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アジア連帯講座では、森田さんの新訳『賃労働と資本/賃金・価格・利潤』の発売すぐ、会員の間で話題となり、意見交換などが行われています。数か月前の意見交換ですが、10月18日の公開講座「現代から古典へ-- マルクスの経済学を学ぶ」での議論の参考までに紹介します。講座にもぜひお越しください。(H)




件名:アベノミクスの時代における賃労働と資本

送信日時2014/05/28


Aです。


みなさん、森田成也さん翻訳の新著『賃労働と資本/賃金・価格・利潤』(マルクス、光文社古典新訳文庫、1100+税)は買いましたか?ぜひ買って読んでください。


「アベノミクスの時代における賃労働と資本」を考える上での基本のキの文献です。


賃上げ?安倍やアベノミクス応援団は名目賃金が上がったことを大々的に報じていますが、マルクスは同書でこんな風に言っています。


「労働者の貨幣価格、すなわち名目賃金は、実質賃金とは ――すなわち賃金と引き換えに実際に得られる諸商品の総量とは―― 一致していないのである。それゆえわれわれは、賃金の上昇とか下落とか言う場合に、労働の貨幣価格である名目賃金だけを念頭に置いていてはならない。」(同書44頁)


しかし、これだけだと、東京新聞や毎日新聞どまりの見解。


「しかし・・・実質賃金、すなわちこの貨幣と引き換えに労働者が買うことのできる諸商品の総量も、賃金の中に含まれている諸関係を汲み尽くすものではない。賃金は何よりも、資本家の儲け、利潤との関係で規定される。それが相対的賃金である。」(同書44頁)


ここまで来てやっと共産党のアベノミクス批判の水準になります。


マルクスは続けます。


「実質賃金はその他の諸商品の価格との関係における労働の価格を表現している。それに対して、相対賃金は、蓄積された労働の価格との関係における直接的労働の価格を、賃労働の価値と資本の価値との割合を、資本家と労働者との相互的価値を表現している。」(同書45頁)


ちょっとわかりづらいということで、後にエンゲルスが「労働」→「労働力」と加筆修正した際に、この箇所について大幅に加筆しています。一般的にはこのエンゲルスの加筆稿が定着しています。


「実質賃金はその他の諸商品の価格との関係における労働の価格を表現している。それに対して、相対賃金は、直接的労働によって新たにつくり出された価値のうち、蓄積された労働、すなわち資本に帰属する分け前との関係における直接的労働の分け前を表現している。われわれは14頁[日本語訳版では18ページ]で次のように述べた。『賃金は労働者によって生産される諸商品に対する労働者の分け前ではない。賃金は資本家が一定量の生産的労働力を買うのに用いる既存の諸商品の一部なのである』。とはいえ、資本家はこの賃金を、労働者によって生産された生産物の販売価格から再び補填しなければならない。彼はその際に、通常、彼によって費やされた生産費を越える剰余が、つまりは利潤が手元に残るようにしなければならない。」


「労働者によってつくり出された商品の販売価格は、資本家にとって次の三つの部分に分かれる。第一に、彼によって前貸しされた原材料の補填、および、同じく彼によって前貸しされた道具や機会やその他の労働手段の損耗分の補填。第二に、彼によって前貸しされた賃金の補填。第三に、それらを越える剰余、すなわち資本家の利潤である。第一の部分は既存の価値を補填するにすぎないが、賃金の補填分と資本家のための剰余=利潤が丸ごと、労働者の労働によって生み出され原材料に付け加えられた新価値から取り出されていることは明らかである。そして、この意味で、われわれは、賃金と利潤とを、両者を比較するために、労働によって生み出された生産物の分け前と見なすことができるのである。」(同書71頁)


森田さんは同書に収録されている長文の解説のなかで、このエンゲルスの修正はなんらマルクスの意図を捻じ曲げるものではなく、むしろマルクスの理論的発展の流れのうえに行われたものだとしてエンゲルスを正しく擁護しています。


しかし、マルクスとエンゲルスの賃金論は、この水準にとどまっているわけではないことは、このMLでも再三述べてきたところです。つまり同書に収録されている『賃金・価格・利潤』の最後部に記されている言葉です。


「『公正な一日の労働に公正な一日の賃金を!』という保守的モットーに代えて、『賃金制度の廃止!』という革命的合言葉をその旗に書き込まなければならない。」(同書244頁)


つまりこの水準を意識した上で具体的な課題に取り組むかどうかが、「アベノミクスの時代における賃労働と資本」の任務となると思うのです。



件名:Re:アベノミクスの時代における賃労働と資本

送信日時2014/05/28


Aです。気にせずに続きです。


> 「しかし・・・実質賃金、すなわちこの貨幣と引き換えに

> 労働者が買うことのできる諸商品の総量も、

> 賃金の中に含まれている諸関係を汲み尽くすものではない。

> 賃金は何よりも、資本家の儲け、利潤との関係で規定される。

> それが相対的賃金である。」(同書44頁)

>

> ここまで来てやっと共産党のアベノミクス批判の水準になります。

>

> マルクスは続けます。

>

> 「実質賃金はその他の諸商品の価格との関係における労働の価格を表現している。

> それに対して、相対賃金は、蓄積された労働の価格との関係における

> 直接的労働の価格を、賃労働の価値と資本の価値との割合を、

> 資本家と労働者との相互的価値を表現している。」(同書45頁)


昨日(527日)の日経新聞の一面トップは


「株式配当6年ぶり最高、6.9兆円」


でした。手元に新聞がないのですが、6年ぶりなので2008年3月期、つまりサブプライム・バブルの最期の最期の、ぶくぶくに膨れ上がったマネー資本主義の水準にもどった、ということです。


そしてこの株式の配当とは、先ほどのメールで紹介したエンゲルスの加筆箇所


「第三に、それらを越える剰余、すなわち資本家の利潤」の一部です。つまり労働者の労働によってつくり出された価値の一部です。


株式配当が増加したということは、「賃労働の価値と資本の価値との割合」において、「資本の価値」の側が増加したということです。


もし「労働の価値」=「労働力の価値」が同じ程度に増加していなければ、マルクス=エンゲルス的には、相対的賃金は下がった、ということになります。


「賃労働と資本」ではこうも述べています。


「賃金と利潤の騰落をその相互関係において規定している一般的法則はいかなるものだろうか。両者は反比例関係にある。資本の交換価値である利潤が上昇するのと同じ割合で労働の交換価値である賃金は下落し、その逆は逆である。利潤が上昇するのと同じ度合いで賃金は下落し、利潤が下落するのと同じ度合いで賃金は上昇する。」(同書46頁)


配当が危機前の水準に戻ったというアベノミクスは、労働者にとっては相対的賃金の下落を意味するということでもあるのです。



件名:Re:Re:アベノミクスの時代における賃労働と資本

送信日時2014/05/28


Aです。気にせずさらに投稿。これでおしまいです。


新自由主義グローバリゼーションの攻撃以降、とりわけ不安定雇用の拡大によって、戦後日本資本主義システムをはじめとする帝国主義諸国で支配的であった修正資本主義が投げ捨てられたことで、労働者の多くが尊厳や生存権を踏みにじられ、職場では上司だけでなく労働者同士でもひどいパワハラが横行し、労働者が勝ち取ってきた福祉を受ける権利を行使すれば「怠け者だ」と政治家から批判されるという、赤裸々な資本主義の実態=商品としての労働力の血と肉の受け皿(=労働者)そのものへの抑圧が、あたりまえのように大手を振っています。


それは多くの心ある活動家や文筆家による労働運動や社会運動への共感もかきたてています。反貧困運動や悪徳企業への批判などはその最良の表現です。しかし、このような状況のなかで多くの心ある人々の間でつぎのようなメッセージが運動において平然と語られることがあります。


「労働は商品ではない!」


労働者がモノのように、そしてひどいときにはゴミのように扱われる新自由主義的労使関係において、このメッセージは心打つことはまちがいないのですが、「賃労働と資本」「賃金・価格・利潤」を通じて、搾取のない社会を目指そうとするものにとっては、このメッセージには批判的にならざるを得ません。


それはマルクス=エンゲルスの「労働力は商品である」という主張に反しているから、というよりも、「労働は商品ではない」というメッセージが、帝国主義諸国による反共運動に、そのルーツをもつからです。


「労働は商品ではない」というスローガンは、1944年のILO総会の「フィラデルフィア宣言」で掲げられたものですが、そこでは1919年のヴェルサイユ講和条約の第427条に掲げられた国際労働憲章を再度確認するものとして確認されています。そもそもILO自体が、このヴェルサイユ講和条約によって誕生しています。


トロツキーは、ヴェルサイユ講和条約の動きを徹底して批判していました。当然です。191811月のドイツ革命の勃発でウクライナから撤退したドイツ帝国にかわり、1919年に入ってウクライナに侵攻したポーランド・ピウスツキー体制は、ヴェルサイユ講話体制の中心国の一つであるフランス帝国主義に後押しされていたからです。


フィラデルフィア宣言とヴェルサイユ講和条約との関係については、下記の論文がコンパクトにまとめています。「労働は商品ではない」は、「労働力は商品だが、労働者は商品ではない」というふうに善良に解釈する内容の論文ですが、事実経過を知るにはいい文章です。


ILO「労働は商品ではない」原則の意味するもの(石田眞)

 http://www.waseda.jp/w-com/quotient/publications/pdf/wcom428_06.pdf


この論文でも最初と最後に、リーマンショックや派遣切りなど、不安定雇用などの問題を取り上げています。しかし労働力をふくむほとんどすべてのモノが商品であるのが資本主義なわけですから、資本主義という問題をそのままにしておいて、労働力だけを商品にしないように努力するのは不可能なこと。もちろんその商品性に対して、労働運動の側からさまざまな制限をつける(8時間労働、割増賃金、労働安全衛生、性差別撤廃、障害者差別撤廃、失業者支援など)ことはいうまでもなく欠かすことはできません。


ひどい労働環境に憤り、「労働(者)は商品ではない」と訴え続ける誠実な活動家に対しても、労働力や労働者が商品でない、もう一つの世界を目指そうと呼びかけていく必要があると思います。


森田さんは「賃労働と資本」につけられたエンゲルスの序論の「新しい社会秩序は可能だ」という箇所を引用して、本書の解説を終えています。ここではそれに習ってエンゲルスの引用で終えたいと思います。


「社会は途方もなく豊かな少数の者と多数の何も持たない労働者階級とに分裂し、そのせいで、この社会は、それ自身の過剰さによって窒息しながら、その一方で成員の大多数が極度の窮乏からほとんどないしまったく保護されないでいる。このような状態は日々ますます不条理なものとなり、そして不必要なものになっていく。それは取り除かれなければならないし、取り除くことができる。新しい社会秩序は可能だ。そこにおいては、今日におけるような階級差別が消え去っているだろうし、――おそらく、多少厳しいだろうが道徳的には大いに有益な短い過渡期を経た後で――、すでに獲得された巨大な生産力を社会の全成員が計画的に利用しいっそう発展させることを通じて、そして平等な労働義務にもとづいて、生活のための、生活を享受するための、あらゆる身体的・精神的諸能力を陶冶し発揮するための諸手段が、平等かつますます大量に自由になるだろう。」


残業代ゼロ?

残業と賃労働を廃止せよ!



件名:Re:Re:Re:アベノミクスの時代における賃労働と資本

送信日時2014/06/04


Aです。気にせず続きです。


マルクス経済学的には、剰余価値(不払い労働)から、企業の利潤、地代、利子が生まれるのであって、近代経済学やアベノミクスが言うように、利子(利子生み資本=株など証券)や土地が価値を生み出すのではない、ということがどこかに書いていたなぁ・・・と、手元にあった2008年に出版された新書『いまこそ「資本論」』(嶋崇、朝日新書)を読み返したとき、つぎの一文がふと目に入りました。


「恐慌は消費が拡大する時期にこそ準備されるのである。・・・『資本主義的生産がその全能力を伸張する時代は、決まって過剰生産の時期である』とマルクスは言う。労働者階級の消費までもが拡大する『繁栄期』こそが、過剰生産を準備する時代となるわけで、『いつでも恐慌は、労働賃金が一般的に上昇して、労働者階級が年生産物中の消費向け部分におけるより大きな分け前を現実に受け取る時期、まさにこのとき、準備されるのである』とも言っている。」(187ページ)


つまり景気のいいときに恐慌が準備される、ということです。


08年当初、というよりアベノミクスまでは、この箇所を読んでも、あんまりピンとこなかったのかもしれません。ほとんど印象がないのです。しかし、やれ三本の矢だ、やれ賃上げだ、やれ景気回復だという騒ぎのなかで、この恐慌論の箇所の意味あいが、ピンとくるようになったのかもしれません。


ちなみに、冒頭の土地や利子の源泉については「賃金・価格・利潤」の11節にありました。マルクス経済学の基本のキですが、僕の場合、なんども反復したり、資料に当たらないと思い出せません。まあいい勉強にはなるのですけど。


 + + +


じつは、言いたかったのは、この恐慌論ではなく、おなじ箇所に書かれていた次の文章をよんでピンときたことなのです。


「生産と消費との間の根本問題は、資本主義が欲求の充足ではなく利潤の生産を目的としていることである。・・・つまり、恐慌を引き起こす原因は、生産の無制限的拡大と制限された消費との矛盾にある。この矛盾を爆発させる推進力が、『生産のための生産』であり、この資本主義的生産様式の衝動を抜きにして『消費の狭さ』だけを問題にしても無意味である。」(同書186ページ)


これを読んで、リーマン危機以降、現在に至るまで、たとえばウォール街の「強欲資本主義」批判や、悔い改めた新自由主義者ら、あるいは改良的な文筆家などによる資本主義批判と、その資本主義批判と親和的な脱成長論に対する、僕なりの批判が、まだまだ不十分であったことに、ピンときたからです。


何が言いたいのかというと、改良的文筆家たちは、資本主義(資本家だったり投機家だったり)の強欲さを批判します。そして強欲のための金融投機、強欲(便利さ)のための生産へのオルタナティブとして「そこそこの経済」という意味合いで「脱成長」を主張します。


そして僕はこれまで「脱成長」への批判として、「南の諸国の人々の経済成長する権利」を考えていました。つまり、帝国主義として略奪してきた「先進国」が、略奪されてきた「途上国」の人々の経済成長への要求は批判できないだろう、というものです。それは突き詰めていえば帝国主義批判、というよりも、道徳的な範疇になってしまう嫌いがありました。


しかしこの資本主義「先進国」の「強欲」という欲望と、南の国の人々の充足(必要)のためという欲望は、おなじ資本主義システムにおいては、どこまでが「必要のための欲望」の生産であり、どこからが「強欲のための欲望」の生産なのかという、明確な区別をつけることはできません。


日米欧などの金融先進国における経済の金融化が、欲望を強欲に変えるおおきな梃子の役割を果たしていますが、それはあくまで資本主義的発展の成れの果てであり、必要のための欲望を満たす資本主義経済が金融化しないという保障はなにもありません。それこそ超良心的な、超改良主義的な優秀な指導者や「国民」の登場(=強固な意志)に頼らざるを得ないからです。


つまりは資本主義経済システムである限りは、欲望(必要)のための生産(=限界がある)ではなく、生産のための生産、利潤のための生産(=限界はない)を行わざるを得ないのです。そうしないと資本主義経済は破綻する。


結局のところ、僕も改良主義的土台の上で、「脱成長」派への批判を考えていたのだなぁ、と思ったしだいです。


もちろん南の諸国の人々には資本主義の土台の上で経済成長する権利はあるでしょう。しかしそれはその国や地域の革命派の主要な主張にはならないということです。そのような主張は、その国では改良主義者の主張であり、ときにはブルジョアジーの主張でもあり、また左翼においては、永続革命派ではなく、二段階革命派、ひいては一国社会主義派となるからです。


また「脱成長」が道徳的、あるいは強固な意志が必要だ、ということについては、社会主義革命、そして資本主義から社会主義への過渡期においても同じく、革命的道徳、あるいは革命的な強固な意志が必要ですが、資本主義の土台の上にある「脱成長」に強固な意志を示すよりも、社会主義へ向けた変革において強固な意志を示すほうが、より正しいと思います。


件名:労働は商品ではない というスローガンについて

送信日時2014/06/02


Aさん、みなさま。こんにちは。


Bです。


Aさんの投稿興味深く読ませて頂きました。

森田さんの新訳もいち早く購入していたのですが、

あまりにも忙しい日々で購入したこと自体を忘れていたいような始末です。

というようなわけで、森田訳はまだ読んではいないのですが。


今年の2月に行われた春闘討論集会で労働ジャーナリストのCさんに来て頂いて、安倍政権が進めようとしている労働政策を批判する講演してもらいました。

講演は非常にわかりやすく評判も良く、講演のなかでフィラデルフィア宣言を「古文書のような文章だけど重要」として3点紹介しています。

1点目は「労働は商品ではない」、「労働は確かに商品なんだけれど、それを生み出している人間まで商品のように扱われて良いわけがない」とCさんは解説。

2点目は「表現及び結社の自由は社会の普段の進歩のために欠かすことができない」、

Cさんはこれを「労働組合を作って言いたいことを言う権利」と解説。

そして3点目は「一部の貧困は全体の繁栄にとって危険である」だから「労働組合は貧困問題にとり組むべきだ」と。


Aさんも、

「労働者がモノのように、そしてひどいときにはゴミのように扱われる新自由主義的労使関係において、このメッセージは心打つことはまちがいない」

と書かれているとおり、Cさんの講演は好評でした。


唐突なんですが、ロシア革命のスローガンが「帝国主義間戦争を内乱に」ではなく「パン、土地、平和」になったのと同じなんじゃないでしょうか。

「労働は商品ではない」(経済学的に不正確ない言い方ですけど)世界を目指せば、資本主義体制の壁に挑まざるをえないのですから。


 

件名:Re:労働は商品ではない というスローガンについて

送信日時2014/06/05


Bさん、みなさん


Aです。


なるほどー。百聞は一見にしかず、ですね。


ところで、「労働は商品ではない」の問題点は、マルクス経済学的な観点からの批判はもちろんのこと、それが提起された階級的背景にも、すくなくとも僕たちは確認しておくべきだと思っています。


前のメールでも紹介したとおり、フィラデルフィア宣言は、ヴェルサイユ講和条約との直接的な関係があります。関連論文を再掲しておきます。


ILO「労働は商品ではない」原則の意味するもの(石田眞)

 http://www.waseda.jp/w-com/quotient/publications/pdf/wcom428_06.pdf


このスローガンを労働者の側に都合のいいように解釈することはいいことだと思いますが、事実関係ははっきりと認識しておきたいと思っています。


中公文庫の『世界の歴史 14巻 第一次世界大戦』ではヴェルサイユ講和会議とロシア革命の関係についてこう述べています。


「ヴェルサイユ講和会議は、その平和の原則の面でロシア革命の影響を受けたばかりでなく、まさにこの会議の進行中にも、ロシアの革命政権に対する干渉戦争がおこなわれていた。1919年1月にはじまる講和会議では、国際連盟規約や対独講和条約の審議に先だってまず『ロシア問題』が討議された。すでに1918年末にはソヴィエト政府はブレスト・リトフスクの講和を廃棄するとともに、連合国との講和をあらためて提案し、またパリ講和会議には『旧ロシア』を継承する正統な政府として代表をおくる権利を声明していた。しかし連合国は、この提案を黙殺したばかりでなく、新たに兵力を派遣して干渉戦争と経済封鎖を続行した。ロシアのコルチャック、デニキン、チャイコフスキーらの反革命政府は、それぞれ代表をパリにおくり、彼らを正統政府と認めてソヴィエト政権をボイコットするように連合国にはたらきかけていた。」


「(1919年)3月、ロシアでコルチャック軍の『東部攻勢』がはじまると、ロイド=ジョージ、ウィルソンの対ソ接近論は後退し、チャーチル、ピションの干渉拡大論がふたたび優勢となった。」


「(4月の黒海フランス艦隊の反乱、北部ロシアにおける米英軍の反乱があり)これ以上の駐兵は、連合軍自身の兵士をボルシェヴィキ化させる危険があった。さらに各国で出兵反対の声もたかまったので、ヴェルサイユの講和会議は『連合軍は早急にロシアから撤退するが、ロシア国内の白衛軍にはあらゆる援助を与える』ことが決議された。」


「当時ロシアにあった連合軍の総兵力は約28万で、そのうち北ロシアに2万8千、南ロシア[ウクライナ!]に13万、シベリヤに12万といわれている。1920年夏までには、連合軍はほとんどロシアから撤退したが、約7万の日本軍だけは22年6月まで沿海州に、25年5月まで北樺太に駐留を続けた。」


「しかしこのあいだ、ロシア国内の反革命勢力に対する大規模な軍事・経済援助がすすめられ、コルチャック軍には総額1億ドルをこえる連合国借款があたえられ、とくにアメリカからは兵器、弾薬、被服がウラディウォストク経由で大量に送られた。また南ロシア[ウクライナ!]のデニキン軍へもイギリスから5千万ポンドの借款があたえられ、航空機、戦車、大砲、機関銃などの新鋭の兵器も黒海経由で輸送された。」


(同書233~235ページ)


このころのロシア国内の戦況については、第二期トロツキー選集11巻『革命はいかに武装されたか II』の巻末地図(1919年2月末)にくわしいです。ドイツ軍とは停戦、その後、ドイツのキール港での反乱によってドイツ革命が勃発し、当面の危機は脱しますが、連合国軍、そして反革命軍が誕生したばかりのソビエト政権を包囲しています。東部戦線にはコルチャック軍がウファーにまで迫り、南部(およびウクライナ)戦線にはデニキン軍が仏軍を背景にして北進のために構えています。北部には米英干渉軍が待機し、西部戦線ではポーランド軍と対峙していました。


この本の冒頭にはトロツキーが1919年1月13日にバラシォフで執筆した軍事情勢についての論評が掲載されています。そのなかでヴェルサイユ講和会議を率いたウィルソン米大統領に言及した箇所があります。


「自己の銀行家と産業主の手を暖めさせるために、長期にわたって巧妙にヨーロッパの薪の山をたきつけてきたアメリカ株式取引所は、事態が少々行き過ぎたのではなかろうか、と近づいて吟味するために、いまやヨーロッパに、自らの最高指令者、自己の仲介人頭、ウィルソンの下の甘言のうまいペテン師を送り込んだのであった。」(同書18ページ)


サミュエル・ゴンパースについては『アメリカの労働社会を読む事典』(R・エメット・マレー著、明石書店)のなかでつぎのように紹介されています。短いので全文引用します。


「サミュエル・ゴンパース 18501924 イギリス生まれの合衆国労働運動リーダーで、1886年のアメリカ労働総同盟(AFL)の創設者であり、死ぬまで会長だった。初期にはマルクス主義者だったが、AFLでは社会主義者に反対した。独立した政治行動に対立し『純粋で分かりやすい』労働組合主義の闘士を務めた。その代わり、この元たばこ労働組合の委員長は単に『労働者の友に報い、敵を罰する』だけで、労働組合は政治的な舞台ではうまくやれると信じていた。この戦略は今日でも使われている。ゴンパースは純粋な経済主義者であった。初期の労働騎士団の気高いモットーが『1人の痛みは皆への痛み』であったが、ゴンパースのモットーは『公正なる1日の労働に対して公正なる1日の賃金を』であった。アメリカにおける公的な生活において非常に尊敬された人物で、ゴンパースは国防評議会の顧問委員を務め(191718)、1919年にはパリ平和会議[ヴェルサイユ講和会議]の合衆国代表の1員となった。忘れがたい言葉『働く人々は国境を持たない。彼らは世界市民である。』」(同書96ページ)


AFLの創設者、というだけでアメリカ帝国主義の「労働副官」であることは多言を要しませんが、ヴェルサイユ講和会議で「労働は商品ではない」というメッセージの提起やILO創設などに尽力した(であろう)ことくらいは想像がつきますが、対ソヴィエトロシアに対する干渉戦争への態度は明らかではありません(調べれば分かると思いますが)。


参考までに、レーニンが19181022日に「全ロシア中央執行委員会、モスクワ・ソヴェト、工場委員会、労働組合の合同会議」で行った報告のなかから、ゴンパースについて語った箇所を紹介します。なお、大月版のレーニン全集では「ゴンパーズ」と表記されています。


「われわれは、ゴンパーズがイタリアに姿をあらわし、協商国がわの金で、またイタリアの全ブルジョアジーと社会愛国主義者の助けをえて、イタリアの全都市をまわりイタリア労働者に帝国主義戦争の継続を説いたことを見た。われわれは、このときイタリアの社会主義新聞がこれについて記事を掲げたが、その記事ではゴンパーズの名前だけがのこされて、他は全部、検閲で削除されていたこと、あるいは『ゴンパーズは宴会に出席し、おしゃべりをしている』と嘲笑した記事が掲載されていたことを見た。そしてブルジョア新聞は、ゴンパーズがいたるところでやじりたおされたことをみとめた。ブルジョア新聞はこう書いている。『イタリア労働者のふるまいでは、レーニンとトロツキーだけがイタリアの遊説をゆるされるようにおもわれる』と。」(レーニン全集 第28巻116ページ)


最近出版されたエルネスト・マンデルの『第二次世界大戦とは何だったのか』の「第1章 何か賭けられていたか」の最後では、このヴェルサイユ講話会議についてこう述べています。


「民族自決の問題は、革命ロシアの圧力によってベルサイユ会議の議題に入れざるをえなくなった。この権利を東欧とバルカン半島の諸民族だけに限定したウィルソンとクレマンソーとは違って、レーニン下のソ連は、植民地諸国や半植民地諸国の台頭しつつある民族解放運動に支援の手を差し伸べた(アムリッツァルの虐殺〔1919年にインドで起こった独立運動弾圧事件〕と中国における五・四運動の出現がベルサイユ講話会議の最中に起こったという点を思い起こすべきであろう)。」(同書20ページ)


このように、帝国主義による第一次世界大戦からはじまった「現代史」は、その当初からロシア革命というもう一つの主役級ライバルが重要な役割を果たし、それはコミンテルンの結成という国際労働運動史の画期となりました。「労働は商品ではない」というスローガンは、ロシア革命やコミンテルンに象徴される国際労働運動に敵対する帝国主義の戦後分捕り体制の一部として生まれてきたのです。


フィラデルフィア宣言が採択されたのは1944年ですから、ヴェルサイユ講和会議から四半世紀を経ています。その間、世界の階級闘争の状況にも大きな変化があったことは想像に難くはありませんが、第一次世界大戦を大きく上回る規模での帝国主義戦争である第二次世界大戦下の状況は、決して1919年当時よりも革命派にとって有利であったとはいえないでしょう。


逆にフィラデルフィア宣言の前年の1943年、スターリン支配のコミンテルンはジグザグ路線の末に解散しています。コミンテルンの指導下にあった赤色労働組合インターナショナル(プロフィンテルン)は、コミンテルンのジグザグ路線の末にたどりついた「人民戦線」路線の真っ只中の1937年末に解散しています。もちろん革命派による革命的解体などではなく、スターリニズム外交(帝国主義との平和共存と一国社会主義)ゆえの解散でした。


それから70年近くがたったいま、もちろんフィラデルフィア宣言に述べられている理念があらためて輝いて見えるのは、それがあまりに崇高な理念だからではなく、それが宣言された時代に比べて、あまりに、あまりにも国際労働運動が地に落ちてしまっているからに過ぎないからではないのでしょうか。


「地獄への道は善意で敷き詰められている」とはマルクスやレーニンが引用していたと思います。厳しい状況のいま、労働者に思いをはせ、戦いを鼓舞する労働運動活動家の善意の結果が地獄へと続いているとは思いませんが、敵の側が忘れていない階級闘争の歴史を、こちらの側が忘れる必要性も感じないのです。


ながくなりましたが、そういうなかで組織を超えて行われる今日の労働法制改悪反対の国会包囲アクションは大変重要だと思います。



件名:労働は商品ではない  つづき

送信日時2014/06/07


Aさん、みなさま。


Aさん、丁寧な解説ありがとうございます。

ベルサイユ条約とILOとの関係など興味深く読ませていただきました。

丁寧な解説に対して乱暴な感想で申し訳ないのですが、ILOの宣言は、当時の世界情勢の中で労働社会階級に譲歩せざるを得なかったなかった資本が、労働者階級の一部を取り込む戦略のなかで生み出されたものだという事ですよね。

そこを、分かったうえで「労働は商品ではない」と呼びかけるのは良いのではないでしょうか。

1944年の「労働は商品ではない」が、当時の労働者階級の階級意識を曇らせる為のスローガンであったことを理解したうえで。


ILO関係で言えば、日本政府は多くのILO条約を批准していません。


条約178号は、「上記条約(171)を補足する勧告。夜業労働者の労働時間及び休息期間に関する規定であり、労働時間は夜業に従事するいかなる24時間においても8時間を超えないこと、一般的に同じ仕事を同じ要件で昼間行っている労働者よりも平均して少なく、昼間の労働者の平均を決して上回らないことなどを規定する。」


医療従事者は、日勤ー深夜や準夜-日勤という夜勤を行うにもかかわらず、勤務間のインターバルが8時間もないシフトで働いています。このような劣悪な労働条件を改善せよと、看護協会でさえILO条約を批准するように求めています。医労連もILO条約を批准しろと要求しています。


公務員の労働基本権に関しても、ILOは日本の状況を改善するように勧告してます。


資本の側から見ても「まずいんじゃない」ということが日本にはたくさんあります。

最近では許しがたいJAL判決とか。


現在のような労働者階級の意識が大きく後退してて、EUレベルの労働条件も獲得できていなくて、それすらも破壊されそうな時に、労働組合運動を再生のためのスローガンは、まず労働者の心に届くものでなければ。そして次にどのような行動を呼びかけるのかが大事なんだろうと思います。

ですから、まず安倍の労働法破壊攻撃に対して「労働は商品ではない」を掲げるのはOKだと思います。

そして、どのように行動するべきなのかを呼びかける必要が。

先日行われたファストフード労働者の国際連帯行動は、「労働は商品ではない」を労働者に伝える先駆的な取組だったと思います。


それじゃ、「労働は商品ではない」を超えてどのような行動を労働者に訴えたかというと、組合に入ろうで・・。この辺に、労働組合運動の困難性が・・・。




件名:Re:労働は商品ではない  つづき

送信日時2014/06/09


Bさん、みなさん


忙しい中、ありがとうございます。


以下、ヒマなときにでも読んでください。読まなくてもいいけど。


偶然ですが元ILO職員の方に話を聞く機会がありました。日本は1号条約(8時間労働)からして批准していないと。なので労働時間に関連する条約にはほとんど批准していないそうです。


なので残業代ゼロでもなんでもこい、という感じなんでしょうかね、日本政府は。ひどいはなしです。


マルクスは『賃金・価格・利潤』のなかで、こう述べています。


「時間は人間の発達の場である。いかなる自由な時間も持たない者、睡眠や食事などによる単なる生理的な中断を除いて、その全生涯が資本家のための労働に吸い取られている人間は、役畜にも劣る。彼は単に他人の富を生産するための機械にすぎないのであり、体は壊され、心は荒れ果てる。だが、近代産業の全歴史が示しているように、資本は、阻止されないかぎり、しゃにむに休むことなく労働者階級全体をまさにこのような最大限の荒廃状態に投げ込むことだろう。」(光文社古典新訳文庫版230頁)


組合活動がますます厳しくなる中で、まずは、へとへとになっている労働者に届くメッセージが大切であることはその通りだと思います。そうであるなら「労働は商品ではない」ではなく「労働者は商品ではない」のほうがいいのでは?とおもいます。フィラデルフィアもILOも必要なく、たんに「労働者はモノじゃない」のほうがすっきりしますね。


もしどうしても「労働は商品じゃない」をつかいたいのであれば、「労働力は商品だけど、労働者を商品のように扱って良い訳ではない」と言ういえばいいのではないか、とおもいますし、わざわざフィラデルフィア宣言を出さなくても、現実には労働力を提供する労働者そのものを商品のように扱うのが資本主義だということを、フィラデルフィア宣言より80年近く前にマルクスが「賃金・価格・利潤」のなかで述べています。


もちろんILOという国際機関においてそのような宣言が掲げられていることは、政府や資本に対する一定の規制あるいは要求の根拠になりますし、ちっぽけな亡命インテリのサークルで行われた講演よりも、よっぽど影響力はあります。


しかしILO条約もそうですが、まず条約があって、それが労働者の権利を押し上げる、ということではなく、どこか一国あるいは地域において、階級闘争の結果として、一定の労働者保護が勝ち取られたあとで、ILOはそれを条約にするようです。たとえば1号条約からして、ソヴィエトにおける8時間労働が宣言されたことを受けて、というふうに。(まあソ連の場合はその後すぐに土曜日の義務労働とかやっちゃいましたが・・・)


ですので、フィラデルフィア宣言は、1919年のベルサイユ条約第427条の国際労働憲章の再確認であり、それは当時の労働者階級に対する譲歩のひとつであるというBさんの意見はもっとだとおもいます。


つまり、マルクス・エンゲルスの賃金廃止論の実践であるロシア革命が広がらないように妥協した、ということを認識していれば良いことだとおもいます。けど、フィラデルフィア宣言を引用する人の、いったいどれだけがそのことを認識しているのか、ちょっと疑問です。心のそこから良心的に言っているのだとは思いますが。


「賃金・価格・利潤」では、剰余価値という資本主義の根幹にかかわる問題を述べており、資本主義では商品を価値どおりに(つまり8時間の労働力を、それを再生産するのに必要な等価どおりに)販売してもの、かならず搾取が発生し、資本の利潤はその搾取によって成立していますが、翻ってILOはその搾取のシステムを「永続的な平和」の名の下に永続化させることを大目標としています。フィラデルフィア宣言は、1919年のILO憲章の付属文書として1944年に作られています。


もちろん労働者のほとんどが「ロシア革命?」というような今、ベルサイユ条約の問題を言ってもはじまらないかもしれません。


しかしフィラデルフィア宣言(19445月)は、もちろん1919年以降の25年間における階級闘争のひとつの結果としての側面もありますが、さらにはルーズベルトの「四つの自由宣言」(19411月)と、ルーズベルトとチャーチルの大西洋憲章(19418月)の理念が体現されたものであるとも言われているようです。


この大西洋憲章(ナチス占領地域の解放をうたう)に対して、日本帝国主義は欧米帝国主義から大東亜を解放するという「大東亜共同宣言」を194311月に出しています。


もちろん「大西洋憲章も大東亜共同宣言もどっちもどっち」と言いたいのではありませんが、フィラデルフィア宣言の制定にさいしても、そのような米英帝国主義の「労働副官」としての役割を担っていたAFL(米)、TUC(英)の影響力がおおきかったと推測されます。


マンデルの『第二次世界大戦とは何だったのか』では、ちょうどこの時期をあつかっているのですが、戦時下の労働運動についての記述はあまり見受けられなかったような気がします(まだ読んでまいせん)。なにかしら参考になることもあるかな、とボツボツ読み始めようかと思います。


「フィラデルフィア宣言が謳っている」ではなく「ILOですらこんなことを言っているのに」、という感じでしょうか。ですが日本のブルジョア政府もILOもそんなことは重々承知のすけ。結局は、国内あるいは地域レベルでの階級関係いかんにかかっている、ということでしょうか。


ながくなりました。つまりは、労働組合がんばれ~、です。



件名:労働は商品ではない つづき

送信日時2014/06/10


Aさん、みなさま。


Aさん、今回も丁寧な立論、勉強になりました。


この間の議論は、Aさんは文献によって論理を展開して。

(私はAさんの展開に全く異議はありません)

私は、組合活動で出会った様々な人の顔を思い浮かべながら話していました。


例えば、Cさんに「そもそもフィラデルフィア宣言は、」というのか。

組合関係者に「ILOはね、」というのかということです。

Cさんは、「労働組合がなければ生きていけない」その「労働組合の原則はフィラデルフィア宣言」という展開ですから。

政党の組合関係者にも「ILOはね」と言うのは通じないでしょう。政党の皆さんは、ほとんどマルクスなんて読んでいませんし。

そんななかで、「労働は商品ではない」というスローガンには問題があります。なんていって仕方ないだろうと思っているわけです。

「マルクスは『賃金・価格・利潤』のなかで、こう述べています。」

その労働時間をめぐるリアルな状況はこんなです。


職場は36協定の改定を630日を基準に行います。

職場で労働基準法は立ち止まるような現実があるので、何とか改善しようと労働時間実態調査をワンデイで行いました。

調査票は、あなたの定められた勤務時間、実際の勤務時間を記入してもらう簡単なものでした。

ところが回収された調査票を見てびっくりしたのは、約5割の回答者が定められた勤務時間を正確に答えられないという事実です。

知らなくてどうすると思われるかもしれませんが、勤務開始時間の前から働き始めて、勤務終了時間を過ぎても働いているので、しかも超過勤務申請もろくにできない職場がまだあるので、知らなくても支障が無いわけです。


つまりこれだけ階級意識が粉砕、というかそもそも形成されていないというべきでしょう。

だから私は、Cさんや組合の人たちに「フィラデルフィア宣言はね、ILOはね」とは言いません。

彼らは現状に対して、果敢に闘おうとしてるのであり、まずは「共に闘う」ことからしかはじまらないでしょう。


そして私は、組合員には、所定労働時間を知ろう、労働者としての自覚を持とう、それが働き続けることができる職場をつくる第一歩だと訴えるわけです。はっきりいってフィラデルフィア宣言以下です。


でも、現状がこうなのだから「労働は商品ではない」で仕方ないんだと言うつもりはありません。あくまでも戦術としてありだろうという事です。


前回、「まず安倍の労働法破壊攻撃に対して「労働は商品ではない」を掲げるのはOKだと思います。」という意味は、我々がそのようなスローガンを掲げるべきと言うわけではありません。運動圏でそのような主張はokという事です。


誤解を招く書き方だったなと。だって、かけはしに「労働は商品ではない」なんて載ったら、それはちょっと。


あと、以下のさんの主張には100%同意します。

「そうであるなら労働は商品ではないではなく労働者は商品ではないのほうがいいのでは?とおもいます。フィラデルフィアもILOも必要なく、たんに労働者はモノじゃないのほうがすっきりしますね。」


(以上)