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1989年春 天安門広場前の労働者の応援部隊 


6月4日、「北京の春」と呼ばれた巨大な民主化運動に対する血の弾圧である「六・四 天安門事件」から22年目を迎える。中国では、自由主義派知識人や人権弁護士、芸術家やジャーナリストなど、民主化を求める人々への弾圧はさらに厳しさを増している。チベット、ウィグル、そして内モンゴルなど民族自治区域でも民族の尊厳や自治を求める動きに対する厳しい弾圧が行われている。22年前の「北京の春」に対する名誉回復を求める動きは中国内外でも活発であり、5月29日には香港で2000人が民主化を要求するデモに参加し、6月4日には大きな集会が行われる。

 

「1989年 北京の春」については学生や知識人の運動であるかのような紹介も見られる。しかし民主化運動の高揚とともに労働者民主主義を求める労働者の全国的な組織化の萌芽が見られたこと、そして「天安門事件」後には、労働者がもっとも厳しい弾圧を受けたことは、記憶されておくべきだろう。労働者に対する徹底した弾圧があってはじめて、「天安門事件」後の20年に及ぶ資本主義化政策を強力に推し進めることができたのである。


以下に紹介するのは、香港を拠点にして中国労働者の動きを伝える「労工世界網」が昨年出版した「現代中国労働者の民主化闘争 1989~2009」というパンフレットからの抜粋である。同パンフレットは「北京の春」における労働者の闘争と、「天安門事件」後に進められた国有企業改革における労働者の抵抗を紹介している。

 


『現代中国労働者の民主化闘争 1989~2009』

 區龍宇、白瑞雪 共著 労工世界網

・まえがき

・社会の「主人」から被雇用者への没落

・一九八九年の社会的状況★

・民主化運動に参加した労働者階級★

・反民営化闘争

・官製労組を労働者のための労組に変えた:鄭州製紙工場労働者の闘い(2000年)

・工場を跨いだ連合:遼陽鉄合金工場労働者の闘い(2002年)

・独立した組織を:大慶油田の闘い(2002年)

・社会主義思想は死なず:重慶3043工場労働者の闘い(2004年)

・国有企業の労働者は減少したが、潜在力は依然として強力である

・農民工たちの抵抗

・結び

今回紹介するのは★印の二章。小見出しは適宜、訳者が入れた。(H)

 




◎ 一九八九年の民主化運動にむかう社会・経済的状況


一九七九年の鄧小平復活が労働者の運命の転換点である。この時以降、市場改革とは労働者と民衆の犠牲と引き換えにした官僚と私的資本の台頭を意味した。この時期は、鄧小平が中国共産党の社会的基盤を、労働者農民による暗黙の支持から、新興ブルジョアジーからの支持を取り付けることに転換した時期でもある。この転換は、憲法に規定されていたストライキ権を一九八二年に削除しただけでなく、憲法を漸次的に改定し、私的企業とその私有財産に対する保障をつくりあげていったことでも明らかである。鄧小平は一九八七年にアフリカの代表団に対して「社会主義の建設はやめたほうがいい。国民経済の建設に精力を集中することをお勧めする」(原注1)と発言している。

ともかく、その頃までには、中国共産党の階級政策は、資本を抑制し、集団所有制および国有の企業を支援するというものから、資本を支援し、労働者に打撃を与えるものに変わった。そしてこの政策の全体の結果が官僚資本主義の復活である。この点については、鄧小平は中国が香港に学ぶことに力を注いだことからも見て取れる。しかし香港から学んだことはビジネステクニックのみであって、公民権の自由の尊重については学ぼうとはしなかった。

改革開放政策のさまざまな具体的な措置は、客観的に前述の〔親資本主義の〕総路線に合致していた。企業の経営不振の責任を、企業幹部にではなく労働者に押し付けた。企業改革についても管理者への奨励に重点を置き、経営の全権を管理職にゆだねた。そして労働強化、収入格差の拡大、有期契約雇用の導入、賃金引下げなど、労働者攻撃の政策を実施した。これは労働者の不満を引き起こした。一九八九年の民主化運動の最中に誕生した工人自治連合会準備委員のある委員は次のように語っている。

「改革開放によって、大部分の企業で経営者請負制が実施された。・・・・・・ここ数年間の賃金政策や賃金調整で、労働者の賞与がなくなり、賃金や福利厚生面で従来は幹部とは余り変わらなかった保障部分が削られた。つまり、幹部は福利厚生、医療などの面で保障があるが、労働者は副食品に対する補助以外は、幹部や知識分子との間で一定の格差が生じることになった。・・・・・・物価の高騰によって多くの労働者の収入が支出に追いつかない状況を生み出した。それに加えて、社会的不正が横行し、都市部では労働者が最も地位の低い階層となった。こうしたことから、かれらの不満と不平は広く共有化されていた。こういった状況が民主化運動の数年前からすでに広範に存在していた。」(原注2)

また八〇年代後期の物価改革によって明らかにされた官僚の腐敗は、極めて強烈な民衆の反感を引き起こした。物価改革によっていわゆる二重価格制(労働者農民が生産した物資に「計画定価」と「市場定価」がつけられた)が出現し、役人は「官僚ブローカー」としてもうけるチャンスがあった。つまり、供給不足の物資を安い「計画定価」で購入し、それより高い「市場定価」で売却して、利ざやを稼ぐことができたのである。また、およそ全ての政府部門で、さまざまな企業を設立し商売をしていた。総じて、この時期に官僚階層は資本家に転身したのである。一方、労働者人民はインフレや生活苦に耐え忍んでいた。このような民衆の憤りと恨みが、一九八九年に学生によって始められた反腐敗運動への積極的参加を促したのである。

◎ 民主化運動に響く労働者階級の声

「北京の民主化運動は全国を揺るがしただけでなく全世界を震撼させた。大きな抑圧を感じたり、犠牲となった戦士と無辜の民のために悲痛な悲しみを感じるだけでなく、中華民族が再び立ち上がったと実感した。」(原注3)

この記述は、民主化運動を支持していた中華全国総工会のメンバーによる天安門事件後の記述である。これは民主化運動の潜在力の証明である。この民主化運動における重要な意義のひとつは、中国共産党政権が労働者階級の利益を代表するという主張に対して挑戦したことであり、その合法性と権威を現実的に否定したことにある。このような挑戦は、幾千幾万の労働者の参加によって可能となった。

普通は、この民主化運動を学生運動としてとらえがちであり、労働者が民主化運動の中期から多数参加し、後期には自治組織を発展させたという重要な事実については忘れられている。だが実際には、このような新たな発展があったからこそ、中国共産党は警戒を強め、そして六月四日の弾圧を決定したのである。労働運動は敗北を喫し、中国の労働者階級はその後に分散と意気消沈の状態に陥り、中国共産党が1992年から全国規模で推進した国有企業の民営化という資本主義の大躍進の推進に対して全国的に抵抗することができなかった。その結果、六千万人の国有企業および集団所有制企業の労働者がレイオフされた。その一方で、資本主義の大躍進によって多数の内外の私的資本による搾取工場への投資を受け入れ、一億五千万人の農民が低賃金労働者になった。

民主化運動は一九八九年四月の中頃に幕を開けた。四月十五日に〔政治改革を進めたことで失脚したが、庶民の人気は高かった〕胡耀邦が死去した。北京の学生は反腐敗、反官僚、民主化実現の示威行動を展開した。多数の労働者が自発的に天安門広場の学生の演説を聞きに行き、次々に学生に対する支持を表明しようとした。ある労働者は、なぜ民主化運動に参加したのかという質問に対して「学生たちの反官僚主義の主張が、自分たちの気持ちを代弁してくれていたからだ」と答えている(原注4)。四月十九日に座り込みを続ける学生たちに対して警察が暴力をふるったことに対しても、多くの労働者が義憤で胸がいっぱいになった。

しばらくして労働者は学生らの議論に参加した。壁新聞(大字報)、ビラ、演説などを通じて、民主化運動に労働者階級の息吹が注入され始めた。学生の多数は市民的自由、とりわけ言論の自由、腐敗の禁止、政府との対話、胡耀邦に対する公平な評価にのみ関心を寄せていた。しかし四月十八日には早くも労働者は学生に対して公開書簡を発表していた。

「諸君らは多数の労働者、農民、兵士、個人商らの支持を勝ち取らなければならない。ではどうすれば彼らの支持を勝ち取ることができるのか。知識分子の待遇と教育費の増大のみを強調するような空虚な民主主義のスローガンのみを主張するのはやめた方がいい。なぜならそれは学生と労働者農民との団結に不利に影響するからである。労働者、農民、兵士に対しては、いわゆる『全民所有制』が実際にはすでに少数の特権階層の所有制になりかわっていることを宣伝すべきである。多数の労働者農民が作り出した富を少数の特権階層が享受している。彼らは労働者が『国家の主人だ』と言う。しかしその『主人』といえば、狭い部屋に何世代もが同居して汲々と暮らしている。彼らは自分たちのことを『公僕だ』と言う。だが(この『公僕』は)到る所で別荘を建てている。封建時代の君主とどんな違いがあるというのか。」(原注5)

当時の知識人は、労働者の利益に関心を払わないことが普通だった。逆に「企業家階層」が民主化の旗手となることに期待を寄せていた。だから労働者の利益を民主化運動の綱領に組み入れ、労働者と学生の連合を提起する意見はほとんど見られなかった。当時、唯一このような呼びかけを行った知識人は任〔田宛〕町だけである。

「八六年の学生運動では、民主化、人権、自由の空虚なスローガンのみで、具体的な行動綱領と長期的な闘争目標に欠けていた。インフレーションに反対し、物価引き下げと賃金引き上げという人民の要求を代表しておらず、それゆえ支持を失った。八六年の学生運動は自らの論理的総括を行わなければならない。幾千万の産業労働者が自らの民主的権利を意識し、他人からの恩寵に頼るのではなく、自らの努力に依拠し、十分に情勢を掌握する時になってはじめて中国における生産力の飛躍と民主化の事業の現実化に接近することができるのである。……労働者のきょうだい諸君、諸君ら自身の団体を合法的に組織せよ!学生と労働者の団結万歳!」(原注6)

◎ 北京工人自治連合会の登場

四月十七日、劉強(印刷労働者)、韓東方(鉄道労働者)、賀利利(北京工人大学講師)らを含む数名の労働者が、北京工人自治連合会(以下、北京工自連)準備会の結成を呼びかけた。それは学生運動を防衛するためだけでなく、自分たちの意見を表明することを欲したからでもある。かれらは演説のなかで、学生に対する政府の攻撃を批判し、労働者の組織化を呼びかけた。彼らは工場や炭鉱に赴き、労働者たちに自分たちの綱領を宣伝し、工自連への加入を勧めた。工自連の訴えには、賃金引上げ、価格の安定、政府役人およびその家族の収入と資産の公開などが含まれていた。

 

工自連準備委員会は、労働者組織として位置づけ、労働者の加入のみを認めていた。当時、工自連の供給班の責任者だった梁洪はつぎのように語っている。「われわれは労働者しか参加を認めない。身分証明書と就業証明書を確認したうえで、われわれの証明書を発給することで工自連の純潔性を保障する」。会員は会費を負担し、憲法と組織規約の遵守、労働者階級全体の利益に奉仕しなければならない。言い換えれば、労働者階級に奉仕することを目的とした遵法組織ということである。


四月二十六日、人民日報の社説が民主化運動を「動乱」と規定したことで、学生と北京市民の怒りを引き起こした。翌日には二十万人の学生がデモ行進を行い、百万の北京市民が街頭で学生に声援を送った。五月十三日、学生はハンガーストライキを決定した。多数の労働者が闘争の隊列に加わった。五月十五日には六十万人が街頭で抗議行動を行い、翌日には二十万人の学生と労働者がデモを行った。五月十七日から十九日までに合わせて百万人がデモに参加して学生を支援した。労働者の隊列はそれぞれ自分たちの職場の名前の書かれた横断幕を持っていた。二百人の隊列で参加した首都鋼鉄の労働者たちの横断幕には、「学生を支持する」「なぜ総理は学生に答えないのか」等と書かれていた。東風テレビ工場の労働者の横断幕には「官僚ブローカーを引きずりおろすまで、テレビは生産しない!」と書かれていた。この労働者はメディアのインタビューに対して、テレビを生産しても利益は「太子党」(官僚の子弟らを指す)のポケットに入るだけだ、と答えていた。それ以外にも「李鵬打倒」「鄧小平打倒」「学生は餓えているのに、なぜ君たちとその子弟らはたらふく食べているのだ?」などのスローガンが掲げられていた。 


◎ 総工会からも民主化支持の声が上がる

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人民日報記者も民主化デモに参加

多くの労働者が、中華全国総工会は共産党のコントロール下にあり、労働者を代表することはできないことを知っていた。ある工自連のメンバーは、総工会の唯一の活動は映画のチケットを配給することだったと述べている。だから労働者は独立した労働者団体を結成して権利を守ろうとした。これは一九四九年以来はじめての事であった。一方、民主化運動の盛り上がりは、総工会内部にも影響を与えた。学生運動に対して一万元のカンパをおこない、総工会の幹部たちがデモに参加し、学生との連帯を表明したのである。「一部の総工会幹部、現場幹部および労働運動学院の教員学生」と署名された嘆願書は政府に対して以下のことを要求した。

 

1、学生運動を愛国民主化運動として肯定し、早急に学生および社会各界と真摯に対話を行うこと

2、報道、出版、結社の自由を保障し、公民の知る権利、監督権、政治参加の権利を保障すること

3、腐敗、汚職官僚を処罰し、政治体制改革を推進すること

4、官製労組を改造し、労働組合の自治と立法権を実現し、労働組合は労働者大衆のために発言し活動すること(原注7)

 
労働者大衆の急進化が徐々に進むにつれ、官僚による労働者搾取の問題についても提起され始めた。北京工自連は五月十七日に全国に向けた公開状で、党官僚による労働者搾取について疑義を提起した。

 
「われわれは労働者に対する搾取台帳を真剣に検討した。検討はマルクスの『資本論』に書かれていた分析によって行われた。すべての生産額から労働者の賃金、福利厚生費用、医療及び必要な社会的蓄積、減価償却、拡大再生産に必要な費用を差し引いたところ、驚くべき事実を発見した。『人民の公僕』たちは、人民の血と汗によって創造された全ての剰余価値を横領していたのである!」(原注8) 


五月中ごろ、北京工自連が発した別の公開状では次のように明確に指摘していた。


「人民こそが多数であり、独裁者のほうが『一握りの集団』なのである。もしわれわれ労働者が立ち上がり一歩前へ前進すれば、それによって舞い上がった土煙だけで独裁者を地獄に突き落とすことができるだろう!われわれは同胞に呼びかける。清廉な中国共産党を導き手とし、中国労働者階級を主体とし、内外の愛国人士を『中核』勢力とする体制を組織せよ。」(原注9)

◎ 全国各地で労働者組織が結成される 


五月、工自連は何度も会議を招集し、国家の生産力、輸出収入の増加、労働者の福利厚生、人権、民主主義と自由などについて議論した。数週間で組織は次第に拡大し、一〇〇人の中心的活動家と二千人の組合員を有する組織に発展した。終盤では一万人にまで拡大した。学生がハンストに突入してからは、工自連は医薬品、食料、水などを北京市大学連盟に提供した。また学生を支援するデモも組織した。 


民主化運動が発展するにつれ、さらに多くの労働者が参加した。ある女性労働者は天安門事件後のインタビューで、天安門広場での学生の演説を何度か聞くうちに啓発され五月十六日のデモに参加した、と自らの参加の経緯を振り返っている。なぜ首都鋼鉄の労働者の呼びかけに応えてデモに参加したのかという問いには、呼びかけたのが労働者だったので「労働者の本音を発することができる」からだと答えた。それ以降彼女は何度もデモに参加した。五月十九日の夜、政府が戒厳令を実施すると聞いたときは、友人と天安門広場に留まり、民衆と一緒に学生を支援した。「みんなが天安門広場に残れば学生だけよりもずっと人民の力は強くなり、天安門広場を守り通すことができる」。五月二十六日、学生のハンストを支援する工自連を初めて目にした彼女はすぐに参加した。その後、彼女は六月四日の弾圧までのあいだずっと天安門広場で情報を伝える放送を担当した。 


労働者が民主化運動に参加したのは北京だけではなかった。上海、広州、杭州、南京、西安、長沙などの大都市においても、労働者による大規模なデモへの参加が前後して見られた。幾つもの都市で工人自治連合会が立て続けに出現したが、それらはすべて自発的に組織されたものであり、全国的な組織化を想定したものではなかった。元工自連のメンバーによると、広州では地元メディアや香港のテレビ放送やボイス・オブ・アメリカを通じて学生の行動を知ったのち、労働者による支援グループを立ち上げ北京の学生を支援し、夜間外出取り締まり令に抵抗したという。政府による戒厳令は市民を憤慨させ、市民らの自発的な街頭抗議行動を呼び起こした。これらの事態も工自連の結成に影響を与えた。あるアクティビストは次のように振り返っている。

 


「われわれの目標は、労働者の利益と国家のために民主主義を提唱することであり、宣伝のたぐいを行うことである。なぜなら当時、社会的に共産党と対話あるいは意見の提起ができる政治団体は存在しなかったことから、こういった組織を結成し、一党独裁に反対し、各課題について異なった意見を提起しようとした。もし全国各地でこのような組織が結成されるのであれば、時が来れば、各地の組織を一つに結合することで大きな政治勢力となり、それによって独裁や専制といった制度を打破することができると考えた。」(原注10)

 

◎ 労働者と学生のすれ違い


五月十九日、北京工自連が正式に発足し、中国共産党政治局に対して、二十四時間以内に学生たちの要求を受け入れること、さもなくば一日のストライキを実施することを通告した。政治局は学生の要求を受け入れず、戒厳令を実施して軍隊と戦車を市内に配備する命令を下した。こうして北京は革命的危機の状態に瀕した。その後の数日間、百万人を上回る民衆が街頭で戒厳令に抗議した。工自連は決死隊を結成して戦車と軍隊の北京進入を阻止するよう組合員に呼びかけた。

 

中国共産党と民主化運動との矛盾の激化によって、労働者と工自連は急速に政治化していく。五月二十一日、工自連は「労働者宣言」を発表した。

 

「労働者階級はもっとも進歩的な階級である。われわれは民主化運動において中心的な勢力を体現しなければならない。中華人民共和国は労働者階級が指導するのであり、われわれには一切の独裁者を一掃する権利がある。労働者は生産における知識と技術の有効性を最もよく理解している。それゆえ、われわれは全人民によって育て上げられた学生たちが踏みにじられることを絶対に受け入れることはできない。」(原注11)


労働者はさらに急進化した。しかし、学生は労働者の介入によって学生運動の純潔性が損なわれるのではないかという警戒心を常に持っていた。四月十七日、工自連準備会を結成した際、天安門広場を占拠していた学生たちに広場の警備を申し出たが、拒否されたうえに疑いの眼で見られた。五月十九日、工自連がストライキで圧力をかけようとした際、北京大学生自治連合会は声明でストライキを回避するよう呼びかけた。五月下旬、政府による暴力がレベルアップしたときになって初めて学生は工自連を天安門広場内で活動することを認めた。学生は弾圧を恐れるようになってやっと考えを変更し、工自連と協調行動をとるようになった。しかし学生は最後まで協調に積極的ではなかったことから、この二つの社会集団が安定した同盟を作り上げることはなかった。


◎ ゼネストをおそれた共産党

(5月20日に)戒厳令が敷かれた後、工自連はストライキについて討論したが、内部からも反対意見がでた。また、首都鋼鉄の労働者が別に工人自治連合会を結成し、軍隊が学生に発砲したらストライキに突入するという情報も流れた。しかし結局のところ、ストライキの提案はあったが、最後まで実現することはなかった。個別のストライキは見られたが、それらも計画的なものではなかった。しかし、多くの工場が生産を停止したり、大きく生産量を落としていた。多くの労働者がデモ行進に参加し、工場に残った労働者も興味津々でこれらの事態について討論をしていたからだ。政府は労働者がデモに参加するのを阻止しようとしたが効果はなかった。五月下旬になって、北京市政府はデモに参加した労働者の賃金をカットするよう企業に指示したことで、その期間のデモ参加者は一時的に減少した。

五月十九日、中国共産党中央委員会総書記の趙紫陽が辞職を申し出て以降(それは党から拒否された)、鄧小平と李鵬首相を中心とする強硬派は五月下旬に民主化運動を弾圧する準備を進めていた。六月三日、北京総工会は工自連が反革命組織であると非難する声明を発表し、政府に取締りを呼びかけた。同日、工自連は翌日にストライキに突入するよう首都の労働者に呼びかけた。しかしそのときすでに軍隊が市街地に展開し始めていた。無数の労働者と学生が肉弾戦で十万の人民解放軍の北京進駐に抵抗した。共産党が虐殺を命じた理由は、労働者と学生が団結することを恐れたからであり、そして何よりも労働者によるゼネラルストライキによって状況の統制が不可能になることを恐れたからであった。

◎ 血の弾圧の教訓

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天安門広場から連行される学生、労働者

六月四日、流血の弾圧が一切の抵抗を終わらせた。その後、労働者は学生よりもさらに厳しい弾圧にさらされる。学生たちは禁固刑を受けたが、六月の間に少なくとも二十七人の労働者が死刑に処された。そのうち十四人は工自連のメンバーであった。その後、共産党は党・政府機関の幹部や総工会などの「大衆組織」も対象とした異論派の全国的弾圧に乗り出した。

民主化運動が敗北に終わった主要な原因は、政府がこのような残虐な弾圧を行うことをだれも予想していなかったからである。労働者はしばらく後になってから組織化の重要性に気が付いたが、時すでに遅しであった。八九年の民主化運動は未成熟の運動であった。学生も労働者も経験を欠いていた。とはいえ、社会に対する労働者の訴えは、やはり中国共産党に脅威を与えた。労働者階級の代表を自称する共産党政権にとって、労働者からの抗議は、自らの正当性を危機に晒すからである。労働者たちは、共産党が自分たちの代表ではなく自分たちを抑圧するものであると意識し始めた。当時の労働者たちの政治的主張は、後に中国共産党の言うような「反革命動乱」を通じて資本主義を復活しようとするものではなかった。逆にこの運動は、少なくとも当時の工自連によれば、国有資産を保護するとともに、官僚分子を追放しようとするものであった。

「この国家は、われわれとすべての頭脳・肉体労働者の奮闘と労働によって作り上げられたものであり、われわれはこの国家のまごうかたなき主人であり、国の政策については、われわれの声を聞くことが当然であり、またそうしなければならないのである。プロレタリア独裁を、プロレタリアに対する独裁にすることは絶対に認めることはできない!一握りの民族と階級に対する裏切り者が、われわれ労働者の名を騙って学生を弾圧し、民主主義を圧殺し、人権を踏みにじった!・・・・・・社会主義改革の大業のため、民主愛国運動のため、スターリン主義を一掃するであろう後の世代のために、・・・・・・われわれは海外の華僑同胞に対して、中国人民の民主愛国運動を支援することを緊急に呼びかける・・・・・・」(『海外同胞に告げる書』五月二十六日)(原注12)

一九八九年以降、これに類似するような労働者の政治運動は登場していない。個別の工自連メンバー(および主要な学生運動の指導者)は、中国から亡命したのち、社会主義に幻滅し資本主義を擁護している。そして、中国共産党は、抵抗する労働者たちに対して反社会主義と反革命というレッテルを貼り、自らはグローバル資本主義と融合する道へと歩みを進め、中国を巨大な超搾取工場に作り変えてしまった。これは何たる皮肉だろうか!そしてこの残酷な弾圧は、その後のさまざまな闘争に対する弾圧の「モデル」となった。二〇〇二年、大慶油田の労働者の抗議に対して、政府当局は装甲車を出動させ、天安門事件での弾圧を想起させる威嚇をおこない労働者を屈服させた。 

天安門事件後の二十年は、中国労働者のおかれた状況はいっそう厳しく、まるで奴隷のように酷使される状態に置かれた。民主化運動の敗北によって、中国共産党は国有企業の民営化をさらに加速することができた。九〇年代末からの数年の間に、多くの地域で国有企業労働者による反民営化闘争が登場した。

 

原注

1 香港紙「明報」2008年10月14日に掲載された元国家新聞出版署署長・杜導正へのインタビュー。

2 『工人起来了――工人自治聯合会運動1989年』香港工会教育中心、1990年、72頁

3 同上、110頁

4 同上、23頁

5 『中国民主化運動原資料精選』第一集、1989年6月、十月評論社、33頁

6 『工人起来了――工人自治聯合会運動1989年』、164~165頁

7 「香港時報」、1989年5月17日(『八九年民主化運動新聞紙面資料集』、中国民主化運動資料中心、192頁に収録)

8 『工人起来了――工人自治聯合会運動1989年』、221頁

9 同上、225頁

10 同上、84~98頁

11 同上、212頁

12 『中国民主化運動原資料精選』第二集、1989年11月、十月評論社、44頁