1967hongkong
文革や「六七暴動」は、表面的には極左的一面もあったが、その本質の大半は極右である。文革のスローガンには「一切を否定せよ」というものがあったが、毛主席の絶対的権威は、その「一切」には含まれず、逆にその絶対的権威をさらに神格化し、中国共産党政権を神権国家へと変えてしまったのである。これは極左ではなく極右である ――― 區龍宇

 

「六七暴動」とは1967年7月から11月まで、香港の中国共産党組織が発動した英植民地政府反対運動。中国で始まっていた文化大革命の影響を受け、それは爆弾闘争として展開された。闘争期間中に1167発の爆弾が町中に設置され、15人(警官2名、イギリス軍人1名、年少の姉弟をふくむ市民12名)が犠牲になった。このようなかつての武装闘争を「極左のなせる業」とする元共産党系新聞社の記者で、現在はリベラル派のジャーナリストがウェブマガジンに掲載した長文の論文に対して、『香港雨傘運動 プロレタリア民主派の政治論集』の著者である區龍宇氏が、批判する論文を書いた。區氏は、武装闘争を指導した中国共産党のスタイルは極左というよりも、国家主義を個人主義にまで高めた点でいえば極右のスタイルにより近いものであり、毛沢東時代を「極左」と規定することは、その後の鄧小平時代から現在に至る中共の立場を客観的に擁護することになると指摘する。雨傘運動の前後から登場した極右排外主義もまた、反共・反中国ではあるが、中国共産党の極右主義と共通する部分も多いと指摘する。原文は「無國界社運 Borderless movement」より。著者からの指摘で冒頭に若干の補足を加えている。訳注は[ ]および※で示した。(H)


 

「六七暴動」をどう規定すべきか


2017
515

 

區龍宇

 

「六七暴動」という北京政府の鼓舞によって発動され、人民をペテンにかけたエセ蜂起の亡霊が、いまふたたび首をもたげようとしている。だがかつては中共支持者で、その後苦難の人生を歩んできたと考えている程翔[原注1](※)は、「六七暴動」に関する長文のなかで、「六七暴動」は赤色テロであると論証している。

 

香港では、いまだスターリンや毛沢東の本質を理解できずに、真の左翼と偽物の左翼の違い、左翼と右翼の違いも理解できておらず、それゆえに暴動の亡霊が再臨しつつあるいまにいたっても、「熱血公民」という極右排外主義者の本質を理解できずにいるのである。

 

程翔は、そのような主張が、客観的には中共の免罪に手を貸すことになることを理解していない。

 

※程翔:香港の中国政府系日刊新聞の元記者で89年天安門事件に抗議して辞職、2005年に中国滞在中にスパイ容疑で逮捕され5年の実刑判決を受けたが08年に保釈。

 

● 白色テロなき赤色テロ

 

白色テロは、簡略化を厭わず言えば、支配階級が自らに抵抗する反対派にたいして法的範囲の内外で行う暴力的攻撃のことである。赤色テロとは、反対派に対する白色テロにたいする実力的反撃である。この種の決死の闘争がヒートアップし続けると、それは往々にして内戦となり、その際に暴力が濫用されることは避けがたい。

 

国民党と共産党の闘争を例に見てみよう。1925年に中国の第二次革命が勃発した。当初は国共が協力して北伐を進めたが、1927年に[国民党の]蒋介石が共産党にたいする弾圧を行い、上海では多くの共産党員が殺害された。その後も国民党は共産党討伐を進めてあっというまにファシスト化していった。他方、中国共産党はスターリンの指導のもと、第二次革命があきらかに敗北したにもかかわらず、それを認めようとせず、1927年に広州と南昌で暴動[武装蜂起]を実行した。暴動は惨敗し、湖南省共産党委員会は敵軍[国民党]の湘南[湖南省南部]への南下を阻止するために、街道沿いの十里四方の村落を焼き打ちさえしたのである!後に、中国共産党の歴史家でさえも、これによって当初は共産党にたいする反感をもっていなかった人々が共産党に反対するようになったことを認めている[原注2]。このような赤色テロは、その後もおりにつけ再演された。毛沢東は白色テロへの反撃にかこつけて、多くの無実の同志を殺害した。これがいわゆる富田事変である。

 

中共の「赤色テロ」には擁護しがたい面もあったが、しかしそれは白色テロにたいする抵抗という状況下での応答だったのである。もちろんそれは不正確な応答ではあったのだが。だがもし「六七暴動」が赤色テロだというのであれば、白色テロはどこに存在していたのだろうか。67年5月、イギリス植民地政府は人造プラスチック工場のスト労働者を弾圧した。これは労働者の権利を侵害する事件である。だがこれは白色テロとは言えない。白色テロが存在しないのに、香港共産党みずから「赤色テロ」を作り出した。なんら正当な理由のない武装闘争であり、まったくのでたらめと児戯であり、どうりでのちに中共自身が「あれは間違いだった」と認めたわけである。

 

● 香港共産党官僚の保身のために

 

香港共産党はなぜこのようなでたらめを行ったのか。それは偉大な毛主席が「プロレタリア文化大革命」というでたらめを行ったからである。「六七暴動」は文革という大状況下の産物にすぎない。しかも「プロレタリア文化大革命」という名称自体、一語一語すべてにおいて間違っているのである。まず、これは革命ではない。そして、このエセ革命を主導したのはプロレタリアートではなく官僚集団の最高指導者である。さらに、内容も文化革命とはまったくの無縁で、毛主席の言いつけをしっかりと守れない部下を打倒することが目的であり、その過程で20世紀の焚書坑儒が行われ、官僚独裁の妨げになる文化一切を殲滅してしまったのである。

 

このとき、中国大陸の最南端にあった香港共産党の最大の関心は「反植民地闘争」や「人民の利益」などではなく、いつなんどき最高指導者の紅衛兵の炎が自分たちを焼き殺すのか、ということにすぎなかったのである。自らの地位のために、香港共産党トップであった梁威林と祁烽は、ほんの小さなストライキを無限大にもちあげて、それを反英抵抗運動に祭り上げたのである。香港共産党の当事者である金尭如は回想録のなかでつぎのように述べている。

 

「香港新華社[香港における中国共産党の出先機関]はすでに紅衛兵の扇動的情緒に満ちていた。おおくの中下層幹部は……小字報[ビラ]で、香港の党組織の中に『走資派』がいないかどうかを香港新華社の指導部に問いただしていた。……新華社の実権派は……批判の矛先を他に向けて、自らの地位と権威を守ることだけを考えていた。もし香港やマカオで反帝反植民地闘争がおこれば、新華社内部の『革命大衆』は内部で造反することもなく、中央政府も幹部を北京に償還することもないだろうというわけである……」[原注3]

 

いまでも六七暴動を擁護する人が少なくない。植民地支配があまりに酷かったからというわけである。その通り、たしかに酷かった。ではなぜ中共はさっさとそのような酷い植民地から香港を回収しなかったのか?なぜ逆に香港の労働者にたいして「静かに解放を待て」と言い続けたのか? 実際、当時多くの香港の若者が植民地支配にがまんならず、「静かに解放を待て」ない状況だったのである。1966年のスターフェリー運賃の値上げ反対闘争で、蘇守忠[25歳の青年]が座り込み抗議を行い、それが幾千もの青年たちの抗議行動を促した。これは戦後の青年世代における反植民地闘争のさきがけとなった。だが当時の香港共産党はそれを支持しなかったばかりか、逆に敵視したのである。しかしまさかその一年後に、自己保身から自らも武闘派に転身し、爆弾で「黄色の皮の犬[地元警察官]」(と通りすがりの無辜の民)を爆殺することになろうとは思いもよらなかったのである。

 

● 反英闘争はカモフラージュ

 

第一段階(非暴力不服従段階)において、香港共産党が反英闘争を呼びかけたとき、影響下にあった民衆は断固としてそれを支持したし、影響下になかった普通の青年のなかでもそれを支持する人がいた。植民地政府は白色テロを行っていたわけではないが、腐敗と抑圧ははやくから民衆の怨嗟の対象となっていたのである。しかるに三罷業[労働者のストライキ、学生の授業ボイコット、商店主の同盟罷業]が成功せず、第二段階の爆弾闘争にグレードアップしたとき、周辺の支持はすぐに失われた。これは当然のことである。労働者民衆はかならずしも政治倫理と道徳学を学んでいるわけではないが、目的と手段はたがいにふさわしくなければならないことは、多少なりとも理解しているのである。なにゆえストライキのために爆弾を爆発させなければならないというのか。しかし、このときに香港共産党の影響下にある大衆は、死をかけてその指示に忠誠を示した。なぜなら香港共産党が「植民地政府が頭を垂れないのであれば最期までたたかう」というスローガンを提起したとき、大衆は中央政府が香港を回収するつもりだと受けとめ、そして死を賭して奮闘したのである。

 

だが、そもそも……そもそも中央政府は香港を回収する意図などはなから持っておらず、逆に、香港植民地統治の繁栄と安定を維持することを考えていたなどと、いったい誰が知っていただろうか!まさに中共によって大衆がいいように使われ、天気が変わるように方針が変わり、まったく信頼に足らず、自らの信頼と栄誉を損なっただけでなく、影響下にあった大衆に苦汁をなめさせ、さらに理想にたいする幻滅という悲劇をも押しつけたのである。この闘争ののち、香港共産党の大衆的基盤は失われた(それにともない香港の労働運動も犠牲になった)。その後、共産党は大衆的基盤を再建したが、それを成したのはかつてのような真に信念から生じる無私の精神をもった大衆ではなく、見返りや地位を求める愚民にとってかわったのである。

 

香港共産党の堕落の過程は、中共政権全体における同様の過程を反映したものにすぎない。かつての国民党、そしてその後の共産党は同じように被抑圧人民を代表する民主革命党としてスタートしたが、同じように新しい支配者、しかもファシスト型の独裁的支配党として変質した。「悪魔に反対すればするほど悪魔化する」(ミイラ取りがミイラになる)。共産党について言えば、この変質は1989年の六四天安門事件で完成した。文革はこの堕落の過程の中間段階にすぎなかった。

 

これによって、なぜ文革や六七暴動を「極左」と呼ぶこと、あるいは「六七暴動」の主要な教訓が「防左」(左翼から防衛する)の二文字(張家偉[原注4])だという主張が、どれほどミスリードであるかは明らかである。文革や「六七暴動」は、表面的には極左的一面もあったが、その本質の大半は極右である。文革のスローガンには「一切を否定せよ」というものがあったが、毛主席の絶対的権威は、その「一切」には含まれず、逆にその絶対的権威をさらに神格化し、中国共産党政権を神権国家へと変えてしまったのである。これは極左ではなく極右である。

 

● 左右もわからずどうして「防左」ができるのか

 

現代では「極左」とは、たんに極端、ひいては極端な暴力であると理解されている。それでは極右やファシストは極端ではないのか?暴力を用いないのか?両者の区別はどこにあるのか?1956年の国民党による暴動と1967年の香港共産党による暴動の質的違いはどこにあるのか? 極左を単に極端であるとのみ理解する認識では、そもそも左翼と右翼の歴史的脈絡をはっきりさせることなどできはしないのである。

 

いわゆる左派と右派の違いは、右派とは保守主義に属し、極右とは極端な保守主義のことである。なかでももっとも顕著な特徴を持つのは、絶対的権威主義であり、それは「上は賢く下は愚かで、それはずっと変わらない」という考えを絶対的に信じており、それが極端に発展したものこそ、神権国家である。この種の価値観は、支配階級の利益を表したものにすぎない。

 

それとは逆に、左翼はおおむね平民精神を主張し、民主主義、自由平等、富の再分配、世俗主義(非宗教)などによって表現される。それはまた被支配者の利益をいくらか代表している。

 

「極左」とは、これらの主張を極端に推し進めたもの、あるいはすぐに結果を求めようと直反応するものをいう。その傾向の一つは、下層大衆の抵抗の自然発生性を崇めるとともに党による指導に反対するというものである。大きな社会運動が出現するたびに、この種の思想もかならず登場してきた。雨傘運動においても例外ではなかった。無政府主義者においてこの傾向は最も突出していることから、往々にして極左派とされてきた。しかし「六七暴動」はこのような本来の意味での極左とは全く逆であったにもかかわらず、どうしてそれを「極左」といえるのか[原注5]。文革に至っては、大衆の自然発生的な要素もあったが、それは主要な要素ではなかった。文革は「毛主席みずから発動し、みずから指導した」[林彪が毛沢東を持ち上げて語った言葉]ということを忘れてはならない。

 

文革時期の中共には、ある種の極左的現象はあったが、本質的には極左とはいえない。逆に、まさに文革の開始のときから、極左的言辞に満ちていたにもかかわらず、実際には極右の歴史的軌道に乗っていたのである。なぜならその時点ですでに民主主義、平等的価値観、労働者人民の利益とは全く無縁であったからだ。なぜならそのときにすでに中共は抵抗者から支配者に、そしてさらに独裁政権から神権政権に堕落したからである。文革は毛沢東という大司祭が、自らの権力のために青年を利用して劉少奇や鄧小平を打倒し、さらに軍隊を使って青年を打倒することで、自らの神聖性の基礎を固めたものにすぎない。「六七暴動」はこの全くナンセンス劇のなかの一幕にすぎない。

 

極左はもとより悪いが、しかし極左と極右では、悪さの性質と方法に大きな違いがある。被害集団と利益集団にも違いがある。それゆえその対応方法もそれぞれ異なる。もし左右の違いを区別することもできないのであれば、極右であろうと極左であろうと、それからの被害を防ぎ、対峙することなどできないだろう。どちらかの側につく必要はないが、左右の基本的な国際政治の分類についての基本的認識もないままではすまされない。そのような認識を持てなければ、ペテンに陥ることははっきりとしている。「六七暴動」の際の熱血青年や雨傘運動の前後に現れた極右排外主義にたいして、香港の民主派の多くが「同伴者」だと考え、ついには雨傘運動におけるメインステージに対する攻撃(※)を甘んじて受けるに至ったのである。

 

※雨傘運動の後期、オキュパイの中心であった金鐘地区に民主派が設置した発言ステージをめぐり、極右派はその撤去を激しく主張した。

 

● なぜ独立思考が重要なのか

 

「六七暴動」からは確かに多くの教訓をくみ取ることができるが、労働者人民の立場にたてば、この教訓は単なる「防左」ではなく、いくつかのレベルにおいて真剣に検討すべきである。

 

1、雨傘運動以降も多くの人が「不正義に抵抗するすべての手段は正義である」と主張している。しかし「六七暴動」の教訓は、まさにこの主張の間違いを明らかにしている。手段はつねに効果的なもの、まったく効果のないもの、そして全く逆効果のものがあるにもかかわらず、「抵抗するすべての手段」を用いるなどどうして言えるのか。状況に合わせ、最大多数を団結させることができてこそ、良い手段なのである。そうでなければ扇動家に利用されるだけであり、あるいは「憎悪の連鎖」という落とし穴に陥るだけである。

 

2、民主化闘争は曲折した険難な道であり、直感だけに依拠することはできず、目標と路線の絶えざる思考が必要で、善悪の分別を認識し、独立した思考能力を養わなければならない。もしそのようにふるまうのではなく、口先だけで自分を信じるように大衆にもとめる政治的指導者がいるとしたら、それは扇動家であり、民主主義の教育家と実践家ではない。

 

3、「悪魔に反対すればするほど悪魔化する」という格言は、民主化運動に反対する思想的論拠にも悪用できる。つまり、労働者人民がたちあがって独裁政府に反対すれば、その結果、暴力の応酬となるだけであり、ひいては社会的後退を招き、得るものより失うものの方が多いので、おとなしい良民であるほうがましだ、という主張である。だがこのような考えも間違っている。それは客観的には、独裁政権に無関心でいるように人民に思考停止を求める主張だからである。民主的抵抗は必要であり、暴力の連鎖を防止する方法もある。

 

4、「悪魔に反対すればするほど悪魔化する」という状況は中国では一般的で、そうなるには多くの理由があるが、その理由の一つは、中国の歴史において革命はよく見られたことであるが、しかし易姓革命(政権交代)のほうが多く、本当の民主的革命は極めて少なかったことが挙げられるだろう。このような歴史的運命から脱するためには、真の人民精神、そして民主的精神をいっそう強調することが必要である。文明がはじまって以来、社会は支配階級と被支配階級に分裂した。外国では比較的完成された代議制度のもとで、多くの労働者人民が被支配者として、四年に一度、腐った政治家の中から比較的ましな候補者を選んでいるにすぎない[アメリカ大統領選挙を指している]。香港それすらもできないでいる。中国にいたっては選択肢のメニューに独裁しか示されていない。真の民主派は自らの階級的立場を明確にする必要がある。多数の労働者人民の立場に立つのか、それとも両者の間の中間に立つのか、それとも支配階級の立場に立つのか。理性的な分析においても究極的な道徳的判断基準が必要であり、庶民大衆および青年、女性と一緒に呼吸し、ともに困難に立ち向かうという民主的精神こそが、立脚点となる。言い換えれば、民主と科学は依然として我々の歴史的任務だということである。それは往々にして容易に回答し得ない任務であるにしても、である。

 

2017515

 

原注


[1]
「六七暴動」的恐怖主義根源


[2]
《中共七十年風雲録》,利文出版社,1992年,153頁。中共はこの苦難の問題の核心をはっきり述べることができず、スターリンの責任問題をあいまいにし、責任を瞿秋白と李立三などの初期中共指導者に押しつけている。


[3]
《中共香港政策秘聞實錄》,金堯如,田園書屋,1998年,88-9頁。


[4]
《五十年了香港終究要防左》,明報,2017511日。


[5]
レーニンは中共から「教師」と称されていることから、極左とは何かについて述べる資格が充分にあるだろう。彼の「共産主義における左翼小児病」では、ドイツ共産党内部の極左指導者を批判している。レーニンに批判されている極左は独裁者だったのか?暴力で知識人の頭を打ち砕いたのか? いやじつは全く逆である。レーニンに極左と批判された人々は、大衆抵抗の自然発生性を崇拝し、「指導」などいらないと主張していたのである。文革や六七暴動を単純に極左だとひとくくりにすることは、「マルクス・レーニン主義」をしっかりと理解していないということである。