7_017 4月7日、アジア連帯講座は、文京シビックセンターで「生きたマルクス主義を次世代に ベンサイド『21世紀マルクス主義の模索』を読む」の公開講座を行った。

 2世紀におよぶ階級闘争の歴史的射程のもとでいかに「現在」をとらえ、世界変革を展望するのか。その方向性を探求していく取組みの一環としてフランスのマルクス主義思想家であるダニエル・ベンサイドの『21世紀マルクス主義の模索』をテキストにして論議した。

 講師の湯川順夫さん(翻訳家)は、「今日の時代をどうとらえるか? 戦略とは何か? ダニエル・ベンサイドの問題提起を考える」というテーマで報告した(別掲)。

 中村富美子さん(ジャーナリスト)は、ベンサイドのパリ第8大学での講演会やゼミに参加した経験から 「政治闘争家でもあった哲学者ベンサイドの遺産」について報告した(別掲)。

 討論では、以下の論点が焦点化した。

 ①LCRのメンバーであるベンサイドの活動への支持の背景やフランスでのトロツキズムの歴史的地位と成果。

 ②ベンサイドの「緑の党」批判と原発労働者に対するアプローチの仕方の検証。

 ③仏大統領選でのブザンスノーの立候補辞退とNPAの大統領選候補―フィリップ・プトゥー(元CGT(労働総同盟)フォード工場支部書記)の取り組み報告。

 ④この時代に対する問題設定とマルクス主義の継承の方向性。



 討論の集約として湯川さんは、「ベンサイドは、第二インターから第三インターのローザ、レーニンなどを含めて、複数主義のマルクス主義があって、批判的に継承していくと言っている。ただ遺産は、何も手をつけずということではなく、われわれが主体的に変えていくという意味での遺産の継承と言っている。どういう労働者が主流になるか。それはまだはっきりしていない。そういう意味で労働者階級についても、過渡期だ。労働者として意識すること自体が、非常に重要だ」と述べた。

 中村さんは、「フランス共産党は、プロレタリアという言葉を使わなくなっている。だがベンサイドは、現在のプロレタリアがどういうものであるのか、例えば、第三次産業の女性の位置について分析した。プロレタリアは、政治的な言説であり、現在的に読み返しが重要だ」と指摘した。

 最後に司会は、「ベンサイドは、共産党宣言一五〇周年の論文で『世界を変革することは、同時に世界を解釈することだ』と書いた。マルクスの『フォイエルバッハに関するテーゼ』をもじったものだ。つまり、一般論ではなく、世界を再解釈しなければ世界を変えることはできない時代にいる、という強烈な自覚があった。だから、私たちが漠然と『常識』だと思っていること、例えば、民主主義、国家、政治、独裁、プロレタリアート、革命、マルクス主義などについて、ともにコミュニケーションできる状態にならないと新しい運動は成立しないのではないか。そのように考えるベンサイドは、常に精密に語っている。それが魅力でもある」とまとめた。(Y)



湯川報告 「今日の時代をどうとらえるか? 戦略とは何か? ダニエル・ベンサイドの問題提起を考える」



 ベンサイドは、1990年代半ばから始まった社会運動の再生に焦点をあて次の可能性を展望する。「これは一時的な運動の上昇局面ではない」し、それは「新しい可能性の成立、ユートピアの出現」だと主張する。「新自由主義のグローバリゼーションに反対する気運の出現」と描き出し、「憤激は始まりだ! 決起と素晴らしい前進のための道だ。まず最初に憤激を覚え反旗をひるがえす、そうすれば分かる。この熱情の理由を理解する前であっても熱い憤激を感じる」(「不屈の人々 時代の風潮に対する抵抗の定理」)と集約する。

 具体的には、「1994年のサパティスタの放棄、1995年末のフランス公共部門のゼネスト、シアトルの反WTOデモ、世界社会フォーラム、アラブの春、ギリシャやスペインの民衆の抗議デモ、ウォルストリート占拠」という形で続いている。

 この「世の中の不正義に対する憤激の積極的意味」は、「マルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキー、チェ・ゲバラ、ウォルター・ベンヤミン、ジャンヌ・ダルク、シャルル・ペギーにも共通してその根源にあるものであって、もぐらが一杯にあふれる憤激であり、もぐらは「地下にある過去の障害物を執拗に掘り続けて突如として地上に姿を現す人々の象徴」(「抵抗--全体的なトートロジーに関するエッセイ」)である」と押し出している。

 この「ユートピアの時期」は、そもそも「1848年の段階」から考えることができるとした。すなわち、「解放の思想が可能なものの実践的適用に直面していない。だから、「『対抗』、『別の』、『もうひとつの世界』、『可能だ』、『もうひとつの左翼』、『別のキャンペーン』という用語が使われ、濫用される。このあり方は明確に定める必要をなくしてしまう。それは成熟が存在しないことを示している。私は悲観も楽観もしていない。われわれはこの段階から戦略を明確にするところへと移行すべきだと思う」(「今や戦略を定める時だ」)と強調した。

 つまり「共産党宣言」が出た「1848年の時期」だと言う。このことをベンサイドは、「時代の支配的要素は1980年代の歴史的敗北にいぜんとしてとどまっている。われわれはまだそこから抜け出していない。それはそれはまだ勝利していない時間との競争である。急進的左翼の抵抗の重要な位置はまだ伝統的左翼の衰退を埋め合わせてはいない」(「今や戦略を定める時だ」)と言う。「われわれをとりまく時代の趨勢」は、そういう意味で「ユートピアの思想」だ。



 なかでも「潮流としてのアナーキズムが強固に存在するわけではなくて、運動する側の強固な風潮」という時代の雰囲気が感じられる。だから「権力を取らずに世界を変える」というホロウェイ、あるいはネグリの思想が出てきていると分析する。そのうえでベンサイドは、「この時代はどれだけ続くのか」と問いかけながら「長い闘いが必要」だと結論づける。

 これは私の評価だが、「1848年あるいはロシアにおけるナロードニキの時代」だと言えるのではないか。「1917年ロシア革命」にすぐに行くわけではなく、もっと長い射程が「ユートピアの時期」が続くのではないかと思う。

 だからこそ「戦略=政治=政治潮流が必要」だとベンサイドは、次のテーマに踏み込むのであった。

 考え方のヒントとしてベンサイドは、「19世紀後半の時点での資本主義」と「その当時のグローバリゼーション(イギリス・ヴィクトリア朝時代)」を取り上げる。今日のグローバリゼーションと似たような状況として、「交通、通信の技術革命の飛躍的発展によって世界が狭くなる」「汽船、汽車、無線、印刷用輪転機の発明による大衆的な新聞の出現」「空前の株式、投機ブームと倒産、スキャンダル」「植民地への探検(ジャック・ロンドンの小説)と進出と軍事的冒険(ナポレオンⅢ世のメキシコ遠征)」をピックアップし、マルクスは「資本の、資本主義体制の謎を解明する」ために資本論を書いた。それは「アルセーヌ・ル・パンやシャーロック・ホームズのように」「他人の労働をいかに誰が盗んだ、その犯人を突き止める」ことに到達したと言う。

 このように分析しながらベンサイドは、戦略にひきつけて「戦略は、社会運動の成立抜きに、抽象的な頭の中で練り上げられるものではない。現実の社会運動の豊かな実践的経験から導き出されるのであるが、社会運動の延長上に自動的に生まれるもではない。それは意識的な闘いによって勝ち取られなければならないものである」と断言する。



 「戦略とは何か」についてベンサイドは、「自分個人の要求を充足にとどまらず、人々を要求のもとに組織することを考えること--人々を結集することのできる要求やスローガンを考えること=政治的に考えること、戦略を考えること」だと提起している。

 さらにそのプロセスを掘り下げていくために「差し迫る破局、それとどう闘うか」、「過渡的綱領」、「統一戦線」、「過渡的要求」、「労働者政府」について歴史的に運動の中で勝ち取られた考え方からのアプローチが重要だと言っている。

 さらに「この社会運動の中には社会運動の可能性に対する過大評価、政治的なものに対する不信が存在した。政党、政治勢力に対する不信、「権力を取らないで世界を変革する」、「対抗権力だけですますことができる(ホロウェイ、ネグリ、リチャード・デイなど)、戦略的なアプローチに対する拒否、の雰囲気が強固である」とスケッチし、この状況を「マルクスの『ユダヤ人問題によせて』」からアナロジーして次のように指摘する。

 「ユダヤ人の解放、政治的な平等の市民権の獲得だけで十分」というのは、「社会的解放を考えていない」と同じだ。「社会的解放こそが重要であり、政治的解放必要なし、というのは幻想だ」と批判する。だからこそベンサイドは新自由主義と手を切った反資本主義左派政治潮流の形成に着手した。その途上半ばでベンサイドは亡くなってしまったが(2010年1月12日死去。63歳没)。



中村報告 「政治闘争家でもあった哲学者ベンサイドの遺産」



 私がフランスに行ったのが1998年です。パリには、13の国立大学がある。ベンサイドは、第8大学だった。私は、10年いて、第8には登録していなかったが、ベンサイドの講演会とかに参加しておもしろい人だなと思っていた。後に知り合いになって、交流が始まった。

 ベンサイドは「責任と謙虚」の人だった。責任の中には実践を踏まえていた。そして、労働者の文化(連帯)に非常に誠実であった。集団との関係で全てが作ら、集団として考えることが非常に大切だと言っていた。彼は哲学者だけれども、非常に謙虚に、「私は哲学の一教員である」という言い方を常にしていた。1968年の闘いは、学生と教師のヒエラルキーとかを壊していった。つまり、教師と学生の関係は、教える、教えられる関係だが、彼の場合は常に対等であった。



 彼は、複数性とその中の固有性の重要性をわかっていた。彼はトゥルート出身でものすごい訛りがある。パッと聞くだけで、どこのフランス語なんだという感じだ。それを絶対に手放さなかった。家は貧しかった。だが優秀だったのでエリートコースの学校にいった。パリのブルジョワが集まるような場でもトゥルート訛りを通した。一つの表現だった。自分が体得してきた文化、ある種の固有性の重要さを表現していた。普遍性とは単純な抽象的ではなく、個別の活動とか、実践の中から繋がっていく普遍性を大切にしてきたところと結びついている。

 ベンサイドの言語に対する感性、思考は、両親がトゥルートに来てから生まれているのだけれど、ユダヤ人の流れであり、そこの文化と言語がねじれているところにある。だから複数性の原理と固有性の重要性の考えに結びついているのかなと思います。



 私は2001年、ベンサイドの教授資格の公開審査に参加したことがある。ベンサイドがいて指導教授が4人ぐらいいた。審査員たちは、ベンサイドの今までの業績や彼の本を積み上げていた。ところが審査員の中の一人は、ベンサイドの人格を褒め称えた。普通ではありえないことだ。彼の学問的業績を踏まえつつ、まずベンサイドの人格を取り上げざるをえなかったといえる。単純な人柄ということではなく、集団で考えていくこととかに繋がっているから、当然出てきたと評価している。

 審査員の一人であるデリダはベンサイドの本を見ながら、「あなたはランデブー(人と何か会う、約束)のこだわりがある。非常に強い結びつきというか、こだわりがあなたの中にある。あなたが革命を語るときは、活動家というものが、革命家とランデブーする感じを受ける」と言っていたことが印象的だった。



 1968年の五月革命。最初は五月の前に第10大学からベトナム戦争に対する反戦運動が激しく行なわれた。逮捕者が出て、それに対する抗議を契機としている。第10大学は封鎖されてしまった。機動隊とか導入した。逆に大学生の闘いは燃え上がった。労働者、市民も加わり、ゼネストまで行った。

 その年の秋、フーコーなども力になったのだが、社会に開かれた大学を作ろうということでできたのが、第8大学だった。非常に保守的な大学制度に対してアンチなものを作る反アカデミズムを軸にしていた。教師と学生の間に敷居を設けない、あるいは大学と社会の関係を見直していく、現在の政治に対して開いていかなければならないという主張だった。

 だから第8大学は、高校資格もいらないという感じで開いていった。授業も社会人が働いた後でも来れるように夕方に開講する。外国人にも開いていく。大きな教室でマイクを使って授業をすることはしない。普通の教室に教師を中心に学生たちが囲んで熱気に満ちていた。

 ところ80年代に入ると、第8大学はパリの郊外サン・ドニに移転させられてしまった。この地域は、2005年ぐらいに郊外の若者たちが暴動を起こしたという言い方で報道された(サン・ドニ県クリシー・ス・ボワ)。

 自由で始まった大学ですから、反権力・反アカデミニズムでいろんな人たちと結びついていた。当局は、それを嫌がって郊外に移転させた。



 1990年代に入ってから、サパティスタの闘い、世界社会フォーラムの実現、マルクスの国際的研究会議も実現した。ある種の社会的見直しが始まった。ジャーナリズムも批評を武器にして発言していくべきだという状況が生まれた。

 しかし第8大学は、「普通化」してしまった。本来あった批判的勢力としての第8は、制度面でも他の大学と変わらなくなってしまった ベンサイドは、その現象を「くそったれ」と言っていた。これは第8だけではなく、教育制度が日本とまったく同じで、民営化、市場原理が入ってくるなかで進行していった。学長の権限も集中させ、教授会の意見を聞こうとしない。  第8大学の「普通化」について紹介しておこう。他の大学と違って、少しは政治的な人たちがくる。パレスチナ問題なんかを積極的に取り組んでいるグループが世界からパレスチナ研究者を集めて講義を開こうとした。そのタイトルは、「イスラエルはアパルトヘイト国家か」というものだった。イスラエル・ボイコットを呼びかけた。



 この企画に大学は、最初、OKを出していたが、経済的支援もすると言っていたにもかかわらず、シオニストの圧力によって直前に、学長判断で中止させられた。これは不当だということで、学生たちは行政裁判所に訴えた。だが却下されてしまった。学長の判断は秩序をまもるために正当だとした。つまり大学でパレスチナ研究をするなということだ。パリの第8大学でこういう状況になってしまった。

 とはいえ日本と違うのは、私が行ったときは、年間学費は1万ちょっとだった。今でも安いはずだ。そういうところはフランス革命をはじめいろんな革命を経て獲得してきた価値、教育をあらゆる人に平等に開かれたものであるという理念は続いている。だから奨学金、安い学生寮も存在している。