20120305

毎春の政治ショーと揶揄される中国の全国人民代表大会が、この一年の総括と向こう一年の政治方針が記された政治報告を了承して3月14日に閉幕した。党指導部トップの交代が行われる18回党大会を半年後に控えた全人代だけに国内外から注目された。

閉幕の翌日3月15日、中国内外に大きなニュースが伝えられた。秋の党大会で党指導部トップの政治局常任委員会入りに注目が集まっていた重慶市書記の薄煕来がその職を解任されたというニュースだ。

薄煕来は重慶市のトップである書記に就任していらい、汚職撲滅・都市開発・就業支援・革命歌唱和などを特徴とする「重慶モデル」を実践し注目を集めてきた。しかし薄煕来の腹心で「重慶モデル」の功臣とみられていた副市長の王立軍が、全人代の開幕直前の2月初め、アメリカ大使館に逃亡し、その後身柄を中国政府に拘束された。ボスである薄煕来からスケープゴートとして切り捨てられることに抗議したものとみられる。

参考:重慶モデルの破たん (2012年2月9日)

薄煕来に対してはその後、目立った処分もなく、北京で開かれた全人代に重慶市のトップとして参加し、記者からの質問にも「解任されるというのは根も葉もないうわさだ」と答えていた。

温家宝首相は全人代閉幕後の14日に記者会見を行った。重慶市の王立軍副市長の米国総領事館駆け込み騒動についての質問に次のように答えていた。「重慶市の政府と住民はこれまで改革に多大な努力を払い、目覚しい成果を収めてきた。しかし現在の党委員会と政府は今回の一件からしっかりと教訓をくみ取り、反省する必要がある。」

そして3月15日の薄煕来の更迭のニュースである。その背景には党内部の派閥闘争があることは間違いない。薄煕来は失脚した。だが「重慶モデル」は「目覚ましい成果を収めてきた」と評価されたままである。だがこの「重慶モデル」は、中国政府がすすめてきた国有企業の民営化や都市開発に伴う農地収用などによって労働者農民の既得権を徹底してたたきつぶした荒廃地のうえに打ち立てられた中国の特色ある資本主義のモデルの一つに他ならない。

去年、そして今年の全人代では黄奇帆市長は「この三年、土地収用を理由とした陳情が行われたことはない」と平然と言い放っている。だが昨年の全人代閉幕直後の4月1日には重慶の失地農民(土地収用などで農地を失った農民)ら1000人が黄奇帆・重慶市長の罷免要求を重慶市人民代表大会事務局に提出している。2010年1月には中央政府に陳情をおこなった失地農民が重慶市公安当局にひどい暴力的弾圧されるというニュースも伝えられている。

農民だけではない。1990年代末から2000年代にかけて中国全土で国有企業の改革と称する民営化が進められ、無数の労働者が街頭に投げ出された。なかでも重慶は重点的に攻撃を受けた地区と言われている。2000年代中頃からいくつもの闘争が伝えられている。04年には重慶3403工廠の労働者三千人が民営化反対の決議を上げた闘争をはじめ、05年には重慶嘉陵化工廠、重慶特殊鋼鉄工廠における反民営化闘争が伝えられている。

09年には重慶嘉陵グループのストライキ、重慶渝運グループの陳情闘争、10年には重慶〓江での過労死を発端にしたストライキ闘争などが伝えられている。(〓は基の字の「土」が「糸」)だがそのほとんどで闘争は厳しい状況を逆転させることができなかった。

こうして農民を農地から引き剥がし、労働者を工場から叩き出した跡地を利用して進められたのが「重慶モデル」の目玉といわれる廉価な公共住宅の建設である。2週間にわたる全人代の会期中、北京だけでなく全国各地で治安維持のためにありとあらゆる暴力装置が動員され、官僚と資本家の独裁に抗する民衆の抗議の声を封じ込めようとした。

しかし暴政に抗う民衆の怒りを押しとどめる続けることはできない。温家宝首相の記者会見での「重慶市…の党委員会と政府は…反省する必要がある」発言および薄煕来の更迭は、単に党内派閥闘争を反映しているだけでなく、官僚的に歪曲された形であるにしても農民の、労働者の怒りを反映したものである。

「重慶モデル」に社会主義の幻想を抱き「北京コンセンサス」に行き詰まる資本主義のオルタナティブを重ね合わせてきた一部の知識人の夢は儚くもはじけた。そこに現れた現実は、グローバル資本主義と独裁体制の業火に抗う階級闘争の地平である。その地平は国境を越えてグローバルにつながっている。(H)