106560222-1591029199038gettyimages-1238480766われわれは息ができない

人種差別主義的警察の暴力に対する反乱


二〇二〇年五月三〇日

ソリダリティ全国委員会


 五月二五日、丸腰の黒人ジョージ・フロイドが、ミネアポリスの白人警官によって残虐にも殺害された。そして、地方検事や連邦検事は、その行動がビデオに撮影されていたのに、警官の即時逮捕をためらった。このあとに起こったミネアポリスおよびホワイトハウス前を含む他の都市における暴動やデモは、最近起こった広く知られている人種差別主義者によるいくつかの暴力事件に引き続くものである。

 五月三〇日までに、デモは多くの都市に拡大し、抗議行動には多くの人種を含む参加者があった。その多くは若者であり、マスクを着用し、街頭デモのときにはソーシャルディスタンスを取っているように見えた。参加者の中には、地方組織や全国組織によって動員されたように思える人々もいたし、殺害のビデオ動画やその後の抗議行動の動画を見て参加してきた人々もいた。

 フロイドの殺害は、一連の警官による黒人男性殺害のもっとも最近のものだが、それは二〇一四年のミズーリ州ファーガソンでのマイケル・ブラウン殺害にまでさかのぼることができるし、さらに一九九一年のロサンゼルス警察によるロドニー・キング殴打にまでさかのぼることもできる。しかし、今回はそのような警察の暴力が映像に収められた最初のものの一つである。

新型コロナウイルスによる感染者や死亡者の恐るべき統計上の数字が過去数週間、数ヶ月で明らかになってくると、有色人種の人々が医療危機の主な犠牲者となっていることがはっきりしてきた。ジョージ・フロイドの殺害は、警察による蛮行がパンデミックによっては隔離されていなかったことをわれわれに思い出させるものだ。

「黒人のくせにジョギングしている」「黒人のくせにバードウォッチングしている」


 二月には、黒人青年アフマド・アーベリーが、ジョージア州ブランズウィック近郊の自宅近くをジョギングしていると、元警官を含む三人の白人自警団員が彼を呼び止め、彼らの主張によれば、「市民逮捕権」を行使しようとした。一人がショットガンで彼を三発撃ち、もう一人は拳銃を抜いて横に立っていた。三人目の白人市民参加者がその様子を撮影したビデオ映像が公開されてはじめて、ジョージア捜査当局が動き出し、最初に二人を、次に三人目の自警団員を逮捕したのだった。

 地域の白人男性ネットワークが数週間にわたって自警団員を告発させなかったのだが、そのことがわれわれに思い起こさせるのは、一九六四年の「フリーダム・サマー」の間にミシシッピ州で地域自警団と警官によって公民権活動家のチェイニー、グッドマン、シュワーナーが殺害された事件である(訳注一)。

 ジョージ・フロイドが殺害されるわずか数週間前、ニューヨークのセントラル・パークで、公園の規則に従って犬をリードでつなぐように黒人のバードウォッチャーが要請したことに対して、白人女性が警官を呼ぶと脅し、警官に電話で自分の命が「アフリカ系アメリカ人によって脅かされている」と伝えたビデオ映像が明らかとなった。

 その女性と犠牲者になるところだった黒人男性は、姓が同じだった(訳注:クーパー)以上のものを共有していた。つまり、彼女がそのような告発をした事件では、誰のことばが警官や検事、主流派報道機関によって受け入れられるかを二人とも理解していたのである。寒気がするように皮肉なことなのだが、その事件は、一九八九年に「セントラル・パーク・ファイブ」と言われる五人の黒人男性らが、投資銀行員の白人女性をレイプ・殴打した罪で誤って訴追されて有罪判決を受け、服役した事件とまさに同じ公園で起きたのだ(訳注二)。

  アメリカ社会における人種・ジェンダーの醜い現実を、特権を持つ白人が恥知らずにも利用することは、それ自体があくどい行為であり、ミネアポリスで噴出した憤激の感情を強くしただけだった。ほぼ同じときに、ケンタッキー州ルイスビルで黒人医療労働者のブレオナ・テイラーが、間違った住所で捜査令状を執行しようとした警官によって、彼女のベッドで撃たれて死亡した。アーベリーとフロイドの殺害や最近のセントラル・パークでの事件は、もし動画が撮影されていなかったなら、広範な大衆的関心をもたらさなかったかもしれない。

 録音されたジョージ・フロイドの「ぼくは息ができない」という嘆願は、二〇一四年におけるニューヨーク市警の警官によるエリック・ガーナー殺害を痛いほど思い起こさせるものだ。警官も参加した自警団によるリンチ、攻撃されるというほんのささいな妄想(それには黒人がそこにいるということも含まれる)のために白人の特権を利用して黒人に対してすぐに警察を呼ぶという行為、警官による数え切れないほどの非武装黒人の殺害は、黒人がアメリカではこんな風に扱われるという例である。

 このことを助長する政治的雰囲気は、アメリカでもっとも人種差別主義的で反動的な勢力と公然といちゃついている大統領によって煽り立てられている。それはわれわれを支配する政党のうちの一つ(訳注:共和党)の暗黙の共犯およびもう一つの政党(訳注:民主党)の空虚な反対と無力さの中でおこなわれているのだ。

今度は火だ

 アフリカ系アメリカ人に対する続発する暴力によって、数年おきに、悲しみや怒りの噴出が、街への放火や商店の略奪をともなう暴動として表現されるところにまで達する。マーチン・ルーサー・キング牧師が一九六八年に暗殺された後のロサンゼルス・ワット地区の反乱や一九九一年にロドニー・キングを殴打した警官に無罪判決が出された後のロサンゼルスがそうであった。

 ミネアポリス警察署が燃やされたことやその周辺道路を抗議行動参加者に一時的に明け渡したことは、かなりのシンボリックな重要性を持っている。黒人地区の警察署は、警察が公共安全の源ではなくむしろ占領軍であることを常に思い起こさせるものであるからだ。抗議行動参加者たちは、彼らを抑圧するものの物理的シンボルであるミネアポリス警察第三分署を燃やしている炎のすぐ近くで踊っていた。数時間の間、街路はそこに住む民衆のものとなった。

 われわれは、暴動によって起こった損害が黒人コミュニティそれ自身をいかに
傷つけるかを嘆き悲しむ、いつものようなリベラル・保守双方の代弁者からのもっともらしい物言いの大合唱を予想することができる。これもまた一つのもみ消し行為である。都市暴動は結果であって、人種的に隔離されたアメリカの都市において、黒人や他の有色人種の人々が直面している悲惨な生活状況の原因ではないからである。

 人種差別主義的資本主義による数十年間におよぶレッド・ライニング(訳注三)、資本逃避、人種的居住地分離などのために、多くの黒人地域は失業者センターの状態にとめおかれ、そこには絶望・暴力があふれ、役所からは放置されてきた。その一方で、白人居住地域は民間資本の投下や公的支出のおかげで繁栄してきた。より富裕な白人地域は、十分に予算が投入された学校や地域の安全を享受してきたのである。

 第三分署の燃えかすがくすぶっている一方で、もはや息をすることができないコミュニティの怒りもまたくすぶっている。反乱は社会的・人種的公正という酸素を求める叫びである。アフリカ系アメリカ人が過去四百年の間に経験させられた搾取・抑圧・州や自警団による暴力の根源は深く、広いものなので、その解決策もまた膨大なものになる。

 それは、州に警察がおこなっている暴力の責任をとらせ、われわれを支配する政治家によって勇気付けられている自警団員を訴追させることからはじまる。しかしながら、黒人に対する抑圧という広範な問題にとりくむには、根本的な構造変革が必要となるだろう。たとえば、それは人種差別主義的な刑法・刑務所システムの解体、そして奴隷制という犯罪に対するさまざまな形態の賠償(進歩的サークルの中で議論されてきた)を含む富の再分配である。

 一九六三年に黒人小説家のジェームズ・ボールドウィンは、人種的抑圧に関す
る彼の論評集に『次は火だ』というタイトルをつけた。火はやってきている。アメリカ社会の再構築だけがそれが生み出した抵抗の炎を鎮めるのである。

(訳注一:一九六四年夏、ミシシッピ州に人種を超えた学生たちが集結し、それまで選挙での投票権を行使できなかった黒人の有権者登録を促進する運動=「フリーダム・サマー」を展開した。この中で、学生ら六人が殺されたが、特にネショーバ郡で三人が殺害された事件は、映画『ミシシッピ・バーニング』のモデルとなった。)

(訳注二:この事件では、一四〜一六歳のアフリカ系アメリカ人四人、ヒスパニック系一人の計五人が容疑者として逮捕され、長時間による取り調べで虚偽自白を強いられ、六?一三年の刑を執行された。その後、真犯人の自白とDNA検査によって、二〇一二年になって有罪判決が取り消された。)

(訳注三:レッドライニングとは、アメリカの金融機関が低所得の黒人が居住する地域を、融資リスクが高いとして赤線で囲み、融資対象から除外するなどして差別してきたことを指す。)

* ソリダリティ全国委員会は第四インターナショナル統一書記局のアメリカにおける支持組織