mako-ruizu-1001映画

『ルイズ その旅立ち』

製作・監督・脚本 藤原智子 
1997年/ドキュメンタリー/98分


迫害・弾圧をバネに生き抜くこと

NHKBSの「悪女伝説」(7月13日)で伊藤野枝を取り上げていた。「原始女性は太陽であった」と平塚らいてうが「青鞜」創刊号で、鮮烈にフェミズニム宣言をした。その後、伊藤野枝が二代目編集長に就任。伊藤は封建的女性支配の根幹を婚姻制度に求め、「結婚制度の廃止」を主張した。平塚と伊藤の間には考え方の違い、溝が広がっていった。伊藤が大杉と出会い、明治支配体制を根本から否定するようになっていったからであろう。

このテレビの放映後、七月一六日、東京江東区豊洲のシビックホールで「ルイズその旅立ち」が、中井厚さんと東京琉球館の島袋陽子さんで組織する「きっかけとなる映画を上映する会」によって上映された。

鎖を断ち切った後半生を追う

一九二二年、伊藤ルイさんは大杉栄と伊藤野枝の四女として生まれた。大杉によって、フランス・パリコミューンで活躍した無政府主義者ルイズ・ミッシェルにちなんでルイズと命名された。一九二三年九月一六日、大震災の混乱に乗じて、大杉栄と伊藤野枝そして甥の橘宗一は甘粕憲兵大尉らによって虐殺された。朝鮮人や労働運動家も大量虐殺された。一九一七年ロシア革命、一九一八年米騒動、一九一九年朝鮮三・一万歳独立運動と国内外における政治・民族運動に恐れをなした支配者による予防反革命的大弾圧の一環だった。

ルイさんは福岡の野枝の両親の所に引き取られ育てられた。ルイさんは四〇歳代になるまで、社会運動に関わることはなく、素性も明らかにしなかった。一九八二年、「ルイズ―父に貰いし名は」(松下竜一著)が世に出てから、飛び放たれたように、自らを明らかにして活動に邁進した。一九九六年六月にルイさんは七四歳でがんで亡くなった。

虐殺された両親の真実・生き方

映画はルイさんが亡くなった一カ月後の七月に開かれた「みんなでルイさんを送る会」から始まる。ルイさんの子どもたちや幼なじみ、市民運動の仲間たちによって、人間伊藤ルイがどのような人生を歩んできたかが明らかにされていく。そして、大杉らの虐殺問題が取り上げられていく。両親と甥の殺害がどのように行われたか、その墓の行方について明らかにされていく。橘宗一少年の父による「一九二三年九月十六日、大杉栄、伊藤野枝と共に犬共に虐殺さる」と刻まれた墓碑が作られたが、その墓碑は草むらに隠される所にあった。一九七二年、発見された。野枝の墓は一九二四年に建てられ、その大きな石の無名碑(「野枝さんの墓」と村民たちが呼ばれていた)は三度にわたって移動させられた。

一九七六年、大杉ら三人の死因鑑定書が発見された。検死をした軍医が写しを大切なものとして二重蓋の下に、保管していたものを遺族が発見した。それによると、大杉らは連行後、激しい暴行が加えられ、首を絞められ、殺された。麻布にくるまれ古井戸に投げ込まれ埋められた。軍医によってその麻袋の遺体が描かれていた。ルイさんはこの事実を知り、甚だしいショックを受けた。

o-ruiz弾圧された人々の思いを胸に

ルイさんは「朝鮮人被爆者孫振斗さんに治療と在留を!」運動、「九・一六の会」(多くの有名・無名の虐殺された人々、刑死・獄死・拷問死の人たち、話を聞いたりしようという会)を始める。えん罪事件「甲山事件」の救援、東京拘置所が死刑囚にTシャツの差し入れ拒否したのに対して、本人訴訟で提訴。原告団長を引き受ける。一九八三年、松下竜一さん主宰の「草の根通信」に、全国各地の“草の根”の人々を訪ねての旅日記がしばしば登場するようになる。市民運動をつなぐネット作りに貢献した。

「水に流してはいけない事がいっぱいあるんです。それをためて人生のバネにするんです」(ルイさんの言葉)。

映画上映後に、大杉豊さん(大杉栄の弟を父にもつ)が大杉らの虐殺の経過を詳しく説明し、ルイさんについて「不正義と闘い、闘い尽して、生き切った人生だった。大杉、野枝にも見せたかった映画だ」と話した。

映画のエンディングはワルシャワ労働歌であった。非常に気分がよく、「がんばろう」、「ルイさん、ありがとう」と口ずさみながら映画館を後にした。

伊藤ルイ著作
「海の歌う日―大杉栄・伊藤野枝へ―ルイズより」講談社
「必然の出会い―時代、ひとをみつめて」記録社
「海を翔ける―草の根を紡ぐ旅」八月書館
「この世に希望と解放 そして平和の思いを―ルイさんの遺言―」うみの会

なお、「ルイズ、その絆は~関東大震災60年目」(RKB毎日放送、一九八二年)
上映会があります。八月七日(水)午後七時~東京琉球館(JR駒込駅東口下車2分、固定電話03―5974―1333)要予約10人