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ブザンスノーを引きつぐ者は「労働者である候補者」


ダニエル・マンヴィエル


 5月28日の『リベラシオン』紙の「フィリップ・プトゥー 機械を再起動するための労働者」と題する、プトゥーについて書かれた記事の最後にはブトゥー自身の労働者代表の候補者ではなく、労働者である候補者だ」という彼自身の言葉で締めくくられている。同紙の別の記事には、こう書かれてあった。「問題の機械、それはNPA(反資本主義新党)である。この党は、週末に開催された全国協議会で『あらたな亀裂』を見せた、これは、おそらく、『活動家の資産』をすべて『浪費してしまった』NPAの二年間の過程の結果として『最後の亀裂』であろう。孤立を強いられていた社会運動とその政治的出口との仲介をその当時約束するであろうとされ、多くの人がその結成に託した希望をNPAはこの二年間の過程で無にしてしまった……」。

 同紙は、わが党を今日分岐させている民主的討論によって引き起こされた緊張を強調することに満足を見出したのであった。しかし、真の危機はNPAの内部にあるのではなくて、社会全体を揺り動かしている危機なのである。そして、この危機に直面して、活動家たちは、行動における党の統一を活性化させ、われわれを統一させている思想と綱領を掲げたいと望んでいる。フィリップは、この展望を具体的で信頼できるものとしてくれる。「労働者である候補者」として、彼は、下から、搾取され抑圧された人々に訴え、元気を取り戻し、自らの権利のために闘う必要に応える。この必要性は、オリビエ・ブザンスノーが来るべき大統領選に立候補しない選択を表明した手紙の中で語った点である。今まさに引継ぎはなされた。プトゥー自身が今回の出馬表明で仕事仲間から受けた最初の反応は、皆んな彼の言いたいことは分かったと口々に語ってくれたことであった。

 今回の立候補は、フィリップをよく知る人々にとっては意外なものではない。彼は、青年時代の最初から全生涯にわたってずっと活動家であり、社会の不正義に反対し、もう一つの人間関係、もうひとつの社会を目指す希望を抱いて決起してきた。庶民の家庭出身であり、父親は郵便労働者であったが、今では定年退職している。彼は、ボルドーの「労働者の闘争派」に加盟する前は、アナーキストを自称し、17歳の時から仲間とともに活動を始めた。その彼は、1997年3月に、ボルドーとルーアンの「労働者の闘争派」のほぼすべての活動家とともにこの派から除名される。その当時、「労働者の闘争派」指導部は、そのスポークス・パーソンのアルレット・ラギエが出した一連のアピールを通じて、新しい労働者党の建設を追求するとしていたからである。

 だが、「労働者の闘争派」指導部は、革命勢力派の建設、「労働者の闘争派」とLCRの統一という展望からすぐに後退して自分自身の中に閉じ込もってしまった。プトゥーとその仲間たちはこのアピールを真剣に受け取った。彼はこの時に、この統一の建設に参加し、この政策を追求する「労働者の声」グループの政治生活に参加した。2001年7月、「労働者の声」派とLCRの合同が実現された。その後、フィリップはNPA建設に参加し、新党のジロンド県の指導的メンバーとなった。

 フィリップの政治生活は、最初から社会的闘争と結びついていた。辛い臨時職の数年間を経て、彼は1996年にボルドー近郊、ブランクフォールにあるフォード工場に雇われた。そこで、自らの政治的闘いを否定することなく積極的な組合活動家となった。彼にとっては、社会的活動と政治的活動は密接不可分なのである。彼は、LCRの、その後はNPAのさまざまな選挙での候補者となり、とりわけ先の地域圏選挙ではアキテンヌ地域圏での共同候補者リストのトップに名を連ねた。それと並行して、彼はCGT(労働総同盟)フォード工場支部の書記として、この数年来この工場の労働者による工場閉鎖反対闘争のために活動し、そのためのさまざまなイニシアチブを発揮し、この闘争の永続的な結びつきを作り出して成功させ、他の労働者や他の左翼政治勢力や地区の団体の支持を取り付ける活動を展開してきた。

 そのとおりだ。フィリップは労働者である候補者であり、「社会運動の候補者」であり、政治を実践する労働者である。日常のそれぞれの闘いの機会と同様に、彼は、支配階級によって引き起こされた危機と対決し、もうひとつの展望を掲げるために、再度、われわれの党の内部はもちろんだが、それだけにとどまらずより広範な労働界の勢力や青年の勢力を結集することに貢献できると考えている。 『トゥテタヌー』(109号、2011年6月30日)