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関羽(関公) 「あなたも来たのですか?」
イエス 「しかたないでしょう。政府が妨害分子を呼び集めているというから」



2014年12月15日、最後のオキュパイ拠点である銅鑼湾での強制排除がおこなわれ、9月28日から79日間つづいた「雨傘運動」のオキュパイ行動はいったん終了した。香港民主化運動は新しいステージに入る。以下は、地元紙「明報」の日曜版に掲載された區龍宇さんの文章。原文はこちら


敗北の中の勝利

區龍宇


雨傘運動は直接の目標(全人代決定の撤回)を達成することはできなかった。その意味では運動は敗北した。これを理由に、香港大学生連合会と学民思潮の両組織が、主流民主派と同じような「段階的勝利」論ゆえに運動を敗北に導いたと風刺する者もいる。先週本紙に掲載された在外の学者による批評である。奇妙なことは、これらの主張はすべて消極的な批評にとどまっており、いかに敗北的状況を転換させるのか、いかに勝利を決する闘いをすべきかなど、あれこれ語ってはいるが、建設的な意見には一言も言及していないのである。このような軍師は失格のそしりをまぬかれない。

◎消極的な批評ばかりで建設的な意見なし

建設的な意見がないこととは別に、批評そのものが論として成立するかどうかということもある。問題は批評それ自体も成立しているとは言い難いことである。

主流民主派はこの30年にわたって、いくつかの段階に分けて立法会の直接選挙枠での議席を増加してきた。そして、そのたびごとに段階的勝利を宣言してきたが、その勝利の中に敗北が含まれていることに気がついてこなかった。しかし同じような批判を雨傘運動にも当てはめてしまうことは、倫(とも)でもなければ、類(るい)でもないの極地といえる。雨傘運動の先導者たちは、闘争における勝利のために運動のグレードアップを試みたというのが事実である。

雨傘運動が運動をグレードアップさせなかったという批判はまったくのでたらめである。そのような批判者は、職工会連盟がゼネストを呼びかけたことを忘れている。わずかに太古飲料(コカコーラ)労組、ソーシャルワーカー協会、教員協会が短期間の呼びかけに答えただけで、それに続くストライキがなかったことも事実である。だが事後の総括において、いかなる方法であればストライキを成功裏に導くことができたのかを指摘するのであれば、まだ責任ある態度だと言える。しかし情勢転換のために何ら方針を提起することなく、他人の努力を無に帰すだけの批判に終始するのであれば、その批判は無責任なものと言わざるを得ない。

雨傘運動は偉大な闘争であったが、その相手は強大であり、中央政府と特区政府という二つの政府を相手に対峙したのは、完全に自然発生的で突発的な運動であり、そのような運動が勝利することは極めて難しいことは明らかである。だが民主化の戦士は預言者ではない。戦士は戦場において、多くの民衆と共に困難な状況を打開し、奇跡を作り出すために準備する。その時は敗北を喫したとしても、あきらめずに戦い続ける。これこそ戦士である。

闘争前の戦力の比較では、雨傘運動が勝利する可能性は決して高くはなかったが、なぜそれでも闘いに打って出る価値があったのだろうか。なぜなら数百数千の民衆が政治の舞台に踏み込むことで、あらかじめ決められた戦力対比に変化が加わるからである。民主化運動の第一の政治哲学は、運命論を拒否することにある。当初、雨傘運動が発展すれば、中国国内における政治的危機を誘発し、中央政府が譲歩する可能性も無きにしも非ずであることを、誰もが否定していなかった。そうなれば雨傘運動が勝利する可能性は大きくなったはずである。しかし運動をさらにグレードアップさせることができるかどうかについては、理論からその知識を導き出すことはできない。それはただ実践を通じてのみ確認することができるのである。

そして事実が証明しているように、雨傘運動は戦後香港における最大の民主化運動であったにもかかわらず、それをグレードアップさせる力はなく、それゆえに敗北した。だがなぜグレードアップが容易ではなかったのかについては、運動そのものに深い原因があるが、運動にかかわった人々の共同の検証で原因を究明すべきである。それをせずにスケープゴートを持ち出そうとすることは、なんの展望もない行為でしかない。

◎失敗にも三つの種類がある

敗北にも三つの種類がある。ひとつは恥ずべき敗北である。たとえば日清戦争における敗北、あるいはドイツの社会民主党と共産党が1933年のヒトラー政権台頭の前後に互いのセクト主義の非力さによって、共同でナチスに立ち向かうことができずに被った徹底的な敗北がそれである。

二つ目の敗北は、目標は正しく、尽力にも敬意を払えるものだが、力不足ゆえに被る敗北である。最後の敗北は、二つ目の敗北にさらに一言付け加えたものである。つまり、運動の目標達成という意味では敗北したが、豊富な政治的経験と精神的遺産を遺すことで、次の世代に進むべき道を指し示すことのできる敗北である。それは成功の一面でもある。

1830年代の英国チャーチスト運動は敗北したが、その政策綱領はその後の100年の社会運動に影響を与えた。1871年のパリコミューンは敗北したが、その経験はその後の社会民主党の基礎を築いた。1968年のパリ5月革命は敗北した。しかしそれは社会の全面的な改革を導き、労働運動、女性運動、同性愛者運動、性の解放、環境運動の思想と組織のレベルを引き上げた。

雨傘運動の政治的遺産とは何か。1、それは独裁政権という鳥かごを果敢に突破し、精神的に基本法を乗り越えた「市民立候補」「運命の自己決定」という方針を提起した。2、主流民主派の紋切型を突破し、「平和、理性、非暴力」に続けて「法を犯す」を提起し、法律の限界を突破することを恐れなかった。運動の拡大にしたがって、運動の自衛権についての議論さえも登場した。今回の運動はまさに偉大な思想的解放運動であり、今後の民主化運動をつなぐことになるだろう。

◎関帝廟と雨傘と

旺角のオキュパイ地区につくられた関帝廟は伝説となった。一千年以上にわたり関公崇拝は続いているが、じつは関公は敗者であり、それを崇拝してきたのである。関公はのちに皇帝から神として祭られたが、それは彼の死後5百年以上たってからのことである。それ以前においても、唐の時代から彼に関する雑劇は広範に流布されてきた。つまり、関公が神に祭られたのは500年以上にわたる「人民投票」がもたらした賜物だともいえるのである。しかし人民はなぜこのような敗者を敬い崇拝してきたのだろうか。それは彼が義と初心を忘れることなく貫き通したからである。

もちろん関公の伝奇には旧時代の政治情実主義という要素が多分にあり、それは現在の市民政治とは相いれないものであることは確かである。とりわけ政治における情実主義は往々にして派閥政治に変化してしまい、決して真似してはならないものである。しかしそれとは別に、個人的得失にとらわれることなく、一時的な成否にこだわることなく、勝者か敗者かで英雄を決めることのなかった関公の伝奇から、われわれが学ぶことができるものは決してく少なくないのである。

だが残念なことに、見せかけだけの急進主義者は、関公から最も学ぶべきところからは何物も学ばず、逆に政治的情実主義というもっとも忌むべき派閥政治は学ばずとも身に着けてしまっている。派閥政治は最終的には、ただ一つの綱領に行きつくだけである。つまり、自分の判断だけが基準であり、それ以外の人間の判断の一切は間違っており、自分のなすべきことは、たとえ間違っていても正しい、という綱領である。

雨傘運動が切り開いた新しい民主化運動は、まさしくこの種のゴロツキ派閥政治と決別しなければならない。

「明報」2014年12月14日 日曜版副刊に掲載