第二回講座写真第二回「マルクス・エンゲルスのロシア革命論の変遷」

 八月一八日、文京区民センターでトロツキー研究所とアジア連帯講座の共催で森田成也さん(大学非常勤講師)を講師に連続講座「永続革命としてのロシア革命――マルクス・エンゲルスからトロツキー・グラムシまで」の第二回目が「マルクス・エンゲルスのロシア革命論の変遷」をテーマに行われた。

 森田さんの提起の柱は、「1、マルクス、エンゲルスのロシア論、ロシア革命論の基本的特徴」、「2、1850~60年代マルクスとエンゲルスのロシア像、ロシア革命像」、「3、ロシア・ナロードニズムの生成とマルクス・エンゲルスとの対立」、「4、マルクス・エンゲルスのロシア論の転換Ⅰ――過渡期」、「5、マルクス・エンゲルスのロシア論の転換Ⅱ――第1の転換」、「6、マルクス・エンゲルスのロシア論の転換Ⅲ――第2の転換」、「7、マルクスの最後の見解――ザスーリチへの手紙と『共産党宣言』ロシア語版序文」、「8、マルクス死後のエンゲルスのロシア論、ロシア革命論Ⅰ――前半」、「9、マルクス死後のエンゲルスのロシア論、ロシア革命論Ⅱ――後半」であった。

 提起内容の一部要旨を以下紹介する。

(Y)



森田さんの提起(一部要旨)

 マルクス、エンゲルスのロシア論、ロシア革命論の基本的特徴

 
 マルクスとエンゲルスは基本的に、初期の、ロシアにまだほとんど資本主義が存在しなかったころの印象が非常に強く支配されていて、ロシアの労働者階級が革命の主体であるという点が抜け落ちたままロシア革命の展望を論じるという基本的弱点が存在した。

 そこにはオリエンタリズムという問題がある。それは彼らのロシア論に先鋭な形で示された。たとえば二人は一八四〇~五〇年代には、資本主義は世界システムであり、その文脈で革命を考えるべきだと主張し、『共産主義の原理』や『共産党宣言』でもそのような展望に基づいていた。『宣言』の最後の文句は「万国の労働者団結せよ!」だった。しかし両名の頭の中では、「万国」と言ってもだいたい西ヨーロッパと北アメリカに制限されていて、とくにイギリス、フランス、ドイツだった。なぜこの三国かというと、この三国の言語を彼らは縦横に使うことができたし、実際にこの三国に時期が違うけども暮らしていたし、自分の友人や知人も家族も、この三国のいずれかにいた。この三国に対しては、かなり権威を持って語れるし、それは大いに参考になるものだが、この三国を離れるやいなや、具体的に語ることはたちまちできなくなる。

 これは非難しているのではなく、ある意味当然のことだ。自分の知らない国・地域について具体的に分析してその国の正しい革命路線を確立することなどできるわけがない。だからマルクスのロシア論、ロシア革命論を金科玉条にするのはきわめて危険だということになる。

  ロシア論の第一の転換
  
 基本的に一八四〇年代末から一八五〇年代前半にかけて、マルクス・エンゲルスにとって、ロシアはヨーロッパにおける反動の防波堤であり、反革命の牙城だった。それは一八四八年革命におけるロシア軍の反革命的役割によってはっきりと証明されており、両名とも、ヨーロッパ革命のためにはロシアと戦争しなければならないとさえ考えていた。それに対してポーランドはヨーロッパ革命の前衛とみなされ、民主主義的ポーランドの再興こそ、反動の牙城ロシアから革命ヨーロッパを守る防波堤になるとみなされていた。

 ところが、このような状況は一八五〇年代に変わり始める。まず、これまで無敵で不敗の軍隊だったはずのロシア軍がクリミア戦争で敗北した。ロシアの支配層は、今までのような旧態依然とした農奴制国家であるかぎり、ヨーロッパの文明化し産業化した国には勝てないと痛感した。そこで上からの産業化と農奴解放という「大改革」が始まる。マルクスとエンゲルスはすでに一八五〇年代末ごろから、ロシアが一枚岩の反動国家ではなくなりつつあること、農奴解放をきっかけとして革命的動きが内部から起こりつつあることに注目した。たとえばマルクスはエンゲルスへの手紙の中で(一八五九年一二月一三日)、「次の革命ではロシアもいっしょに革命を起してもらいたいものだ」と言っている。その後、マルクスとエンゲルスは繰り返し、今度はロシアがヨーロッパ革命の口火を切る可能性について語るようになる。反動の牙城から革命の前衛へとロシアの位置づけが変わったわけだ。

  ロシア論の第二の転換
  
 その後、さらに、一八七〇年代になってから第二の転換が生じる。当初、マルクスもエンゲルスも、ロシアの農村共同体が未来の社会主義・共産主義の基盤になるというゲルツェンやバクーニンの考え(これは基本的にナロードニズムと呼ばれるロシア土着の社会主義思想の基礎となった)をばかにしていた。なぜならそれは明らかに史的唯物論の原則に反するし、農民にそんなことを行なう力量などないことは明らかだったからである。

 ところが、マルクスが一八六七年に『資本論』初版を出版すると事態が大きく変わり始める。ロシアのペテルブルクから突然一通の手紙がマルクスのもとに届く。『資本論』のロシア語版を準備しているというのだ。筆者はダニエリソンという若者で、当時はまだ外国語が出されていなかったのだから、これは驚くべき反響だった。マルクスは、当時の手紙の中で、これまでずっと自分の敵であったロシア人からこのような手紙が来たことについて驚きをこめて報告している。これをきっかけにして、マルクスとロシア人急進派との交流が始まる。その後、マルクスはダニエリソンを通じて『ロシアにおける労働者階級の状態』を読んだり、チェルヌイシェフスキーの著作を読んだり、農村共同体に関するさまざまな資料や研究書を読み漁るようになる。ロシア語もすぐに上達し、すらすら読めるようになる。

 こうした研究を通じて、マルクスはしだいに、ロシア・ナロードニキの共同体論がけっして荒唐無稽なものではなく、考慮に値する議論だと考えるようになる。エンゲルスは当初はマルクスのこの転換についていっていなかったが、やがてマルクスに影響されて、同じような認識を持つようになる(ただしマルクスのほうがよりナロードニキへのシンパシーが強かった)。

 さらに、この転換に続いて、革命の手段・方法に関しても大きな転換が両名に訪れる。一八七八年にロシアで「土地と自由」という名前の革命的ナロードニキの結社が成立し、これがやがてツァーリを倒すためにテロリズムを組織方針として採用するようになり、これをめぐって組織が分裂し、組織的テロを主張する人民の意志派と、それを否定してこれまでのナロードニキの立場を維持しようとする「黒い割替」派が成立する。後者の組織には、後にロシア・マルクス主義の創始者となるプレハーノフやザスーリチが含まれていた。

 マルクスとエンゲルスは当時、このテロリズム活動に共感を示し、これによってツァーリズムが倒れれば、ヨーロッパ革命への合図になるだろうとみなすようになった。そして実際に一八八一年三月に人民の意志派はツァーリ殺害に成功し、両名ともそれを支持したのだが、実際にはこの結果、「人民の意志」派は徹底的な弾圧を受け、壊滅の道へと突き進むことになる。

 こうして、マルクスとエンゲルスは、農村共同体の意義についても、革命の方法についても、基本的にナロードニキの立場を受け入れることになる。これは、「労働者階級の解放は労働者階級自身の事業である」というマルクス主義の根本的理念からするとちょっと信じがたい転換だが、マルクスは基本的にこの路線を死ぬまで堅持する。農村共同体に関しては、マルクスの最後の見解が、有名なザスーリチへの手紙の草稿と『共産党宣言』ロシア語版への序文に示されている。ザスーリチへの手紙の草稿は、マルクスが生前に書いたほとんど最後のまとまった文章だが、草稿段階では相当詳しく農村共同体についてナロードニキ的見解が語られていたのだが、実際にザスーリチに出した手紙ではかなり短縮され、かなりそっけないものになっている。この変化の理由についてはいろいろと憶測されているが、この点については中身をより深く検討する次回の課題にしておこう。

 また、両名の連名で発表されたが実際にはエンゲルスが書いた『共産党宣言』一八八二年ロシア語版序文では、ロシア革命がヨーロッパ革命と相互に補い合うならばという条件付で、ロシアの農村共同体が未来の社会主義のための基礎になりうることが明言されている。ヨーロッパ革命という条件を入れたことは、史的唯物論の原則からの根本的離脱をかろうじて回避するものであり、エンゲルスのイニシアチブによるものであろう。いずれにせよ、晩年のマルクスの理論がきわめてナロードニキ的なものであったことは間違いない。

  マルクス死後のエンゲルスのロシア革命論
  
 エンゲルスはマルクスが一八八三年に亡くなってからもさらに一二年長生きした。その間にロシアでは資本主義がきわめて精力的に発展し、労働者階級が成長し始め、農村共同体の解体は不可逆的に進行することになる。エンゲルスはこの過程にそれなりに注目していて、しだいに農村共同体の社会主義的意義について懐疑的になっていった。さらにその間に、ロシアでマルクス主義者の組織が新たに生まれ、それがナロードニキと激しい論戦を行なうようになる。こうした中で、エンゲルスの見解はしだいに晩年のマルクスの見解から離れ、ロシア・マルクス主義の見地へと接近していくことになる。

 まずもって、マルクスとエンゲルスが期待したような早期のロシア・ブルジョア革命は起こらなかったし、革命の起爆剤になると考えたテロリズムも、ツァーリ暗殺に成功しながら、組織は壊滅状態になった。それに拍車をかけたのは、一八八八年に「人民の意志」派の最高幹部だったチホミーロフが転向し、革命を放棄するに至ったことだ。これでテロリズム路線は完全に破産し、一握りのインテリによるテロリズムでは革命が不可能であることが明らかとなった。

 さらに、ロシアの農村共同体に希望を託す発想についても、ロシアの社会的現実の具体的な分析に基づいてナロードニズムに対する全面的な批判を展開したプレハーノフやザスーリチらの影響を受けて、しだいにエンゲルスの中で克服されていく。晩年のエンゲルスがプレハーノフに宛てた手紙などを見ると、今なおナロードニズム的展望にこだわるダニエリソンに対するかなり辛らつな発言が見られる。和田春樹氏はこのような発言を、エンゲルスが文通相手に配慮したものにすぎないと言って過小評価しているが、それはかなり苦しい説明だろう。

 では結局、ロシアの農村共同体の運命についてどう考えればいいのか? 実はこれは問題の本質ではない。決定的なのは、ロシアにおけるブルジョア革命の主体を握るのはどの階級なのかであり、それが労働者階級であれば、革命の勝利は必然的に社会主義革命へと連続していかざるをえない。そして、このような革命が勝利した時点で、農村共同体がまだ残っていれば、それを今さら解体する必要はなくて、それを積極的に生かせばいいのである。実際のところどうだったかというと、一九一七年一〇月の時点でも、農村にはかなり共同体が残っていたし、地主の土地を収奪した農民たちはそれを自分たちの農村共同体のあいだで分配するという行動を取った。だが、それが農村の社会主義化にとって本当に有利だったかどうかはまた別問題である。なぜなら、共同体の共同所有になったとしても、土地の占有と用益は個人的なものだったからだ。この土地の個人的占有こそ、農業の集団化にとって非常に重大な障害となったからである。