_89839304_89839303(一連の写真は現在闘われている労働法制改悪反対闘争)

NPA結成から7年:計画、現実、問題

ピエール・ルッセ

 

 以下の論考はギリシャDEAの理論誌「Kokkino(赤)」のために書かれたものである。かなり長文だが、問題の全側面を扱っているわけではない。実際には、これは決して完結しない論文であり、常に書き直しや補足を必要とする。その主要な目的はNPAについて、その誕生から今日までの成功と失敗の教訓に関する集団的な思考を促すことである。


 ヨーロッパのラディカル左翼の諸組織は最近における突出した政治的経験や選挙の経験に関心を集中する傾向がある。ギリシャのシリザから始まって、スペインのポデモス、ポルトガルの左翼ブロック、さらには、多くの場合ドイツの左翼党やイタリア共産主義再建党、デンマークの赤緑連合、その他の政党がそれに含まれる。これは全く正当なことである。しかし、それ以外の「何か新しいことをする」試みも、たとえその成功がささやかで、短期間であったとしても、分析の価値がある。それは広範な国内的条件について思考するための素材を提供する。


 重要なことは、「何か新しいことをする」試みが本物であり、単なる表面的なものではないことである。二〇〇九年のフランスにおけるNPA(反資本主義新党)の結成がまさにそうだった。言うまでもなく、このイニシアチブは革命的共産主義者同盟(LCR)そのものによって開始されたが、LCRは特別大会で自らを解散した。われわれ、あるいは少なくともわれわれのうちの何人かはわれわれがルビコン川を渡ろうとしていることを知っていた。次に何が起ころうとも、過去に戻ることは不可能だろうということを。その後の経過は、実際に戻ることは不可能だということを証明した。


 LCRそのものが再編のための枠組であった。分裂だけでなく、いくつかの統合も経験してきた。しかし、それは「時代遅れ」の組織にとどまり、一九六〇年代と七〇年代のラディカル化の産物だと見られていた。


 フランスでは、ポルトガルやギリシャと違って、「同時代的」な大衆運動の政治的表現を創出しようとする最近の試みはすべて失敗してきた。韓国やブラジル(初期の労働者党)のような、階級的労働組合運動を基礎とした、あるいは基礎の一部とした労働者の党は設立されなかった。共産党や社会党から分裂した左翼がラディカルな政治的行動のパターンに持続的な影響を及ぼすこともなかった。斬新で広範な社会運動が「怒れる者たち」とポデモスのような新しいタイプの力学をもたらすこともなかった。


 そのような手詰まり状態の中で、LCRはこれまで踏み入れたことのない道に進むことを選択した関心を持つ個人、活動家グループ、組織に新しい反資本主義政党を作ろうという呼びかけを発すことによって、下から再建していくという道である。この呼びかけに非常に積極的な反応があったことから、ジャンリュック・メランション(注一)は自分たちも社会党を去るべき時が来たことを理解した。彼と彼の潮流はこの直後に左翼党を結成した。NPAと左翼党のアプローチは非常に異なっていた。NPAは、最初の呼びかけに応えて形成された膨大な数の地域的活動家集団が参加する設立準備の活動の中から生まれた。このことからわれわれは〇八―〇九年以来の二つの異なる経験を比較することができる。一方はより斬新であり(NPA)、他方はより保守的である(左翼戦線)。左翼戦線は共産党、左翼党、およびアンサンブルに結集したいくつかの小さなグループによって構成される。


 二〇〇八年一一月に南アフリカの「アマンドラ」誌が私に、われわれがあまり一般的でないタイプの組織を作ろうとしている理由についての寄稿を求めてきた。それから七年が経過して、われわれは実際にはどのように事態が展開したのかを見ることができる。以下の叙述の中で、私は政治的世代間の関係の問題に大きな関心を集中する。そのため、私自身がどこから来たのかを正確に述べておくことが有益かも知れないと思う。私は学生だった一九六五―六六年に第四インターナショナルに加盟し、一九六六年にJCR(革命的共産主義青年)、のちにLCRの結成に参加した。一九七三年以降二〇年間、国際活動に従事してきた。一九九三年にフランスに戻ってからはさまざまな役職に就いてきたが、全国指導部のメンバーにはなっていない。そのため私は、中からの視点(五〇年の継続性の中で)と外からの視点の両方から見ることができる。外にいた二〇年間は、私の組織が経験してきた漸進的な、そして後には非常にラディカルな変化を直接には経験していない。私はNPAの計画を積極的に支持していたし、今でもわれわれがこの大胆で新しい冒険を始めたことは正しかったと考えている。


 NPA内の論争やNPAに関する論争は多くの場合、戦術的な選択(その多くは選挙の戦術)に焦点を当てている。私は以下で一つの例を検討するが、それらの問題は常に複雑であり、その性質上、非常に特殊であり、この国の事情をよく知らない人にはわかりにくい。いずれにしてもこれは主要な問題ではない。ともかく社会党より左に位置するグループ、つまり左翼戦線、共産党、左翼党、アンサンブル、NPA、そしてもっと小さなグループはさまざまな戦術やアプローチを採用してきた。しかしこれらの組織のすべてが今、深刻な危機にある。

 

CjuRpXeUgAAnCZA1「何か新しいことをする」必要

 

 LCRが「何か新しいことをする」ことを真剣に望んだ理由は、時代がどれほど根本的に変化しつつあるか、そしてそれが党建設にとって何を意味するかをわれわれが知っていたことである。しかし、われわれはおそらくそのすべての意味を理解していなかった。言い方を変えれば、その根本の要因はその性質上、普遍的なものであるが、時としてフランス(およびヨーロッパ)では特に激しいものになる可能性があることをわれわれは十分に理解していなかった。

 

■長い「幕間」。一九八〇年代半ばに、フランスLCRがその一翼を担っていた第四インターナショナルの中の私の世代の活動家たちは、われわれが最初に政治に参加するようになってからの二〇年間の自分たちの経験の戦略的な教訓について考え始め、しばしばそれを他の極左派潮流の経験と比較した(注二)。われわれはLCRが将来の革命党の核であるわけではないことを十分に理解していたが、一九六〇年代から八〇年代までの教訓を新しい危機の中でそれが再び重要になる時まで継承しておきたいと考えていた。過去の記憶を失うことなく現在を分析する手がかりとしてである。確かに新しい危機はやってきた。しかし幕間が長すぎた。私自身は、二〇一〇年にダニエル・ベンサイドが死去するまでこのことを理解していなかったのだが、彼の卓越さと権威は巨大だった。彼は巨大な木であり、その大きさのために森の存在を気付かせなかった。マルクス主義思想の発展的継続性とラディカルな関与がフランスにおいては断ち切られていた。おそらく他のヨーロッパ諸国よりも完全にである。当時、結成後わずか一年だったNPAにとって、ダニエルの死は巨大な打撃だった。

 

■基準の崩壊。個人的な会話では、われわれはよく自分たちが「最後の10月革命世代」(一九一七年と一九四九年)であると語り合った。われわれにとってロシア革命と中国革命によって開始された闘争のサイクルに参加することはごく自然なことだった。ソ連邦の崩壊、スターリニズムの失敗、社会民主主義のブルジョワ政党化を経て、若い活動家たちはわれわれと同じようには歴史と自分を関連付けない。大多数の人たちは歴史を清算している。ある意味では世界社会フォーラムや資本主義的グローバリゼーションに対する抵抗は全世界の膨大な数の若者にとって新しい集団的で国際的な「原初的な歴史的経験」となった。それはわれわれが一九九〇年代前半に経験していた耐えがたい孤立から脱出し、インターナショナリズムのかつての栄光を復活させ、多くのネットワークを確立するのを助けた。しかし、それはわれわれが現在の大きな戦略的問題に共同で取り組むことができる前に勢いを失ってしまった。

 

■新自由主義的秩序。われわれはまだわれわれの政治的世代の敗北の代償を払い終えていない。資本主義的グローバリゼーションと新自由主義的秩序は草の根の空間を切り刻み、人々の意識を断片化し(個人を集団に対立させる)、社会の組織構造を破壊し、公共的政策を衰弱させ、「アイデンティティー」を相互に対立させるようにしてきた。制度ゲームのルールが変わってしまった。過去には労働者階級の運動が三〇〇万人の人々を街頭に動員すれば、フランス政府はその要求の一部を受け入れていた。今ではそうではなくなったが、労働組合官僚はこの新しい非妥協性に対応できておらず、また、不安定雇用の労働者を組織するために必要な資源を投入する意志も能力も示していない。

 

■一九九〇年代半ばに登場した新しい社会運動。失業者や労働許可証のない労働者の組織、住宅の権利の運動、「権利も発言権もない」人々の支援、女性の闘争の触媒的役割(特に一九九五年)など。ラディカル左翼の政治勢力はこれらのイデオロギー的、社会的、制度的な激変が意味するものによって、自分たちのオペレーティング・システムを更新しなければならなかった。それは容易な作業ではなかった! 特に、それは新しいやり方で社会経済的問題をめぐって人々を組織化することを意味しており、単に政治路線を転換するよりもはるかに難しいことだった。

 

■社会の構成。ヨーロッパではこの必要とされている転換は非常に複雑にならざるを得なかった。「典型的」な第三世界の国でも人民の運動はわれわれと同じパラダイムの激変に対応しなければならず、それは場合によってはわれわれよりもはるかに深い世代間ギャップ(特に武装闘争に関わった世代とその後の世代の間の)を伴っている。しかし、組織的な活動という点ではより大きな継続性がある。たとえば、以前から存在していた運動の拠点地域(スラム、インフォーマルセクター、都市貧困層)は今日でも依然として存在している。運動はすでにこれらの地域に根を張っている。フランスをはじめヨーロッパのいくつかの国では、断絶は顕著である。どの組織も長期失業者と不安定雇用の貧しい労働者階級の地区や、新しい都市貧困層を組織するために必要な知識や経験を持っていない。これは学ばなければならないことであり、われわれが学ぼうとしなければならないことだった。

 

■党の建設。フランスでは、他の国と同様に、政党に対する反発が巨大であり、特にラディカル化した若い人々の中でそうである。そのような環境の中で、新党を作ろうというわれわれの呼びかけは自主的な選択のためにはかなり厳しい基準であると思われた。しかし、すぐに明らかになったように、党という概念そのものが多くの人たちにとってあまりにも漠然としていたため、それは強力な接着剤とはなりえなかった。結成当時、NPAの門戸は大きく開かれていた。加盟したいものは誰でも加盟できた。私はほかにやり方があったとは思わない。われわれは〇二年と〇七年の大統領選挙でのLCRの候補、オリビエ・ブザンスノーのキャンペーンの思いがけない成功によって生み出された手応えのある楽観主義の波に乗っていたのである。一部の人々は、われわれが社会党の左の政治的空間をまるごと獲得できると考えたし(それはありえないことだった)、選挙における成功が将来も続くだろうと考えた。

しかし、NPAの結成大会が開催された時点では、すでに風向きは変わっていた。党の建設は流れに逆らって成されなければならなかった。「左翼の左」に予期しなかった競争相手が現れ(メランションの左翼党)、また、多くの敵がわれわれの試みを失敗させるために手段を選ばなかった。われわれは、将来の厳しい状況を予想して、意識のレベルの不均等性に対応した「可能な党」の建設から「必要な党」の建設へと転換せざるを得なかった。実際に、状況は当時われわれの中の最も洞察力がある人たちが恐れていたよりもはるかに厳しいものとなった。この非常に決定的な問題が真剣に、集団的に議論されることはなかった。

 

■フランスだけなのか?資本主義的グローバリゼーション、超大国ブロックの終焉、民主主義的空間の縮小、地政学的激変、新しい帝国主義の誕生、極右の新しい勢力、アイデンティティあるいは市民権の危機等々。振り返ってみれば、時代の変化はわれわれが当初想像していたよりもはるかに根本的であり、左翼における何か新しいものの出現ははるかに複雑だった。しかも、われわれにとっては、一つの重要な問題が背景を成している。フランスは少なくとも一九九五年から二〇一〇年までの間、巨大な闘争の波を経験してきた。その大部分は敗北に終わった。闘争の波は、遅れてではあるが選挙にも反映され、LCRのブザンスノーや、その後の左翼戦線のメランションの成功、この二人の前にはLO(労働者の闘争)のアルレット・ラギエの成功があったが、その性質と衝撃力において「怒れる者たち」の運動に類似するものは何もなかった。


 ヨーロッパでこれほどの規模の闘争が起こったにも関わらず創造的で継続的な要素がこれほど欠落していた国は少ない。その理由の一つとして考えられることは、社会保障制度が、常に攻撃されているとはいえ、まだ残っており、不安の増大を緩和している可能性である。たとえば、フランスではまだ、学歴が上がるほど失業率が下がっている。スペインやモロッコのように、大量の大卒以上の失業者という現象は起こっていない。もちろん状況は変化しつつある。労働組合や社会運動の一連の敗北に続いて、労働法や公共部門労働者に関する法律に対する本格的な攻撃が現在進行中である。

 

■ある日、「大混乱が起きる」。ブザンスノーによると、「フランスで現在欠けているのは、形態(ストライキ、デモ、占拠等)の問題を超えて、社会的問題が政治の前面に浮上するということです。……デモがあり、大衆動員があり、時には勝利することさえあります。しかし、それらはあまりにも演出されていて、あまりにも古典的です。……社会的爆発の不在は顕著です。しかしそれはいつかは、何らかの形で表れるでしょう。課題は、そのことに備え、将来における情勢の転換に柔軟に対応できることです。そのような爆発のきっかけとなる闘争は天から降ってくるわけではありませんが、そのような爆発のために必要なすべての要素はすでに存在しています。そこから一つの問題が提起されます。現在、私たちが行っていることはすべて、以前よりも伝統的、反復的になっていると言えるでしょう。そして変化が抑制されればされるほど、また、抑圧や弾圧が強ければ強いほど、爆発は一層大きなものになるでしょう。そして大混乱が起きるでしょう」(注三)。

 

■世代。力量を蓄積し、根を張り、経験を内面化し、社会的な結合を確立することはすべて時間を必要とし、それは活動家の世代間の連続性を必要とする。この連続性は上記の理由によってだけでなく、フランスに固有の古い政治的理由のために断ち切られてきた。英国でマーガレット・サッチャーが登場した時、フランスではフランソワ・ミッテランが登場した。結構なことだと思うかもしれない。よく考えてみよう。社会党と共産党の「共通綱領」をもとに選出され、しかもその綱領は今日の環境の中では無責任な極左的なものだ(EU条約に違反していることは言うまでもない)と非難されかねないものだったが、そのような政府が一九八三年に緊縮政策への急転換を行ったのである。こうして新しい新自由主義的秩序は社会党によって主導され、共産党が入閣している左翼政権の下で公式に開始された。

その政権が今でも、それまで四半世紀にわたって政権の座にあった右翼に対する勝利の栄光として称賛されている。それがいかなる抵抗からも推進力を奪うことを容易にしたし、一九八〇年代には極左派の組織のメンバー獲得が止まった。それは単に数の問題ではなかった。過去と比べるとこの時代には献身性も部分的で、控えめになっていた。学生自治会は政治的急進化の源泉であることをやめた。われわれの隊列の中でさえ、「ポスト一九六八モデル」への拒絶感が強かった。しかし、それに代わるモデルは、この時代の社会的危機の深さに対応するには全く適していないことが明らかになる。


CjdlrzdWgAEQM69 LCR、そして後のNPAは実際にはリーダーの世代交代が最も進んだ組織だった。若い郵便労働者であるブザンスノーがそのことの明確な象徴だった。これは本当の前進だった。しかし、NPAの結成から1年後にNPAを襲った危機の中で、世代の断絶が非常に明確になった。解決策が古い世代に権力を委ねることでないことは明らかだった。実際、フランス共産党の再建派の元指導者で、現在はアンサンブルの党員であるロジャー・マッテルリは最近の回想の中で左翼戦線の経験について検討し、古い世代の堅固な位置が結局のところ、この計画にとって致命的だったと結論付けている。「われわれは継続するためには後退しなければならない。若い世代だけが何か新しいものを生み出すだろう」。この点でNPAの経験と左翼戦線のそれを比較するのは興味深いことだろう。

 

■再建?このセクションの最後に、われわれがNPAの結成につながる呼びかけを行った当時、われわれは何が可能だと考えていたのかを振り返ってみよう。二回にわたるブザンスノーの大統領選挙キャンペーン(〇二年と〇七年)の目覚ましい成功の後、われわれは動きを作らなければならないことを理解していた。LOが一九九五年におけるラギエの成功を扱ったやり方とは対照的にである。成果を外に向かって広げることはわれわれの責任だったし、外に向かって広げるということは時代の変化を誠実に評価することを意味していた。そのためにわれわれは「新しい時代、新しい綱領、新しい党」について語った。これまでの数十年間の重要な教訓を放棄することなしにである。しかし、われわれは「新しい時代」について考えていたのであり、「一つの時代の終わり」について考えていたのではなかった。われわれは楽天主義的に一九九五年の大規模なストライキと、グローバル・ジャスティス運動の高揚と、厳しい弾圧に耐えることができる新しい世代の戦闘的な形での登場(たとえば〇一年のジェノバでの反G8の抗議行動)と、〇五年の最初のEU憲法に関する国民投票における「ノー」の勝利の間を点線でつないでいた。


 われわれは抵抗闘争の高揚の波の真っ只中にいたし、そこには多くの特筆すべき特徴があった。しかし、現実には階級的力関係は急速に不利になっていった。しかもわれわれは選挙での成功によって、「大リーグ」の政治に取り込まれていった。実際には、われわれの組織の現実や社会的基盤を考えれば、明らかに自分の重量よりも上の階級で試合をしていた。われわれは状況を最大限に活用しなければならなかったが、状況は長くは続かなかった。われわれは〇七―〇八年の金融危機が反資本主義のためのカンフル注射になるかも知れないと感じていた。現実にはそれは最初の取り逃がした機会となった。銀行を公有化することによって金融の独裁を打倒しようという呼びかけはどこにも届かなかった。それを最初の警告とみなすべきだった。


 われわれは左翼の左に何かを再建することに向けて、この運動の勢いを過大評価していた。われわれは後退局面の中で再建を試みる時に遭遇する困難を理解していなかった。楽天主義は容易に突撃主義につながり、統一の問題や政治的内容、組織、指導部の問題に十分な注意を払わないことにつながる。

 

2成功、停滞、衰退

 

 NPAの結成過程の初期は純然とした成功であり、この計画が現実の期待と希望に対応していることを証明した。NPAの党費を払っている党員の数は九〇〇〇人に達して(必ずしも全員が活動的であったわけではないが)。結成大会の議論は非常に真剣だった。基本的な政治的原則と暫定規約が採択された。どのレベルの指導機関でも旧LCR同盟員が半数以上を占めることは禁止された。


 LCRと比較すると、NPAの数的、地理的、社会的基盤はかなり大きかった。われわれがこれまで協力関係にあった左派労働運動の指導者たちや著名人たちはこの冒険に参加しなかったが、これまであまり知らなかった人たちが参加した。結果として、非常に多様な組み合わせができた。それぞれの組織がさまざまな地区活動家と、その背後にある固有の歴史によって特徴づけられていた。それぞれのグループ、個人(特に著名人たち)が自分たちの固有の特徴、期待、そして場合によっては野望を持ち寄った。彼ら・彼女らはしばしば、NPAが自分たちの個別の領域や活動方法に全国性を与えてくれることを期待した。ある人たちは非常に堅実で持続的な選挙結果に期待をかけており、ブザンスノーやLCRの最高の得票を、超えるべき最低限の基準とみなしていた。多くの人たちはこれまで政党に関わった経験がなかった。さらに、LCRの解散に伴って、LCR内の分派や潮流が羽を広げることができた。

 

 この当初における不均一性は、NPAの結成過程の特徴から考えれば避けられないものだった。ジャガイモ(グループ)とマメ(個人)が入った袋にたとえてみよう―これはネガティブな連想を意図しているのではない。袋のサイズはちょうどよいが、ちょっとした混乱があるたびにジャガイモとマメがこぼれ落ちそうになる。中身が徐々に失われていく恐れに直面して、党はその凝集性、集団性、団結、献身性のレベルを高めなければならない。NPAの指導部はこの課題の実現を先に述べた運動の勢いに依存し、その結果、組織面での自然発生主義に進んだ。

 

■選挙。NPAは結成から間もなく、最初の選挙によるテストに直面した。〇九年六月の欧州議会選挙である。この選挙における戦術的および政治的座標は複雑だった。左翼党とNPAはどちらも結成直後であり、多かれ少なかれ突撃主義的な自己確認の段階にあった。また、欧州議会選挙においては連合や政党間の関係の問題は、通常の国内選挙と同じようには提起されない。そのため一九九九―二〇〇五年にはLCRはEU議会の欧州統一左翼・北欧グリーンレフト(GUE・NGL)グループに参加できた。このグループにはLOとPCFも参加していた(ただし、われわれはフランスではPCFの社会党主導の政権への参加に反対していた)。


 当時GUE・NGLグループの代表はPCFのフランシス・ウルツだったが、LCRは自由にその活動を展開できたし、しばしばこのグループの支援を得ていた。私は当時このグループに雇用されており、特に社会フォーラムをめぐってウルツと緊密に協力していた。現実には欧州議会は本当の議会ではなく、本当の政府と顔を突き合わせているわけではない。その運営の方法全体が非常に特殊であり、理解するのに若干の時間がかかる。しかし、フランス国内で誰がそのことを知っているだろうか? 平均的な人々にとって欧州議会選挙は大統領選挙や議会選挙の前哨戦となる国内の選挙サイクルの一部に過ぎない。


 欧州議会のこのような特徴に沿って、より統一的なアプローチを想像することは正当なことだったが、そのような提携はその後のフランス固有の選挙においても採用するべきモデルとして見られる可能性があった。したがってNPAは統一の前提条件として、今後の選挙を含めて、社会党や社会党が主導する社会自由主義政権からの完全な独立性を維持するという合意を望んだ。これはセクト主義として猛烈な批判を浴び、NPAはこの政治的闘争に敗北した。多くの人々はNPAがこのような立場を取ったのは間違いだったと言っている。そして今日でも、誰もが知っているように左翼戦線はまさにこの社会党との関係の問題をめぐって(特に)、混乱を続けている。


 
〇九年のEU議会選挙では、もう少しのところで一人または二人の候補を当選させることができた(注四)。これは信頼性という点では大きな違いをもたらしただろう。残念ながら、このような問題では、わずかの差で負けたとしても負けたことに変わりはない。もう少しだったが及ばなかった。左翼活動家や著名人の間でのNPAのアピール力は重大な打撃を受けた。

 

■取り逃がした機会。NPAの指導部は(また、左翼戦線やNPAの前身のLCRの指導部も)左翼の左との選挙上の連合や政治的連合に執着した。私の意見としては、これは過度に政党政治重視の選挙至上主義的な(目先しか見ていない)優先順位だった。NPAの結成はわれわれに労働者階級の地域への多様かつ多くの入口を提供し、われわれの最も重大な弱点を克服しはじめる機会を提供した。

われわれはこれらのすべての入口、つまり、失業者や不安定雇用の労働者のためのセンター、虐待を受けた女性のためのシェルター、「問題地区」で働く医師や教員のチーム、文化センターや青少年への法律上の保護に関わっている団体などの若い指導者たち、ソーシャルワーカー、反レイシスト・グループ、就労許可証を持たない労働者やホームレスの運動とその支援者たちなどを結合できたかも知れない。大事なことは経験を交流し、そのような地域で生活している人々の要求に注目し、相互に支援してそれぞれの活動領域に固有の困難を克服し、どの活動家およびコミュニティー・グループと連携するかを決定する(地区の組織はNPAがこれらの地区―行政の怠慢と政治的縁故主義の結果、見捨てられてきた― を中から再び政治化するのを支援することを期待していた)こと等だろう。


 
この作業は行われなかった。NPAは職場への介入のための委員会を設立した(これは現在は危機にある)が、賃金所得者の多くの部分(失業者や不安定雇用の労働者など)はこのような方法だけでは組織できない。貧困地区・労働者居住地区委員会について言えば、この委員会の活動は課題ベース(主要には反レイシズム)であるように思える。そのことはこれらの地区において住民自身から提起される要求(その多くは社会経済的要求)に焦点を当てた労働者階級の住民の共同の地域組織の確立について考え、行動するメカニズムが存在していないことを意味する。これらのコミュニティーに対する外部者的な関係がラディカル左派の主要な弱点の一つであるという事実(これは新しいことではない)にもかかわらずである。

 

□アヴィニヨン。「アヴィニヨンの危機」が発生した時に、われわれはこの取り逃がした機会の高い代償を払った。アヴィニヨンのアブデル・ザヒリを中心とするAJCREVという地域活動家グループがNPAに加盟した。10年の地方選挙に向けて、AJC REVのメンバーの1人であるイルハム・モサイドがNPAのボークリューズ選挙区の候補者リストに挙がった。

彼女はモスリムの女性で、スカーフを着用していた。いくつかの非常にローカルな例外を別にすれば、フランスではそのような女性の立候補は初めてのことだった。それは移住者を起源とする女性がフランスの選挙や政治には不在であるからではなく、そのような女性はスカーフを着用しないからである。これはフランスにおける世俗主義の程度(たとえば、非常に反動的なカトリック右翼の非常に大きな影響力にもかかわらず、どの主要政党も宗教の問題に明示的に言及することはない)だけでなく、移民の固有の歴史とも関係している。


 
そのような候補者が全国的な注目を集めることは予想できたはずである。この当時私はパキスタンを訪れていたが、この話題はパキスタンの新聞にも出ていた。パキスタンの同志たちは私にこれは良いことなのかどうかを訪ねた。私は天がわれわれの頭上に落ちてくるだろうと答えた。モサイドはたちまちNPAではブザンスノーに次ぐ有名人になった。残念なことに、組織はこの事態の展開に全く準備ができておらず、彼女の立候補をメディアで知ったメンバーもいたほどである。サルコジが選挙を民族問題にしようとする中で、われわれは社会経済的な問題に焦点を当てることでそれに対抗しようとした。それが精一杯だった。われわれは多くの敵から吊し上げられた。彼らはわれわれに根拠のない批判を浴びせかけた。われわれはまた、いくつかの正当な質問にも直面した。女性の解放にとってのスカーフの意味について等である。そのような質問に対してわれわれは集団的に考え、議論してきた回答を持っていなかった。


 
ブザンスノーはモサイドの立候補を徹底的に擁護した。彼は最近のインタビューの中でこのエピソードを回顧して次のように述べている。「ムスリム社会の一部には、イルハムの問題で私たちに憤慨している人たちもいました。私たちは、論争を利用していると疑われました。……彼ら・彼女らが私たちに尋ねたのは、いっしょにやれる具体的な行動がないかということでした。彼ら・彼女らは私たちに、その前に何かの宗教的なテストに合格することを求めはしませんでした。・・・この問題を扱う一つの方法は、新しいタイプの連合の形成にあるかもしれません。それはあらかじめ態度が決まっている文化的・宗教的なコミュニティーの代表とみなされる人たちとの連合ではなく、当事者自身との連合です。彼ら・彼女らは多くの場合、貧困地区に集中しています」(注五)。1つの問題は、AJCREVの計画がまさにこのような地区に(ムスリムの)宗教的な角度から足場を確立することを目指していたことだった。

モサイドの名前が挙がったのは彼女が社会的闘争を率いているからでも、彼女がたまたまスカーフを着用していたからでもなく、スカーフそのものがAJCREVの政治的計画を体現していたからだった。アヴィニヨンでのこの計画が終わった時、モサイドはNPAを離れ、スカーフを外した。

 

□抑圧反対の政治。アヴィニヨンのエピソードによって触発されたNPA内の激しい論争は、貧困地区・労働者居住地区の現実を出発点とするのではなく、非常にイデオロギー的(そして感情的)だった。考えられるあらゆる立場が表明された - 「教会の塔だろうがミナレット(イスラム教会の尖塔)だろうが、宗教なんか消えてしまえ」という立場から、ブルカ(顔全体を覆うベール)は女性解放のための闘いの象徴だという立場まで。どのような立場が提起されたかに関わりなく、数千件(あるいはそれ以上)の電子メールや数十の意見書の中に、さまざまな形の抑圧(民族差別、性差別、社会経済的抑圧等)に反対する闘争をどのように関連付け、結合するのか、また、今日のフランスにおいてライシテ(世俗主義、政教分離)についてどのようなアプローチを取るべきかという決定的に重要な問題に関する体系立った議論はごくわずかだった(注6)。その帰結が全く混乱した全国大会だった。それは若い党にとってトラウマとなるような経験だった。


 
1つの派生的な論争は国際的な事態の進行をめぐるものだった。タリバンは反帝国主義者なのか? その後の事態はこの問題に対する全党員の意見を明確化させたと思われる。他のすべての問題について、論争の分岐線は消えておらず、実質的にNPA内の現在の各潮流を横断している。抑圧に反対する意志を宣言したとしても、人々はしばしば抑圧の形態に序列を付ける(たとえば、反レイシズムが反セクシズムに優先する、あるいはその逆)というアプローチに導かれる。これがすべての抑圧された人々の擁護を非常に困難にする。

 

Cjc89aRWkAA419q■個人化。フランスにおける大統領制は、選挙政治における個人化を極限化している。副大統領さえ存在しない。フランスではこの制度は1人の人物(これまではすべて男)と人民の間の直接的な関係に関わることであるという神秘的な信仰がある。ブザンスノーの人格と政治的才能はLCR、のちにはNPAにこれまでなかった広範な政治的影響力をもたらした。

彼はしかし、生涯にわたって候補者でいること(LOのラギエがまさにそうだった)を拒否し、フランスの人民および国民の将来を自分の将来と同一視すること(これはメランションの考え方である)を拒否した。そして問題の核心において、ブザンスノーは明らかに正しかった。11年5月に彼は12年の大統領選挙には出ないと表明した。組織の運営のあり方から考えると、彼の決断はNPAの指導部の危機を引き起こし、当時はまだ潜在的だった危機に組織全体を叩き込んだ。選挙の見通しを判断根拠として、かなりの数の旧LCRの活動家が未来はメランションと共にあり、左翼戦線の内部での活動にあるという結論に至った。

 

□分裂。NPAは大きな打撃を受けた。それまでの離党やブザンスノーの次期大統領選挙に出ないという決断の結果として、全体で登録党員数の3分の2を失った。元メンバーの大部分は活動家に戻り、労働組合の活動に戻ったが、一部は完全に政治から離れた。新しい組織は生まれたけれども、われわれが望んでいた組織とは多少違っていた。11-12年の危機は旧LCRの指導部の中心を2つに分裂させ、同様に組織全体の最高の組織チームにも影響を及ぼした。組織の少数派はNPAにこれ以上期待するものはないと考えて左翼戦線に加わった。始めは反資本主義左翼(GA)として参加し、後にアンサンブル潮流の共同設立者となった。残念なことに左翼戦線の計画自体も深い危機に陥った。アンサンブル潮流について言えば、イスラム主義の問題や選挙至上主義の問題などをめぐってさまざまな矛盾に直面しており、おそらくはNPAよりも爆発的な状況にある。


 
実際、旧GAの中心的な指導者たちは独立的なラディカル派の組織を建設するという展望を放棄した。それはLCRのアイデンティティーの大きな部分だったし、今でもNPAが強くアイデンティティーを感じているものである。そのことを述べた上で、彼ら・彼女らの危機とわれわれの危機には共通の特徴がある。特に、指導部と現場活動家の間の溝である。指導部にはそれ自身の歴史があり、同じように地域の党活動家たちはますます自分たちのやりかたで活動するようになる。それは全国指導部から独立したものである。政治というものを公式の政治路線の問題だけに還元するのなら、これはそれほど政治的な問題ではない。しかし、組織や献身性の問題も優れて政治的な問題だと考えるなら、それは非常に政治的な問題となる。

 

3献身性と組織の機能

 

■選挙における引力の法則。その起源と目的を考えれば左翼戦線の歴史が選挙を軸に展開してきたのは驚くことではない。より不思議なことは、NPAの指導部についても同じことが言えるということである。郵便労働者であるオリビエ・ブザンスノーはわれわれの最高の候補者だったが(これは本当に驚くべきことだった)、彼が主要には労働者階級の闘争や社会運動を通じて政治に関与していて、選挙至上主義の強力な誘惑について心配するようになったのは逆説的なことである。彼は次のように述べている。「選挙のサイクルはフランスではいつでもあり、私たちを窒息させています。それは単に、選挙前の数カ月間、あるいはまるまる1年間にわたって、政治的生活を完全に占領してしまうという問題ではありません。選挙の問題は1日の例外もなくフランスの政治的状況を重く包み込んでいます。特に、世論調査のデータが絶えず流布されることを通じてでです。


 だから人間解放のための計画という観点から考えるなら、大事なのはそのような政治的サイクルを抜け出して、別の空間、別の時間、別の暦を作り出そうとすることです。それは必ずしも選挙をボイコットすることを意味しませんが、他の勢力と共同して、そのような選挙の圧力から自由であり、あらゆる問題に別の角度からアプローチするような大衆運動を作ることができるならば、もっと大きな計画の中で選挙に参加することについて考えることができます」(注7)。


 NPA内の潮流、分派、ブロックは主要に選挙の問題や選挙をめぐる状況との関連で自己を規定している。どのような特徴を打ち出すのか、誰を候補にするのか、どのような連合を追求するのか、NPAが候補を立てない場合にだれに投票するのか等々である。確かにこれらの立場は現実の問題に対するより開かれたアプローチ、あるいはより閉鎖的なアプローチを反映し、同時に現在の脈絡においてわれわれの組織が果たすことができる役割に関する異なる考え方を反映している。単純化すれば、われわれは広範なイニシアチブの確立(たとえば、気候変動に関して、あるいは非常事態と市民権はく奪への反対)への参加を優先するのか、それともわれわれ自身の境界をはっきりさせ、あらゆる機会にわれわれの反資本主義的綱領を主張することに焦点を合わせるのかという問題である。明らかにこのような論争には重要な問題が含まれている。

 

問題はそれらが選挙との関係で提起されていることである。この領域でわれわれがますます周辺化されている – 立候補の要件がますます厳しくなっていること、資金がないこと、極右の国民戦線が政治エリートに反発する層の支持を獲得するのに成功していること等によって ―という事実にもかかわらずである。

 

■分派主義の蔓延。われわれはNPAを種々の革命的伝統(批判的マルクス主義、左翼リバタリアニズムなど)の歴史的貢献と統合する「るつぼ」にしたいと考えていた。結成大会で採択された基本原則は出発点に過ぎないものであり、種々の不明確な点や取り上げられていない点(たとえば、NPAは自らをマルクス主義者の組織としては規定していない)は、その後の異なる意見のすり合わせによって対応することになっていた。しかし、綱領委員会は軌道に乗らなかった。しかも党はそもそも共同の計画に参加する意志がなく、NPAが提供する大きな枠組みを利用して自分たちの組織の確立を目指していただけの組織まで組み込んでいた。


 ここでは指導者の選出の方法が問題である。NPAにおいては執行委員会は大会で各潮流が獲得した得票に比例して選出された。それらの潮流は永続化し、分派となっている(もともと分派ではなかった場合)。組織化や組織の建設への功績を基準にしてではなく、自分たちの潮流のイデオロギー的指導者だったという功績だけで全国指導部に選出されることができた - 声明を起草するにはそれで十分かもしれないが。この内的論理はLCRの最後の時期にすでに作用しており、NPAの中でさらに発展した。


 分派は保守的である。継続するためには分派結成の理由となった論争をいつまでも蒸し返さなければならない。別の角度からの議論が始まったなら ―それは不可避である―分派はあらゆる方向へ分散してしまう。だから彼らは組織の政治的・民主主義的な息継ぎのためのスペースを閉じてしまう。その最初の結果は機能マヒである。NPAの指導者の一部は今ではこの事態を理論化している。彼らはわれわれの組織が現実にはいくつかの革命的グループから成る戦線である、あるいはそうであるべきであると主張している。これは 「るつぼ」とは正反対の極である。これに対して組織内の一部には潮流を形成する権利を、一時的なものを含めて全面的に否定し、それを破壊的な分派主義と同一視する者もいる。


 
「るつぼ」の問題は左翼戦線の中でも発生した。左翼戦線には個人も参加できるのか(加盟組織の1つとしてではなく)、また、個人にも適切な役割を与える集団的な機構があるのかという問題である。どちらも答えはノーである。左翼戦線は依然としてその基礎となった政党のイデオロギー的な方向付けと、CGTの労働組合官僚と、ジャン・リュック・メランションの強烈な個性への依存に束縛されている。

 

■革命的?社会党からの独立やオランド政権に対する左からの反対派を確立するという決意はフランスの脈絡の中では重要な試金石である。それは何らかの意味のある政治的立場にとって基本的な問題である。違った意味で、単なる新自由主義反対のオルタナティブを超えて反資本主義のオルタナティブを提唱することも重要なカギになる。

それは現在のフランスでは具体的な意味を持っている。それは単に具体的な綱領を掲げるという問題ではなく、われわれが建設しようとする党が、長年にわたって社会的政治的状況を特徴づけている深く広範な体制への敵意を結集するのにふさわしいかどうかという問題である。

 一方、一部の人々が問題にしている「反資本主義」と「革命的」の形式的な区別には政治的意味はない。革命的呪文を果てしなく反復することも意味はない。説得の技法は所詮は技法でしかないことを忘れるべきではない。


 
より重要なことは、巧みな言辞で人を騙すことはできないということである。現在のフランスで(あるいはヨーロッパで)、言葉の本当の意味で「革命的」な組織を建設することは単に不可能である。綱領がいかに重要であっても、党は綱領だけによって定義されるのではなく、その実際の活動(その公式の目的とかけ離れていることもある)によって定義される。非常に控えめに定義されている場合でも、十分に有望な社会的政治的条件がなければ、いかなる初歩的な革命的活動もありえない。そのような条件が存在する時には、ラディカルな組織のメンバーの「日常生活」は改良主義政党のメンバーのそれとはかなり異なったものになる。一九六〇年代と七〇年代がそうだった。しかしその後はそうではなくなった。しかし、いつか再びそのようになることは間違いない。

 

■献身性。現在のフランスでは、革命的組織の建設は何か水平線のかなたにあるもののようである。しかし、それがいつまでも続くと考えることはできない。危機と不安定性の拡大と治安国家の台頭に伴って、一九八〇年代と九〇年代のフランスの気ままな政治活動の様式は力と効果を失っている。弾圧が社会運動や労働運動を打ちのめし、全般化している不安がますます多くの層を飲み込みつつあり、人的な災禍が全世界で拡大し、地球環境の危機が現実になっている。そのような時に、退屈な日常の、決まりきった活動を続けることは、われわれ自身を周辺に追いやり、最終的には降伏に導く確実な道である。


 NPAの結成当初から、この問題は非常に具体的な問題をめぐって浮かび上がってきた。旧LCRの中心的指導者で、NPA結成の計画を体現することとなった世代に属しているメンバーの中から、新しい組織の専従になろうとする者が一人もいなかった。ここでそれぞれの個人について評価することが重要なのではない―大きな決断をするには二〇代のほうが四〇代よりも気が楽である。取り上げるべきなのは集団としての問題である。われわれは常に広範な情勢の力学をあてにすることはできない。それがなければどんな重要なことも不可能であるが、十分に検討された組織方針がなければ、情勢の力学が魔法のようにわれわれのすべての問題を解決してくれるわけではない。


 NPAの建設において、この計画に二〇〇%の献身性を発揮し、リーダー・チームが効果的に機能するのを助ける少人数のチームがなければ、舵取りは不可能だった。もちろん専従スタッフになることは、限られた期間であっても、その後の人生に影響を及ぼすことは避けられない。しかし、われわれはラディカルであるためには活動家としての献身性 ―それは長年にわたって影響をもたらす ―が要求される時代に生きている。


 実際、若者の一部は進んでそのような献身性を発揮している。たとえばZAD(「守るべき土地」)運動の活動家たちは、「意味のない特権階級的な計画」に抵抗して守るべき土地があれば、どこにでもキャンプを設営する。また、ノートルダムの新空港に反対して、この地域で農業を始めた者たちもいる ―一九七〇年代にラルザックで軍事基地拡張に反対して多くの活動家がそうしたようにである。NPAの地域の活動家はこのような闘争に参加しているが、ZAD活動家たちは政治党派に対しては極度に警戒心が強い。

 

■再評価。NPAの危機は、LCRの中で熟成していた危機 – それは限界に達していた - の規模を明らかにした。それはわれわれが何か新しいものを生み出そうとしなかったとしても、いずれにせよ破裂していただろう。この試みは最初の重大な失敗にも関わらず、非常に教育的な試みだった。一一年の分裂は転換点だった。分裂が組織拡大を凌駕し、組織内のセクト主義的なグループに一層広い空間を提供した。その後すべてが変わってしまった。


 
現在のNPAバージョン2・0は対立と矛盾に取り囲まれている。確かに依然としてフランスの政治的状況の中でNPAが占めることができる客観的なスペースは残っているし、他のどの組織もそのスペースに手を付けようとしていない。NPAは現在、部分的にそれに挑戦しているだけであり、全国指導部にはそのイニシアチブを発揮する力量がない。分裂は深いが、活動的なメンバーは依然としてその最も貴重な資産であり、それを無駄にしてはならない。闘争のためのより有利な条件が開かれた時にそれは再び活性化されるだろう。

このことに留意しながら、われわれは組織の社会的基盤の確立、内部的な機能と献身性などの大きな問題をめぐる新しい思考方法を育て、守勢の時代における活動家のネットワークを強化するべきであり、選挙にあまりに大きく依存しないようにするべきである。

 


一)ジャンリュック・メランションは元・元老院議員(二〇一〇年まで)、元・職業教育大臣(〇〇―〇二年)であり、社会党左派に属していたが、08年の党大会後に離党した。 

二)この集団的作業は特にIIRE(国際調査教育研究所)の「アムステルダム学校」で行われた。私は一九八二年から九三年まで同研究所の所長を務めていた。

三)「党と運動」(オリビエ・ブザンスノーとのインタビュー)。日本語訳は本紙二四〇八―一一号に掲載。以下の引用において、フランス語から英語への翻訳は一部変更されている。

4議席を獲得するためには、当該選挙区で5%以上の得票が必要とされる。

5「党と運動」(オリビエ・ブザンスノーとのインタビュー)。

6ESSF(ヨーロッパ国境なき連帯)のウェブサイト(http://www.europe-solidaire.org/spip.php?mot6425)にこの論争のいくつかの論文が掲載されている(フランス語、英語)

7「党と運動」(オリビエ・ブザンスノーとのインタビュー)。

 

(「インターナショナル・ビューポイント」誌、二〇一六年一月三一日付)