司法制度が奥西さんを殺した
名張毒ぶどう酒事件で、第九次再審請求を行っていた奥西勝さん(死刑囚)が一〇月四日、八王子医療刑務所で亡くなった。享年八九歳。三五歳で逮捕され、五四年を獄中で暮らさざるを得ず、それも死刑囚として刑の執行におびえながらであった。えん罪を晴らすことができず、無念な最後であった。再審請求は妹の
岡美代子さんが引き継ぐことになった。名張毒ぶどう酒事件は終わっていない。改めて裁判所、検察の許さざるべき体質が明らかとなった。えん罪を生みださないあり方、再審制度が問われている。
一九六一年、三重県名張市葛尾(くずお)地区の懇親会でぶどう酒を飲んだ女性五人が死亡、一二人が中毒症状を起こした。「名張毒ぶどう酒事件」だ。男たちは日本酒を飲んでいて、事件にあわなかった。奥西さんはいったん犯行を自白するが、起訴直前に「警察に自白を強要された」と主張し、その後一貫して犯人でいないことを訴えた。一審名古屋地裁は無罪判決。高裁は逆転死刑判決、一九七二年、最高裁も死刑判決を維持し確定した。奥西さんの孤独な再審の闘いが始まった。最初は一人で再審請求したが、その後国民救援会などの支援、日弁連も支援を行っていた。
二〇〇五年四月、第七次再審請求に対して、名古屋高裁は「再審を開始する。請求人に対して死刑の執行を停止する」決定を出した。しかし、検察の異議で、同年一二月、名古屋高裁の別の部で、再審決定が棄却された。二〇一〇年、弁護団の特別抗告を受け、最高裁は毒物を詳しく検証するよう、名古屋高裁に審理を差し戻した。しかし、二〇一二年、名古屋高裁は再審開始の取り消しを決定した。弁護団は最高裁に特別抗告し、最高裁で争われたが請求は棄却され、現在第九次再審の最中であった。
名張毒ぶどう酒事件は、犯行を裏付ける物的証拠が少ない。そうした中で、奥西さんを犯人と結びつけたのは、ぶどう酒の王冠、農薬、ぶどう酒到着時間などだ。ぶどう酒を歯で噛んで開けたという自白があるが、実は王冠に残る歯型が奥西さんのものでないことが第五次再審請求で明らかになった。また、第七次再審請求では、王冠の足の部分に、奇妙につぶれて曲がった個所があった。弁護団は町工場に依頼し、一八〇〇個を復元し、奥西さんが自白した方法で開けたが、犯行現場に残されたようなつぶれ型をするものは一個も出なかった。
奥西さんが持っていたニッカリンTという農薬を混入させたとされた。ぶどう酒を飲んだ人たちは、白ぶどう酒だったと証言している。第五次再審請求で、弁護団はいまは作られていないこのニッカリンTを探し出した。ニッカリンTは赤い色をしていた。つまり、白ぶどう酒ではなかったのだ。さらに、第七次再審請求では、ニッカリンTを使うと混合物が残ることを明らかにした。飲み残したぶどう酒には不純物は出てこなかった。
事件直後の取り調べに対して、村人たちは「酒屋から会長宅にぶどう酒などが届けられたのは午後二時一五分。それを奥西さんが公民館に運んだのは午後五時二〇分頃だった。この間、複数の村人は会長宅を訪れていた」と証言した。しかし、奥西さんが自白した後は「ぶどう酒が会長宅に届けられたのは午後五時頃」とし、「奥西さんだけが『毒』を入れることが出来た」と村人たちは証言をひるがえした。
一九六一年名張毒ぶどう酒事件、一九六三年狭山事件、一九六六年袴田事件。六〇年代に起きた重大事件で、再審請求・冤罪をはらす運動がずっと続けられてきた。名張事件は一審無罪で、高裁は逆転死刑判決という戦後初めての例だ。奥西勝さんと袴田巌さんは死刑囚として、いつ死刑が執行されるかという恐怖の中で長年闘い続けた。袴田さんは二〇一四年再審が認められた。石川一雄さんは一審死刑、そして無期懲役が確定し、現在仮釈放の身だ。
共通しているのは自白偏重の取り調べ、証拠のねつ造などだ。こうしたウソの自白の強要をなくすためには、代用監獄の廃止、取り調べの全面可視化、全証拠の開示が必要だ。
奥西さんと面会するなど長年、名張事件に関わってきた江川紹子さん(ジャーナリスト)は次のように裁判所のあり方を批判している(「YHOO!ニュース」10月6日)。
「私は、第五次再審請求から本件をフォローしているが、裁判所は確定判決に問題はないかという視点から証拠を見ようとせず、再審を開かずに済む理由を懸命に探すのが、基本的な姿勢なのだと知った。再審を開かせないためには、すでに残骸のようになった証拠にしがみつくだけでなく、検察側も言っていないような化学反応を、裁判官の頭の中で作り上げさえする。特に、ひとたび再審開始決定が出た後の、門野決定や下山決定、さらにはそれを追認した最高裁(桜井龍子裁判長)の決定からは、何が何でもこの事件での再審を開かせまい、という強烈な意思すら感じた」。
「結局、司法にとっては、囚われた人の人権や人生よりも、『裁判所は間違わない』といった無謬神話の方が大事なのだろう。『疑わしきは被告人の利益に』という刑事裁判の原則が再審請求審にも適用されるとした最高裁『白鳥決定』は、ごく一部の稀有な裁判官にしか通じなくなっていると、言わざるをえない」。
江川さんは再審請求に対して、次のように提案している。
「これでは、過去の裁判の誤りを正し、無辜を救済する機能を、裁判所に期待することはできない。再審制度を根本から変えていかなくては、冤罪に巻き込まれた者は救われない、と思う。たとえば、再審開始を決める再審請求審は、今のように裁判官が密室の審理で決めるのではなく、裁判所とは何のしがらみもない市民が関わるようにすべきだ。市民によって判断をする検察審査会方式か、市民と裁判官が協力して判断する裁判員裁判方式がよいのかはともかく、市民が参加して、もっと常識的な目で事件を見直せばよい。さらに、鑑定人などの証人尋問は公開で行うべきだろう」。
「また、現在の刑事裁判であれば、開示されるはずの捜査側の証拠は、再審請求の場合にも、検察は開示すべきだ。名張毒ぶどう酒事件は、今なら裁判員裁判の対象になり、公判前に広範な証拠開示が行われる」。
警察・検察の人権感覚なしの取り調べ・起訴のひどさはいうまでもないが、名張毒ぶどう酒事件の裁判のように、再審決定がされてもなお、それを取り消すことができるような制度の不備を変えなければならない。検察と裁判所のもたれあいを根本から変える司法制度の抜本改正。無罪判決が出たら、検察が控訴できない制度、再審決定への異議を認めない制度の確立。死刑制度の廃止。
(滝)