配信:12.20チェンさん 「#FIGHT FOR HONG KONG @ 2019」は、12月20日、21日、文京シビックセンターで「香港に自由と民主主義を〜沖縄・日本・アジアのなかで」をメインスローガンに香港から2人のゲストを迎え、香港民主化運動について報告した。

 20日は、陳怡(チェン・イー) さんが「協力と緊張〜香港デモにおける非暴力派と直接行動派」をテーマに報告した(報告要旨別掲)。

 21日は、「衛港之戰2019」をテーマに陳怡さん、區龍宇(アウ・ロンユー)さんが報告した(報告要旨別掲)。

 陳怡さんは、大学院で学ぶ傍ら、この間の社会運動にも積極的に参加してきた。なお香港政府の厳しい弾圧下のため報告会では「お面」をつけざるをえなかった。

 區龍宇さんは、香港の左派の民主派活動家。邦訳書に『台頭する中国 その強靭性と脆弱性』『香港雨傘運動 プロレタリア民主派の政治論集』(ともに柘植書房新社)がある。


■20日 陳怡さんの報告

 香港民主化運動のきっかけは、2月に逃亡犯送還条例の改正案を香港政府が提案しようとしたからです。すでにこの時に抗議行動を始めています。三月末に民間人権陣線(民陣)が組織した抗議行動がありました。12000人の参加者がありました。4月末には、13万ぐらいの参加者がありました。大規模になったのは、雨傘運動の中心だった9人に対して不当判決が出たことが大きな理由だと思います。実際
に雨傘運動に参加した人たちには大きな怒りがありました。

 つまり、逃亡犯送還条例案が出る以前から市民の中で政府に対する不満が渦巻いていたことがわかります。

 6月4日は、天安門事件30周年であり、その抗議行動の参加者は18万人でした。また、雨傘運動2014の5周年も重なってました。以前から6月4日の抗議行動が取り組まれていたが、それぼどの参加者ではなかった。6月9日も大勢の人たちが参加し、103万人でした。香港の歴史上最も大きなデモでした。これは国際的にもよく知られていることだと思います。しかし、その夜に林鄭月娥長官が6月12日に予定
通りに逃亡犯送還条例改正案の審議を行うことを宣言しました。

 市民の怒りは、6月12日に条例案改正案の2回目の審議に対して抗議するために立法会に集まりました。この時に抗議者と警察との緊張関係になりました。平和的な抗議をする人たちと過激な抗議をする人たちが協力しました。

 6月15日、長官は条例改正案の審議を中止すると宣言したが、その後に200万人という規模のデモがありました。その理由は、6月12日に警察が非常に暴力を振るうようになったので、それに対する怒りとそれ以上の要求をしなければと強まったわけです。もう一つの理由は、若い抗議者がビルディングの上で抗議をしていたが、そこから転落死したことでした(6月15日)。

 主催者の民陣は、参加者を200万人と発表したが、市民たちはさらに亡くなった抗議者も含めて200万プラス1人と表わわしました。抗議者の参加者があまりにも多かったので警察は、恐れをなして大勢で出てこなかったと思います。抗議の暴力はありませんでした。つまり、警察がいなければ暴力的な行動がないと言えるのです。

 ほとんどの人が6月15日までは平和的な抗議によって、よい結果が得られると考えていたと思います。しかし、長官は6月18日に謝罪をしたけれども、条例改正案を撤回するとは表明しませんでした。このことによって多くの市民は失望し、抗議者の考え方が変わっていったと思います。

 6月22日、抗議者は警察本部を包囲し抗議した。他の政府の建物に対しても封鎖するという動きを取りました。この時までは民陣は、やれることはなんでもやろうと考えていたと思います。7月1日、抗議者は立法会の中に突入し、施設を破壊しました。民主派議員の一部は、抗議者を止めようとしたが、抗議者はその呼びかけに応えず突入しました。

 これ以降、色々な団体、個人が色々な抗議行動を企画しました。以前は民陣を中心にやってましたが、誰でも行動していくことになりました。ところが7月12日、地下鉄元朗駅で白いシャツを着た男達が抗議者に暴力を振るうという事件が起きました。ターニングポイントになった事件です。

 香港ラジオテレビは、これに関するビデオを作り、詳細に何が起こったのか、証拠の数々が入っています。これからわかることは、警察はこのような襲撃が起こることを事前に知っていたということがわかります。警察は見て見ぬふりをし、協力したということです。

 8月5日は、香港中でストライキを呼びかけました。このあたりで非常に緊張が高まりました。過激派と言われる人たちの行動は、まったく組織だっておらず、バラバラでした。外国勢力がいるとの声もありますが、バラバラぶりはそんなことはない証明です。このころは平和的な抗議者は、過激な行動をとる人たちに対して、自分たちは同じような行動はしないけれど彼らを支援するという姿勢にな
りました。

 写真には8月11日、女性の抗議者が警察が放ったゴム弾に当たった時のものです。私も含めてこれで怒りをかきたてられた。次の日、空港への抗議行動に向かいました。8月12日の抗議行動は、全く暴力がない平和的な行動でした。午後のフライトが全てキャンセルとなり、成功しました。

 8月12日の平和的なデモは、170万人でした。民陣は、「和理非」というスローガンを掲げ、平和的にやろうというメッセージがこめられていました。過激な行動をとるある人たちは、「私たちは、今日は平和的なやり方で抗議行動をします」というプラカードを持って参加してました。

 ところが8月31日に緊張がクライマックスになるような出来事が起こりました。香港の地下鉄の駅に警官が乱入し、抗議者を殴り、逮捕しました。8月のはじめ、抗議行動で自殺した人たちがいると言われていたが、警察に殺されたのだという噂が流れていました。31日も抗議者が殺されたという噂が流れました。

 つまり、多くの抗議者が警察によって仲間が殺されたと信じこんでいます。証拠がないのに多くの抗議者は、より過激な行動になっていきました。警察は、捜査の結果、死者は出ていないと発表している。抗議者は、警察を信じなくなっています。

 10月1日、警察は抗議者に対して初めて実弾を使用した。民陣は、警察に抗議デモの申請をしたが、許可されませんでした。にもかかわらず大勢の人たちによって無許可デモが行われました。権利が抑圧されてはならないと行動で示しました。

 10月4日、長官は集会でマスクをつけることを禁じる禁止令を出した。政府は、いつも間違ったタイミングで間違った決定をしています。覆面禁止法で、市民の怒りが高まりました。地下鉄が止まるという抗議行動が行われた。

 10月16日、民陣の岑子傑が何者かによって襲撃されました。私の友人です。平和的なデモを行っている人たちも同様なことが起こると感じました。また、自由がなくなっていると思わされました。このことがきっかけとなって平和的抗議者が過激な行動で訴えるしかないという方向に変わっていきました。

 11月8日、警察の強制排除の最中に建物から転落して重体だった香港科技大学の周梓楽さんが亡くなった事件です。これも証拠はないが、ほとんどの抗議者は警察に落とされたのだと信じています。多くの抗議者に悲しみをかきたて各地で追悼集会が行われました。

 理工大に立てこもった学生たちは、警察に捕まったら殺されると信じていた人が多くいました。だから降服しなかったのです。逮捕者は1000人で、理工大に立てこもった学生、支援しようとして外にいた人たちでした。その中の200人は、暴動に参加した罪で次の日に裁判に送られました。この罪は、最高で10年も刑務所に送られるのです。

 11月24日の区議会議員選挙に非常に大勢の人が投票して民主派が勝利しました。区議会選挙以来、状況は非常に落ち着いたと思っています。

 区議会選挙で民主派が勝利したことによって彼らが事態を変えてくれるという期待感が強まったからです。抗議に参加している人たちは、長期戦になることを覚悟しています。なおかつ過激な方法ではない抗議行動になっていくのではと考えています。過激なやり方ではなく、別な方法でやったほうがよいと考えるようになってきました。


 以下は、抗議行動の中で私が観察したことです。

 雨傘運動以来、香港の市民社会は2つに別れています。青リボン派と黄リボン派です。青は政府支持者、黄が抗議をしている人たちの支持者です。

 抗議者の宣伝活動は、政府に対して非常に強いものとなっています。政府支持者を効果的に攻撃するようなスローガンなどが考えられています。青も黄もお互いを攻撃するのですが、攻撃の対象となるのが女性になりがちであった。

 青の人たちは、6月9日の抗議行動で若い女性が警察に連行されている写真を使いました。この写真は加工されていて、乳首を黒くしています。この女性はブラジャーを付けていないと強調し、実は「売春婦」だと印象づけようとしています。

 女性の抗議者は、実際に警察によって恥ずかしいめにあうことがありました。服を破かれたり、下着が丸見えで連行されたりです。 黄は、警察によって女性が侮辱されていると非難しました。それに対して警察を支持する青は、抗議行動に参加するような女にはそのような扱いがふさわしいのだと宣伝しました。

 青リボン派は保守だから女性差別をするのは当然だと考えるかもしれませんが、実は黄リボン派も礼儀をわきまえた行動をとると考えるかもしれませんが、女性差別的な宣伝がありました。黄リボン派のある人々は、長官を非難するために女性差別を使った写真を使いました。もちろん長官は最悪ですが、だけれどもそれが女性だからという事実とは関係ないことです。香港は文明化された社会だと考えられていますが、それでも誰かを攻撃する時は、その人が女性だという側面が利用されて攻撃するわけです。

 このように黄派の中でも女性差別だけではなく、階級とかを理由にした差別的なスピーチがよくありました。私は差別について取り上げていろんな人たちと話をしようと思ったが、周りはとるにたらないことを取り上げて、騒ぎたてようとしているという感じで非難されることが多かったです。しかし、このような問題についてきちんと意識を持っていることは大切なことだと考えています。


■21日 陳怡さんの報告

 今日は、私たちの陣営がどのように総括し、次に結びつけることができるのかについてお話したいと思います。また、運動の中で様々な克服しなければならない課題があり、それらを指摘したいと思います。

 この運動が当初、平和的なデモから始まり、様々な過程を経て、警察との激しい衝突に至っています。デモ参加者が自分たちに敵対する人間に対して私刑・リンチを行ったりとか、お店が破壊されたりとかが報道されています。なぜこうなってしまったのか。

 運動が始まってから7月21日に香港の元朗で行われたデモに対して地元のヤクザが自警団を組織してデモ隊を襲う事件がありました。これが運動の大きな転換点になったと思います。

 例えば、9月15日にも大きなデモがあり、その際には別の福建のヤクザがナイフでデモ隊を襲撃し、デモ隊はそれに反撃し、攻撃したことがありました。一般的にはこの行為は犯罪になるわけですが、ただ香港の状況は緊迫しており、一般的な法律概念では理解できない状況になっています。こういう事件が発生することもいたしかたがないと思っています。襲撃に対して防衛目的でやり返す、襲撃に対して恐れていないということを示すことは必要なことです。

 しかし、それから数ヶ月がたちますが、襲撃してくる者たちに対するデモ隊の中で増幅される憎悪が膨らんでいくことになります。例えば、デモ隊に襲撃してくる者ではなく、街頭からヤジを飛ばすような通行人、政府支持派に対しても暴力を行うようになりました。

 私はこれはおかしなことだと思ってます。間違ったことは間違っているとはっきり言うべきだと思います。今後同じような過ちを繰り返さないためには、正しく指摘することが必要だからです。

 私たちの運動は民主化を求める運動なわけです。1人1人が政治的見解を持ち、それを止めることができないのが民主主義です。政治的立場が違うだけで襲撃の対象にしていいわけではないのです。もちろん直接に襲撃してくる者たちに対しては反撃は必要です。

 運動には「分裂はしない」という大きなスローガンがあります。それは運動が分裂してしまっては勝てない、団結しようという意味です。それが徐々に批判を受入れなくなっていきました。友人達も心理的変化が現れていきました。襲撃、店舗破壊、私刑・リンチに対して批判してきた人たちが批判しなくなり、そのような行動を防衛するようになりました。

 そうなってしまったのは、デモ隊が受ける被害があまりにも大きく、それに対する悲しみと怒りが影響しているからです。もう一つの理由は、平和的なデモ支持派は、警察に対する反撃なども含めてそこまで自分はできないとか、申し訳ないとか、不甲斐なさを隠そうとして応援してしまうのでした。

 議論の中では、勇武派の若者たちがいなければ条例改正は成立していただろうし、そのように若者を追い込んでいったのは自分たちの世代のせいだなどの理由で勇武派の行為を擁護する意見がたくさんありました。

 そういう状況が続くなかで、本来やってはいけないことまでやるようになっていったわけです。その後も批判がなく続いています。

 強調したいことは実力で闘争を行っていくことが間違っていることではありません。力関係が拮抗している時、実力を行使することはありえます。例えば、7月21日のヤクザの襲撃がありましたが、その次の週にそれに対する反撃ということでデモを行い、襲撃があったらやり返すと呼びかけました。私も参加しました。ヤクザと対峙する力はデモ隊は準備をしっかりしていればできるということでそのような方針をとりました。しかし、その対象が警察となると同じような力で対抗できないと考えます。

 私たちは民主化運動をやっているわけですから、実力で闘争する場合も無関係な者をなるべく巻き込まないという原則を守るべきです。

 もう一つ議論になったのは、大学での攻防戦です。警察が大学に突入し弾圧をしました。一般的には警察が大学に入ってはだめだという考えです。大学の友人は、学生宿舎に入っています。大学も攻防戦の一つでした。デモ隊が学生宿舎を闘争の拠点にしたと聞いています。宿舎の防犯カメラを全て壊し、入口に火炎瓶をたくさん並べました。

 その宿舎に友達がいました。それを聞いて私は怒りました。宿舎には闘争に参加するかわからない人たちもいるなかで闘争拠点に変えてしまいました。友人は闘争に参加しないことで出ました。その途中でデモ隊が投げた物が彼女にかすめたわけです。その後、大学当局は警察に通報しました。私は大学がやったことは間違ったことではないと思っています。

 米国の香港人権法案ですが、運動は歓迎ムード一色です。しか、この法律は問題があるわけです。香港の人権と米国の外交政策をリンクさせてしまっています。法律の中には、米国が実施するイランや朝鮮に対する制裁を香港は守っているかと監視する条項があるのです。

 もう一つの問題は、米国と香港の間でも逃亡犯引渡条例がありますが、今後、香港が米国の要請に従って逃亡犯を米国に送り返すのかどうかと書かれています。私は「悪魔との契約」として批判しています。香港の人権を守るために逃亡犯を中国に送らないようにするための闘いだったにもかかわらず、自分たちの人権を守るために朝鮮やイランの主権、米国から政治的に亡命する人間を米国に送り返すことは、自分たちの人権を売り渡すことと同じだ。

 理工大の弾圧は、多くの勇武派の人たちが逮捕され、今の状況は少し変わりつつあります。最近のデモでは大きな激突がみられなくなってます。実力路線がボトルネックにつきあたっていると多くの人たちが感じ始めたからです。30歳以下のサラリーマンの人たちは、労働組合を作ろうという動きが出始めています。将来、ストライキ、ゼネストを打って闘争に参加しようというつもりがあるからです。

 それがいつ成功するか、身を結ぶかわかりませんが、新たしい方向でもう一度始めようという若い人たちがいます。様々な闘争の中で失敗もあり、違いがあり、それらを乗り越えて新しい闘争をやりだそうとしていることに希望があります。


配信:12.20チェンさん■區龍宇さんの報告

 香港返還後22年たちますが、香港の自治を守る闘いは、2003年には国家安全条例に反対する闘争がありました。その後、中国は学校の中で北京語で教育をするように押し付けに抗議する運動もありました。2014年には、雨傘運動がありました。そして2019年の闘争です。

 2月から5月は、運動の萌芽期だった。運動は、すべて若者による闘いと言えないでしょう。当初、政府は法律を発表し、反対の取り組みを始めたのは上の世代が中心となっている民主派の主流派であったり、大衆組織に参加している人たちでした。

 決定的な転換点となったのは、6月12日でした。立法会議会の周りを数万人の人々が包囲しました。政府は、それを見て審議をしないと決定しました。にもかかわらず若者たちは議会から立ち去ることはしませんでした。警察は高圧的な態度で若者達に対応したわけです。それで衝突が起こり、デモ隊からブロックを投げる人も出たわけです。

 当初、政府はデモ隊が暴力を使ったら一挙に支持がなくなるだろうと見ていたわけです。香港人は、普段、おとなしく、優しい人たちです。衝突の際にデモ隊には、様々な暴力を振るうわけですが、世論の非難は政府と警察に対してたくさん届けられたわけです。

 6月12日のデモは民権陣線が呼びかけ、200万人の参加者がありました。これ以降、運動が高揚していきました。本当の運動のピークは、8月5日だったわけです。六月から七月にかけて若者たちは、非常に果敢にデモや警察と対峙したわけですが、一方ではその運動の限界を感じはじめていたわけです。実力で警察と対峙するだけじゃだめだということでストライキが必要だと呼びかけはじめました。

 8月5日にストライキが呼びかけられました。そのストライキでは、香港のかなりの交通部門が止まり、経済活動が麻痺しました。飛行場では国内・国際便含めて半分がフライト中止に追い込まれました。

 8月5日のストライキの時は、香港全土で七カ所でストライキ突入集会が行われました。私は長年香港で活動をしてきましたが初めての事態だったわけです。北京政府はすぐに反撃に出ました。キャセイ航空の経営者2人を解雇する圧力をかけました。新しい経営者は、ストライキに参加した労働組合員を解雇する攻撃に出ました。

 ストライキはなかなか難しくなり、学生たちは別な方法でストライキをやるしかないとなった。交通を麻痺させるということです。11月1日もストライキが呼びかけられ、線路の上に椅子を置いたりしました。こういうことを香港の全てのところで電車の線路、バスが通る道路に障害物などを置きました。その日は社会全体が混乱しました。

 副作用がありました。ああいう形でストライキができるのだったら、労働者は俺たちがやることはないから、あとは学生に任せましたよ、となってしまった。8月5日以降、10回以上ストライキ、ゼネストが呼びかけられるが、一度も成功することはありませんでした。

 9月から10月にかけて引き続き拡大していきました。中高校生が立ち上がったわけです。各地の中高生が地元でグループを作り、ヒューマンチェーンをやったり、スタンディングをやったり、様々な形で運動に参加してくるわけです。

 11月11日以降、二週間にわたって香港の大学で警察との攻防戦が行われました。そこで包囲された学生を救えと多くの市民が理工大に駆けつけました。その一方で運動がボトルネックに入りました。

 市民が学生を救えと呼びかけ、10万人以上が現場に駆けつけました。もしその時、警察と衝突も辞さず学生たちを救援したら香港の情勢は大きく革命的情勢に入っていたと思います。しかし、駆けつけた大人たちは、全てを投げ打って警察と闘う準備ができていなかったわけです。警察の警戒線を突破し、衝突をしてまで突破しようとした人たちは数千人いたかどうかの数です。

 9月以降、それ以上の運動が発展することはなく、政府も弾圧することもできず対峙しながら、どちらも引くことができない状態でした。そのような経過を見て、2度にわたる大学攻防戦で敗北し、12月に入るなかで一時的に運動の見直し時期に入りました。実力で闘うことの代償も大きいわけです。すでに6000人以上が逮捕されているわけです。この6000人という数は、香港で収監されている数を上まわ
っています。

 すでにこの運動ではゼネストが何度もよびかけられ、実際に行われ、たくさんの労働者階級が運動に参加している。労働者を覚醒させているわけです。香港の労働運動は、力が弱かった。この運動を通じて覚醒され、労働運動の弱さを自覚し、再認識したわけです。さきほどの落書きの訴えをどのように形にして、運動につなげていけるのかを考えるのが私たちの役割です。

 若い人たちは、労働組合を軽視していました。もちろん自分たちで労働組合を作ろうなんていう人はほとんどいません。運動の中でストライキの力を感じ、11月以降、労働組合を作らなければならないと動き出している人たちが出始めています。38業種の中で組合が結成されたり、準備中だという人たちがいます。

 香港の民主化運動の歴史的意義は、革命をどのように考えるかということです。1989年の北京の民主化運動以降、初めて革命という言葉が香港で使われたことが歴史的意義があります。89年の民主化運動は、非常に壮絶な運動だった。しかし、その時の学生たちは、私たちがやりたいことは革命じゃないんだと必死で革命の言葉を否定しました。ハンストという死ぬまでの闘争をしたわけです。それでも革命という言葉を拒否したわけです。

 天安門で学生弾圧が始まった時、労働者たちも参加していたが、労働者たちは武器をとって学生たちを守ろうとしたが、その時も学生たちは労働者に対して武器をとるな、革命を止めてくれと必死に訴えたわけです。

 香港の今の運動は、若い人たちだけではなく、大人も「時代革命」と叫んでいるわけです。驚きの事態になっているわけです。革命が必要だとみんな言っているわけですが、どのように革命にもっていくのか。中国では多くの革命があったが、政権が交代するだけだった。

 しかし、私たちが実現しなければならないことは、民主主義革命だと思っています。今回の運動の中で市民が民主主義を実現しようという要求があり、中国の過去の農民反乱だと考えている人たちもいる。いずれにしても運動の路線をはっきりとしなければ中国共産党がたどった悲劇を繰り返すことになります。革命政党として出発した共産党が、反動政権になってしまった歴史を繰り返す必要はないわけです。


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