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「警戒せよ!集会を乗っ取ろうとするサヨクを阻止しよう」という
スローガンをオキュパイの現場で掲げる極右


【解説】香港のオキュパイ運動は黄色いリボンをイメージアイテムにしている。それに対して、オキュパイ運動に反対する「反オキュパイ運動」は青いリボンをイメージアイテムにしている。オキュパイ運動をけん引する社会運動派に対して、極右からの妨害や暴力が仕掛けられている。社会的に広がった運動をけん引する活動家に対して「左膠(Leftard)」と呼んでそこ腹排除しようという動きである。日本でも「サヨク」「極左」「プロ市民」などという誹謗中傷があるがそれと同じ現象であるが、香港の社会運動にとってはじめての経験である。これは社会運動全体に対する反動保守からの攻撃であることをしっかりとした認識すべきだと訴える香港の區龍宇さんの文章を紹介する。香港紙「明報」日曜版(2014年10月12日号)に掲載された文章。原文はこちら(H)



白いリボンと黄色いリボン

區龍宇

いま香港では二つの陣営が対立している。黄色いリボンと青い(藍色)リボンである。なぜ後者が青いリボンを選んだのかは不明だが、青いリボンと聞いて私は、かつて国民党のファシスト組織の藍衣社を思い出した。国民党が青色を好んでいたことは誰もが知っている。周融[オキュパイ反対運動の指導者:訳注]が青色を選ぶとは思わなかったが、それにはあまりこだわらないでおこう。悪いのは人であって、色には罪がないのだから。

では白いリボンとは? 色が違うだけでよく似ているが。街頭に通い詰めて二週間、緊張のせいか、なかなか寝付けない夜に「白いリボン」という2009年作製のモノクロのドイツ映画を見た。監督はMichael Haneke。第一次世界大戦のドイツ北部にある農村の家族の物語。メインテーマは社会的抑圧と抵抗である。伯爵(大地主)、牧師、医師の三家族は上流階級に属する。そして貧農らが登場する。材木工場で働く貧農の妻が大きな鋸切断機械に命を奪われる。息子が復讐を図るが「一家すべてを犠牲にする気か?」と父親に止められる。サブテーマは、メインテーマに関連するが別な観点から描かれる。つまり牧師の一家における権威主義、家父長制、禁欲主義を通じた、妻や子どもたちを含めた支配である。青春真っ只中の息子と牧師の父親が衝突する。父親は息子の両手を縛り、自慰行為をやめさせようとする。一年後、息子は父親の言う通りに従い、父親から白いリボンをつけられる。「この白いリボンのように純潔無垢のままで」という意味が込められていた。

白い色は西側では一般的に純潔を表す。しかしこのような牧師がいうところの白い色は、極端な保守主義を表している。1918年にロシア各地で出現した旧ロシア帝国軍人らの反乱軍が白色をトレードカラーとして、白軍と呼ばれ、その軍隊によるテロは白色テロと呼ばれたことも道理のないことではない。白い色にとっては災難でしかないが。

◆ 白色テロ

「白いリボン」に話をもどそう。伯爵夫人は家父長主義の夫を嫌い、別な幸福を求めようとする。夫の伯爵は激怒して言う。「何が不満だというんだ」。妻は答える。「この村には野蛮と暴力が蔓延してるわ」。これが伯爵自身にも向けられた言葉の可能性であることを彼自身はわかっていないかもしれない。しかしこの村で最近発生した猟奇的な暴力事件のことを指していることはわかったようだ。仕掛けられた針金で落馬して負傷した医師の事件、医師の愛人の息子が殴られて目が見えなくなった事件、伯爵の息子が連れ去られ暴行を受けた事件、伯爵の支配する農園での不審火など。犯人はだれなのか?映画は村の教師がこれらの事件を回想する形で進むが、最後にこの教師の告白によって一連の事件の犯人が明らかにされる。白いリボンをつけられた牧師の息子が一連の事件の犯人だったのだ。権威主義、家父長制、亭主関白、禁欲主義によって育まれた次世代の一部が悪魔に変わってしまったというエピソードである。

これは、ドイツ映画界の流行の一つであるファシズムに対する反省をテーマにしたものでもある。数年前の「The Reader」(邦題「愛を読むひと」)もそうである。香港のある映画評論家はこの映画の主演女優のスタイルの良さばかりを強調していたが、映画で描かれていたテーマのひとつが、権威主義的人格に育てられた女性が命令に従うことによって遭遇する悲劇であったことについては、まったく言及さえもしなかった。

◆ 悪魔をつくりだす

極右に対する認識の不足は、今回のオキュパイ・セントラル運動にとってもアキレス腱になりつつある。

二週間にわたるオキュパイ運動は、市民の民主的自治能力を解放した。市民は自発的に議論を形成し、政治を語る姿はあちこちで見ることができる。これこそが民主主義である。民主主義ははじめから憲法制度の枠内にとどまるものではなかった。民主主義はまずなによりも、市民が日常のなかで一国の政治生活に自覚的に参加することをである。このような運動状態にない民主主義は、どのような制度であっても空文にすぎない。しかるにこのようないきいきとした民主主義の能力は、極端な保守勢力が最も嫌うところでもある。先週の暗黒勢力による公然たる襲撃は最近では下火になってはいるが、ここ数日、オキュパイの現場には、多くの奇妙な群衆が出現し始めている。のべつ幕なしに「サヨク」というヘイトスピーチを行い、社会運動活動家を中傷する人々である。市民団体が街頭討論を行い始めると、批判や大声での妨害、ひどいときには暴力が振るわれる。

これは社会運動活動家たちにとって心配の種の一つになっている。私がもっと心配していることは、多くの友人たちが、このような妨害を行う陣営に対して何と呼ぶべきかが分らず、意見噴出という状態である。ある友人が「右翼」だといえば、そうではないという人もいる。またある人は、かれらは何かの信仰の信徒なので挑発しなければ大丈夫だという。

名前は重要である。「蒼頡が文字を作ったとき、天は粟を降らせ、鬼は夜に泣いた」というくらい名づけは重要である[蒼頡は漢字を作ったとされる伝説上の人物:訳注]。名は体を表す。口頭であろうと書面であろうと名付けることが存在を認識するための第一歩である。名前さえもはっきりしないのに、どうして対応することができるのか。友人たちよ、この陣営は極右と呼ばれる勢力なのだ。ちょっと見れば、権威主義、家父長制、そして男主義がぷんぷんにおってくる。彼らが投げかける言葉や実際の暴力を見ればわかるはずだ。かれらはまず香港社会運動の声を押しつぶし、そして民主化運動全体の声を押しつぶして、民主化運動を武侠[任侠]小説の世界に変えてしまうのだ。

◆ 極右以外の何者でもない

彼らのことを極右と呼びたくない人々が運動の中にいることも、私は知っている。理由の一つは、自分はそのような左右のイデオロギーからは無縁でありたいという思いからだ。相手を極右と呼んでしまうと、自分が左翼(このレッテルを好んで受け入れる人はそう多くない)に見られてしまうとおもっているようだ。

何が左翼で何が右翼かについて、ここで討論するつもりはない。ただ指摘しておきたいことは、いま「サヨク」という罵倒で民主化運動や社会運動を攻撃している人々は、国際標準でいえば、間違いなく極右、あるいは極めて極右に近い立場なのである。もしオキュパイ運動が普通選挙の水準において国際標準を求めるのであれば、政治的な立場においても国際標準を使うべきである。[この「国際標準」はオキュパイ運動が中国政府の偽普通選挙に対抗する理論的根拠の一つ:訳注]

極右の特徴は、本物の左翼に対する暴力的攻撃だけでなく、民主主義、自由、平和を主張する人々(自由主義者を含む)を暴力で攻撃する。自分は左翼ではないので、極右の攻撃には遭わないだろう、という考えは、ドイツにおける自由主義者や左翼以外の社会運動の悲劇の轍を踏むことになるだろう。

私も自身の立場に固執するつもりはない。もし「極右」というのが気にそぐわないのなら、「ファシスト」と呼ぶのはどうだろうか。左翼との関係を望まない人々も、これなら誰もが受け入れることのできる呼称ではないだろうか。繰り返す。このような極悪勢力に対して、統一した名前さえも付けることができなければ、対応することさえできないのである。

(2014年10月12日「明報」日曜版に掲載)