よいよ11月22日から
東京・渋谷ユーロスペースでロードショー

長編ドキュメンタリー映画「三里塚に生きる」



 カメラが最初に訪ねるのは、「大地共有委員会2」の大看板が立つ横堀の団結小屋。団結小屋住人・山崎宏さんは、なぜ、空港に反対し続けるのか?との問いに、「何も変わっていない。問題は解決していない」と答えます。カメラは、その言葉を確かめるかのように、かつて激しく闘った人々を訪ねます。

 
 後半では、飛び交うジェット機を背景にしながら、反対同盟代表世話人・柳川秀夫さんが、もくもくと農作業を続ける姿や、東峰の畑で大木よねさんの思いを語る小泉英政さんが印象的です。
 

 映画のチラシやパンフレットに記載はありませんが、大地共有委員会2代表の加瀬勉さんの若きの姿も登場します。大木よねさんの住まいが強制代執行で奪われるその日、よねさんとともに脱穀作業をつづけ、大勢の機動隊に向かって激しく抗議しています。
 

 そのほか、アジア連帯講座が参加したデモや集会、旗開きの映像も登場しています。
 

 公共の名のもとに行われた暴力的な空港建設の理不尽さをうかびあがらせ、そこで生きている人々の姿、人生を記録した映画です。
 
 三里塚闘争に関わった人は見逃せない映画です。
 
 

 映画案内『三里塚に生きる』

監督・撮影:大津幸四郎、監督・編集:代島治彦

忘れられた人々の、忘れられない物語

国家権力を恐れなかった人びと


 農民たちに何の相談もなく一方的に新空港建設を決めた閣議決定から半世紀を迎えようとしている。現代の日本では、三里塚闘争は終わったものと、意図的に忘れ去られようとしている。大震災のあと、多くのカメラは被災地にむかった。しかし、二人の監督は、あえて三里塚に行き、国の暴力と正面から闘った農民、いまも闘い続ける農民に向き合う。強制的な弾圧に屈せず、どのように闘ったのか、いかに悩み、いかに傷つき、いかに苦しんだのか。

 人びとが静かに語る言葉が、この国の体質を浮き彫りにする長編ドキュメンタリーである。国家権力が何をしたのか、国家と闘うには何が必要なのかを伝え、そして人間は何のために生きるのかを考えさせる映画だ。日本ドキュメンタリー界で長いキャリアを持つキャメラマン大津幸四郎と、年下の映像作家代島治彦、二人の共同監督による作品。大津は、一九六八年、小川プロの三里塚作品、第一作目「日本解放戦線・三里塚の夏」を撮ったキャメラマンだ。

三里塚に向かったきっかけは、大津が「三里塚の夏」のDVDブックを製作したことにある。(「小川プロダクション『三里塚の夏』を観る」鈴木一誌編著、2012年太田出版)。一九六六年、佐藤栄作内閣は農村地帯である成田市三里塚および芝山町に空港建設を一方的に決める。農民たちは空港反対同盟を結成し、反対運動に立ち上がるが、政府・空港公団は機動隊を投入し、強制的に反対運動をつぶそうとする。国家の暴力にどう対抗するのか。三里塚闘争が転換点をむかえた六八年、小川紳介監督が率いる小川プロダクションは、抵抗する農民の姿を、農民の側に加担して描いた映画「日本解放戦線・三里塚の夏」を世に送り出した。


農民や青年たちは、「武装」しようと話し合い、反対同盟の幹部にも迫る。完全武装の機動隊と対峙した女性たちは、激しく声をぶつける。「お前たちの母親は、人を殺すためにお前を産んだのか」。最初はとまどいながら、しかし、国家権力と闘うことを覚悟し、どうどうと振る舞うように変わっていく。

このいきいきと闘った人々はどうしているか? 元気でいるだろうか? というつぶやきが、四五年ぶりに会いに行くきっかけだったそうだ。ところが、三里塚は、ジェット機が頻繁に離着陸を繰り返す騒音の中にある。小川プロの映画にもなった辺田部落を訪ねるが、かつての場所に農家は一軒も残っていない。

今もつづく三里塚闘争


農民が命をかけて抵抗し、全国から学生や青年が集まり三里塚闘争は大きな抵抗闘争となった。一九七八年、計画では三本だった滑走路が一本だけで、空港は「部分開港」する。八三年反対同盟は大地の共有運動を巡って分裂する。九〇年代、隅谷調査団が国と農民との調停にたち、シンポジウム・円卓会議を経て、九四年、国は「強制的な用地収用は二度と行わない」「地域住民との合意のうえで進めていく」と謝罪し、事業認定を取り下げた。また、農民の多くも謝罪を受け入れ、反対闘争から退場していった。

だが謝罪とはうらはらに、国は空港拡張をあきらめず、農家の軒先まで工事をすすめた。二〇〇二年サッカーワールドカップ開催を口実に、二本目の滑走路を供用開始し、農家の頭上四〇メートルをジェット機が通過する運用を始めた。また、共有地や農地などについても、空港会社(かつての空港公団)は裁判に訴え、所有者の意志を無視して強奪し、いまもなお同じ手段で強奪しようとしている。空港はいまだ未完成であり、闘争は今も続いている。

「浦島太郎」状態の中から始めて

 大津監督は、「浦島太郎」状態だった。記憶にある場所に家や目指す人もいない。ようやく訪ねあてた人も、長い年月でさまざまな苦悩があったのだろう、口は重く、簡単にはカメラの前では話さない。しかし、ベテランのドキュメンタリーキャメラマンであり、四五年前には「映画班」のヘルメットを被り、三里塚で撮影中に公務執行妨害で逮捕された大津だからだろう、ある人は懐かしい写真を手に、また別の人は開拓の思い出からカメラの前で静かに語りだす。

大津監督が開けた「玉手箱」の煙は、さまざまな言葉でちりばめられている。闘っていた時には、明かさなかった気持ちや、外からは窺うことができない苦労。複雑な心境。私にも、それぞれが輝いて聞こえた。

だが、映画は、一つの方向に導こうとはしない。ナレーションはなく、人々の独白と、かつての映像で構成されている。代島監督は「万華鏡のように、ちょっと位置をずらすだけで見える構図が一変する」と試写会で語っていた。どう見えるかは、観客にゆだねられている。

二人の死者が残した言葉


二時間二〇分と長いこの映画のクライマックスは、二人の死者の言葉だろう。

七一年、二度にわたって土地の強制収用が行われる。闘争は激しさを増し、機動隊員三人が死亡するまでになる。二二歳の三ノ宮文男は「国家権力ていうものは恐ろしいな。生きようとする百姓の生をとりあげ、たたきつぶすのだからな」との遺書を残して第二次第強制代執行の直後に自死する。その強制代執行では、大木よねの住宅と田畑も対象となった。大木よねは「戦闘宣言」を自宅の前に掲げた。

「遺書」を俳優の井浦新が、「戦闘宣言」を吉行和子が朗読する。二人の残した言葉は、あとに続く人々を生きさせている。今も闘い続ける柳川秀夫は、飛び交うジェット機の近くで、もくもくと農作業を続ける。出荷の作業をしながら、(あの遺書は)「生き続けろといっている」と答える。そして闘い続ける理由を問われると「悩んで、闘って、傷ついたことも、多くの仲間が死んだことも、空港ができたことで忘れられていくわけだっぺ。それは絶対に許せねえんだよ」と述べる。

支援者から大木よねの養子となり、三里塚に定住し農業を続ける小泉英政は、東峰の畑で空港を背にしながら、「最後まで国に抵抗することに惚れた」「それを引き継ごうと思う」と、代執行を一人で引き受けた大木よねばあちゃんについて静かに語る。

過去と現在を行きかいつつ


大津は「三里塚の夏」以降、小川プロを離れ、水俣シリーズなどを撮影する。

小川プロは七四年まで三里塚にとどまり、七本の三里塚映画を製作し、未公開のものも含め三里塚闘争に関する映像を多く残している。そうした過去の映像や、今回三年がかりで撮影した現在の映像が、自在に行き来し、国家権力に抵抗した農民の「長い時間」=人生を映像化している。

国家的事業、公共事業とされた成田空港建設。農民の暮らしは無視され、国家が一方的に決定し、押し付けてきた。闘争のなかで、目覚め、成長していく人びと。その一方で傷ついたことも。大震災や原発事故を経験し、国家や公共の名のもとに行われる政策の理不尽さを知り、どう生きるべきかを考える人には一つの指針となる映画でもあるでしょう。

この映画は、今年一一月二二日から一二月一九日まで東京・渋谷「ユーロスペース」で公開され、順次全国で上映される。前売り券を販売中。

日本での公開に先立ち、一〇月台湾国際ドキュメンタリー映画祭に招待されオー
プニングで上映され、好評だったとのこと。(敬称略)