湯川講座 4月20日、アジア連帯講座は、文京区民センターで「アラブ革命の展望を考える『アラブの春』の後の中東はどこへ? ジルベール・アシュカルの提起を受けて」をテーマに公開講座を行った。

 2011年にチュニジアからはじまり、エジプト、リビア、そしてアラブ全域に一気に広がった「アラブの春」の運動は、イスラム主義勢力ではなく、青年、学生、女性、労働者が中心的な担い手であり、自由と民主主義と社会的要求をかかげ、独裁体制による警察・軍隊を使った残虐な弾圧にもけっして屈することなく抜いた。だが、この民衆反乱は、そのまま発展することなく、「イスラム国」の台頭、シリア内戦の激化に見られるように、中東全体が再びアラブの春以前の状態に舞い戻ってしまったかのようである。
 一体、「アラブの春」はどうなってしまったのか、どこへ行ってしまったのだろうか? 民衆の運動の後退は長期にわたって続くのだろうか? 

 ジルベール・アシュカル(レバノン/アラブ中東問題)は、多くの人々が抱くこの疑問に対して、「アラブ革命の展望を考える」(柘植書房新社)で提起している。アシュカルは言う。「『アラブの春』は挫折し、今日、『アラブの冬』を迎えることとなってしまった。だが、アラブ全域の革命過程は長期にわたる過程であるとみなしていて、現在が揺り戻しの局面に入っているからといって、けっして悲観的な立場には立っていない。長期的展望に立って、革命派の極を強化し
>ていく必要がある」と強調する。

 講座は、本書を翻訳した湯川順夫さんが解説(別掲)の提起を行った。

 国富建治さん(新時代社)は、「『アラブの春』年表」に基づいて、

①2011年1月14日のエジプトで民衆の広場占拠から独裁者ムバラクが大統領辞任(2月11日)
②リビアへの闘いの波及とシリアへの波及(しかし家産国家の付属物としての軍の役割)について
③リビア―NATOに支持されたリビア国民評議会が首都トリポリ制圧(8月)からリビアの独裁者カダフィ殺害(10月)について検証した。

 さらにエジプトにしぼり、
①議会選挙(11月~12月)でムスリム同胞団が第1党になり、2012年7月のエジプト大統領選挙でムスリム同胞団のモルシの当選について
②12月の新憲法を問う国民投票―ムスリム同胞団と軍ならびに大衆との離反の深まり局面
③七月、軍のクーデターによってムスリム同胞団=モルシ体制が転覆され、軍主導のシシ大統領政権が成立する。軍政権=シシ体制の下での新自由主義的開発政策を強行していくプロセスなどを明らかにした。

(Y)

『アラブ革命の展望を考える』を読む   湯川順夫

 ロシア十月革命は、民族自決権を掲げた東方諸民族大会(1920年9月)、全ロシア・ムスリム大会の決議(1917年5月22日)、「女性問題についての大会決議」(5月23日)などにみられるようにロシア・ツァー体制と結びついた土着支配体制の専制と搾取 それからの社会解放の展望をアラブ・中東世界にも影響を与えた。その後のスターリニズム体制下で希望は幻滅へと向かうが影響は残り続ける。

 第2次大戦後、ナセルやバース党に代表されるアラブ民族主義が当初、マルクス主義の勢力に対抗するため急進的路線を取らざるをえなかった。既存の政権は、1980年代以降、共産党、パレスチナ解放人民戦線 イスラム主義ではない潮流に対する恐れからイスラム原理主義による防波堤を建設せざるをえなかった。また、アラブ民族主義に対抗するためにサウジ王国によるイスラム主義勢力への支援が開始される。1973年10月の第4次中東戦争とその後の『石油戦略』、多額のオイルマネーがイスラム主義勢力支援によりいっそう注がれていく。

 このプロセスを私市正年は、『原理主義の終焉か ポスト・イスラム主義論』(山川出版社)で次のように要約している。

 「産油国にはアラブ諸国から敬虔な青年たちが教師や宗教指導者として集まり、多額の賃金を獲得した。都市には失業者や貧困者のスラム街が形成されていたが、国家の福祉政策は遅れ、そこに支援の手を差し伸べたのがモスク建設や慈善活動やイスラム教育などにかかわったイスラム主義者であった。彼らの活動資金は石油の富からもたらされていたのである。こうして都市スラムの住民たちがイスラーム主義者の連帯のネットワークに包み込まれていった」。

 「爆発的な人口の増加により、都市には人口が集中したが、国家はこれに対し大学の定員をふやすことで対応した。しかしそのため教室にはいりきれない学生や、本も買えず授業や試験対策も十分できない学生が急増した。イスラム主義者たちは、こうした学生たちのためにモスクで補習授業をしたり、安い値段で教材を複製コピーしたり、さらには特別のスクールバスを用意して女子学生が安心して登校できるようにもした。これらの活動にも石油の富が使われた。まさしく『石油』イスラムの誕生である」。

 「体制を攻撃したマルクス主義者たちが深刻化する社会矛盾や経済危機に有効な手段を講じられないでいるあいだに、イスラム主義者の勢力が伸長し、1970年代半ばになると、大学や職場でイスラム主義者と世俗的なマルクス主義者とのあいだで主導権争いが激化し、時には暴力的な衝突に発展することもあった」。

 「1980年代にはいると、イスラム主義運動はムスリム諸国全体に広がった。国家中枢における腐敗や汚職の実態が表にでるようになると、ナショナリストの政治指導者はますます専制的になった。またマルクス主義の権威はまったく力を失い、かわってイスラーム主義が政治権力を主張するようになった。イスラミストがとく公正な社会の実現は、宗教的な言説で語られ、具体像が提示されなかったが、腐敗、経済政策の失敗、専制主義、自由の抑圧を痛罵するメッセージ性は未来の理想社会として多くのムスリムを魅了した」。

 その後、1979年のイラン革命を契機にしながら80年代「イスラム主義の勝利」が広がり、支配層にとって「半体制」としての「ムスリム同胞団」の存在意義が示されていくのであった。

 このよう認識を参考にしながらアシュカルはアラブ世界、中東世界を観る視点を次のように提起している。

 ①歴史的に見れば、イスラム主義が一貫して強固に支配続ける「不変の」世界とはみない。歴史上、常にイスラム主義が前面に出続けて来たわけではない。内部が均質的な社会ではない。
 ②世界資本主義体制の中に組み込まれた従属的「周辺」として帝国主義支配下におかれてきたが、パレスチナ解放闘争を軸にしたアラブ民衆の反帝国主義的反シオニズム的結集という共通基盤がある。そのもとでの家産的資本主義下の国家機関、軍隊、経済への一族支配がある。だがそれを反映した内部矛盾と対立が発生し、青年、学生、女性、労働者の闘いが持続している。

 アシュカルは、本書(序章「革命のサイクルと季節」/終章:「アラブの冬」と希望を中心に)でこの構造を「一つの革命、二つの反革命」と規定し、「アラブ/中東世界における3つの勢力のトライアングル」(①イスラム主義勢力②世俗派既存政権③革命派=青年、学生、女性、労働者)を次のように分析している。

 「それは、直接的でない場合でも潜在的に三つ巴の闘争を生み出した。これは、歴史上の大部分の革命的激動におけるような革命と反革命という二項対立ではなくて、一方におけるひとつの革命的極ともう一方における二つの相互に対立し合う反革命陣営との間の三つ巴の対立なのである。後者は、地域の旧体制とそれに対する反動的な対立勢力であって、この二つはともに『アラブの春』という解放を目指す願望に同じく敵対している」。

 「この複雑性を知っていたなら誰であれ、アラブの反乱が短期で平和的なものになるかもしれないなどという幻想をけっして抱かなかったであろう。この地域では、革命的極を組織的に体現するほど十分に強力で、アラブ諸都市の広場で表明された『人民の意思』に沿った社会・政治的変革を政治的に指導する能力をもつ組織的に十分な勢力が存在していない。そうした中では、二つの反革命的陣営の間の二項対立的な衝突が、革命的極を背後に追いやることによって、支配的になってしまった。このようにして作り出された情勢は、危険な可能性をはらんでいた」。

 「『地域の政治的軌跡において、過去数十年間の反動的展開を消し去り、十分に民主主義的な基礎の上に進歩的な社会プログラムを復活させることができるような根本的な変革が起こらないならば、地域全体が野蛮に陥るという危険がある』……はたせるかな、実際には、地域の政治的軌跡の根本的で持続的な転換は起こらなかった。そうした転換は、組織的で断固とした進歩的大衆の指導部が登場した結果としてはじめて生まれ得たからである。そうした中で、『アラブの春』の陶酔感は間もなく、『アラブの冬』とほとんど断定的に呼ばれるようなものの暗黒に飲み込まれてしまった」。

 次にアシュカルは、2013年の中東情勢から一つの転換であったことを明らかにしている。要約すれば①シリア―崩壊寸前だったアサド政権がイランの軍事的支援によって生き延び、反転攻勢へ ②エジプト―同胞団のモルシ政権の打倒、軍部のクーデター、シシ政権の成立 ③イスラム主義勢力の中心的源泉―サウジアラビア。湾岸諸国の首長体制 ④カタール=「ムスリム同胞団」、アメリカのオバマ政権の路線とも合致 ⑤イラン―シーア派=イラクの支配層、レバノンのヒズボラ、湾岸諸国のシーア派 ⑥トルコのエルドアン体制―国内の危機からトルコ民族主義の強化へ→クルド族への軍事的弾圧作戦のエスカレート―などとスケッチすることができる。

 そのうえでアシュカルは、左翼の闘う指針に向けて「左翼にとって同盟とは」と問い、「長期的な戦略的同盟ではなくて、情勢に応じた柔軟で短期的な戦術的統一戦線政治的に独立した勢力として自らを堅持すること」の重要性について掘り下げる。

 例えば、「チュニジアにおけるイスラム主義派(アンナハダ)と旧体制派に対する第三の極が必要」であり、エジプトにおいては、「ムスリム同胞団との同盟は? 対ムバラク闘争の局面とムバラク後の選挙の局面との違い」はどうだったのか。「中東・アラブ世界におけるイラク反戦の大衆運動の組織化するためにイスラム主義潮流とは?」どうするのかについてアプローチし、次のようにまとめている。  「……中心的問題は、自らが宣言する、あるいは真の左翼であればおしなべて宣言すべき価値観に対して、アラブの左翼の主要部分が過去において忠実なままにとどまりつづけることができなかったということである。搾取され、虐げられたすべての人々のために、ありとあらゆる範囲の社会的・民主的闘争に積極的かつ断固として参加する左翼―フェミニスト的価値観や民族解放の価値観を擁護して活動するとともに、宗教に関する民主的な諸権利とともに世俗主義をも大胆に支持する左翼(きちんと理解された世俗主義が第一に擁護すべきなのは、ヒジャブを被らない女性の権利と同じくらいにヒジャブを着用する女性の権利である)―このような左翼だけが、中核となるべきいかなる価値観についても反対の極に立っている勢力との短期的な戦術的同盟を結ぶことができるのである」。

 「左翼は、その時々に純然たる戦術的理由で『ありそうもない仲間』と『共に打つ』―旧政権の勢力に反対してイスラム勢力と協力する、あるいはその逆であっても―のだが、どちらの場合においても、二つの反革命陣営から同じように距離を置いて自身の根本的な道を明らかにすることで、常に『別個に進んで』いくべきなのである。戦術的な同盟は必要な場合には悪魔との間でも結ぶことができる。だが、そうした場合でも悪魔を天使として描くようなことを決してしてはならない。たとえば『ムスリム同胞団』を『改良主義者』と呼んだり、旧体制勢力を『世俗派』と呼んだりして、その深く反動的な本質を表面的に飾り立てることはしてはならないのである」。

つまり闘う指針は、こうだ。「統一したアラブの革命」を展望し、①パレスチナの解放②石油・天然ガス資源の国営化③ユダヤ人やキリスト教徒やクルド人などの宗教的、民族的マイノリティーの権利の尊重、自決権の承認④国家と宗教の分離⑤女性への抑圧の撤廃などの人権と平等の確立、男女の平等、夫婦における権利の平等、未成年者の結婚に禁止、離婚の権利、名誉殺人の禁止⑥言論、結社の自由、労働者の権利、労働組合の権利の確立合⑦王制、首長制の廃止―などを掲げることだ。

 「アラブの春」の運動とは何だったのか。

 酒井啓子は、『9・11後の現代史』(講談社現代新書)の中で「『春』に希望を抱くアラブ知識人のなかには、『今はまだ長い革命の途上なのだ』と主張し、フランス革命やロシア革命など、歴史上の大革命の例を引いて自己弁護する者も少なくない」と評して遠回しでアシュカルを批判する。

 だがアシュカルが強調するのは、「歴史の終焉」=20世紀とともに「革命の時代は終わった」、「資本主義は永遠に続く」と称するブルジョア評論家たちに抗して21世紀になってもいぜん「革命」の潜在的可能性が失われていないことを立証し、21世紀になって新自由主義の下でパンなどの食料品価格の高騰、青年の失業の増大、政権の腐敗、民主主義と自由の欠如に現れる、アラブ・中東世界の矛盾はいっそう深まっている時代認識を捉えきることが重要なのである。

 この視点は、ツァー体制下のロシア1917年2月にも似た情勢という観点から分析すると興味深い。新自由主義の下でのアラブ・中東地域の経済の行き詰まりがあり、近代化とオイルマネーによる教育水準の大幅な向上があるにもかかわらず青年、女性の慢性的な高失業率だ。しかも家産的資本主義の下で、縁故(コネ)がなければ職にありつけない。女性が高学歴の教育を受けられるようになって来たにもかかわらず、差別のために就職口が限られている。このような民衆の鬱積が沸騰点に達していた。チュニジアの反乱は、露天商を営む失業青年の抗議の焼身自殺だったことに現れている。

 革命の観点から掘り下げていくためにトロツキーの提起が参考になる。

 『ロシア革命史』では「革命の最も明白な特徴は、大衆が歴史的事件に直接干渉することである。平時にあっては、……歴史はそれぞれの専門家-君主、大臣、官僚、議会人、 ジャーナリスト-によってつくられる。ところが、旧秩序が大衆にとってもはやたえがたいものとなる決定的瞬間には、大衆は彼らを政治的領域からしめだしている障壁を突き破り、彼の伝統的代表者たちを一掃し、彼ら自身の干渉によって新制度への最初の基礎工事をつくりだすのである」。

 トロツキーの視点を土台すれば、次のように要約することができる。

 「アラブの春」は、もはやたえがたいもののとなっていた旧体制に対して、やむにやまれない形で大衆が決起した。しかし、イスラム主義派は、既存のイスラーム主義政権や世俗派政権に対する具体的なオールターナティブを提示できない。現実の大衆の要求にもとづく社会運動を展開して、既存の政権(世俗派政権にもイスラム主義政権にも)に反対する運動を展開できない。

 民衆は、携帯、スマホという最先端の情報技術を武器に専制体制の検閲と弾圧をかいくぐり、情報を交換し、討論し、独裁打倒へと結集していった―不均等・複合発展の法則を体現していると言える。

 その中心勢力は青年、学生、女性、労働者であり、社会的要求を掲げた。賃上げ、組合活動の自由、女性の権利などだ。イスラム主義的要求は前面にはでなかった。世俗派、イスラム主義、宗教の違いを超えて結集した。

「春」を担った青年、学生、労働者の主体は、パレスチナ民衆のインティファーダへの連帯闘争、官製組合の指導部に抗して自立的な独立労組を求め、賃上げや食料品価格の高騰に反対するストライキ闘争、労働者のストライキを支援する学生の連帯闘争、女性の権利を守る闘いなどを通じて準備されていた。

 民衆の憎悪の的であった警察機構が真っ先に解体し、ひるむことなく決死の覚悟で決起した圧倒的多数の前では、軍隊の兵士は動揺し、分解せざるを得ない。まさにロシア革命と同じだ。

 民衆の決起は、旧国家機関を麻痺・解体し、新しい民衆自身の下からの権力機関を自ら生み出していく。萌芽的に二重権力状態だった。

 この決起によって旧来の国家権力機関は麻痺し、半ば解体状態に陥った。この権力の「空白」に対して、独裁体制を打倒した民衆は、自らの権利を主張し始めた。労働者は独裁体制とつながっていた経営者を追放し、国家と癒着した半官製の労働組合とは別に新たな自立した労働熊井の結成を開始し、賃上げを勝ち取り、非正規雇用の身分を脱して正規雇用の地位を勝ち取りつつある。チュニジア、エジプトなどでは地区では自分たちで地区委員会を結成し、革命の成果を防衛し、自らの社会・経済生活を自分たちで管理し始めた。 既存の国家権力の暴力装置に対しても同様のことが見られた。

トロツキーは言う。

 「群衆は、警官にたいしては、凶暴な憎悪をしめした。彼らは、口笛、石塊、氷の破片をもって、騎馬巡査をおいだした。一方、労働者は全然ちがった態度をもって兵士に接近した。兵営、歩哨、巡邏(じゅんら)兵、および列兵の周囲には、男女労働者があつまって、兵たちと友情的な言葉を交わしていた。これは、ストライキの発展、および労働者と軍隊との個人的結合によって生まれた新しい段階であった。このような段階は、あらゆる革命に必然的にあらわれる」(『ロシア革命史』)。

 こうした事態が「アラブの春」では起こらなかっただろうか? 軍隊による弾圧にもひるまない圧倒的大衆の蜂起の中で、アラブの既存国家の中の軍隊の兵士は動揺しなかっただろうか? リビアではカダフィによって絶望的で残虐な大量虐殺に投入された軍隊は完全に分解し、その一部は反乱する民衆の側に合流した。
 この事態を恐れたチュニジアとエジプトの軍上層部は、軍による大々的な流血の弾圧によって生じる可能性のある軍隊の全面的分解を防ぐために、それまで自らが支えて来たベン・アリとムバラクという独裁者の切り捨てに踏み切った。

 それではロシア革命との違いは何かを見てみよう。ロシア革命は、1905年の革命を経験した労働者の先進層と社会主義政党指導部の存在があったが、「アラブの春」はあくまでも「統一したアラブの革命」の長い革命の過程の始まりであった。

 また強力なこの大衆運動のもうひとつの注目すべき特徴は、イスラム主義が前面にでなかったという点であり、イスラム主義勢力が最初から前面に出てこなかったという点である。それどころか、エジプトのムスリム同胞団は当初、この運動への参加をためらいさえした。また、高揚した運動の中では、宗教、宗派を超えた連帯が見られた。広場におけるムスリム同胞団とキリスト教系のコプト教徒の連帯 対ムバラク独裁体制の闘いが展開された。西はモロッコから東はイエーメン、イランにまでアラブ・中東全域に運動が拡大したことだ。

  アシュカルは、「トランプ政権下のアラブ・中東情勢の現局面」と設定し、アラブ・中東地域における主要勢力の相互関係の構図を予測している。次のように要約しておく。

①アメリカ帝国主義

  ブッシュ時代のイラク軍事侵攻が今日の地域の野蛮状態を生み出した 『野蛮の衝突』(アシュカル著/作品社)。 オバマ政権は、アフガニスタン、イラクの直接的な軍事侵攻の破産の後を受けて地上軍の撤退、クルド勢力を切り札とした介入=地域全体に対してはカタールを通じて間接的介入へ。シリア反政府派に対する積極的支援はしなかった。アサド政権のみがイラン、次いでロシアから一方的に国際的に支援される。その結果、アサド側が優勢になり内戦の力関係の逆転する。反政府勢力の中で、サウジなど湾岸諸国からの軍事的、経済的支援を受けた原理主義派部隊が優位に その一部はヌスラ戦線を経て「イスラム国」へ流れていった。チュニジア・エジプト型の大衆蜂起型の展望の挫折へとつながる。

 こうしてシリア内戦は、シリア人民に依拠した勢力の対立から遊離し、人民に統制されることのない「根無し草」的「傭兵部隊」相互間の無慈悲な戦争に転化。クルド勢力のみが大衆的基盤の上に立っている。
 トランプ政権は、イランを排除したロシアとの合意によるシリア和平 ロシアがイランを見限ることはないのでジレンマに陥っている。オバマにもとで冷却したサウジアラビアとの関係の修復の試みるが、反カタールとエルサレム問題がある。これは地域全体の戦略から導き出されたものではなく、トランプ政権の米国内基盤(シオニスト・ロビー、キリスト教保守派)をつなぎとめるものだ。保守派全体の支持を得られるかどうかは疑問だ。

②ロシア・プーチン政権

 エネルギー資源のみに依存するロシア経済から脱却できない。この危機の中でロシア民族主義にもとづく対外強硬路線、対アメリカ、対EU強硬路線(ウクライナ問題など)を選択している。それはシリアへの直接的軍事的支援をイランと結び、トルコのエルドアン政権への接近、利用へと踏み込んでいる。③イラン 核問題による対外経済関係の悪化のために経済情勢が悪化し、イスラム主義にもとづく国内に対する締め付けに対する民衆の不満が増大している。その圧力の下で支配層内で強硬路線の継続か改革かの路線の対立が発生している。

 中東地域全体に対してサウジアラビアとの間で覇権争いが起きている。シーア派勢力への支援という「口実」でシリアへの積極的な軍事支援し、レバノンのヒズボラの民兵部隊をアサド支援に投入している。

③イラン

 核問題による対外経済関係の悪化のために経済情勢が悪化し、イスラム主義にもとづく国内に対する締め付けに対する民衆の不満が増大している。その圧力の下で支配層内で強硬路線の継続か改革かの路線の対立が発生している。

 中東地域全体に対してサウジアラビアとの間で覇権争いが起きている。シーア派勢力への支援という「口実」でシリアへの積極的な軍事支援し、レバノンのヒズボラの民兵部隊をアサド支援に投入している。

④トルコ

 NATO加盟国であり、地域におけるアメリカ帝国主義の重要な同盟国だ。エルドアン政権の危機は、2015年の総選挙で現れた。公正発展党(AKP)が敗北、過半数を失う。クルド+左翼勢力の連合、極右民族主義派の伸長へ。結果としてトルコ民族主義を前面に出す路線に転換し、クルドに対する戦争を再開する。アメリカのシリア内クルド支援策と衝突し、ロシアに「接近」していく。

⑤カタール

「ムスリム同胞団」を通じた「アラブの春」の勢力の取り込みを行う。イスラム主義だが、「アラブの春」をイスラム主義の水路へと導いていった。オバマ路線とも一致だったが、しかしサウジアラビアと衝突する。

⑥サウジアラビア


 既存の政権の打倒はサウジを含む湾岸諸国の体制の危機につながるから「春」には反対だった。例外は、イランが影響力をもつ既存政権=シリア・アサド政権は打倒の対象だ。地域の覇権をめぐるイランとの対抗が基本路線だ。米軍侵攻後のイラクにおけるシーア派の台頭やシリアのアサド政権へのイランの軍事的支援に危機感を持っている。イエメンの内戦への介入を行っている。

 「アラブの春」の潜在的脅威、地域におけるイランの覇権の強まり、石油収入依存の経済から脱却し得ていない状態が続き、世界的な化石燃料「離れ」などによる危機の深まりがある。「冬」の到来による二つの反革命的陣営の対立が前面に入っている。

⑦リビア

ハフタル(旧カダフィ体制残党)対「ムスリム同胞団」系+原理主義派の内戦状態。


⑧イエメン

 現大統領(サウジの後押し)対前大統領サーレハ派+フーシ派(シーア派の一派)の間の内戦状態にある。

シリア情勢について

 アシュカルの『野蛮の衝突』の第1章を中心にして報告したい。

 当初は、地区委員会の結成などチュニジア、エジプト型の反アサド政権の大衆運動 シリア民衆に依拠した大衆的運動が拡大し、アサド政権、崩壊の危機に直面する。そのことを「今日、シリアの非アサド派地域全体に何百もの地区評議会が存在している。……これらの地区評議会は、市民社会の組織の広範なネットワークによって支えられている。これはシリアにとって、これまでになかった経験である。これこそシリア革命のエッセンスである。地区評議会と市民社会の諸組織のこの組合せは、下からの地区単位の試みの結合である。地区の人々のためにあらゆるリスクをものともしない女性と男性はヒーローである」とまとめている。

 だが、チュニジア、リビア、エジプトの前例、すなわち、ベン・アリ一族、カダフィー一族、ムバラク一家の滅亡から、アサド一族は、「政権を譲っても自分たちが生き残れる未来はない」とする「教訓」を導き出し、最後まで戦うしかない、となった。

 反政府運動が圧倒的な大衆的蜂起に向かうのを回避し、その運動を純軍事的、宗派的な軍事的衝突に持っていった。刑務所から反政府派のスンナ派原理主義派の戦士の釈放される。「イスラム国」との取引が行われた。

 こうして、大衆的デモの人数が減少するにつれて、スンナ派原理主義部隊による「ジハード」的戦闘が前面に出てくる。これはアサド政権の望むところであり、アサドはこれによって無慈悲な軍事作戦をエスカレートすることが可能になった。「テロリストと戦っている」のだという大義名分を得ることができるからだ。

アメリカのオバマ政権の対応についての評価を延べたい。

 イラク、リビアの破綻から直接的な反政府派への軍事的支援が困難になる。

 直接的軍事的支援は、クルドだけに限定した。反政府派全体への直接的な支援は行わない。「アサド政権」との和平という枠組みが基本政策だ。イラク、リビアへの介入の失敗からアメリカが引き出した教訓からだ。既存の国家体制の完全な解体は、新たな支配秩序の再建を著しく困難となり、既存の国家体制を残す。

 窮地に立つアサド政権に対しては、2013年以降、イラン、ロシアが直接的な軍事的支援を行った。

 イランはレバノンのシーア派民兵のヒズボラの部隊を投入した。2013年以降、アサド政権側の反転攻勢によって内戦の形勢逆転が起こる。イランは、当初は「アラブの春」を支持するがシリアにまで波及すると、一転して「アラブの春」に敵対する陣営に移った。

 トルコのエルドアン政権は、アサド政権やイスラム国との戦いではなくて、クルド攻撃が主要動機だった。

 サウジアラビアなどの湾岸諸国は、イランとの対抗もあり、スンナ派原理主義「戦士」を軍事的、経済的に支援した。反政府派の中で原理主義派兵士が主流になるが、その一部は、「イスラム」国に流れた。

 こうしてサウジを中心とする湾岸諸国からの大量の軍事的、経済的支援を得たスンニ派原理主義戦士たちが反政府派の中で優位になる。大衆的基盤を持たないこれらの戦士たちは、アサド政権から民衆を防衛しているというよりも、産油国の豊富な資金に寄生し、民衆から遊離した「傭兵部隊」としての性格を強めていった。

 クルド族は、トルコ、シリア、イラク、イランにまたがって存在している。現時点では、唯一、大衆的基盤を持った反政府派だ。「イスラム国」と本当に戦ったのは、クルド派民兵だ。アメリカの支援を受けるが、トルコ対アメリカ関係の亀裂、トルコの「ロシア」への接近によって困難な局面に入る。

 こうして三つ巴の対立の中で、シリアは、革命派の運動は後景に追いやられ、2つの反動的陣営の対立が前面に出る野蛮の衝突の局面に入る。

 アシュカルは、「春」の後のエジプトについての情勢について、「ムスリム同胞団」支配の破綻からシシのクーデターへのプロセスを分析している。以下、要約して報告する。

 「2011年1月5日に開始された革命の波には、その後まもなく、既成体制に対する反対派の中で主要な反動的構成要素であるムスリム同胞団が参加してきた。進歩的構成要素である左翼とリベラル派は、ムスリム同胞団とはそれまで不安定な協力関係を維持していた。同胞団は革命プロセスの拡大を食い止めようとして、潜在的反革命の選択肢として闘争に加わった」。

 この革命の第一波は、軍による2月11日のクーデターで乗っ取られた。これは、ムスリム同胞団の支持を得て、旧体制を保護しようとする保守的クーデターだった。反革命両派はどちらも1月25日革命の目標に敵対していたが、イスラム原理主義派の影響力が大きくなり、国家支配を求めての最後の一線を越えようとするまでは協力していた。

 一方、革命プロセスは発展を継続させ第二波へと突入していた。その第二波は、とりわけ労働者の闘争が頂点を迎える中に出現し、2013年6月30日に運動がクライマックスに到達する前には現実のものとなっていた。この第二波は、モルシが2013年6月30日に大統領となった瞬間から、反革命的イスラム原理主義を第一の攻撃対象としていたので、革命勢力には再び[腐敗した]反対派の主要な反動的構成要素、すなわち反革命の別の翼、今回は旧体制派が加わってきた。

 革命の第二波は、次の7月3日、反動的クーデターで乗っ取られた。軍が本格的に旧体制を復活し始めるまでにそんなに長くはかからなかった。エジプト革命の絡み合った道筋は完全に一回りした。要するに、それは長期的な革命プロセスにおける最初のサイクルであった。

 この過程でモルシ(ムスリム同胞団)の政権と軍事クーデターによってそれを倒したシシ政権に共通することは、①IMFの構造調整策への無条件の屈伏とその履行(緊縮と赤字財政の解消)②公共労働者への締め付け、物価高騰③労働運動に対する弾圧の強化などだ。

 以上の過程におけるアラブ民族主義派と左翼の連合の戦略の問題点は、二つの反革命陣営に対して第三の戦線を構築しようとする首尾一貫した戦略を追求しようとしなかった。

 2011年11月~12月、同胞団主導の「民主連合」の一員として選挙に(6議席、同胞団125議席)出る。


  その後、ムルシ政権と対立すると、2012年の大統領選挙に第三の陣営として立候補する。


 「フルル(ムバラク残党)でもなく、同胞団でもなく、革命はまだ広場にある」のスローガンが象徴的だ。第1回投票で20.7%を獲得したが、その後、ムバラク派の残党や軍との連合を選択する。だが、第3の戦線の路線を貫徹できずの状態が続いている。