1月11日にパリでは、オランド政権が呼びかけた大規模な「テロ」反対デモが行われたが、NPAはその呼びかけを拒否し、以下の声明を発した。

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左から欧州委員会のジャンクロード委員長、イスラエルのネタニヤフ首相、サルコジ前仏大統領、
マリのイブラヒム・ケイタ大統領、オランド仏大統領、ドイツのメルケル首相、パレスチナのアッバス議長



「シャルリー・エブド」への恐るべき攻撃への
「国民的団結」は罠だ

民主主義と連帯のためにレイシズムに反対する団結を


2015年1月11日

NPA(反資本主義新党)



 フランシスコ・オランドの社会党、ニコラ・サルコジのUMP(国民運動連合)、そしてフランスの政党の圧倒的多数や、政府の多くの高官たちがならんで一月一一日にパリで行われる「国民的統一」のデモにNPAは参加しない。

 重火器を携えた襲撃で、「シャルリー・エブド」のパリ事務所で一二人が殺されたことは、同情、憤慨、怒り、嫌悪の感情を全国的に引き起こした。このテロリストによる攻撃は全く受け入れられないことである。職員や漫画家たちの殺害は、われわれすべてに向けた犯罪であり、民主主義と表現の自由に対する犯罪である。われわれはこの血の惨劇の犠牲者に全面的な連帯をささげる。

こうした犯罪に関わった者たちは、テロを望んだのであり、意識的に恐怖を挑発したのである。かれらは極度の緊張に満ちた状況を作り出し、衝突とその過激化を引き起こそうとした。そこには、レイシズムとイスラム憎悪の高まりに直面するという大きな危険が存在する。われわれはすでに、モスクや住民への攻撃といった反ムスリム活動を見ている。われわれは、一切の妥協なくこうした事態に抗しなければならない。われわれは以前にも増して、あらゆる形での共同体に烙印を押し付ける行為や、いかなる形態の差別にも反対して闘わなければならない。われわれはまた、治安部隊により大きな権力を与えたり、市民的自由を制限することも拒否しなければならない。

オランドは国民的団結を訴えている。彼の社会党とサルコジのUMPは、国民的団結のデモを組織しており、オランドは一月九日に国民戦線と会い、そのデモに国民戦線が参加するよう招き入れたのである。こうしたやり方でかれらは、われわれが生きている政治的環境の質的低下と有害な雰囲気への自らの責任を覆い隠そうとしているのだ。かれらはそうでないように装いながら、外国人嫌いでレイシスト的な空気、外国人や自分とは違った人びとへの恐怖をはぐくんでいるのだ。それは憎悪の地盤の育成なのである。かれらは、勤労民衆を分断し、勤労民衆をかれらの政策に従属させ、また勤労民衆を自分たちが反対していると主張している文明破壊を引き起こすかれらの社会秩序に従属させることを望んでいるのだ。シニシズムの縮図はマリーヌ・ルペンである。彼女のおもな活動とは移民と外国人をターゲットにしたゼノフォビア(外国人嫌悪)の煽りたてである。

絶望とバーバリズム

 この殺害の暴力は、どこからもたらされたのだろうか。それは、労働者階級の資産で生活している多くの若者たちにとってきわめてよくある社会的・モラル的暴力の核心において作り出されたものである。それはレイシズム、ゼノフォビア、差別と、失業と搾取の暴力である。この文明破壊的暴力は、右派と左派の財政支出をめぐる社会的戦争が生み出した「モンスター・チャイルド」(恐るべき子どもたち)なのである。その頂点においてかれらがイラク、アフガニスタン、リビア、アフリカ、シリアに対して行った戦争がある。さらに数十年にわたるパレスチナ人民に対する戦争がある。

これらは、そのただ一つの目的が多国籍企業の支配とかれらの略奪の権利を維持しつつ、もっとも反動的な原理主義者を力づける戦争なのである。この文明破壊的な暴力は、もう一つの異なった形での文明破壊的暴力を創造する。「シャルリー・エブド」に対する犯罪がその劇的な表現となった社会的解体に対する回答は、それを可能にした政治に対してわれわれが闘うことぬきには、存在しないのだ。

労働者と諸民族の連帯

われわれの「シャルリー・エブド」への連帯、そしてこの憎悪に満ちたテロリスト犯罪の犠牲者――その何人かはわれわれの闘争にしばしば参加していた――への連帯は、諸民族や個々の男女を相互に敵対させるすべての反動的愚行、そしてすべての後ろ向きの偏見に対して闘うことである。民主主義と表現の自由は、民衆や人命の尊厳と同様に不可分のものである。

われわれが職場、家庭、大学で、反動派や政府から完全に独立した形で、民主主義と自由を生きたものにするために、討論し、会合し、デモを行うのはそのためである。