今回の雨傘運動と1989年北京での民主化運動との比較を、區龍宇さんが2014年11月9日の香港紙「明報」日曜版コラムに掲載したもの。區龍宇さんは同じタイトルで11月5日の夜に旺角オキュパイでの流動民主教室で話をしており、訳文を講演風に「です・ます」調にした(H)


雨傘運動と89年民主化運動
似ているところ 違うところ


區龍宇



◆ 性格と対象

どちらの運動もともに中国共産党に対して基本的な政治的自由を要求するものですが、雨傘運動は一国二制度という複雑な状況があります。一国二制度は、中国共産党による香港直接統治を回避するものですが、いっぽうでは香港人が中央政府の政策に反対しようとする際には、克服すべき要因にもなります。雨傘運動は香港特区政府の権限外の事柄[中国全人代に決定する権限がある香港行政長官の選出方法等を指す:訳注]を特区政府に実現するよう迫っていますが、どのようにそれを実現させるかは大きな試練だといえるでしょう。

1970年代から、香港の民主化運動が中国との関係をどのように処理するかについては、一貫して悩ましい事柄でした。現在、運動内部には三つの立場があります。ひとつは中国との関係を断ち切る、中国のことは忘れるという立場。ふたつめは中国の民主化運動と結合するという立場。みっつめは戸惑いつつ考える、というものです。奇妙なことに、6月4日の天安門事件記念集会に結集する多くの団体が、その約一ヵ月後に開催されている7月1日の香港返還記念日の香港民主化デモと、中国民主化の象徴である6月4日のデモを完全に別なものとして扱っているのです。6月4日のデモでは「民主的中国の建設を!」と叫ぶのに、7月1日に同じスローガンを叫ぶことを躊躇しているのです。

◆ 主体

どちらの運動も、学生が最前線に立ち、それが刺激となって民衆が参加したという共通点があります。しかし雨傘運動はさらに先を進んでいるといえるでしょう。89年民主化運動の学生たちは庶民らの支援を歓迎しましたが、工人自治連合会との関係は疎遠であり、民衆の生活についての議題についても関心を示しませんでした。6月4日の弾圧の数日前にストライキが呼びかけられましたが、それは遅きに失したといえるでしょう。雨傘運動は状況が異なります。学生連合会の発言では常に民衆の生活問題について言及しており、労働組合との関係も良好です。学生と労働者の同盟は大きな力になります。しかし香港の労働運動自体の弱さもあり、組合が呼びかけたストライキの成果もあまり理想的であったとはいえません。

学生と労働者の同盟はここ数年の出来事です。メーデーにも学生の隊列がみられます。しかし、ここで皆さんに考えてほしいのは、普通選挙と民衆の生活という二つのテーマが、じつは以前と同じく、別々なものとして捉えられている、ということです。5月1日のメーデ・スローガンが7月1日の香港民主化デモでも掲げられているとは限らないのです。雨傘運動でもこの二つのテーマの間には溝があります。民衆生活の議題を掲げる団体はないわけではありませんが、力不足もあって運動全体のテーマになるまでにはいたっていません。この運動が全民衆の運動にアップグレードすることは、そう簡単ではないということです。

◆ 背景

しかし、極度の貧富の格差に対する反感も、まさにこの二つの運動を生み出した主要な理由の一つでもあるのです。89年の学生たちの要求は政治的課題に集中していましたが、市民らにより大字報(壁新聞)やスローガンは、党官僚の腐敗を批判していたり、自分たちの低賃金に対する不満などでした。雨傘運動もおなじように、とりわけ青年たちの貧困への不満があります。高騰する家賃や独占的不動産業界への批判などに、それは顕著にあらわれています。

このような背景を認識することで、旺角のオキュパイ参加者を理解することができるでしょう。かれらはより庶民階層に近く、より勇敢です。これまでずっと社会の底辺で抑圧されてきた人々が、突如として警察との衝突の最前線に立ち、自らの運命を自ら変えることができる権力を獲得したかのように感じたのです。「差老を撃退したぞ!」という事実が集団的な力を認識させたのです。

◆ リーダー

89年の民主化運動は、その発生からその後まで、指導者がつぎつぎに変わったことによって、天安門広場からの撤退の決定がなんども覆されました。運動が北京以外の学生たちを巻き込めば巻き込むほど、さまざまな傾向が生まれました。北京の学生たちは、長期間の広場占拠による疲れから、撤退を提起しても、遠くの地方からやってきた学生たちは「十数時間もかけて駆けつけたのに撤退などできない」と主張します。運動が長期化すればするほど自然発生性が運動を支配していきました。当時、こんな言い方がありました。「運動は感覚とともに進む」。しかしそのなかに敗北の種があったことも、また確かです。

◆ 発展

89年民主化運動は5月中ごろには疲労を見せていました。5月19日、政府が戒厳令を発表たことで、民衆の怒りが再燃しましたが、そのような政府の挑発がなければ、運動は自然消滅していたかもしれません。雨傘運動もおなじように、もし9月29日の大弾圧がなければ、雨傘運動が誕生しなかったかもしれません。また、この弾圧から反弾圧という運動の持続によって、政府内部に分岐、ひいては分裂をもたらします。89年民主化運動と雨傘運動のどちらにおいても、程度の差こそはあれ、このような状況があります。

香港政府は9月28日以降、ハト派の路線を採用し、オキュパイの継続を容認します。しかし運動の継続はいっぽうで、その弱点も露呈させます。運動の団結の基礎はそう強いものではないことから、それぞれの要求や展望に違いが現れます。9月28日未明にオキュパイの3人の代表がオキュパイ・セントラルを正式に宣言しましたが、それは歓呼によって迎えられたわけではなく、すくなくない人々が運動から退きました。もしその日の夕方に87発の催涙弾が打ち込まれなければ、雨傘運動が誕生したかどうかはわかりません。

オキュパイはこれによって長期化することになりましたが、団結の基礎はそう強固ではありません。先月20日の「明報」紙の世論調査では、どのような条件ならオキュパイ撤退をするかという質問の回答は、かなりのばらつきがありました。オキュパイはすでに一ヶ月以上続けられています。しかし中央政府は譲歩していません。こういったボトルネックのもと、運動をさらに拡大させるのか、あるいは戦術的な撤退をするのかの判断が迫られます。難しいのは、撤退すれば非難され、かといって運動をさらに拡大させることにも困難があるということです。

◆ 結末はいかに

89年民主化運動の結末には二段階ありました。第一段階は天安門における血の弾圧です。しかしその後の第二段階といえる、全国で吹き荒れた徹底した大弾圧こそが、その世代の民主化の声を完全に消し去ることに政府が成功した大きな理由です。

現在の香港はそれほど悪い状況にはありません。かりに暴力的な弾圧が行われたとしても、89年民主化運動に対する徹底した弾圧ほど悲惨な状況になることはないでしょう。その分析については昨年執筆した「オキュパイ・セントラル弾圧のシミュレーション」(2013年11月28日)を参考にしてください。とはいえ、いくら弾圧がそう悲惨なものでないと予想されるからといって、軽率な行動をとってもいいというわけではありません。

いずれにせよ、今回の雨傘運動は、民主化闘争の正々堂々たる予行演習となったことには違いありません。これまでとこれからでは、香港の民主化運動は格段に違ったものになるでしょう。

2014年11月8日

(2014年11月9日「明報」日曜版コラムに掲載)