木幡さん●3.11当日とその後の様子から

 2011年3月11日に地震がありまして、ほんとにすごい揺れが、ドスン、ドスンと下から突き抜けてくるようだった。これは大きな地震だなと感じた。私は、当時、友達のところにいて、止まると思ったらドスンと揺れが始まって、屋根が崩れてきて、窓が壊れ、私たちもここにいては大変だと思いながら、98歳のおばぁちゃんもいたので、みんなで助け合いながらいた。地震が止まったかなと思ったら、近くの石垣がくずれ、ごろごろと突進してきた。危ないと思って外に出た。外の道路は寸断され、地割れがして、これで家に帰れるかなと思いながら家に帰ろうとしましたが、途中一軒の家がくずれ落ちる寸前に出会い、数秒遅れていたら、瓦礫の下になっていたかもしれない。

 ところが私の野上という部落は、家が壊れてなかったんです。大熊町中心街は滅茶苦茶に壊れていた。ここは原発で潤ったところだった。原発で働いている方々が、よく建物の雑誌に出てくるような素晴らしい家に住んでいました。ところが土地は非常に水はけが悪くて、いつもじめじめした土地に、家を建てていた。だからこの周辺の家は、大変な状況になってました。また、原発周辺は、後で聞きましたが、津波でやられたみたいでした。

 野上の土地は、岩盤なんです。家が壊れてない、倒れていない。石垣も壊れていなかった。家の前に道路があるんですが、国道288号線の田村市に向かって全く右側は全くなかった。ところが左側は、お墓なんかもあるが、崩れていた。土地の材質によってかなり被害が違っていた。地震国日本において、原発がこのようなところで作ってはいけないということを、ほんとにまざまざと見せつけられた思いでした。

 地震の後、私は夫と二人で、夫は町会議員をやっていたので、ちょっと町内を見てこようということになった。しかし黒い大群が原発から、「もうだめだ。もうだめだ」と叫びながらも走ってきた。私が「どうしたんですか?」と聞くと、「原発は地震で、配管が上になったり、下になったり、滅茶苦茶壊れている。これから津波もくるけど、あれだけ配管が壊れているから、こんなところにいたら死んじゃうよ」と、 かなり蠢いていた人がいた。

 でも助けられない。必死に起き上がろうとする人がいたんですが、起き上がれない。私も原発の放射線が怖いから、助けることができなかった。さらにガソリンもなくなって、助けられなかった。ほとんど危ない感じの人が横たわっていた。みんな大きな声で叫びながら逃げて行った。

 私は、これはいけないと思って、とにかく水とか、食料を確保しようと思ってファミリーストアーに行った。だがそこは暴動化していた。人間って浅ましいなと思った。普通はお金を払って物を買うのだけけれど、みんな根こそぎ商品を持っていくんです。店の人は、対応しきれずに諦めたという感じだった。人間は、最後はこういうものだなと思いました。この日の夜、私と息子の二人で仙台に用事があったので長男と次男と私たち三人は、仙台に向いました。

 翌日の夜、私たちは家に帰ってきたが、当然、辺り一面真っ暗闇。皆どこに逃げて行ったかわからず、14日に夫が田村市の体育館に皆で避難しているから、ここはもうだめだから出ようということになった。

 犬と猫は車に入れられませんでした。普通、2匹とも追いかけてくるんだが、追いかけもしないでじーっと私たちを見送る様にたたずんでいた。えさは、全部袋をやぶって置いてきた。ただ水があまりないので、気が気じゃなかった。後ろ髪を引かれる思いで猫と犬は置いてきました。

 糖尿病の方、血圧が高い方、ほんとに薬が必要な方が薬を持たずに逃げた。看護士さんは、夜勤で病院に入っていたんですげと、その方は白衣のまま逃げていました。子どものオシメを持たずにお母さんたちは逃げてきたとか、とにかく悲惨な状態だった。野上部落の人々もこれはただらぬことだから持ち物を必要な物は車につめて逃げようということになったとのこと。連絡が野上の方まで入ってこなかったので。

 結局、薬を飲めなかった人は、糖尿病で血圧が高かった人などは大変だった。会津若松にいる間、バタバタと亡くなって行く状態でした。

★大熊町の人々

 避難した田村市の体育館には、非常に大勢の人々が避難していました。ところが体育館に入ろうとしたら役場職員が、「あなたたち入っちゃだめだ。もう一杯だから出ていきなさい」と言われた。私たちは、「じゃどこに出ていくんだ」と言えば、「それはわかんない」。「わかんないって、それじゃ困る。私たちだって、外にいれないのだから入れてください」と言った。役場の職員は、俺たちで一杯なんだという感じだった。自分のことで一杯、同じ町民でも関係ないという感じだった。

 しかし私は、どんどん入っていったんです。隙間があり、私が知っている人たちが何人かいたので譲ってくれた。一般的にこういう非常時の時は、助け合わなければいけないと言っていますが、そんなふうには絶対ならないということが証明された。自分のことだけで精一杯で終わってしまう。人のことなんてどうでもいい感じだった(特に公のひとたちはね)。

 さらに、体育館にいるあいだは、子どもが一人泣くと、「泣かせるな、静かにさせろ」と怒号が飛んでくるんです。あるお婆さんが「まるでどっかの防空壕にいるようなもんだ」と戦争中の防空壕のことを思い出して言っていました。障がい者の子どもたちは、もうじっとしていれないのでうろうろとして泣いたり、わめいたりしてしまう。それで怒ってしまう大人がたくさんいました。

 こういうことをするのは、だいたいが男性だった。男性は、自分が思ったことをなんでも言っちゃう。お婆さんなど女性は黙っていて、なにも言わない。女性もうるさいな、いやだなと思っていてもなにも言わなかった。逆に、こういう現場に来てからは、女性たちはお互い助け合ってました。

 役場職員の男性は、普段、防災訓練をしていますからと言ってましたが、まったく訓練が生かされていなかった。体育館の中で食べ物が来た時などは、我先に集まって来て、たびたび私たちが整列させる必要があった。しかし役場職員は整列させようとしない。

 だから私たちは、子どもの頃のように先生に「整列しなさい」と言われたよう整列させていたほだ。整列させてから、こっちに持ってきなさい、このようにしなさいと、そうしてはいけないと何度も大声で言ってました。

 なんで大の大人が私たちに言われなくちゃならないのか。なんでこんなことになってしまうのだろうかと、友達と話し合った。多分これは原発の後遺症だろうと判断した。原発でお金が入り潤い、嬉しい、嬉しい、お金さえあれば良いとおかしくなってしまった。その結果として、後遺症として出てきてしまったのではないかなと思いました。

 体育館に避難してから2、3日して役場職員に「ヨウ素剤はどうしましたか。ヨウ素剤を配りましたか」と聞いたら、役場の人たちは「なにそれ。そんなの知らないよ」と言っていた。やはり後で聞いたのですが、私の他にヨウ素剤を配ってくださいと言われた方がいましたが、誰も、役場職員の方は聞いてくれなかったとのことです。

 ところが三月の終りになって、木幡さんヨウ素剤がありますよと言ってきた。私は、「今頃では遅いんだ。なんのために訓練をしてきたのか。そのためにどれだけのお金が使われてきたのか。お金はどぶに捨てているようなものだ」と痛感しました。

 体育館から会津若松に避難するという知らされた。体育館の皆さんは町長に、なんで会津に行くのか話をしてもらいたかったが、話しをしてくれない。私は、トイレの前で町長を待ち伏せして、「あなたは町長なんだから、みんなになんで会津若松に行くのかをきちんとお話をしてくださいよ。そうしないとみんな納得しないし、暴動が起きますよ」と言ったんです。初めは、困ったなという顔をしていた。役場の人は、「そんな話をする必要はない」と聞く耳持たずでしたが、私は、「皆さん聞きたいんですよ。これからどうなるかを。ちゃんときちんと話して下さい」と詰め寄って、結局、話をするようにさせた。

 町民は、町長ががきちんと一言、二言でも、「会津若松に行きますよ、今大熊町には帰れないから会津若松に避難して待ちましょう」と言ってくれれば、ある意味で安心するというか、しばらく我慢しようかなとなると思ったからでした。

 すでに東電幹部たちは、3月11日に大熊町から逃げているんです。実は、大熊町に東電の副所長が、11日の夜の9時45分頃に「危ないから逃げてください」と来ていた。ところが町長は、放射線の認識が甘く、危機意識がないから、近辺3キロ以内の人だけを体育館に逃げさせた。ほとんど逃がしたことにならない状態だったのです。

 私は、3月の終りに夫が体調を崩して仙台の病院に入院していた。会津若松に避難してから役場に行って、私は一人なので、今何が起きているのかを聞き、メモをとって、それを人に伝えるために新聞を作った。飯田山のふもとのほうに追いやられた方々、会津の奥地に避難された方々、そういう人たちがどうしているかなと思って、役場から聞いた話を遠くにいる方たちに教えようと新聞を作りました。

 そしたらその方たちが、「私たちは騙された。役場の人は毎週一回、二回来ると言っていた。病院に連れていくとか、薬を持ってきてくれるとか、色々と約束してくれたから、納得して若松市内から遠いけど、役場から遠いげと来たんだ。ところが一回も来てくれない。どうなっているのか状況がわからない」と言ってました。

 避難者は、不安でしようがないのです。私はその話を聞いて、役場の人に伝えた。「大変だから誰か行ってあげて、病院にも連れてあげて」と言ったんです。言っているだけではおさまらないなと思いまして、書いたものを直接見せるしかないと思い、それで新聞を作ることになった。体育館で友達になった人や、元々の友達、三人で新聞をあちこちに配達した。

 その時にみなさんの話を聞いた。みんな帰れると思うから、今少し我慢すればいいという感じだった。話を聞いていくと、私のお父さんが昨日死んだだよとか、うちの息子おかしくなっちゃったんだよという話も耳に入ってきた。それを役場に行って言ったが、俺たちだって大変なんだから、そんな人の話を聞いていられるかという対応だった。

 これも原発立地である大熊町は、飼いならされてきた動物みたいなもんで、自分で何もできない人だなと思った。自分で考えて行動しようということが、なかなか難しのだなと感じた。

★「帰れないから、移住先をみつけてくれ。賠償をきちんとしてくれ」

 4月に会津に来てから私は、以上のことをやっていたので大熊町とはいい関係だった。町長さんも、「木幡さんありがとうな」という感じだった。私もいい気分になって、これはいいなと思って頑張ろうとやっていたが、そのうち町民の皆さんに大熊町にはもう帰れないんだからねと、お話をしていると、そういう話はやめてくださいと言われた。

 また、女性の会で一緒にやっている仲間たちにも「放射線汚染で帰れないんだ。しばらくはもう帰れないんだよ」と言いましたが、どんなに悪い状況になっても、なぜか皆さん帰れる、帰る、今年中に帰ると信じていたんです。

 ところが、だんだん状況が悪くなってきました。一時帰宅が始まりました。皆さんその際、線量計を渡されて計測しました。家の中で70μシーベルトとか、80μシーベルトとか、ひどいところは100μシーベルトもありました。さらに高いところでは120~30μシーベルトもありました。原発の中ではなく家の中ですよ。とんでもない高さだ。これはひどいな、帰れないなと感じてきました。

 しかしこのころはネズミは、まだ出てこないんです。カラスもいない。まだ家は綺麗なままだったんですが、泥棒によって荒らされていた。

 だんだん日にちがたち女性の会で知り合った友達と、「そろそろネズミが出てきたよ」とか、「放射線量がずっと下がらないから、もう帰れないんじゃないの」という話をしていた。だから今、どうなっているんだろうかと東電に聞くことになった。東電は、「大丈夫です、帰れますよ」と言うだけだった。町長さんも「大丈夫だ、帰れる」と言っていた。

 私たちは、なんという町長だと思った。これではどうしようもない、らちがあかないと判断して、国に直接行って話をしようということになりました。大熊町に国のほうに行かせてくれと、8月の終りに要望書を出しましたが、全然対応してくれませんでした。この間、会は支援物資を配ったり、弁護士さんを呼んで話を聞いたり、放射線と原発の学習会をやったりして時を過ごしていきました。

 ところが11月の町長選挙を前にして、町長は多分、票がほしいから、突然「行ってもいいよ」と言い出した。このころは私たち女性の会は、帰れないから次のところに移住しようという考えになっていた。しかし町は、会の国との交渉について「帰れるようにしてくれ」とか、「除染を早くしてくれ」とか、「中間貯蔵施設を作るな」とか、そういう話をしてくるんだろうと思って、私たちに行ってくれと言ったのでした。私たちは、ほとんはそうじゃないんだけどなと思いながら、国に別のをするために行きました。

 私たちは「帰れないから、移住先をみつけてくれ。賠償をきちんとしてくれ」と要求しました。さらに広島・長崎と同じように将来、私たちに起きるだろうと思われる被ばくの病気に対して、被爆者手帳を作り「双葉郡だけではなく福島県全体の医療費をただにしてくれ」と要求しました。

 ところが国との要求交渉について正確に報道されずに中間貯蔵施設だけを求めたみたいな形で報道されてしまった。これでは家に帰ったら「大変」なことになると思いながら帰ってきた。やはり「大変」でした。みんな怒り、コテンコテンに罵声を浴びせられました。「なんでお前は、そんなことを言ったんだ。帰れるのに帰れないと言ったり、中間貯蔵施設を作れと言ったり、とんでもない」と言われた。友達からも言われた。ある人は離婚までしました。

 私なんかは、ほんとうは中間貯蔵施設ではなく、最終処分場まで作れと言った。原発の核のゴミを集めるのではなく、今回、大熊町から出た除染した廃棄物を大熊町が引き取るべきだと言った。このことは新聞には、最後まで出ていない。

★大熊町では何が問題となっているか

 あれから2年が過ぎました。最近、中間貯蔵施設が話題になっています。それでも町長は、帰りたい人がいる限り作れないと言っています。今、汚染水タンクの水が一杯になるとか、地下水に漏れているとか報道されている。実際に原発で働いている人は、「地下水は地震の時から漏れているんだ。海に漏れている。公表したら大変な騒ぎになるからだ」と言ってました。

 だから大熊町は、原発の事故が起きたときから、帰れないんだということを肝に銘じて言っておくべきだった。政治を携わっている人たちがやらなけれはいけないことだった。それが安易に「帰ろう」といつまでも町民に言いつづけていたのです。町民はそれだけで聞けば満足するだろうと思いますが、現実なに起きていることはそんなに甘くありません。

 その間に何人が死ぬのか。すでに年寄りは亡くなっていく。そうすると東電は、シメシメ、今日は一人亡くなった、二人亡くなった、補償をやらなくていいとほくそ笑んでいるような感じだ。すでに最近は、一人亡くなると「東電は喜ぶんだよね。補償をやらなくていいからね」ということを平気で町民は言うようになってきている。

 昨日、弁護士さんを呼んで賠償問題について学習会をやった。現在の賠償は、帰れることを前提にやっている。だから財物賠償、家とか土地に関しては、5年~6年帰れないから、その間だけを賠償しますよということだ。だけど放射線が出たところに誰が帰れるのか。

 賠償は減価償却と、土地家屋士が現場に来て査定する方法があります。今までの減価償却で計算すると私の家は、築180年です。ぜんぜん計算にならない。家は三軒あるんですが、母屋はとくに古いので賠償額は、だいたい犬小屋ができるぐらい、また、それを証明する物がなければならない。これを使うと母家は800万円近くになるのだが……。これではどうやって家を作るというのか。好きで出たんじゃない。

 弁護士は、ダム作りなどの場合の立ち退きになり、その時の収用価格が同様の家と土地を持てる額になる。だけど帰れることを前提でやっているから、全然、低額だ。

 また、住民票がある人は補償される。しかし3月11日、大熊町にいたとしても住民票がなければ補償されない。長男の住民票は大熊にはない。筑波にあるが、3月11日には大熊町に居ました。夫の兄は病院に入院しているが、住民票は大熊町にある。だが、3月11日に大熊町にいたわけではないから、補償の対象になりませんというのです。だから二人とも補償されない。

 東電職員の場合は、実家が東京にあり、ときどき帰る人もいるが、そういう人は補償されるというのです。この間、東電と交渉しているが、東電という企業は、ほんとにどうしょうもない企業だ。大熊にいて被ばくしているかもしれないのにひどい会社だ。

 賠償はぜんぜん決まっていません。精神的な補償が1ヶ月10万円と言われるが、自分で細かいとこまで色々書き、提出しないと貰えない。だけど年寄には書けない。だから東電の職員が集会所に来て、初めはペコペコするが、そのうち「判子持ってきなさい」「なになに持ってきなさい」と命令口調になってくる。年寄は、「はいはい」と足早に家に戻ってきて、言われたとおりに書いてお金を貰っている状況です。

 だけど1ヶ月10万円しかない。10万円で生活ができるかというと、仮設にいて、光熱費など全部、自分持ちだ。

 老人の方は、息子たちが大変だと思うから、自分のカネをあげちゃう。自分は食べる物も、節約しながら生きている。私が「おばさんどうしたの」と言うと、「ご飯食べていないんだ」、「どうしてよ」、「カネみんなやっちまったからよ」と言うんです。みんなから「息子にカネをやったりしてはだめだよ」と言われるが、おばあさんは「息子が車が欲しいと言うからな。やっぱり会津からいわきに通うので」。「大熊町の原発廃炉の仕事に行っている」ということでした。

 みなさんは、バスとかで逃げているので車がないんです。帰って車を取ってくる人もいるが、放射線が高い車だから、持ってくると子どもに影響があると思って、持ってこれない人が大勢いる。だからおばあさんたちは、大変だと思ってカネをみんな渡してしまう。

 だから皆さんだんだんと生活が苦しくなってきている。貧富の差が出てきている。逆に、大熊町長や役場幹部たちは、多額の年間所得が確保されている。だから必死に役場にぶら下がっていようとしている。ぎりぎりのことろに来ると、人間の本性というか、持っているものが出てくる。私は、つくづく人間とは恐ろしいと思う。

 木幡仁が三月に仮設の選挙で自治会長になった。自治会選挙には、夫ともう一人立候補した。片方の方は、絶対自分が自治会長になると思っていた。酒の席も用意したりしていたが、その人は、見事に負けた。

 これは皆さんの考えが変わってきたことです。ものすごく町に対する怒りが増えてきたんだなと思います。今まで大熊の人は、自分の思いを行動とかで現すことができない人たちが多かった。東電力があってその中でずーっと生きてきて、上の者に「ははっー」と絶対に従えと、いう感じだった。そうしないと仕事は首になるから、絶対服従だった。だから町長、役場、自治会長に対しても絶対服従だった。

 これを自分たちの意志で、選挙で、木幡仁に投票するということが、初めて行動で示された。なるほど時代は変わったなと思った。みんなの意識が変わってきたんだなと思った。

 それで町長などは、びっくりしてしまい。今度は、町長が「もうしばらく帰れないのだから、この仮設でみんなで一所懸命に生きていきましょうね」と言ったんです。町長が私たちと同じような話をしていたので、なんだあの人はと仮設の皆さんは冷ややかに見てました。

 中間貯蔵施設の話も、以前は調査を簡単に受け入れませんよと言っていたのに中間貯蔵施設を受け入れますとあっさりと答えた。このように自治会長が変わることだけで、こんなに簡単に変わってしまうのかなと、あきれました。

 焦りだけが皆さん出てきたり、なかなか仕事に復帰できなくなった若者も一杯いらっしゃる。夜になるとドカドカと暴れ出す人もいる。他の仮設に行って「お前にやられたよな」とか、何もやっていないのに自分の頭の中で幻覚症状を起している人が、結構、最近多くなってきた。うつ病になる人も増えてきています。

 大熊町は、すごく住みやすかった。自然も豊かで静かなところだった。ほんとに田舎なんです。皆さん、静かなところで、みんな一軒一軒、けっこう広い家に住んでいました。長屋はなかったんですが、今の仮設は長屋です。だから隣りの人の声が聞こえるんです。「うるせー」という言葉が飛び交ってくるんです。

 みんなテレビなどのボリュームを低くして、静かな声で話したり、非常に遠慮しいる状態だ。だからちょっとでも大きな声で話すと、「うるさい」となる。部屋を交換してくれと言う人もいる。みなさん、追い込まれている状態だ。だけど野上の部落の人は、そういうことはない。貧乏でも、山仕事、農業とか、ずーっとやってきて、必要以上に物を持たなかった人たちだ。山仕事は大変だ。大きくな木を、男も女も関係なく、木の伐採をしたりする。みんなこういう事態になっても、私の近くには90歳近くのおばあさんがいますが、みんな一所懸命。お互いにおかずを作ってあげたり、助け合っています。

 町の中心に旭台という区がありましたが、ほとんど仕事が東電関係の住宅でした。トップに東電社員、下請けの幹部がいて、住宅ではその人たちに従うようになっていました。住宅雑誌に載っているような家ばかりでした。だけどこういう人たちが避難してくると、滅茶苦茶になっているんです。誰が自分を統率してくれるのか、誰がやってくれるのか、そればっかり待っているんです。自分では何もしようとしない。

 逆に子どもたちは、非常にたくましくなっています。ある意味で大熊町から出てきてよかったかなと思う。というのは、子どもたちも大熊町にいるときは、なにがなんでも東電職員になりたがっていた。東電の下請け会社の親たちに聞かされて、俺は大きくなったら東電に入るんだぞという感じでした。そのためには電気科に入ろうとか、勉強ができなくてもコネで入ろうという感じだった。

 ところが子どもたちは、 この事態になって原発って怖いんだね、と言うようになりました。親が原発は安全だと言っていたが、「ウソだね」と言いっています。うちの父ちゃんは原発で働いているけど、原発にはもう行きたくない、と言ってます。子どもたちのほうが、この2年間の経験でものすごくかしこくなってきた。私たちの話を一番聞いてくれるのは、子どもたちです。「原発は危ないから、もう日本、世界には原発はいらないんだよね」と言うと、子どもたちもいらないと言ってくれます。ましてや「地震がある国に、なんで原発が必要なんだよな」と。学校の授業でも、若い先生などは、今おおぴらに授業で、「原発は危ないんだよ」と言えるようになった。昔だったら大熊町でそんな話をしたらとんでもないことだった。

 子どもたちも家でも「原発はあぶないんだよね」と言えるようになって来た。子どもたちのほうが脱原発だ。それに対して大人は文句を言わない。3.11があったけれども、子どもたちはいろんなことを学んだと思う。

 以前は勉強をしない子どもが多かった。私たちが勉強しなさいと言うと、「なに言っているんだ」という感じだったんですけど、人の話をまじめに聞くようになってきた。大熊で「勉強します」と言うと、「あいつはちょっと変わっている」と言われるほどでした。

 ほとんどがコネで東電、東電の大手の下請会社に入って行った。退学した子どもでもコネで東電、下請けに入れました。以前、私とお父さんに仕事の誘いがきていました。高額の給与を提示しました。うちの娘にも高校卒業したら原発の東電社員にならないかと電話がかかって来た。

 原発に反対している人には、家族には危ないことが一杯ありました。襲われた人もいました。私たちは塾をやっていたのですが、最初は原発反対なので生徒が来なかった。家庭教師で原発の下請けの子どものところで教えていたが、あの人は原発に反対しているんだよと噂話が出ると、最初はさーっと引いていった。双葉町で反対派の酒屋さんは、暴漢に襲われたり、家族も襲われたり、商品を一切買ってもらえなかった。家計は火の車になっていき、最後は屈服させられた。

 以前から大熊町は、原発周辺は危ないよとと言われ続けていた。最近、浪江町で尻尾がないウサギが出たとか、耳がないウサギが出たとかという事実をブログで見ました。私の家にネズミがたくさんいるんです。ところが家のネズミが猫ぐらいに大きくなっている。気持悪いです。なんでこんなに大きいのか。周りの人たちもネズミが異常に大きくなっていると言っています。しかしカラスはいない。やはりからすは利口だからなと思いますが、やはりカラスは線量が高いところに来ない。

 私の家は、一時帰宅で何回か戻り、雨どいを測りました。1月の時が120μシーベルトだった。3月が220μシーベルト、4月が320μシーベルトだった。山沿いだから、高くなってきている。雨どいのところが積もり積もって高くなっている。叔母は具合が悪くなってしまい、苦しくなり、具合が悪くなると言ってました。

 大熊町は除染したと言っている。役場も除染したが、2週間後、測ったら15μシーベルト以上だった。除染して下がったと言っても6μシーベルトだ。ところが1ヶ月たたないうちに測ったら、ちゃんと上がっていた。元の数字に戻っており、役場の後ろは30μシーベルトだった。だから除染したってお金の無駄使いだと感じてきた。

 以前は、除染して帰ろうというのが圧倒的に多かった。しかし集団移住を要求してきた木幡仁が自治会長になったことに現れているように、だんだん年寄りも帰れないということが分かってきた。

 一時帰宅するたびに線量が高くなってきている。新聞、マスコミは下がってきたと言っているが、表向きは下がってきている。しかしセシウム134は、2年で半減だ。セシウム137は30年だ。これだけではなく、その他に公表されてないことが一杯あると思います。プルトニウム、ストロンチュウムとかの線量状況などが全然公表されていない。

 原発事故時、風がものすごく吹いていた。だからあちこちに飛んでいるはずだ。セシウムは、へばり付いたら絶対に落ちないらしいし、溶けない、消えない。いくら除染やったって、上から落ちてくる。大熊町など現地に除染に何億円かけたって、湯水のごとく使う感じで除染は必要ないと思います。

 やっぱり郡山、福島、いわき、伊達のほうは、ほんとは住んじゃいけない。会津以外はね。だけど住んじゃいけないけども、みんなどこにも行けないでしょ。東電は補償もしてくれない。金もそんなにない。必死になって県外に出ている人もいる。仕事がなく、外に出たら家もないでは、子どもをどうやって育てることができるというのか。出ていくのが大変だから福島県に残るしかない。だからそのためには、せめて人が大勢住んでいるところは除染してほしいと、みんなは思っている。

 だけどチェルノブイリでは、低線量被ばくの被害がどんどん出てきている。チェルノブイリの50年先の線量の移り変わりを予想図を見れば、福島も同じような危険性があるということだ。
★質疑応答

Q 双葉郡で原発反対同盟があったが。かつての運動と現在は結びついているのか。


木幡 木幡仁とか、大熊の人も反対同盟だった。東北電力が浪江に原発を作ると言っていたが、反対に合って、東北電力は3月28日、浪江・小高原発の新設計画を取りやめると発表した。反対同盟の委員長が双葉町の岩本さん。その後、石丸さん、富岡の方です。昔の社会党を中心で反対運動を取り組んだ。富岡、大熊、双葉とかに仲間がいた。井戸川克隆双葉町長は反対ではなく、推進派だった。東電のおかげで商売をやってきた。水道屋さんだった。東電の水道をやりながら、東電とともに歩んできた企業だ。

 原発の事故があって、3.11以降、これまでの東電と一緒にやってきたことが壊れた。今まで賛成だった人も、原発は怖いなということで、だんだん反対になっている。

 原発立地県での脱原発運動は、ほんとに大変だと思う。脱原発をやろうとしても、私の親戚には東電の職員がいるから表立って行動はできないとか。東電のおかげで生き延びているとか。さらに反対する人は、暴漢に襲われたり、借金で大変だったり、仕事として雇ってもらえないとかある。

 暴漢について東電は関知していませんと言うが、だいたい襲われる人は原発反対の人だ。ヤクザに襲われたのだろう。ヤクザと東電は一緒だと地元で、ずーっと言われてきた。

 今回の除染作業で、今、ヤクザがどんどん入ってきている。それも東電は関係ないと言うけど、それは違う。だけどヤクザが入ってこなかったら、東電の仕事は成り立たない。ヤクザの友達は、「私たちのことをあまり悪く言わないでね。ほんとは言いたくはないけど」と言って色々と事情を話してくれる。東京電力は昔から炉の中の仕事とか、被ばくするところの仕事は、ヤクザが請け負ってきた。いろんなところから野宿者を連れてきて、金を巻き上げて、お前入れといわれて、入れさせられてきた。

 原発労働は、ある線量を越えると仕事にならないし、出されてしまう。その会社が線量以上のものを出していると、その会社は首になってしまう。だけどヤクザは、ある程度の線量になると入れなくなる人が一杯いるから、その人たちの線量計を借りて、また仕事に入っていく。だから規定以上に入っている。

 線量計がないと仕事ができない。一人で使いすぎると、東電、国から色々言われるから、だからある程度、人を集めておいて、その人たちに仕事ができない人の分の線量計を持たせてやっている。一人で4人分の線量計を貰ってやっている人もいる。

 ヤクザがいないと、人を集めてこれない。ヤクザ自身もピンハネされている。被ばく労働問題の集会では6~10次ぐらいまでの下請けがあると言っていた。国は危険手当を一万出していると言っているが、寝食も提供しなくちゃいけないから、ピンハネしていくと、最後に残るのが1000円だけだというケースもある。

 ヤクザに従い、絶対に文句を言わないのがチンピラの人たちだ。人を集めてこないと、仕事にならないから、ヤクザが必要だ。ヤクザは、福島原発の中ではとんでもないことになっていると言っていた。喧嘩はするし、ピンハネはすごいし、人を人と思っていない。中には仕事をするために麻薬をやらせることもある。薬をやらして興奮状態で仕事をやらせる。そうしないと怖いからだ。普通、一般の人は、原発の中に入って仕事をするのが怖い。怖いから薬をやって、自分を奮い立たせて仕事をする。このように役になっているのがヤクザだ。ヤクザを追い出すと仕事をする人がいなくなってしまう。

 だから福島原発の廃炉作業は、東電だけにまかせるのではなく、国の管轄でやらないと大変だ。今でも屋根をかけてなく、ちょっと地震か起きたら、壊れてしまう状態だ。地下水が漏れていることが発覚したが、どんどん海に流出してしまったら、たぶん日本の近辺の魚は一切食べられない。

 こないだ九州に行ったら、九州のお魚はおいしいなと感じた。会津からも原発労働に行っている。親が心配している。だけど会津も仕事がないから、福島県全体が仕事がないから最後には原発労働者になって、ピンハネされながら生きている状況です。

Q 東電との財物賠償交渉状況は、どうなっているか。

木幡 町民はぜんぜんやっていない。そもそも書類の字は細かいし、ましてや世帯主が老人だから「わからない」と言っている。逆に、東電のところに行ってペコペコ頭を下げている。東電の職員が「こうしなさい」、「ああしなさい」と言い、「はいはい」と対応している。書くのが面倒くさいから東電の職員に教えられながら、老人の人たちは書いている。ぜんぜん解決されていない。

 今、家財ですが、これは5年で帰れますよという前提のもとにいくらと、定額で決まっている。例えば、一向宗の人が多いが、仏壇がものすごく煌びやかで300万円以上とか高額だ。だがそのお金を払ってもらえない。何人家族がいようと、家財の額は決まっている。

Q 原子力損害賠償紛争解決センター(「原発ADR」)での状況は、どうなっているか。

木幡 女性の会で弁護士を招いて学習会を行った。紛争センターに出すまでは弁護士費用は、東電から全体の3%が出る。つまり被災者自身は無料。お金はかからないんだよということ教えるために学習会をやった。

 満足しなくても書いてしまったらおしまいだと思っている。紛争センターに出して、争っている間は、一時金は貰えるんだ。ここで解決しなくても次に出せるんだよと学んでもらいたかった。

 弁護士さんの話は難しいからなと、来ない人がたくさんいたが、それでも昨日は50~60人が参加してくれました。私の仮設は、200世帯だ。最近は仮設にいたくないからと、借り上げに住んでいる。今でも150、60世帯だ。でも昨日は杖を引いたおじいさんが来た。「弁護士は無料なんだな」と、初めてわかったと言ってくれた。

 地震保険があります。農協は地震保険で半分払ってくれた。ところが住民の人たちは、保険を半分貰ったら、もう東電から貰えないと思いこんでいた人たちもいた。そういうことを聞かないとわからないが、東電はそういうことについて一切話さない。ずるい!

 以前はADRでやっていると一時金も貰えなかった。だが争っている間でも、1ヶ月10万円をもらえるようになった。だけど一般の人は、それを知らないから、解決するまではお金が一切貰えないと思っていた。そうじゃないことを知らせた。

 弁護士費用は、東電に出してもらえる。これを初めてみんな理解した。こういうことを東電は、絶対に言いたくない。なるべくなら金をかけないようにしたいのが本音だ。

Q 精神的損害賠償は、被災者に支払われているのか。農業、林業、漁業への補償はどういう状況か。

木幡 精神的補償は、1ヶ月10万円だ。体育館とか、公共的施設にいる人は12万円。だから双葉町避難所(埼玉県旧騎西高校)の人は、高校にいるので1ヶ月12万円だ。帰宅困難区域に関しては、6年間帰れないから、1人いくらとお金を出すのだが、準備区域とか、すぐ帰れますよというようなところは、何分の1だ。だけどほとんど線量は高い。なんでそんなので分けるのかとおもうのだが。

 財物賠償は、土地、家、ペットが対象です。財物は、家の中の物も入るのだが、植木とか、木とかも入ってくる。

 所得補償は、避難者が裁判で勝つまでは出さない。農業者は、農協が全部やってくれたが、東電から農協にお金が入り、個別に被害者に渡った。田んぼ、畑作の工作面積でいくら、どれぐらいのお米を出荷してきたかで計算した。農協か一番きちんとやった。

 商工会は、農協みたいに全体でやっていない。商工会は、個別で違うからやらないという感じだった。個人でやれということだ。共産党系の弁護士に頼むとうまい。

 漁協は基準がなくて大変だ。林業のほうはまだだ。除染してどうのと言っているが、除染なんてできるわけがない。私の家の後ろは、山だが30、50μシーベルトのとんでもない線量だ。

 震災後の8月に農協幹部がニュースステーションに出て、田んぼの中が120μシーベルトもあることを証言している。山はもっと高いだろうと言っていた。農協は大きい組織だから、弁護団も一杯作って、かなりやった。森林組合は、ばらばらで、除染問題も解決していない。賠償問題はこれからだ。財物対象になるが、山林や農地の査定が出ていない。なかなか難しいだろう。

 土地は、先祖代々で引き継いできたが、ちゃんと名義の書き換えをやっていない。うちなんかは、ヒイヒイ爺さんの代から書きかえをやっていない。戦後でいいと言うが、親族が一杯いる。それだけで判子をたくさん貰ってこなければならない。一人いくら出すとなると、とんでもない数となる。

 最近では二世帯の合意があれば、家屋と土地は大丈夫となると言っているが。名義の書き換えは大変だ。

Q 仮設の人たちの生活状況はどうか。

木幡 最近の傾向として、若い人たちはローンを払ってでも家を会津若松市内に建てはじめている。学校は大熊の学校から転校してしまって会津若松に入学している。爺、婆はみんな架設に取り残されて、しょうがないという感じだ。

 復興住宅ができると言われているが、会津若松は大熊町だけではなく、楢葉、浪江の方たちがいる。楢葉の人たちでも帰れない人たちもいる。復興住宅は、人数分が合わない。2階3階になってしまい。今でも借り上げで3階にいる人もいる。そうすると自分で買物に行けない、上り降りできない。エレベーターもない。

 こないだ仮設で死んで何日たってから発見される方がいました。年寄は、仮設にずーっといようって、仮設にいればなんとかなるだろうと思っている。だから、どうしてもだめなときは、老人ホームを作ってもらおうと要求していこうと考えている。やっぱり年寄りの人たちは、行くとこがない場合は復興住宅といったって、なかなかそれは難しいだろう。それよりこれからは老人ホームが最適だ。国策で原発を作り、国策で故郷を追い出されてきたのだから。

 私の親がぼけてきている。私が来るということで老人ホームにも行かなかった。しかし最近は、ディケア施設に通うようになった。仮設でも介護の方たちが来訪する。大熊の老人は、民間のディケアに通うのが楽しそうだ。バスに乗せられて遠足に行くような感じだ。簡単に復興住宅に入るようりも、老人ホームを国に作ってくれという運動が必要じゃないかなと思う。

 一人で暮らしたくない方がたくさんいる。誰かに診てもらわないといけない。子どもたちも自分の生活で精一杯だ。

 息子たちは、家を建てても二重ローンになっている。大きな家を建てられないから、子ども中心だ。親たちは、架設で我慢してくれという方が一杯いる。だからそういう人たちのためにも、老人ホームを作るようにと言いたい。

 最近、参議院選挙が近くなっていろんな党派の人が福島にやって来る。自民党幹部たちは、来ても一日で宿泊しないで帰ってしまう。それで「原発は大丈夫だ。再稼働だ」と言っているが、避難民の思いをわかっていない。だから「仮設に泊まりに来なさい。いろんな老人がいるんだ。これからの先の生活をどうしてくれるのとか。老人ホームを作ってくれとか」とメールした。そしたら「それはいい考えだ」と返事がきたが、ほんとうにそう思っているのかあやしい。

 ほんとうに老人をどうするのか。双葉町は、埼玉の高校の架設(80人)からなんで出ていかないのかというと、老人がほとんどだからだ。前は弁当代を払わなくても貰えた。自分で作らなくても食べ物が食べれた。この間は弁当代400円のお金を出さなければならない。時々弁当を食べきれなくて捨てるのだが、弁当を貰っておかないと不安でしょうがないと言う。自分ひとりにされると、どうしたらいいかわからないという年寄りが一杯いる。俺たちを福島県で一人一人するなと言っている。

 結局、仮設にいればなにもしなくてもいいからだ。食事の用意もしなくていい、電気代・光熱費を出さなくていいし、避難所扱いだからだ。一ヶ月12万だが、仮設だと10万になってしまう。ほとんどの人は、仮設で自分で自立している。だげと自分ひとりになることが一番怖い。年寄は、団体生活で2年間、慣らされているから、一人になるのが怖い。一人で生きていけないという人が多数になっている。だげと自立したいという老人は、福島県の他地区、他県に戻ってきている。

 それができない人や障がい者の方とかは出れない。夫の兄が入院していた福島の大波は線量が高いので病院が閉鎖された。若い看護士たちが、怖いからここで働きたくないということで閉鎖された。兄は一度退院となり、別の病院に入院した。兄からすると病院のほうが、人が一杯いるから安心なんです。

 以前の大熊町だったら、もともとは皆一人一人でいられたが、それができなくなっちゃった。不安で仕方がないのだろう。だから老人ホームが必要だ。こうなったのは原発のせいだ。東電のせいだ。

 「仮の町」構想は、ゴルフ場の跡地を使うということだったが、ちゃんとライフラインを整備する必要があり、地主が取り壊し代とか自ら支払う額が大きくなってしまうから取りやめてしまった。「仮の町」は、いわき市ではなく国がすすめるべきだ。国有林とかもある。ゼネコンからすれば山を更地にするのはすぐにできると言っていた。

 かつて国有林の跡地を使って移住させてくれと言っていた。ところが仮の町構想は、住みやすい、生き易いところ、町の中に仮の町を作ってくれという話だ。宅地がないから、民有地ではなく、国が責任を持ってやるしかない。

 いわきの人たちも被災していいるが、仮設の人たちへの賠償金があるため、なんで土地を提供しなけれはいけないのかという感情もあって分断されている。みんながみんなではないが、こういう状況もある。ばらばらにされている。例えば、共同の学校を作ろうという話も、地域によって私たちは帰るところがあるからそういうことはできないとなってしまう。共同歩調がとれない。

Q 最後に要請はありますか。

木幡 放射線量が高いところはまだ残っている。若い人たちは、帰れないとわかっているから帰らない。だけど町長も含めて各自治体が帰れないんだという意識を作らないとだめだ。チェルノブイリの経験からしても、低線量被ばくでかなりひどい状況になっている。だから福島県、近隣県は、ホットスポットがかなりあり、今後どのような健康状態になるかわからない。もっと健康状態について理解していく努力をしなければならない。低線量被ばくの危険性を強調してほしい。