ajirenアジア連帯講座 3.26公開講座報告

「~資本主義では生きられないョ!全員集合~ 『資本論』から読み解く危機と失業青年に襲いかかる失業を跳ね返えそう!」

講師:森田成也さん(大学非常勤講師)

 

 3月26日、アジア連帯講座は、「~資本主義では生きられないョ!全員集合~ 『資本論』から読み解く危機と失業 青年に襲いかかる失業を跳ね返えそう!」というテーマで資本論研究の森田成也さん(大学非常勤講師)を講師に招き、公開講座を行った(コア・いけぶくろ)。著作に『資本と剰余価値の理論――マルクス剰余価値論の再構成』(作品社/2200円)、『価値と剰余価値の理論――続マルクス剰余価値論の再構成』(作品社/2200円)、翻訳にデヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』(作品社/2600円)、多数の翻訳などがある。

 森田さんは、「1、『資本論』から読み解く際の注意点/2、『資本論』1巻の「資本蓄積論」で読み解く失業/3、『資本論』第1巻の「資本蓄積論」の限界を超えての考察」について提起し、最後に「われわれは現代の問題を見て『資本論』に足りないもの、あるいは萌芽的なものはあるが十分には展開されていない部分を見つけ出して、それを『資本論』の精神、マルクスの精神にのっとって理論そのものを発展させていくことが必要である」と述べ、資本論との格闘姿勢を強調した。以下、講演要旨を掲載する。

 『資本論』から読み解く危機と失業

森田成也(大学非常勤講師)@豊島区民センター(2011.3.26)

はじめに

 今日のテーマは「『資本論』から読み解く危機と失業」となっているが、実を言うと、「危機」という問題について曲がりなりにもお話するには、『資本論』全巻にプラスして、さらに『資本論』のいわゆる後半体系(国家、外国貿易、世界市場)というところまで話を展開させなくてはならない。だが、これはちょっと今日の限られた時間の中ではとうてい無理なので、「危機」よりも「失業」の話、すなわち『資本論』の用語で言えば「相対的過剰人口」の話に限定して、それを『資本論』第1巻の資本蓄積論との関係でお話したい。

 

  1、『資本論』から読み解く際の注意点

 

 2008年に世界金融恐慌が起こり、金融資本主義的な路線が誰の目にも明らかな形で破綻した。その後、経済危機を解明していくツールの1つとしてマルクスや『資本論』に対する興味が復活していった。それ以前にすでに新自由主義とグローバリゼーションのせいで不平等と貧困が世界的に顕著となり、それとの関連でもマルクスに対する興味が復活していた。だから2009年頃からこの日本でもいくつかの出版社が争ってマルクス関連本を出版しだした(ただしその多くは安直な単なる便乗本だったのだが)。

 

  『資本論』は完成された書物ではない

 しかし、気をつけなければならないのは、『資本論』は完成された書物ではないということだ。マルクスの生前に出版されたのは、『資本論』の第1巻(初版1867年)だけ。第2、第3巻はいくつかの草稿という形で残され、エンゲルスが10年以上かけて苦労して、ようやくそれらの草稿をつなぎあわせて第2、第3巻を出版した。

 ならばこの第1巻は完成された書物なのかというと、そこも大いに疑問だ。マルクスは最初の草稿である『経済学批判要綱』と呼ばれているものを書いてから、何度も草稿を書いて最終的に『資本論』を書いた。この間は約10年だ。初版から2版にかけてもかなり書き直している。フランス語に翻訳する際にも自ら念入りに手を入れている。大筋の論理は変わっていないが、別の著作とも言えるぐらい細部に至るまで書き直している(現在われわれが読んでいる第4版はフランス語版からかなり文章を取り入れている)。このように何度も書き直しを繰り返したことからしても、第1巻を完成された書物とみなすことはできない。もしマルクスがもっと長生きしていたとすれば、さらに書き直した可能性があるからだ。

 それらの草稿の中で最大のものである1861~63年草稿(後にその一部が『剰余価値学説』という題名で出版された)はとくに剰余価値論に集中して書かれている。冒頭に位置するはずの「商品・貨幣論」は、それ以前に出版された『経済学批判』で論じられていたので、1861~63年草稿では省かれており、いきなり剰余価値論から話が始まっている。最後の独立した資本蓄積論も存在しない。さまざまな断片的考察は入っているが、独立した編にはなっていなかった。しかし、1861~63年草稿を書き上げた後に剰余価値論だけでは、資本の全体としての運動法則を明らかにするには不十分であり、1巻レベルでも資本蓄積の法則について突っ込んだ内容を明らかにしておかないと、労働者がそれを武器にして闘う時に十分役立たないという認識がマルクスに生じたのだろう。そのため、『資本論』第1巻の最終原稿を書き上げる際に、急遽、「資本蓄積論」の独立した長大な編が書かれた。そういう意味で、前半の剰余価値論の方はそれ以前に何度も草稿を書き十分に推敲したうえで書かれたのに対して、後半の資本蓄積論に関しては、最終段階でかなり一気呵成に書き上げられたという経緯がある。後にフランス語版『資本論』でとくに大きな加筆修正がなされたのは、この資本蓄積論の部分だった。そういう点でも『資本論』は完成された書物ではない。実際、『資本論』第1巻の「資本蓄積論」を仔細に検討して見ると、前半の「剰余価値論」と比べて理論的練り上げが不十分であるということがわかる。もちろんそこには素晴らしい洞察力がたくさん見られるが、かなり荒っぽい印象もある。だから『資本論』研究をやる場合は、とくに資本蓄積論に関しては、かなり独自の批判的視点でやっていく必要がある。

 では既存の『資本論』研究はどうだったか? 日本の『資本論』研究には2つの大きな潮流が存在する。1つはいわゆる「正統派」で、もう1つは「宇野派」だ。正統派は、マルクスの『資本論』第1巻を基本的に完成された書物とみなして、その「正しい解釈」に多大なエネルギーを注いできた。マルクスの理論上の誤りとか、限界などにはほとんど触れない。それに対して宇野派は、『資本論』は完成された書物でないという観点に関しては私と同じなのだが、宇野弘蔵という1人の人間がまた別の教条的体系を作ってしまい、その教条的体系をめぐって弟子たちが議論するという流れになった。結局、『資本論』に則して、そして『資本論』の精神あるいはマルクスの精神にのっとって『資本論』の理論を発展・構築していくという作業は、基本的には正統派によっても宇野派によってもあまりなされていない。

 

  1巻レベルで語るのか、2巻、3巻レベルで語るのか

 第2巻、第3巻になると、もっと未完成だ。第2巻はまだそこそこの完成度がある。というのもマルクスは、死ぬ間際まで第2巻を出版したいと思っていたので、多くの草稿を残しており、いわゆる「第8草稿」まで存在しているからである。これは最晩年に書かれており、再生産表式論を詳細に展開している。そのためエンゲルスは第2巻を編集する時、それぞれの部分に関して最新の草稿を用いるというルールでこれら8つの草稿をつなぎ合わせてかなり完成度の高いものを編集することができた。だが、第3巻は、マルクスが1863~65年草稿の中で一気に書き上げた「主要草稿」と呼ばれるものにほとんど依拠している。その冒頭の「費用価格」論に関しては、その後、いくつかの追加的草稿が書かれたので、その部分はより最新の草稿を使えたが、全体としてはほとんど手付かずのままだった。信用論に至っては、抜粋の集合体のようになっており、読むのにさえ苦労するレベルにとどまっている。

 危機論で一番重要なのが実はこの第3巻だ。利潤率の傾向的低下論や信用論が危機論では重要なテーマとなる。金融恐慌を理解しようとする時、利潤率の低下や信用の問題をぬきにして語ることはできない。金融はとりわけマルクス死後に発達した分野だ。金融資本主義と呼ばれるものができて、デリバティブと呼ばれる金融派生商品などがものすごい勢いで市場を席巻しだしたのは、産業資本主義がまさに利潤率低下によって行き詰まってきた1970年代後半から1980年代においてだ。マルクスが『資本論』を書いてから100年も後の話であり、マルクスがまったく想定していなかったような高度な金融化が、この30年間に進んだ。

 

  『資本論』で読み解ける範囲には限界がある

 このように、『資本論』で読み解ける範囲というのには大きな限界がある。『資本論』の理論的・歴史的限界とは、何よりも今日の金融資本主義などに見られるようなまったく新しい現象を想定していなかったことである。土地所有に関しても伝統的地主による土地所有が中心であり、今日におけるような高度に資本主義化された不動産資本は想定されていない。だが産業資本主義に限定したとしても、マルクスの時代は、標準労働日がようやく法律で制定されたにすぎないレベルだった。「プレカリアート」という言葉が最近使われているが、マルクスが生きた時代のプロレタリアートは、ほとんど法的保護がなく、現在の解雇自由な非正規労働者のような存在であり、これこそまさに通常の「プロレタリアート」だった。そのずっと後に、激しい産業別労働組合運動が起こり、あるいは第2次世界大戦後に先進資本主義諸国で福祉国家ができて、労働者に対する法的保護と組織化が進んだ。その後、労働組合の力も福祉国家の成果も1980年代以降の新自由主義化によってかなり侵食されたが、それでもそれなりの水準を維持している。こういうことは『資本論』では想定されていない。

 この問題に関しては、標準労働日をめぐるマルクスの認識の変遷が非常に重要な手がかりになる。『資本論』の最初の草稿である「要綱」には、標準労働日という概念そのものが登場しない。そこでは、労働日は労働者の自然的限界まで延長されることが自明視されていた。その後、1861~63年草稿で「標準労働日」という概念が明確に登場するようになるが、そこでもその理論的認識は不十分だった。『資本論』第1巻の「労働日」章では標準労働日の概念が決定的なものとして登場するとともに、それを獲得するために労働者の階級闘争が詳細に研究されている。この「標準労働日」をめぐるマルクスの認識の変遷にこそ、マルクスの理論そのものの発展の意味を理解する鍵が含まれているのだが、従来の『資本論』研究では概してそういう認識はされてこなかった。宇野理論ではこの標準労働日は「段階論」のテーマだとして最初から放逐されており、正統派では『資本論』の字面に沿って平凡に解説されるか、より簡単な解説書では省かれたりしていた。この話について詳しくは、私の著作『資本と剰余価値の理論』(作品社、2007年)と、現在翻訳中のデヴィッド・ハーヴェイの『マルクス資本論入門』(作品社、2011年発行予定)の「訳者解題」で扱っているので、それらを参考にしてほしい(余談だが、この「訳者解題」の日付は2011年3月10日になっており、例の大地震の前日に書き上げたものだ)。

 

  ハーヴェイ理論の意義――階級闘争の視点と2つの蓄積様式論

 話が出たついでに現在翻訳中のハーヴェイの『マルクス資本論入門』について簡単に紹介しておきたい。ハーヴェイは経済地理学者として有名だが、その一方で30年にわたって各大学やサークルなどで学生・院生・労働者相手に『資本論』の講義をしてきた人である。そうした長年の蓄積にもとづいて書かれたのがこの著作である。それは、『資本論』の第1巻のみを対象とした入門書なのだが、『資本論』を何よりも階級闘争の視点から読み解こうとしている。日本の場合、階級闘争を軸にして『資本論』を読解しようとする体系的試みは存在しない。宇野理論は、階級闘争を不純な要素として放逐して「美しい」理論体系を作った(ブルジョア経済学の発想と同じ)。正統派はさすがに放逐しなかったが、肝心の「労働日」章を主要な理論的テーマとして取り上げている著作や論文はほとんど存在しない。解説書の類でも軽く触れられるか、場合によっては無視される。だから日本の『資本論』研究はほとんど階級闘争論の観点に立っておらず、それどころかそういうのは「階級闘争史観」だと侮蔑的に扱われる始末である。逆に、欧米ではマルクス派というのは階級の観点に立つことをアイデンティティにしており、ハーヴェイもそうである。ハーヴェイの『マルクス資本論入門』は「労働日」についても1つの章をまるまる当てて詳しく紹介している。

 ハーヴェイとの関連でもう一つ重要なことは、彼が提起している「2つの蓄積様式論」である。1つが、『資本論』で中心的に展開されている「拡大再生産による蓄積」であり、もう1つが「略奪による蓄積」である。この「略奪による蓄積」というのは『資本論』の「本源的蓄積」ないし「原始蓄積」に由来する概念なのだが、それを理論的に拡張したものである。『資本論』では、この本源的蓄積は資本主義が成立するにあたって歴史的に存在したものであって、資本主義成立後の、等価交換にもとづいて搾取するシステムではなく、もっと露骨な暴力を直接的に用いて富を略奪し、収奪し、集中していく歴史的過程だとされている。しかしマルクスは、それを資本主義の生成期に限定してしまう。ところが今日の新自由主義の時代においては、この「本源的蓄積」にも似た露骨な略奪様式が重要な役割をしている。たとえば、公共の財産をまるまる私有財産にしてしまうといったやり方は、まさに本源的蓄積過程で大規模にやられたことだ。だがそれは資本主義の生成期に起こっているのではなくて、発達した先進資本主義諸国の中で、資本主義の爛熟期に起こっている。すなわち、本源的蓄積期に見られたような略奪的手法は何も資本主義の生成期に限定されないのであって、資本主義そのものに不可分な蓄積様式としてその歴史に一貫して存在しているのであり、したがってそれをもはや「本源的蓄積」とは表現できない。そこでハーヴェイはそれを「略奪による蓄積」というより一般的な名称で呼んでおり、それをとくに現在の新自由主義期を特徴づける特有の蓄積様式だと理解する。

 このような捉え方は実はローザ・ルクセンブルクにまで遡る。ローザも資本主義の蓄積様式を、先進国の労資間でなされる等価交換にもとづく剰余価値の蓄積と並んで、先進資本主義諸国による周辺国に対する植民地主義的・帝国主義的な略奪的蓄積が存在しており、この二つの蓄積様式のあいだには有機的連関が存在すると考えていた。つまりローザは、「本源的蓄積」のような暴力的・略奪的蓄積様式を資本主義の生成期には限定しなかった。しかし、彼女はそれは基本的に、「中心」たる先進資本主義本国と「周辺」たる非資本主義地域とのあいだで行なわれるとものと想定していた。つまり彼女は、マルクスが時間的に限定したものを空間的に限定したわけである。

 だが資本主義は、「略奪による蓄積」を非資本主義世界との間だけでやるのではなく、資本主義が発達した先進国の真っ只中でやる。たとえば、最近、「略奪的金融」とか「略奪的貸付」という言葉は、べつにマルクス主義者ではなくても使っているが、このような蓄積手法はまさに今日、ますます隆盛を極めている。これを、本来の等価交換と拡大再生産にもとづく蓄積様式と並ぶもう1つの資本主義的蓄積様式だと見るほうが、よっぽど資本主義の本質を理解するうえで役立つし、それは『資本論』の意義と限界を理解する上でも有効である。

 マルクスは、『資本論』の全体を通じて、等価交換から出発して最終的には等価のない搾取へ、労働者の収奪へと「自己転回」する資本の生産過程をきわめて明確に分析した。これは素晴らしい理論的功績である。さらに『資本論』が偉大なのは、それにとどまらず、資本主義の生成期において、等価交換にもとづかない略奪的蓄積が大規模に存在し、それが資本主義をシステムとして成立させたことも明らかにしていることである。それ以前の経済学の書においては、資本の本源的蓄積は、額に汗して真面目に働いて貯蓄した人々によってなされる牧歌的過程として描かれていた。そのような神話をマルクスは決定的に覆し、資本というものが「その毛穴という毛穴から血と汚物をしたたらせながら」登場してくることを鮮やかに描き出した。しかし、いったん資本主義がその両足で立つことになると、この本源的蓄積は姿を消し、等価交換にもとづく搾取に席を譲るとマルクスはみなした。しかし、実を言うと、『資本論』をよく読むなら、ここかしこで、「略奪による蓄積」に類似した暴力的な搾取と蓄積の様子が描かれている。「労働日」章における労働日の極端な延長による搾取や、「機械と大工業」章における児童労働や女性労働の搾取、蓄積論における労働者の貧困と略奪、等々である。これらはけっして資本主義にとって例外的なものなのではなく、資本主義の本質に属するものなのであり、ハーヴェイはこれを、「拡大再生産による蓄積」と並ぶもう1つの資本主義的蓄積様式として総括することで『資本論』の理論的発展を成し遂げているのである。

 

 2、『資本論』第1巻の「資本蓄積論」で読み解く失業

 

 『資本論』第1巻で展開されているのは生産過程における資本蓄積論であり、それを「生産的資本蓄積論」と呼ぶことにしよう。トータルな資本蓄積論は、第2巻、第3巻での議論を踏まえて構成しなければならない。第2巻では資本の流通過程が分析されている。商品を作っても売れなければ蓄積できない。だが、作られた商品が売れるとは限らないのが商品生産社会である。『資本論』第1巻は、生産された商品は基本的にすべて売れるという、ありえない前提で資本蓄積論を論じている。そのありえない前提が第2巻で問題となり、どうやったら生産された諸商品がスムーズに販売され流通されうるのか、その均衡条件が再生産表式として明らかにされている。だが資本主義は無政府的な運動を本質としており、この均衡条件は守られず、均衡は絶えず破壊される。第2巻も完成されていないので、いかに均衡が破壊されるかという具体的な議論はほとんどされていない。第3巻はさらに、資本主義の均衡を破壊するきわめて重要な原動力として「利潤率の傾向的低下」や過剰蓄積という問題を扱っている。

 欧米マルクス経済学の創造的研究者の中でも、特別に重要な人物にエルネスト・マンデルがいる。第4インターナショナルの指導的人物だったマンデルは、資本主義システムの具体的な法則とその歴史的過程を理解するには、利潤率の傾向的低下法則を基軸にしなければならないという立場をとっており、その立場から書いたのが『後期資本主義』という歴史的著作である。したがって、本来、資本の蓄積過程についてトータルに論じるには、2巻、3巻レベルにまで射程を延ばして論じなければならないのだが、今日は、時間の都合や報告者の力量にも限界があるので、基本的に1巻レベルの議論を軸に資本の蓄積と労働者の失業問題(相対的過剰人口論)について論じたい。

 

  相対的過剰人口論の3つの理論的基軸

 『資本論』第1巻における「生産的蓄積論」に絞っても、その構成はなかなか複雑で深い。通りいっぺんの『資本論』解説書の類では、相対的過剰人口の発生論は単に、「資本の有機的構成」(資本の技術的構成に規定された価値構成)がしだいに高度化していく、すなわち、投下総資本に占める不変資本(生産手段に投下された資本)の割合が可変資本(労働力に投下された資本)に比べてしだいに高まっていくことで説明されてしまっている。しかし、『資本論』の生産的蓄積論をよく読むなら、そのような1つの基軸だけで説明されていないことがわかる。すでに述べたように、資本蓄積論の部分は前半の剰余価値論に比べれば練り上げが不十分で、それゆえ、そうした誤解が生じる理由もわからないではないが、しかしよく読めば、そのような論理だけで相対的過剰人口の発生が説かれているわけではないのは明らかである。少なくとも、『資本論』第1巻の生産的蓄積論には理論的に3つの基軸が存在し、それらが重なりあい結合しあってはじめて、相対的過剰人口の発生が現実化するという論理構造になっている。以下、順番に3つの基軸について説明していく。

 

  第1の基軸――資本の有機的構成の高度化

 まず第1の基軸は、すでに述べたように「資本の有機的構成の高度化」であり、投下総資本の中で不変資本の割合がしだいに高まっていくことである。これは相対的過剰人口が発生するさいの長期的枠組み、その土台ないし水路を形成する。つまり、投下する資本の総量に限界がある時に、その中に占める不変資本の割合が多くなれば、同じだけの資本を投下しても労働者を雇うための可変資本は相対的に小さくならざるをえない。ただしこれはあくまでも不変資本の大きさに比較して相対的に下がるだけであって、可変資本の総額は資本蓄積の進展とともに総資本の絶対額が増大するにつれて絶対的には増大していくのだが、ただしその増大率が逓減していくのである。これは資本蓄積の基本的な制約条件となっている。このような「資本の有機的構成の高度化」は資本主義の長期的傾向として厳然と存在しており、それはたとえば、同じ資本規模の公共事業を行なってもその雇用効果がしだいに逓減していっている事実にも示されている(ただし先に紹介したハーヴェイはこの法則性に疑問を呈している)。

 さて、この「有機的構成の高度化」をさらに深く理解するためには、2つの過程を区別する必要がある。競争の客観的過程としての高度化と資本の主体的過程としての高度化である。まず客観的過程は資本と資本の間の競争関係から生じる。剰余価値生産に則して言えば、特別剰余価値生産と特に関係がある。個別資本同士が激しい競争を行なう中で、より先進的な機械を導入したり効率の高い生産様式を採用したりすれば、労働生産性が高まり、その商品の個別的価値が社会的価値よりも低くなって、その差額が特別剰余価値として資本家の懐に入る。このような過程が進行すれば、必然的に不変資本の割合が高くなるのは同義反復的真理である。というのも、労働生産性が高くなるということは、投下された労働力一単位あたりに生産される生産物量が増えることであり、したがってその過程で加工される原料(不変流動資本)が多くなることだからである。また機械化が進めば必然的に、不変固定資本がますます大規模なものになり、その価値構成が大きくなる。このように、個別資本同士の不断の競争によって労働生産性を不断に高めていくことは資本主義の本質的過程に内在するのであり、それによって客観的に不変資本の割合が高まっていくことになる。

 しかしながら資本が有機的構成を高度化する時に、この資本と資本の間の客観的関係だけではなく、もう1つ重要な関係があり、それは資本と賃労働との関係で生じる。この主体的過程としての高度化は、労働者が反抗的である時に、それを抑えつける手段として機械をあえて導入する場合である。これは剰余価値論との関係で言えば、主として特別剰余価値ではなく相対的剰余価値と関係している。労働力の価値が全般的に低下することによって、資本家の懐に入る剰余価値が全般的に増大するのが相対的剰余価値生産であり、それは個別資本と個別資本との関係ではなく、総資本と総労働との間に関わる過程である。たとえば機械を導入して熟練を解体すれば労働力価値が全般的に下がるし、あるいは労働者の賃金要求を抑え込むために機械を導入することもある。これは、反抗的な労働者を押さえつけ、その賃金要求を封じ込める階級戦略の一環であり、このような主体的過程として機械化が推し進められ、総資本に占める不変資本の割合が大きくなる。この客観的過程と主体的過程の二重の過程として、資本の有機的構成の高度化が進行することが、まずもって「第1の基軸」である。

 

  第2の基軸――現役労働者の労働時間延長と労働強化

 このように全体として総資本に占める不変資本の割合が高まっていくと、労働力に投下される資本(可変資本)の割合が相対的に低くなっていき、可変資本の増大率は逓減していく。これは全体としての資本蓄積を制約する枠であり、長期的な蓄積条件を設定するものだが、それは失業が発生する可能性、あるいはその基本条件を言えたとしても、それだけでは相対的過剰人口の現実的発生までは説明できない。

 もう1つ重要な基軸は、現役労働者にできるだけ労働時間を延長させ、労働強化をさせることで、同じ労働者数でできるだけ多くの生産を行なわせることである。例えば1000万円という額の可変資本があったとする。この可変資本額でどれだけの数の労働者を雇わなければならないかというのは、単純計算ではない。1人当たりの労働者が何時間働くか、どれだけの労働密度で働くかによって、この数字は大きく変わる。例えば、1日8時間という厳格な労働時間規制があったとする。さらに労働組合も強く、ラインのスピードをそんなに上げられないとする。このような条件があるとすれば、1000万の可変資本で雇わなければならない労働者の数は、たとえば1000人かもしれない。すなわち、これだけ雇わないと必要な労働量を確保できないとする。ところが日本のように労働時間規制やライン規制が弱いとしたら、同じ労働時量を確保するのに、たとえば600人を雇用するだけですむかもしれない。それだけ長時間働かせ、労働密度を高めるわけだ。ところで、まさにそうした長時間・過密労働こそが、マルクスが『資本論』を書いていた当時に存在していた状態だった。第2次世界大戦以降のヨーロッパ型の厳格な労働時間規制・ライン規制がなかった時代がマルクスの時代である。したがってこの第2の基軸は、相対的過剰人口の発生を理解するうえで非常に重要であり、とくにこの日本ではそうだ。

 雇われている労働者も失業している労働者も地獄になるというのは、この第2の基軸を入れてはじめて理解できる。失業を免れて現役労働者として働けたとしても、たとえば毎日残業で、1日12時間~14時間も働き、毎日帰ってくるのが深夜で、土曜・日曜も出勤だとすればどうか。他方で失業者は強制的な自由時間を与えられるが、不安と絶対的貧困の中で生きていかなければならない。どちらに転んでも地獄のような状況を創りだすのが資本の内的な傾向である。

 この第2の基軸が入って初めて、「相対的過剰人口」と言う場合の「相対的」という言葉の意味がはっきりする。600人にできるだけ多くの労働をさせて1000人分の労働をさせるとすると、可変資本の絶対額は同じなのに、相対的にこちらのほうが過剰人口を作り出している。これこそまさに「相対的」な過剰人口である。それに対して、総資本をどのように配分してもすべての労働者を雇えないような資本額しかない場合に発生する失業は、絶対的過剰人口である。このような「絶対的過剰人口」は、資本主義の歴史の中でしばしば見られる状態である。典型的には資本主義の生成期においてそうだったし、あるいは大きな戦争や大災害みたいなものが起こってインフラが大規模に破壊され社会制度が大きな混乱に陥る時も、一種の絶対的過剰人口が発生する。そのような場合、資本の絶対額が縮小して、どうやっても失業者があふれるようなことが発生してしまう。終戦直後の日本がそうだったし、今日の東日本大震災においても部分的にそうした状況が起きている。

 ところが資本の側にすべて労働者を雇用することができるだけの資本額が余裕で存在するにもかかわらず、資本は現役労働者にできるだけ多くの労働をさせることによって、相対的過剰人口を人為的に作りだすのである。

 

  第3の基軸――プロレタリア人口の外延的・内包的拡大

 第3の基軸は、現役労働者・失業者を問わず、プロレタリア人口(すなわち、生産手段から切り離されて資本に直接ないし間接的に雇われることで生計を立てている階級)そのものの外延的・内包的な拡大である。マルクスは、「外延的拡大」「内包的拡大」という用語を使っているわけではないが、同じようなことを事実上言っているのでこのような表現でまとめておいた。

 最初の第1の基軸は、労働力に投下される資本の総枠を規定する。これが相対的に小さくなっていくことが、失業を生み出す構造的条件となっている。さらに第2の基軸で現役労働者にできるだけ多くの労働をさせ、同じ可変資本額でも雇用する労働者をできるだけ少なくしようとする。だがこれら2つだけではまだ不十分であり、もしプロレタリアートの数がそもそも絶対的に少ない状況にあるとしたら、こういう手段を使ったとしても失業はほとんど発生しないだろう。資本蓄積が進行するにつれて結局は大規模な労働力不足に陥るだろう。資本はプロレタリア人口を外延的にも内包的にも拡大しなければならない。

 人口の絶対的増大という点からすると、まずはプロレタリアートの世代的拡大(人口動態)が考えられる。資本主義の生成期においてプロレタリア家庭の多産傾向とプロレタリアートの大規模な人口増が見られ、これは労働者の歴史的地位を引き下げて、労働者を資本に従順な存在にする上で決定的な役割を果たした。これは資本の本源的蓄積過程の1つの重要なテコだった。マルクスが『資本論』を書いている当時はまだ多産の時代であり、マルクスはこの持続的で急速な人口増大状況を基本的に所与の前提としつつ、その土台の上に資本主義的人口法則(相対的過剰人口論)を説こうとした。しかし実際にはこれは「所与」ではなく歴史的に形成されたものであって、実際、封建時代の大部分において人口増はごくわずかで遅々とした過程であった。制限された生産力と技術水準、耕作可能な土地の絶対的不足という厳しい制約条件のもとでは、大規模な人口増は望めないものだった。ところが、資本主義がしだいに形成される過程で、人口増大現象が大規模に起こる。これが資本の本源的蓄積にも、その後の初期の資本主義的蓄積にも大きな役割を果たす。その後、先進国では少子高齢化が起きて、人口増が遅くなり停滞する(この問題を詳細に論じたのは青柳和身氏の『フェミニズムと経済学』、御茶の水書房、である。この著作に対する私の書評は『季刊経済理論』に近く発表される)。このようなプロレタリア人口の世代的増大という問題は、資本蓄積とそのもとでの過剰人口問題を考える上できわめて重要なのだが、これはきわめて長期の過程であり、当面する失業の問題においては所与のものとして割愛する。

 ここでは、プロレタリア人口の世代的拡大ではなく、同世代内の拡大過程を主として検討しよう。まず第1の外延的拡大とは、古い生産諸関係の解体による、独立自営職人や自営業者、農民がプロレタリア化していくことである。これは資本主義そのものの外延的拡大の過程に随伴する現象である。とくに農民に関しては、雇用労働者でないときには(季節的に、あるいは、ライフサイクルの上で)農村に戻って農業に従事する場合があり、これは『資本論』では「潜在的過剰人口」と呼ばれている。外延的拡大のもう1つのパターンは、国外市場の開拓である。これは、資本の本源的蓄積過程においても決定的な役割を果たしたし、その後の古典的帝国主義の時代においても重要な役割を果たした。今日のグローバリゼーションの時代においても同じである。ここではしばしば暴力と抑圧、破廉恥な収奪と搾取、時には奴隷貿易のような手段(「略奪による蓄積」)さえ使われて、プロレタリア人口が外延的に拡大していった。

 第2の「内包的拡大」としては、①女性と子供の労働力化、②公共部門の解体と民営化、③福祉切り捨てによる福祉受給層のプロレタリア化、の3つが考えられる。『資本論』で主に論じられているのは①の女性と子どもの労働力化である。この層のプロレタリア化が「内包的」であるのは、すでにその女性も子供も基本的にプロレタリア家族の構成員であって、間接的に資本に依存し、賃労働関係に包摂されているからである。残る②と③はむしろ最近の新自由主義化に特徴的な過程である。マルクスの時代には、福祉そのものが貧困だったのであり、したがって③の部分は最初からいわゆる「停滞的過剰人口」を構成している。

 この外延的拡大と内包的拡大は、資本にとって相対的過剰人口を作り出すうえで重要なテコであり、これを資本は意識的に追求する。この3つ目の基軸が入って、ようやく資本主義のもとで相対的過剰人口が持続的・構造的に発生することの説得的な説明が可能となるのである。

 ところで、1970年代の後半から世界的に追求されてきた新自由主義とは、この相対的過剰人口論に即していえば、まず第1の基軸を土台として、第2、第3の基軸を階級戦略として追求することで労働者の力を決定的に弱めることであったと言える(とりあえず第1巻の資本蓄積論レベルに限定して言えばそうなる。第3巻も射程に入れれば、新自由主義とは労働者を犠牲にして利潤率の傾向的低下を緩和・逆転する戦略である)。新自由主義は何よりも、資本家階級とエリート層の大規模な権力回復を目指す階級的ヘゲモニー戦略なのであって、単なる市場原理主義ではないし、主としてそこに本質があるのでもない。相対的過剰人口を大規模につくり出すことは、この過程の上で決定的なテコだった。資本家に抵抗する勢力で最も脅威なのは労働者なのだから、その力を弱める最大の武器たる相対的過剰人口の創出は、新自由主義の最大のテコでもあるということになるだろう。

 労働組合の力が強く、また労働可能人口が容易に増えないような安定した社会状況にあるとき、あるいは国内市場および国際市場の大きな部分に非資本主義的な領域が存在していて簡単に資本主義化できないとき、資本は、既存の与えられた労働力で満足せざるをえない。そうした中で資本蓄積を進めていけば、たとえどれだけ有機的構成を高度化しようとも、相対的に労働力不足に陥り、必然的に労働者の力は強くなる。女性の労働力化や移民の部分的受け入れなども行なわれるが、そうした部分的手段では労働力不足を根本的に打破するには不十分である。それがおおむね、戦後の福祉国家時代、ケインズ主義時代の先進国の状況だった(ちなみに日本では高度成長以前に農村に膨大な潜在的労働力が滞留しており、そこからの労働供給が豊富にあったため、労働者の力は相対的に弱いまま推移した)。これを打ち破るために積極的に資本が採用したのが新自由主義である。労働の組織された力を解体し、公共部門を解体し、福祉を切り捨てていった。それにプラスして、新しい国際市場の出現という重要な条件が存在した。それがソ連・東欧の崩壊であるし、中国の資本主義化であるし、新しい運輸・通信技術の発展によるグローバリゼーションであった。これは、それまでは与えられた労働力で満足せざるをえなかった資本に、広大な相対的過剰人口をつくり出す可能性とそれをつくり出す力を与えたのである。

 

 3、『資本論』第1巻の限界を超えての考察

 

 以上、「生産的資本蓄積論」の3つの理論的基軸を中心にすれば、生産過程論の範囲内で相対的過剰人口の発生がかなり説得的に論証されている。しかし、そこにはなおいくつかの限界がある。そこで次に『資本論』第1巻の記述を越えて、相対的過剰人口の発生論についてもう少し踏み込んで考察しておこう。

 

  有機的構成の高度化に伴う剰余価値率の上昇問題

 まず第1は、有機的構成の高度化に伴って普通は剰余価値率が上昇するのに、第1巻の蓄積論ではこの剰余価値率上昇問題が考慮に入れられていないことである。なぜ資本の有機的構成が高度化するかというと、まず客観的過程としては、資本が特別剰余価値を生産するために競争して機械化を進めて労働生産性を上昇させるからであり、それは生活手段の価値を引き下げ、結果的に労働力価値を引き下げる。また主体的過程としては、より直接に労働者の熟練を解体して彼らの大多数を単純低賃金労働者にするか、あるいは労働者の賃金要求を抑え込むために機械化を進める。どちらの過程においても間接的にか直接的に労働力価値が下がるのだから、これは剰余価値率が上昇することを意味する。したがって、資本の有機的構成が高度化していく過程は同時に剰余価値率が上昇していく過程でもある。ところが、有機的構成の高度化率と剰余価値率の上昇率が同じである場合、他の諸条件が同じならば可変資本の増大率も一定なのである。有機的構成の高度化とともに可変資本の増大率が逓減するという命題は、剰余価値率の上昇というファクターが入ってくると必ずしも成り立たなくなる。

 マルクスが剰余価値率の上昇を考慮に入れず、あたかも剰余価値率が一定であるかのように議論を進めているのは問題だ。マルクスが有機的構成の高度化によって剰余価値率の上昇が生じることを知らなかったわけではない。『資本論』第3巻の利潤率の傾向的低下論のところではこの問題についてかなり詳しく論じているし、1巻レベルでも蓄積論以前の部分では言っている。ちなみに、有機的構成の高度化率と剰余価値率の上昇率が同一である場合、利潤率も低下しない。剰余価値率が上昇しても、利潤率が低下するためには、有機的構成の高度化率よりも剰余価値率の上昇率が持続的に低いことの証明が別途必要なのである。だがマルクスは、利潤率の傾向的低下論においてもなぜそうであるのかを十分に論証していない。

 『資本論』では、どんなに剰余価値率を上昇させたとしても、人間が働ける労働時間には24時間という絶対的限界があり、さらに寝たり食べたりという生活時間も必要なので、労働者を減らすことによる剰余価値量の減少を剰余価値率の上昇で補填することには根本的限界があり、それはいずれ不可能になるだろうという形で説明している。これはたしかに、究極的には不可能になるということの証明にはなっているが、有機的構成の高度化によって可変資本が相対的に減っていくことの一般的論証としては弱い。究極的な場合の想定としてではなく、有機的構成の高度化率より剰余価値率の上昇率のほうが総じて低いことの論証が別途必要であろう(実を言うとこの問題は、労働生産性の上昇率が生活手段生産部門と生産手段生産部門とで同一である場合にはやはり有機的構成の高度化は起きないという問題と結びついており、ここにこの問題を解く鍵があるのだが、ここでは時間の都合上、割愛しておく)。

 

  投資率の問題と過剰蓄積

 2つ目は投資率の問題である。『資本論』第1巻の蓄積論では、剰余価値から資本家の個人的消費用支出を引いた分(蓄積元本)がすべて次期の生産的投資に回ることが前提されている。つまり、ここでは過剰蓄積の問題が無視されているのである。その時の市場の利潤率が低いがゆえに、あるいは投資しても平均利潤率が稼げないと予期されるときに、資本家は蓄積元本を次期投資には回さず、内部留保しておく、あるいは投機資本にするということがある。この状態を過剰蓄積という。

 これは景気循環の不況期には一般に起こることであるが、ここで問題になっているのは、景気循環の一局面で起こる循環的過剰蓄積ではなく、その循環の波を通して持続的に存在する構造的過剰蓄積である。『しんぶん赤旗』などで、企業の巨額の内部留保が問題にされ、その一部をとり崩せば失業問題を解消しうるとの主張がなされているのは周知のとおりである。この「内部留保」の中味はいろいろと複雑なので、単純に全部が過剰蓄積によるだぶついた資本(過剰資本)というわけではないが、それでもそのかなりの部分は必ずしも次期投資に回らない過剰資本である。

 この過剰蓄積問題を入れてくると、相対的過剰人口の発生がよりリアルに解ける。マルクスの想定では、どんどん蓄積されていったものが、個人消費用の支出を除いて次期投資に回り、したがってその一部が可変資本に回ることになっている。そうすると可変資本の絶対的規模は、有機的構成の高度化にもかかわらず、かなり増大していくことになる。しかし、当面する生産利潤率が資本家の目から見て十分高くない場合、資本家は蓄積元本を次期投資には回さず、内部に留保する。労働者を雇える絶対額の資本が存在するにもかかわらず、それを生産的投資に、したがって可変資本に回さないことで失業が生じるのである。これはまさに相対的な過剰人口の発生である。手持ちの資金を少し取り崩せば、現在の失業者を救えるのに、十分な利潤が稼げないという理由だけでそれをしようとしない。『資本論』の第1巻ではこの過剰蓄積の問題は出てこず、第第3巻になって初めて登場する。しかしこれは、相対的過剰人口問題と不可分に結びついているので、第1巻レベルでも論じておくべきだった。

 ちなみにこの問題は今日の金融資本主義と深く結びついている。手持ちの蓄積元本を生産・サービス部門に投資しないと、労働者にお金が回らない。ところが生産・サービス部門に投資しても、利潤率が低い、物やサービスがあまり売れない、あるいはまた利潤として返ってくるのに、あまりにも時間がかかりすぎるという問題がある。資本は無限に自己増殖する価値であり、できるだけ多くの、できるだけ速やかな自己増殖こそが資本の本質であり、その規定的目的と推進動機である。生産はそのための単なる一手段、やむをえない回り道にすぎない。ところが金融市場、投機市場に投資すれば、あっというまに利子やキャピタルゲインを獲得することができる。産業資本として生産にお金を投じるよりも、そうした市場にお金を投じるほうが、よっぽど短期的かつ確実に(金融市場が膨張し続けているかぎり)資本の自己増殖という使命を果たせる。これがまさに過剰蓄積による金融資本主義化というメカニズムである。

 

  信用の問題

 第1巻のレベルをもっと超えてしまうのが、3つ目の契機である「信用の問題」である。これは、先の「投資率の問題」とは逆に、生産的投資によって獲得された剰余価値を上回る資金が信用によって獲得でき、したがってそれが生産的投資に回されるなら、有機的構成の高度化による可変資本部分が相対的に縮小しても、可変資本の総量を、有機的構成の高度化以前よりも増大させることさえできる。

 これは表面的に見ると相対的過剰人口の発生を説明する要因ではないように見える。むしろその逆であるように見える。しかし、これは実は相対的過剰人口の発生メカニズムを理解する上で決定的に重要な要因なのである。なぜ資本の有機的構成が高度化しているのに、すぐに失業者が溢れないのか? 逆に大量の労働者を雇うような資本の拡張力はどこから生じてくるのか。この問題に一つの回答を与えるのが信用である。資本主義の発展とともに資本の有機的構成が高度化して、ただ可変資本が相対的に縮小していくだけなら、剰余価値を生み出すのは可変資本だけであるから、資本の蓄積力は相対的にしだいに弱くなっていくということになるだろう。またどんどん資本主義が発展すればするほど、ただ一方的に労働者の力が弱くなり、機械的に失業者が増えていくだけになるだろう。しかし現実の資本主義はそんなことにはなっていない。むしろ資本主義が発展する時には、大規模な機械化と平行して、つまりは有機的構成の高度化と平行して、労働者の大量雇用、大量出現が進むのである。

 このパラドックスを解く一つの鍵が信用にある。今、生産的に投資すれば非常に儲かる時期だと判断されれば、資本は信用を通じて大規模に資金を調達するから(あるいは銀行も積極的に貸付しようとするから)、一方で有機的構成を高度化させるのに必要な資金(大規模固定資本に投じられる資本)を獲得すると同時に、他方では大量に労働者を雇うことを可能にするような資金をも獲得するのである。

 たとえば日本の大企業は高度経済成長期にものすごい設備投資を行なった。設備投資は不変固定資本だから、それは有機的構成の高度化をもたらす。だったら高度成長期の日本は、絶えず失業者で溢れかえっていたかというとそうではなかった。逆に農村から都市部への大規模の人口移動があり、資本蓄積も労働者の絶対数も急速に増大した。当時の大企業は系列の大銀行からオーバーローンを通じてたくさんのおカネを借りて、総量としての資金を増やした。有機的構成は高度化しているが、労働者を雇う力は衰えるのではなく、逆に増していた。したがって労働者が大量に雇われ、剰余価値を大規模に生産して、それらが次の蓄積資金に回るという好循環が発生したのである。

 これがまさに、有機的構成の高度化にもかかわらず、なぜ労働者が急速に増大するのかを説明する。そのことによって、先に述べたようにプロレタリア人口が外延的にも内包的にも急速に拡大する局面が発生するのであり、農村住民だけでなく、女性や子ども、外国人労働者も大量に動員されるわけである。

 ところが、この過程は永遠ではない。ある一定の時点で潜在的に過剰蓄積が進み、市場が飽和状態にいたり、利潤率が低下しはじめる。そうなると今度は信用が収縮しはじめ、生産が縮小するという反転過程が発生する。それまで信用膨張で雇用されていた人々が仕事を失う。いったんプロレタリア化した人々が今度は過剰人口へと投げ込まれる。そもそも、労働者を大量に雇い入れる過程がなければ過剰人口も増大しない。農民や自営業者がプロレタリアにならず、自立したままであれば、そもそも彼らは相対的過剰人口に入ってはこない。この層がプロレタリア化するためには、資本が既存のプロレタリア層だけでは蓄積が進まないような大規模な拡張過程が必要なのであり、そのような爆発的拡張力を作り出すのが信用なのである。しかし、その後、状況が変われば信用が収縮し、生産が収縮する。いったんプロレタリアとなった農民、自営業者は、もはや元の仕事には戻れない、あるいは部分的にしか戻れない。これらの人々が過剰人口となるのである。

 『資本論』第1巻でも実を言うとこうした信用の問題にも触れられているのだが、その取り上げ方は弱い。信用そのものについて論じるのが『資本論』第第3巻の範囲であったということが原因している。しかし、それでも相対的過剰人口問題を論じる上で信用問題は決定的なのであり、1巻の範囲内でもより積極的に信用問題について論じるべきだったろう。もしマルクスがもっと長生きして資本蓄積論をその後書き直したとすれば、信用問題をもっと強調したのではないか。

 以上、『資本論』第1巻のレベルを超える3つの問題を取り上げ、それらが相対的過剰人口問題を理解する上で決定的に重要であることを明らかにした。『資本論』第1巻で論じられている3つの基軸とそれを越えたこれら3つの追加的論点を総合することで、相対的過剰人口問題をより説得的に解くことができるだろう。

 

  結語として

 

 最後に『資本論』から読み解くということの意味について再度強調しておきたい。現代の諸問題に対する出来合いの答えを『資本論』に探すのではなくて、もちろんヒントになるものはたくさん書いてあるけれども、むしろわれわれは現代の問題を見て『資本論』に足りないもの、あるいは萌芽的なものはあるが十分には展開されていない部分を見つけ出して、それを『資本論』の精神、マルクスの精神にのっとって理論そのものを発展させていくことが必要である。

 だから『資本論』から現実を読み解く過程と、現実から『資本論』を読み解き発展させる過程という相互循環、絶え間ないフィードバック作業が必要なのだ。そもそも『資本論』は100年以上前の著作である。もしそれが聖書でも教典ではなく、科学の書ならば、100年分以上の理論的発展が本来はなければならない。しかしその作業はほとんどなされてこなかった。正しい解釈はもちろん必要だが、解釈だけで終わらせるのは問題である。

 そして『資本論』そのものの理論的発展は一部の学者、研究者だけの課題ではなく、現実の変革に取り組んでいるすべての活動家、運動家の集団的課題でもある。『資本論』は、ブルジョア経済学と違って高度な数式などを使っていない。今の経済学は数式だらけで、物理学の教科書だか何だかわからない。しかし、『資本論』はそうではない。それは多くの労働者や市民が直面している具体的な諸問題と格闘しており、闘いの武器、変革の武器たらんとしている経済学の書である。そうした観点から多くの活動家に、自ら積極的に『資本論』を読み、研究し、積極的にそれを発展させてほしいと思う。