2012年6月2日に香港で放映された李旺陽さんへのインタビュー。
この4日後、李さんは首を吊った状態で発見され「自殺」と発表された。


6月6日に「自殺」で亡くなった中国の労働運動・民主化運動の活動家、李旺陽さんを追悼し、「自殺」の真相究明を求める香港の労働・市民団体が呼びかけた6月10日のデモに2万5千人の香港市民が参加し、中国政府代表部までデモ行進した。


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亡くなった李旺陽さんは1950年11月12日生まれ。1979年、北京・西単の「民主の壁」に影響を受け、湖南省邵陽市で民主化運動を始めた。1983年には仲間らと「工人互助会」を結成し、地元の河川の名を冠した「資江民報」というガリ版新聞等も発行した。


1989年の「北京の春」とよばれた民主化運動の時期には、湖南省邵陽市で「邵陽市工人自治連合会」を結成し、ストライキやデモなどを通じて、学生らを支援し、労働者の民主化闘争参加を促した。


1989年6月4日に天安門で多くの学生、労働者、市民が弾圧されたニュースを聞いた李さんは、邵陽市で虐殺者糾弾のデモを組織し、犠牲者を追悼する集会を邵陽市「高校学生自治連合会」と「工人自治連合会」で呼びかけ、数千人の学生や労働者たちが参加した。


李さんの仲間は彼に逃亡を勧めたが、李さんは「ここで逃げてしまったら、邵陽の労働者に申し訳が立たない」として逃げることを拒否し、その数日後に逮捕された。


李さんは法廷で、こう主張した。


「デモ、示威、言論の自由は憲法が付与した人民の権利だ。私は無実で、間違ってもいない。中国の労働者はすでに目覚めた!この国の政府は人民と対峙する側に行ってしまった。」


李さんは「反革命宣伝扇動罪」で13年の実刑判決を受け服役。2000年6月に病気を理由に釈放された。獄中での拷問的処遇による障害や疾病が李さんの肉体を蝕んでいた。


釈放された李さんは非合法の民主化組織である民主党メンバーらと交流。貧困にあった李さんに対して国際的なカンパ支援が呼びかけられた。当局は李さんと接触しようとした民主化運動活動家らを不当拘束するなどして妨害した。


2001年1月5日、李さんは地元政府に対して治療入院を要求し、地元政府は自費での入院を許可。国際的なカンパ資金で入院費用をまかなうが、それもすぐに底を尽きた。病院側は治療を中止。李さんは「監獄での拷問による障害の治療費用は国家が負担すべき」として地元の仲間たちと22日間ハンストでたたかった。その時、妹の李旺玲さんは「VOA」などのインタビューに応じたことで労働改造3年の処分を受けた。5月6日、李さんは当局によって病院から連れ去られ、6月7日に正式に逮捕、起訴された。そしてその年の9月11日に「国家政権転覆罪」で10年の判決を受け、刑に服していた。


2011年5月5日、満期で釈放された李さんは、両目両耳が不自由になり、一人では歩けず、家族に抱えられて自宅に戻り、その後、地元の邵陽市大祥区の人民医院に入院した。入院のあいだも警察による監視はずっと続いており、銀行口座は不当にも封鎖されていた。


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李さんの民主化への思いは強固であった。


今年2012年5月22日には当局の監視をかいくぐり、1983年の「工人互助会」の時代からの仲間である尹正安さんと一緒に、香港ウェブTV「香港I-cable」のインタビューに応じた。このインタビューは、今年で23年目を迎える天安門事件の犠牲者を記念する香港キャンドル集会直前の6月2日に放映された。長きにわたる不当な投獄と拷問的処遇によって視覚と聴覚を奪われ、介助がなければ歩けないほど肉体を傷つけられていたが、依然として民主化への熱意は消えることはなく、23年間、香港で続けられてきたキャンドル集会が中国全土に広がることを願っていた。


その李さんが、インタビュー放映の4日後に「自殺」したのだ。


李さんは入院先の病室のカーテンで首をつって自殺したとされているが、死亡した6月6日の前日まで看病に訪れていた妹夫婦によると「昨日の晩も一緒にいたが、全くそのような兆候は見られなかった」と証言している。また第一発見者の看護士から連絡を受けて駆けつけた友人が撮影した自殺現場の写真では、李さんの両足は地面に着いていたことが確認されている。


入院していた病院のある湖南省邵陽市大祥区人民政府は、異例のプレスリリースを香港のメディアにだけ発表した。プレスリリースによると、全国から検視官を集めて検死を行い、検死の過程から結果までビデオ記録をとり、地元の人民代表の立会いもある公正な検死の結果、自殺と断定し、家族の意向で9日に李さんの遺体を荼毘に付したとしている。


しかし前日まで李さんと一緒にいた妹夫婦や長年李さんの支援をしてきた人権弁護士らとは現在連絡が取れなくなっており、知人らも当局の監視下にあるなかで「家族の意向で荼毘に付した」という地元当局の主張は信じがたい。


また検視官の一人は、昨年末の広東省烏坎村の闘争の際に逮捕され、警官に暴行されて死亡した可能性のある薛錦波さんの死因は「外部からの力による死ではない」という検死結果を出したいわくつきの医師でもある。


極めて多くの疑わしい証拠がある。だが李さんの死が自殺ではないという最も確かな証拠は、李さん本人が生前に繰り返し繰り返し語っていた民主化の実現に向けた強固な意志である。


耳も目も不自由な李さんの太ももを指でなぞる触手話で「後悔していますか」と聞いた香港ウェブTV「香港I-cable」の記者の質問に対して、李さんは力強くこう答えている。


「民主化運動に参加して弾圧された天安門の多数の学生たちは、血を流し犠牲となった。しかしわたしは投獄されただけで、殺されてはいない。民主化、国家の未来、匹夫を処罰するために、一日も早い民主社会の到来のために、一日も早い複数政党制の実現のために、たとえ殺されたとしても、悔い改めることはない!」


このように毅然と語った李さんが自ら命を絶つだろうか? もし仮に、李さんが自ら命を絶ったのであるなら、それは20年にもわたる弾圧と虐待によって李さんの心身を徹底して破壊した中国共産党政権によって強制されたものでしかない。


「たとえ殺されたとしても、悔い改めることはない!」


李さんのこの訴えは中国大陸の隅々にまで響きわたるだろう。


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中国は、天安門事件後の民主化運動への徹底した弾圧によって、その後の新自由主義グローバリゼーションへの合流に伴う経済自由化政策に抵抗する労働者民衆の抵抗を芽のうちに叩きつぶすことに成功し、現在の経済大国への道を確かなものにすることができた。


民主主義と労働者の抵抗が極度に制限された広大な中国市場は、日本のみならず世界の資本主義のフロンティアとなった。そして現在ではアメリカを脅かす唯一の国家となったと言っても過言ではないだろう。


台頭する中国の脅威に対して、下劣な極右ポピュリスト石原慎太郎をはじめとする右翼ナショナリストらは「領土問題」を前面に押し出して対抗しようとしている。一方、日本の大企業は、中国抜きには生産・供給が成り立たなくなってしまっている。


日本の労働者市民は、領土問題による分断でもなく、資本のグローバル化による搾取関係でもない、もうひとつの東アジアの労働者民衆の連帯を実現するために訴え続けよう。「万国の労働者、団結せよ」と!(H)


【以下、資料】

インタビュー(中国語)
http://cablenews.i-cable.com/webapps/program_video/index.php?video_id=12128020&urlc=2

インタビュー(英語字幕)
http://www.youtube.com/watch?v=lClvj9J5m7E&feature=share

中国:当局は、長年の反体制活動家の死を調査すべき(アムネスティ日本)
http://www.amnesty.or.jp/news/2012/0612_3134.html

「自殺」発見時の映像(李さんの遺体に抱きついているのは妹の李旺玲さん)
http://www.youtube.com/watch?v=Dm_J08vEbws&feature=related

老虎廟:李旺陽「自殺」現場実録(日本語)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/23e395e9546f2df1467b944232597f53

香港デモの報道(日本語)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120611-00000023-rcdc-cn