arton5147-77be1_preview(デモで掲げられた「同性愛嫌悪に死を」の横断幕)

ゲイ結婚法案の投票


ガブリエル・ジラール

 4月23日、フランス国民議会の第二回投票でゲイの結婚を認める法案が成立した。ここに掲載する文章が書かれて以後、「すべての人びとの結婚」法案への反対運動が急速に激化し続けた。極右の国民戦線指導部――マリーヌ・ルペンはそうではなかったが――と並んで「議会内右派」もデモに参加する姿が見えた。

 同性愛嫌悪が恐ろしいほど目立つようになり、多くの都市でゲイバーから出てきた人びとが襲われるようなことまで起こった。法案支持者のデモは、社会党やその左にいる別の政党(左翼党と共産党をふくむ左翼戦線、NPA[反資本主義新党])が支持していたにもかかわらず、反対派と同じような広範な動員を行わなかった。これは明らかに、社会党政権への全般的な幻滅のせいである。「インターナショナル・ビューポイント」は、この問題をめぐる分極化について近いうちに、さらに別の論文を掲載する予定である。(「インターナショナル・ビューポイント」編集部)

 
 2月12日の午後5時になる少し前、フランス国民議会は、いわゆる「すべての人びとの結婚」法案を大多数の賛成で可決した。同法案は同性カップルに市民的権利、ならびに養子縁組の権利を与えるものである。これは第一段階であり、法律になるためには上院での審議と可決が必要だが、両院で左派が多数を占めているため夏前に原案が確実に採択されることは疑いない。

 この投票は、平等の権利に関するフランス社会内部での賛成・反対双方による、数カ月の集中した討論の結果、もたらされたものだった。LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)運動の古くからの要求が実現されたことは、だれも否定しえない成功である。しかしこのようにして獲得された形式的平等は、同性愛嫌悪やトランスジェンダー嫌悪との闘いを終わらせるものではない。平等への道にとって不可欠の段階である法の採択は、しかしながら、ゲイとレズビアンの間の差異化が発展する過程を際立たせることにもなりうる。

裕福な層にとっては、同性愛のライフスタイルは、さまざまにある選択肢の一つに入るようになってくる。コミュニティーの中のより不安定な周辺部分(若者、トランスジェンダー、女性、エスニック・マイノリティー、HIVポジティブの人びとなど)では、経済危機が家族への依存を強め、解放の物質的諸条件を掘り崩す中で、同性愛のライフスタイルがごく平凡な存在になることなどほとんど見られない。

「ホモ・ナショナリズム」内の一部の批判的アクターたちは、ここ数週間、あぶなっかしい形でこうした裂け目の存在を強調しようとしている。とりわけ住民たちの居住区と、移民出身の若者たちの間においてである。LGBTコミュニティーでのレイシズムと帝国主義に関する論争を復活させた一部の危険な立場は、国際的なレベルで運動を通じて広がっている。それはこうした課題の建設的な論議にとって、けっしてよい雰囲気ではない。

異性愛規範からの批判的解放の展開は、それがいかにLGBTの多数派の動員と政治化のリズムにとって注意深さを必要とするものであったとしても、LGBT運動のラディカルな活動家と左派にとっての挑戦課題である。



状況



 社会党候補のマニフェストの限界内に封じ込められたフランソア・オランドは、2012年の大統領選挙運動の期間中、フランスのLGBT運動が15間提示してきた同性婚の権利の要求に直面した。

 1999年、左翼政権はPaCS(連帯市民契約)を制度化した。それは同性カップルに法的枠組みを提供する市民契約であるが、結婚に関連する諸権利のすべてが付与されたわけではなかった。当時それは、いかにおずおずしたものであれ最初の前進であり、左翼の間で熱気を帯びた討論を引き起こした。一部の人びとは、同性の結びつきを承認したことが家族の「象徴的秩序」を脅かすと恐れた。こうした危惧をよく示すものとして、PaCSの採択は左翼の議員たちの動員が弱かったため数カ月遅れることになった。かれらは議案の最初の投票では議会内の少数派だった。
 
LGBT運動にとって、とりわけHIVポジティブのパートナーを持つカップルにとって、それは防衛的成果だった。しかしただちに差別的立法だとして挑戦を受けることになった。それが同性愛者と異性愛者の間に法的不平等を作り出したからである。
 
2000年以後、右翼が政権を取る状況の中で、権利の平等が急速にLGBT運動の主要な要求となった。2004年にスペインが同性婚の権利を法制化した時、緑の党の国会議員、N・マメレは法律の抜け穴を利用して二人の男性間の結婚生活に入った。結婚したカップルの性別は市民契約に特定されていなかったからである。この象徴的な不服従行動は、メディアで大きく取り上げられたが孤立したものであり。他のどの議員も後に続かなかった。それに続く年月、結婚の要求は、LGBTの闘争の優先的課題であり続けた。しかし右翼が政権の座にある限り勝利は不可能だという認識により、ほとんどの組織は左翼が選挙で勝利するまで待機するということになった。したがって、ゲイ・プライドマーチの主要テーマは平等の問題だったが、この課題で目立った政治的キャンペーンは行われなかった。

こうした課題で力関係を築き上げるという点での展望の弱体化が、2012年九月の右派とカソリック教会が議論に参入した時、活動家グループの相対的分解が引き起こされてしまった理由のかなりの部分を占める。



基層勢力



 1990年代後半にPaCSに関する議論が起きた時、右派ならびにカソリック教会に近いその周縁部分は、このプロジェクトに熱をこめて反対し、パリで十万人近いデモを組織した。反PaCS右翼の象徴となったクリスチーヌ・ボータン議員は、彼女の主張の支えとして国民議会で聖書を見せびらかすこともためらわなかった。全般的やりかたとして、議論は同性愛嫌悪の氾濫をもたらすことになった。その中で左翼とLGBT運動の主張はほとんど聞き取れず、社会党はこの問題では意見が分裂していた。

 2012年の状況は、きわめて異なっていた。社会党はまさに選挙に勝利したところだった。右翼は敗北し、内部の指導部競争で弱体化し、選挙では国民戦線と張り合っていた。したがってUMP(国民運動連合、サルコジの党)指導部は、左翼に反対する課題を探していた。オランドが緊縮政策を追求していたため、自分たちを差異化する余地がほとんどなかったからである。「すべての人びとの結構」法案は、右翼にその機会を与えた。PaCSに関する議論とは対照的に、反対派は外見上より「巧みな」アプローチを進めていった。

 公然たる同性愛嫌悪の言説は、少なくとも公式には放棄され、議論は何よりも「親権」の問題(養子手続き、医学的支援出産、代理親など)に集中した。「反平等運動」の表看板――結婚に反対する二人のゲイと、二流の歌手/ユーモア俳優――は、この戦闘において政治的ではない顔を表に出そうとするものだった。「子どもを持つ権利」への批判と家族的価値の防衛が、右翼の言説的枠組みを提供した。

しかし、法案への反対が右翼とカトリックのネットワークに強く結びついた、極度に反動的な運動に依拠していたのは驚くことではない。そしてデモでは同性愛嫌悪のスローガンが支配的だった、2012年11月17日、2013年1月13日に二つの大きなデモが組織され、UMPと国民戦線、そしてカトリックや他の一神教宗教の主要な代表の支援の下で、数十万人が参加した。カトリック教会はこの闘いに全力を上げ、デモ参加者のパリへの交通手段を大規模に組織した。

メディアの領域を占拠した反平等勢力は、ジェンダー問題や異性愛的家族秩序について、本質主義的で性差別主義的言説を採用した。かれらは、親権問題についての論議を分裂させ、法案に反対する議員たちを動員することに成功した。オランドが動揺し、法案に敵対的な市長に「良心条項」(宗教・良心上の理由である法律の条項に従わないことを許容すること)を持ち出した時、混乱はその目標とするところに到達した。これは、11月17日の大衆的デモと結びついて、LGBTの活動家とその支援に電気ショック的効果を与えるものとなった。さらに右派の言説は、日ごとに同性愛嫌悪に新たな生命を吹き込むものとなっていった。
 
12月16日、さまざまな社会的組織、労働組合、左翼政党の呼びかけで15万人近い人びとが平等の権利を支持し、フランス全土でデモを行った。政治的左派は全体(NPA、左翼戦線、社会党、緑の党)として法案を支持した。このデモに続いて1月27日に新しい、さらに大きなデモが行われたのは予期し得ない出来事だった。それはゲイ・プライドマーチ(近年ではパリで50万人近くが参加する)を別にすれば、LGBT運動としてこの四〇年間で最も目立った動員だった。

しかし政府は、矛盾に満ちたシグナルを送り続けた。政府その決意を述べつつ、親権問題について後退し、女性のカップルへの人工授精へのアクセスは法案には含まれないと説明した。そうした中でオランドは反結婚デモの組織者を個人的に受け入れ、政府は代理母制度を明確に非難した。2月12日の採決はLGBT運動の主要な要求の一部を満足させたが、希望にはほど遠いものにとどまっている。

総括をするには早すぎるが、この秋と冬の平等の権利を支持するデモはLGBTコミュニティーの政治化への重要なベクトルとなった。こうしたデモの中で、ラディカリズムの極が登場した。ピンク・ブロックは反資本主義、反レイシズム、異性愛基準との闘いを明確にした。とりわけパンセレ・ロゼの周囲に結集した「ウィ・ウィ・ウィ」コレクティフは社会党政権のためらいと向き合い、明確な平等の要求を防衛した。より広範に見れば、数十万人のゲイ、レズビアンが街頭に登場し、社会的ネットワークに参加し。自分たちの学ぶ場、働く場で右派の同性愛嫌悪の言説に日常的な抵抗の力を発揮したのである。



LGBT運動の戦略的課題



 しかしながら、この動員の限界についても注記されるべきである。戦略的には。それは統一した要求への合意に不可欠なものとして急速に登場した。しかし平等を支持する運動は、なによりも右翼の動員に対する対応として設立され、立法のカレンダーに従ったものであったため、法律がはっきりと可決されたことで動員解除も強力なものになった。運動の制度的機関(とりわけLGBT相互間の)はこの点で大きな責任を持っている。同性愛嫌悪の言説や行為の再発がここ数カ月で観察される時、この領域での基本的闘争を継続する必要性が決定的に強調されてきた。

 平等の「中身」に関して、最近の動員では、より深い論議をすることが認められなかった。したがって結婚の制度へのフェミニスト的批判や、代理母制度への必要な討論を耳にすることがなかった。LGBT運動の左翼活動家にとって「漸進的」戦略が押し付けられた。最初に結婚や養子縁組問題で成果を勝ち取り、その後で家族や夫婦の基準に関する討論を進めていく、というものだ。しかし民主主義的構造が不在である場合、こうした討論のための政治的可能性は、何週間か経つうちに切り縮められてしまうのだ。



▼ガブリエル・ジラールはフランスとケベックで、おもに反エイズ運動に参加している反資本主義活動家。

(「インターナショナル・ビューポイント」13年4月号)
http://www.internationalviewpoint.org/spip.php?article2950