1023 一〇月二三日、東京・上野公園野外ステージ(旧・上野水上音楽堂)で「子どもたちを原発と放射能から守ろう! 10・23歌とお話とデモ」が開催された。主催は原発とめよう!東京ネットワーク。参加・協力団体は再処理とめたい!首都圏市民のつどい。二〇〇人が集まった。

一九六三年一〇月二六日、茨城県東海村の日本原子力研究所の動力試験炉で初めて発電が行われた。その七年前の一九五六年一〇月二六日は、日本が国際原子力機関(IAEA)に加盟した日でもある。この日は「原子力の日」とされ、子どもたちに原発などをテーマにしてポスターなどを書かせてきた。これに対して首都圏の反原発市民運動は「原子力の日」前後を毎年「反原子力の日」として集会・デモを積み重ねてきた。今年は、福島第一原発事故によって大地・海・空にまき散らされ続けている放射能から子どもたちの生命と健康を守ることをメインテーマとして集会・デモが準備された。

日本消費者連盟の富山洋子さんが司会をつとめた集会は制服向上委員会、生田卍さんの歌から始まった。続いて「プトニウムなんていらないよ!東京」の高木章二さんが主催者あいさつ。高木さんは「今年はさすがに子どもたちに原子力のポスターを書かせることができなくなった」と紹介し「柏崎刈羽原発五号機の取り換え用核燃料の輸送が一〇月一七日に行われた。柏崎刈羽原発は今までも激しい地震に見舞われており、今日にも大事故の危険に見舞われる可能性がある。福島の悲惨な状況を共有し、子どもたちを助けるためにはどうしたらいいかをともに考えよう」と訴えた。



続いて「お話」が佐藤幸子さん(子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク)と武本和幸さん(柏崎刈羽原発反対同盟)から行われた。

川俣町の住民の佐藤さんは「不幸せを数えたら一晩でも足りない。そいう思いを抱いてお母さんたちは福島にとどまっている。きちんとした情報さえあればこんなことにはならなかった」として次のように語った。

「政府・東電が数値を明らかにしなかったのはパニックを起こさせないという意図によるものだろうがパニックは実際に起きてしまった。それは国の責任だ。避難した人はたくさんいる。しかし『大丈夫』という宣伝の中で避難を隣の人に言うことさえためらわれた。地域の中で助け合いながら生きてきた人がバラバラにされた」。

「私たちがしっかり作った桃や梨を買いに来る人はほとんどいない。いま除染が宣伝されているが福島市の中で線量が高い渡利地区で除染が行われているが台風が来ればすぐに線量が上がってしまう。南相馬市に週末ごとに除染に来てくれる東大の児玉教授は、四割も下がればいい方だと語っていた。それでも政府や県は子どもたちを避難させることなく除染だけをやろうとしている。除染させてくれとは言うが避難させない」。

「チェルノブイリの子どもたちは毎年保養に行かなければならないほど体力が弱っている。福島の人はここにいれば大丈夫と思いたいのだ。そういう中で子どもたちをどう守っていくかが問われている。行政の側は避難は自由だがカネは出さないという方針だ。飯舘町でも県外避難にはカネを出そうとしない。行政は子どもの命を守ろうとしていない」。



武本さんは「柏崎刈羽原発は七機合計で八二一万kwという世界一の発電能力を持つが二〇〇七年七月一六日の中越大地震で重大な損傷を受けた。三・一一の段階で四機が運転していたが来年四月で止まることになる」と語った。

「これまで電力消費が増える、石油も切れる、原発は安くて安全という宣伝で原発の増設が進められた。しかし二〇〇一年夏の最大電力消費六四三〇万kwを超える消費は、その後記録されていない。電力消費は減少しており、これ以上は増えない。もはや原発なしでもやっていける時代になった。今回の大地震・津波で東北の沿海部にある火力発電所も全滅した。しかし東電は十分な余裕があり、この夏も需要が五〇〇〇万kwを超えることなく東北電力に融通しているほどだ」。

「経済効率を考えれば原発はもはや過去の遺産だ」と述べた武本さんは「原発は立地町村だけの問題ではない。今や三・一一を日本の歴史をリセットする契機とするべきだ。格差のない質素な社会をめざそう」と武本さんは訴えた。

「すべての原発を廃炉に 刈羽村生命を守る女性の会」の高桑千恵さんからのメッセージが紹介された後、集会宣言を採択して上野の街をぐるりと回るデモを行った。

(K)