『罪の手ざわり』 
原題:『天注定』(天のさだめ)
監督・脚本 ジャ・ジャンクー(賈樟柯)、2013年、129分
ル・シネマ-Bunkamura(渋谷)で上映中


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民営化された炭鉱の腐敗に憤り経営者や村の幹部を銃殺する労働者、大海(ダーハイ)。出稼ぎに行くと偽って各地で強盗殺人で稼いだカネを故郷の妻子に仕送りする周(ジョウ)。サウナ店でサービスを強要する客を殺してしまう小玉(シャオユー)。出稼ぎ先の工場からナイトクラブに転職し、そこで働く女性との恋に破れて戻った工場で絶望の淵に陥る小輝(シャオホイ)。この四つのストーリーが少しずつ絡みながらもそれぞれ独立した物語は、それぞれ実際にあった事件をもとにしたストーリーだそうだ。


正直なところ、この映画の宣伝を見たとき「またかよ」と思った。描かれているのは労働者階級と彼ら彼女らをとりまくリアルな世界であり、テーマは改革開放による格差拡大が生み出す社会問題である。しかし、それを「犯罪」や「バイオレンス」とからませて描く手法は、あまりにステロタイプであり、ここで描かれる階級、性別、社会問題の本質を、ショッキングなバイオレンスシーンで表現することに、どれほどの意味合いがあるのか、と疑問を感じたからだ。


何年か前、日本で公開された賈樟柯の「四川のうた」を見たときの記憶がよみがえった。「四川のうた」は四川省成都の国有企業ではたらく労働者たちの落日を描いたセミ・ドキュメンタリー。改革開放のなかで淘汰されていく国有企業労働者の悲哀を描いたものだが、大いに不満が残った。(こちら参照→ http://urx.nu/9Tlh )


案の定、この「罪のてざわり」でも、最初の物語は、炭鉱の民営化とそこから生み出される利益は経営者や村の有力者らだけで山分けされるという背景、そしてそこで働く労働者や村民らの立ち振る舞いやせりふなどのディティールはかなり実際に近く描かれているにもかかわらず、復讐のバイオレンスシーンは、なにか「とってつけた」ような芝居がかったもののように思われた。バイオレンスシーンは目を背けたくなるようなリアルな映像にもかかわらず、だ。復讐を遂げた大海が最後にニヤッと笑うシーンも「必要か?」という感じのする演出。


そのようなバイオレンスが、改革開放によってもたらされた格差社会の中国やそこで苦しむ労働者階級とは無縁だ、というわけでは決してない。争議や経済事件に絡む暴力事件はむしろ多いほうだろう。それは経済事件の背景にある政治的支配構造の強力な抑圧体制ゆえでもある。


しかし、銃で何人も撃ち殺したり、怒りに任せて侮辱した客を殺傷するといった手段でなくとも、現代中国において庶民が抱える苦しみやそれを取り巻く暴力的背景を描き出すことは可能だったのではないか。とくに民営化による格差拡大に憤る労働者を描くには、銃や刃物をもちいた凄惨な暴力シーンではなく、ストライキや争議、そしれそれに対する当局や黒社会による暴力的な対応によって描き出すことが可能だったのでは?(たとえばケン・ローチのように)などという不満が、最初の物語からつきまとった。


映画の冒頭で、製作会社のひとつとして「オフィス北野」が銀幕に映し出されたときに「あれ?」という不安を感じたのだが、まさかその不安が的中するとは、などと思いつつ映画は進んでいった。


映画のパンフレットに収録されている監督インタビューを上映間の待ち時間に読んだのだが、そこでも「武侠映画」ファンの監督の思いが随所にちりばめられているとあった。どうりでバイオレンスシーンがやや中国の伝統劇っぽいつくりなわけだが、それもなんだか安っぽく見えてしまうのだ。


最初の大海の物語では、村の一角で上演されている民間地方劇のシーンがある。演目は水滸伝。無実の罪を着せられて復讐に燃える林冲が吼える一幕だ。政府高官の不正義を糾弾する林冲の台詞やお囃子がバックに流れるなか、大海は大虎の描かれた包みで猟銃を隠して復讐に赴く。水滸伝の武松の復讐劇を彷彿とさせるのだが、それもなんだか安っぽく見えてしまう。


極めつけは、客から「お前なんかカネで何とでもなるんだぞ、この売女」と侮辱された小玉が武侠映画よろしくナイフで客(威張り散らした小官僚)を刺殺するシーンだ。それまで演じられてきた小玉をとりまくリアルで切ない生き様には感情移入するほどの巧みな描き方だったにもかかわらず、クライマックスの殺傷シーンは突如、中国の武侠ドラマよろしく小玉がカッと見得を切る。ちょっとお遊びにもほどがあるのでは? それまでのシリアスかつ現実的な描きかたがすべて台無しになってしまうじゃないか・・・と思わずにいられなかった。


そして四つの物語がおわり、映画は最後のシーンへ。おそらく罪を償ったのであろう、小玉が新たな人生を求めてたどり着いたのは、かつて大海が復讐を遂げた会社。小玉はその村の一角で上演されていた地方劇にばったり出くわす。

このとってつけたような伝統地方劇のシーンに「またかよ・・・」と、おもわずつぶやいた言葉は、それに続くラストシーンのなかで、落胆から驚嘆へと変化する。それまでの2時間ほどの時間のなかでなんどか訪れた落胆が、実はこの最後のシーンのために(少なくとも自分にとっては)見事に演出されたものだということがわかったのだ。


そのラストシーンの地方劇で上演されていた演目は「玉堂春」。殺人の冤罪を着せられた名妓、蘇三に対して裁きを突きつける県令(地方役人)の叫ぶ「自分の罪を認めないのか?認めないのか?」というセリフが、その劇を見つめる小玉のアップシーンに重なる。小玉の表情は硬い。あえていえば、地方劇の役人が叫ぶ「自分の罪を認めないのか?」という非難の声に対する強い反発をしめす表情。そして最後のカットは、その劇を鑑賞する村民らの無表情あるいは突き刺すようなまなざしの集合体で終わる。


地方劇の県令が発する非難の声、反発を含んだ神妙な面持ちでそれを聞く小玉、そして何かを問いかけるような村民たちの表情・・・。この最後の瞬間に、ハッと気がついた。これは改革開放がもたらした格差と不正義という階級戦争の犠牲者たちによる復讐劇へのオマージュ作品なのだ、と。最後のカットの村民らが体現するのは、中国人民全体の突き刺すまなざしであり、それらの突き刺すまなざしは、映画を見ている私たちに対して「本当に悪いのは小玉や大海だとなのか?」と厳しく問うているのである。


監督はパンフレットのなかで次のようにインタビューに答えている。「私は、この作品は現代中国についての武侠映画だと思っています。武侠映画は中国の観客にとって非常に人気のあるジャンルです。多くの武侠映画は政治的な批評を持ち合わせています。一つの基本的なテーマが何度も繰り返されます。過酷な社会環境の中、抑圧に立ち向かう個人の闘争、というテーマです。」


つまりは、この映画が丁寧かつ正確に描き出した現代中国の社会的背景のうえに描かれた武侠映画であると理解すれば、不釣合いなバイオレンスシーンや演出しすぎ感のある地方劇シーンなどの意味合いが変わってくるのである。


この映画は現代中国という「過酷な社会環境」を背景に撮られた「政治的な批評」なのである。最後のシーンの小玉の最後の表情は、劇中の地方劇に登場する、腐敗と権力にまみれた北宋末期の官僚体制を告発する水滸伝・林冲の表情とも重なる。復讐を遂げた大海が漏らす笑みの演出も、殺人後の小玉の武侠映画ばりの見得の切り方も、すべて納得がいくのである。


原題の「天注定」は「動かしがたい天のさだめ」という意味合いだが、それは小玉や大海らの悲惨な運命のことだけではなく、そのような境遇をつくり出している支配者たちは必ず悲惨な運命をたどるということを暗示しているかのようだ。革命歌「同志は倒れぬ」で歌われる「時は来ぬいざ復讐へ」という一節を髣髴とさせる現代中国における庶民の苦しみを、彼女たちが生きるリアルな風景のなかで表現した本作品を、ひとりでも多くの日本の友人たちに見てもらいたい。東京での上映はまもなく終了するようだ。

映画館へ急げ、「勝利の朝(あした)」を確信して。

(H)

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同志は倒れぬ



 正義に燃ゆる 闘いに
 おおしき君はたおれぬ
 血にけがれたる敵の手に
 君は闘いたおれぬ
 プロレタリアの旗のため
 プロレタリアの旗のため
 踏みにじられし民衆に
 命を君は捧げぬ


 冷たき石の 牢獄に
 生ける日君はとらわれ
 恐れず君は白刃の
 嵐をつきて進みぬ
 プロレタリアの旗のため
 プロレタリアの旗のため
 重き鎖を響かせて
 同志は今や去り行きぬ

3
 真黒き夜の 闇は明け
 勝利の朝(あした)今や来ぬ
 たおれし君のしかばねを
 我らは踏みて進みなん
 時は来ぬいざ復讐へ
 時は来ぬいざ復讐へ
 我が旗赤く空に燃え
 勝利の朝(あした)今や来ぬ