次の一歩 何をなすべきか?
2014-10-10 

區龍宇

林鄭月娥(キャリー・ラム)香港政務司司長[行政長官に次ぐ官僚トップ:訳注]による対話のキャンセルを受けて、学生連合会と学民思潮は今晩(10月10日)の抗議集会を呼びかけた。民主派を支持する民衆はこの呼びかけに呼応し、敗北主義の圧力に抗し、学生は街頭から全面撤退すべきだという主張に対する抵抗の意思を示さなければならない。

しかし、全面撤退の圧力には抗すべきであるが、戦術的の練り直しをしなくてもいい、というわけではない。現在、運動を主導している団体が、民衆に対してそのような議論を呼びかける形跡がみられないことは残念である。逆に懸念すべき状況が顔をのぞかしつつある。


◆ 目標は簡単に変更すべきでないが、戦術は臨機応変であるべきだ

今日の「明報」紙に掲載されたインタビューで、黄之鋒[ジョシュア・ウォン:学民思潮の若きリーダー]は「実際の成果がないまま広場を撤退することは、多くの市民の賛同を得ることができない」と語っている。彼の言うところの実際の成果とは、全人代常務委員会決定の再考であり、「再考の意味は、(全人代常務委員会事務局次長の)李飛がすぐに市民立候補案(訳注1)を受け入れるということではなく、すくなくとも[行政長官に立候補するために選挙委員会の]過半数の推薦が必要という条件を撤回することです」。

このような条件闘争には同意しかねる。しかし私はまず黄之鋒の結論に含まれている政治的前提について議論したい。彼の考えでは、市民立候補という目標は一時的に凍結して、立候補の条件を引き下げるべきだという。そして同時に、街頭でのオキュパイを堅持すべきだともいう(原文は「広場」であるが、インタビューの全文およびそれまでの黄の発言を考慮すれば、街頭のオキュパイを意味すると受け取られる)。このような政治的駆け引きはやや奇妙であると言わざるを得ない。目標には弾力性を持たせて、短期間のうちにあれこれと変更を加えることができる。しかし戦術(金鐘と旺角のオキュパイ)は高度な不動性を維持して、断固として変更を許さない、というものである。

だが政治的駆け引きの正道は、その逆でなければならない。目標はそう簡単に変更してはならないが、戦術は臨機応変であるべきだ。戦術は目標を実現するための手段に過ぎないからだ。目的達成のための手段が容易に変更できないなどということはありえない。

なぜ現時点で市民立候補の要求を放棄して、立候補の条件の引き下げを要求するのか、私にはわからない。条件引下げは、主流民主派[民主党などブルジョア民主党派を指す]が有利になるだけである。非民主的な政治制度がそのままの状態で、仮に主流民主派の行政長官が誕生したとしても、それは権力エリート階級の人質になってしまうだけであり、いまの張炳良(訳注2)と何ら変わらないだろう。市民立候補それ自体はすでにきわめて基本的な要求なだけに条件の引き下げなど問題にならない。もし現時点でこの要求を放棄するのであれば、それが一時的なものであっても、説得力に欠けるものになるだろう。

◆ 市民立候補の要求は下ろせない

黄君は、今以上に市民からの支援があったとしても、政府に譲歩させることは難しいから、ここはいったん次善の策をと考えているのかもしれない。そう考えるのも根拠のないことではないが、組み立て方が間違っている。もし運動が一時的に勝利することができないのであれば、検討すべきは戦術的な調整であり、当初の目標そのものではない。一時的に敗北を喫したからといって、目標を変更していては、何を目指して奮闘しているのかという路線がわからなくなり、はじめて政治化した自主的な人々に対して誤った教訓を残すことになる。

わたしはこれまでの30年にわたる主流民主派の誤りを思い起こさずにはいられない。かれらは何度も民主化の目標を変更してきた(あるときは議席の半分の直接選挙、あるときは議席の四分の一の直接選挙、そしてまた半分に戻す・・・・・・)。一方、その戦術は、硬直化した漸進路線、遵法主義、大衆の自主性を厳しく統制するといった硬直的なものであった。この戦術は現在の新しい世代による押し上げによって変更を余儀なくされた。

しかしこの新しい世代の民主派も、国内外の社会運動の貴重な経験を吸収することでしか、主流民主派の敗北の轍を避けることができないだろう。

黄君の主張からはハッキリとそのようなを読み取ることはできないのかもしれない。しかし今後、この記事を悪用する輩がでないとも限らないから、あえて私は上記のような意見を提起した。私は批判としてではなく、運動の次の一歩を検討するために、こう言っているのである。まず最初に論理の枠組みをはっきりさせてから、討論を喚起すべきだとおもったからだ。目標(戦略)と戦術の関係をはっきりとさせておかなければ、討論すればするほど混迷するだけだからだ。


◆ 情勢分析の必要性

この十数日のあいだ、街頭やウェブ上で、旺角を断固防衛せよという主張を目にしてきた。その理由は「悪いのは政府の方であって、われわれが悪いわけではない」という類のものだ。普通の市民が数日の間で大きく政治的に変化した状況では、このように考えることは理解できる。しかし社会運動に携わる人々は、一般道徳/道義だけに依拠することはできない。政治分析にも依拠しなければならない。目標と戦術のあいだには、情勢という要素が存在する。現在の情勢変化に基づいて、戦術を練ることが必要であり、道徳的理由だけで、あるいは最高目標(最大限綱領)だけで戦術を推論することはできない。

情勢についての討論が開始されたならば、われわれはこう問わなければならないだろう。運動は高揚しているのか、それとも減退しているのか。これまで運動に参加してきた参加者は、まだ戦闘力を保持しているのか、それとも疲弊しているのか。あらたに運動に加入してくる人々は、去っていくものよりも多いのか、その逆なのか。先週末、おそらく政府内部で見解の分岐が発生したことから、政府の方針が攻勢から持久戦に転換したが、もしまた数日内に方針が転換した場合、われわれはどのように対処すべきか。われわれの軍勢は増加しているのか減少しているのか。いかにして保守プチブルの民衆の支持をかちとるのか、あるいは少なくとも中立化させるのか。問題が正しく提起されることで、議論は極めて有意義なものとなるのである。

われわれは一昨日の夜、試しに旺角でこのような討論を実施してみた。反応はまずますだった。参加した市民らがこのような討論の大筋について理解できたのであれば、社会運動に携わる人々のあいだでは、さらに深い理解を得ることができるはずである。

黄君を厳しく責めたることはできない。17,8歳の青年が突如として政治的荒波に押し上げられたのだ。しかもその背後にいる主流民主派の大人たちはこれまでも歴史的な敗北を喫してきたのである。大人であっても、その過ちは時には許すことができるのだから、青年の過ちを許すことができないことがあろうか。青年、ただ青年のみが過ちを犯すことの特権を持っているのである。青年たちへの怒りをあらわにする者は、まず自分たちの過去数十年の歴史のなかで為しえなかったことに対して反省すべきである。

2014年10月10日


訳注1 市民立候補
原文は「公民提名」で、直訳すると「市民ノミネート」 。行政長官選挙の候補者は選挙委員会が指名する。中国政府が提示した指名条件は、1200人の選挙委員の過半数の推薦を得た候補者から2~3名を指名して、香港の全有権者が投票で決めるという案。これに対してオキュパイ・セントラル運動は「公民提名」として有権者の1%の推薦を得た市民なら誰でも立候補できる案を要求している。

訳注2 張炳良
大学教員で民主党副党首などを務めたが、のちに政界に進出し、政府部門の高官などを歴任し、現在は日本の内閣に相当する政府の行政会議メンバー。