拡散や日常化を容認するものです。

 事故直後に急きょ作られた食品の暫定基準、1㎏あたり500Bq(ベクレル)は、諸外国の基準よりも高いうえ、チェルノブイリ原発事故当時の輸入禁止基準370Bqさえ上回っています。

 暫定規制値を改定するために、内閣府食品安全委員会が7月末にまとめた答申案は、外部被ばくと内部被ばくを合わせても含め生涯累積で100ミリシーベルトを基準とするものでした。食品による内部被ばくの影響を評価するべき立場なのに、その役割を完全に放棄しています。しかも低線量の長期被ばくについては、影響が少ないと切り捨てています。
 
◆放射能含む焼却灰も一般処分場で大丈夫?

 また、放射性廃棄物かどうかの基準は、事故以前、1㎏あたり100Bqでした。ところが、下水処理場やゴミ焼却場の焼却灰から高濃度の放射性物質が検出されると、環境省は6月、福島県内について8000Bqにまで引き上げました。その後、次々と関東地方でも見つかり、一時保管場所が各地で不足すると、8月下旬、一般の最終処分場で埋め立て可能な基準を、10万Bqに引き上げてしまいました。

 規制値を一度決めてしまえば、基準以下なら「安全」として、放射性物質を含む食品や廃棄物の流通や拡散してしまいます。事故が収束しない非常事態だからやむをえないのでしょうか。いまだからこそ、厳しい基準で望むべきです。

 講座では、内部被ばくの影響や、政府が進める基準の緩和について考えます。

 

主催  アジア連帯講座

東京都渋谷区初台1-50-4-103 新時代社気付

 TEL:03-3372-9401 FAX03-3372-9402

アジア連帯講座ブログ http://monsoon.doorblog.jp/


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(下水処理施設から出た汚泥を焼却する東京・東部スラッジプラント。
3月、1kgあたり17万ベクレルの放射性物質が検出された。
8月でも8000ベクレルを超えている)

報告:6.4アジ連公開講座「中東民衆革命はどこへ」

64 6月4日、アジア連帯講座は、東京・コアいけぶくろで「中東民衆革命はどこへ」と題する講座を行った。1月14日、チュニジアで二三年間続いたベン・アリ政権は、民衆決起で打倒され逃亡した。2月にはエジプト民衆は、30年続いたムバーラク政権を崩壊させた。この民衆革命の波は、イエメン、バーレーン、リビア、シリアなどへとアラブ世界に波及していった。一連のアラブ民衆の闘いをいかにとらえるのかという観点から湯川順夫さん(翻訳家)、田浪亜央江さん(パレスチナ研究)を講師として招き問題提起してもらった。

 開催にあたって司会は、「3・11東日本大震災と福島第一原発事故以降、中東の報道が少なくなってしまった。しかし、現在進行形でチュニジア、エジプトにおいて政権打倒後、支配者たちと民衆の攻防は続いている。中東全体で見ればリビア、シリアなどでも民衆の闘いが波及し、厳しい闘いが展開されている。中東の民衆革命は、歴史的には非常に大きな出来事であり、世界のあり方を変える兆しを垣間見せているのではないか」と指摘した。



湯川報告



 湯川さんは、「チュニジアから始まった革命の波の意味するもの」について報告した。


 第一は、「民衆の決起と『イスラム主義』の関係」についてアプローチし、「イスラム主義が前面に出ていない」と評価した。

 つまり、「今回の運動は、前段の闘争がすでに始まっていた成果なのだ。グローバリゼーションに抵抗する運動、2000年のパレスチナの第二次インティファーダとの連帯闘争、2003年のイラク反戦運動、2006年以降の労働者のストライキ闘争の闘いを積み上げてきた。アラブ世界の中では、社会の中で労働者階級が相対的により大きな位置を占めるチュニジア、エジプトから運動が始まったのもそのような意味をもつものである。さらに女性の大きな役割があった。タハリール広場で男女が平等に討論し、同じ場所で食事、寝泊りし闘った。エジプトでは『ムスリムとキリスト教徒はひとつ、モスクと教会はひとつ』というスローガンがかかげられた。ムバラク体制からの弾圧に対するイスラム教徒とコプト教徒との共同の闘いも実現した」と提起した。

 そのうえで「テロを展開する『イスラム原理主義』の流れは、現実の大衆、社会との接点ないため影響力はなかった。大衆の中に基盤をおく『イスラム主義』(ヒズボラ、ハマス、ムスリム同胞団)は、事態の圧力に押し流されているだけでイニシアチブを発揮できていない」と分析した。

 第二は、アラブにおける運動の特徴について。

 「闘いの担い手は、若者、労働者、女性だった。自由と民主主義、社会・経済的要求(食品価格の暴騰、賃上げ)を掲げた。インターネットや携帯などの新しい情報媒体を活用した。中間総括的にまとめれば民衆の闘いは、アラブ各国の独裁体制のもとで推進されてきた新自由主義のグローバリゼーションの破綻と矛盾の噴出だ。先進国はいずれもこうした独裁政権を支持し支えてきた。グローバリゼーションが生み出したアラブにおける民衆の運動にタイムラグはあるが、世界社会フォーラムに象徴されるグローバリゼーションに抵抗する全世界的な社会運動の成果である。要するに新自由主義政策は、アラブの民衆に何らの恩恵をもたらさなかった」と結論づけた。

 「今回のアラブ全域への民衆の決起の拡大は、アラブ民族主義の新たな形での復活である。同時に、このアラブ民族主義のバックボーンのひとつをなしているのはパレスチナである。パレスチナ解放はアラブ民衆の共通の悲願であり、パレスチナ解放闘争への支援はアラブ大衆をひとつに結集させる巨大な吸引力をもっている。 アラブ各国における民主主義が前進すればす
るほど、各国で民意が反映されるようになればなるほど、パレスチナ解放闘争に対するアラブの大衆動員は強まりこそすれ、弱まることなどまったくない」と強調した。

 「チュニジア、エジプトの今後の闘いの展望」について「社会経済的要求を掲げた労働者の運動に対抗する『秩序の回復』、『平和的移行』を主張する軍、ブルジョアジー、それを後押しする国際帝国主義という対立構造の出現している。リビアの帰趨が他のアラブ諸国における攻防に大きな影響を及ぼす。予断を許さない局面が続いている」とまとめた。
 

田浪報告
 

 田浪さんは、「アラブ民衆革命とパレスチナ」というテーマで報告。冒頭、2月にパレスチナに滞在中、民衆がエジプト革命成功を祝う夕べの模様などを紹介した。

 分析視点の第一として「民衆蜂起の理由を生み出したパレスチナ情勢」と設定した。


 「エジプト政府がガザ封鎖に手を貸し、積極的にパレスチナ民衆の生活を破壊していた。エジプトの民衆は、このような政府を許さず状況の煮詰まりが爆発していったといえる。一九七九年にエジプトはイスラエルとの和平条約を結んだが、エジプト民衆はその30周年にあたって『エジプトには何もメリットがなかった』という総括をしている。そもそも戦争条約だったという評価だ。これまでのアラブ民雌雄の無力感、閉塞感の自覚、国内経済状況の悪化と失業増大問題などが重なり合った」と提起した。

 さらに「一般的にチュニジアの革命によって広がったという評価だが、そもそも民衆の闘いの自信は、イランの2009年5月の大統領選結果を巡る抗議運動=緑の運動が、『フェースブック革命』と形容された出来事だった」と強調した。

 第二は、「アラブ革命に対するパレスチナ側の反応」について報告。

 「チュニジアの闘いに対して当初は、様子見だった。ベンアリ逃亡後、歓迎集会、デモが行われた。エジプトについても様子見だった。ファタハ政府はエジプトへの連帯デモを禁止していたほどだ。ムバラーク辞任後にデモ等を解禁した。パレスチナ人側に立つ新外相ナビール・アラビー就任とアラブ連盟就任を歓迎した。リビア政府に対しては、民間人虐殺に非難声明を出した。ところがリビア政府のガザへの支援停止とリビア国内のパレスチナ人(7万人)の送金停止はハマース政権に打撃であった。シリアに対しては、ハマース政権はアサド政権不安定化に危機感を持ち、ファタハとの和解に向かった。基本的にシリアの内政問題という立場で現状維持だ。例えば、シリア内のパレスチナ人はアサド支持が多数で苦しい立場にあることに現れている」。

 第三は、「エジプトの民主化デモ、ムバラーク辞任に対するイスラエルの反応」について整理した。とりわけ「ファタハとハマースの和解」についてイスラエル・ネタニヤフが正式合意から2時間ほどで「テロリストに勝利を与えた」と非難したが、イスラエル外務省筋文書にある「和解はむしろ(長い眼で見て)イスラエルに戦略的機会を与える。国際社会を前にイスラエルの立場を弱めてはならず、慎重な振る舞いが必要」という見解の存在を紹介し、「9月、アラブ連盟による国連総会でのパレスチナ国家承認要請の動向を見据えたうえでこういう見解が浮上している」と解説した。そのうえで「むしろイスラエルは実をとり、アラブ連盟によるイスラエル承認と関係正常化を手にするか。今後どのように動くか注視する必要がある」とまとめた。(Y)

【アジ連3.26公開講座報告】~資本主義では生きられないョ!全員集合~

ajirenアジア連帯講座 3.26公開講座報告

「~資本主義では生きられないョ!全員集合~ 『資本論』から読み解く危機と失業青年に襲いかかる失業を跳ね返えそう!」

講師:森田成也さん(大学非常勤講師)

 

 3月26日、アジア連帯講座は、「~資本主義では生きられないョ!全員集合~ 『資本論』から読み解く危機と失業 青年に襲いかかる失業を跳ね返えそう!」というテーマで資本論研究の森田成也さん(大学非常勤講師)を講師に招き、公開講座を行った(コア・いけぶくろ)。著作に『資本と剰余価値の理論――マルクス剰余価値論の再構成』(作品社/2200円)、『価値と剰余価値の理論――続マルクス剰余価値論の再構成』(作品社/2200円)、翻訳にデヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』(作品社/2600円)、多数の翻訳などがある。

 森田さんは、「1、『資本論』から読み解く際の注意点/2、『資本論』1巻の「資本蓄積論」で読み解く失業/3、『資本論』第1巻の「資本蓄積論」の限界を超えての考察」について提起し、最後に「われわれは現代の問題を見て『資本論』に足りないもの、あるいは萌芽的なものはあるが十分には展開されていない部分を見つけ出して、それを『資本論』の精神、マルクスの精神にのっとって理論そのものを発展させていくことが必要である」と述べ、資本論との格闘姿勢を強調した。以下、講演要旨を掲載する。

 『資本論』から読み解く危機と失業

森田成也(大学非常勤講師)@豊島区民センター(2011.3.26)

はじめに

 今日のテーマは「『資本論』から読み解く危機と失業」となっているが、実を言うと、「危機」という問題について曲がりなりにもお話するには、『資本論』全巻にプラスして、さらに『資本論』のいわゆる後半体系(国家、外国貿易、世界市場)というところまで話を展開させなくてはならない。だが、これはちょっと今日の限られた時間の中ではとうてい無理なので、「危機」よりも「失業」の話、すなわち『資本論』の用語で言えば「相対的過剰人口」の話に限定して、それを『資本論』第1巻の資本蓄積論との関係でお話したい。

 

  1、『資本論』から読み解く際の注意点

 

 2008年に世界金融恐慌が起こり、金融資本主義的な路線が誰の目にも明らかな形で破綻した。その後、経済危機を解明していくツールの1つとしてマルクスや『資本論』に対する興味が復活していった。それ以前にすでに新自由主義とグローバリゼーションのせいで不平等と貧困が世界的に顕著となり、それとの関連でもマルクスに対する興味が復活していた。だから2009年頃からこの日本でもいくつかの出版社が争ってマルクス関連本を出版しだした(ただしその多くは安直な単なる便乗本だったのだが)。

 

  『資本論』は完成された書物ではない

 しかし、気をつけなければならないのは、『資本論』は完成された書物ではないということだ。マルクスの生前に出版されたのは、『資本論』の第1巻(初版1867年)だけ。第2、第3巻はいくつかの草稿という形で残され、エンゲルスが10年以上かけて苦労して、ようやくそれらの草稿をつなぎあわせて第2、第3巻を出版した。

 ならばこの第1巻は完成された書物なのかというと、そこも大いに疑問だ。マルクスは最初の草稿である『経済学批判要綱』と呼ばれているものを書いてから、何度も草稿を書いて最終的に『資本論』を書いた。この間は約10年だ。初版から2版にかけてもかなり書き直している。フランス語に翻訳する際にも自ら念入りに手を入れている。大筋の論理は変わっていないが、別の著作とも言えるぐらい細部に至るまで書き直している(現在われわれが読んでいる第4版はフランス語版からかなり文章を取り入れている)。このように何度も書き直しを繰り返したことからしても、第1巻を完成された書物とみなすことはできない。もしマルクスがもっと長生きしていたとすれば、さらに書き直した可能性があるからだ。

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