▼記録映画『実録 伊方原発出力調整実験反対行動』から


第四インター日本支部機関紙 週刊『世界革命』(現『かけはし』)1988年3月7日号(第1034号)から。

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出力調整実験糾弾! すべての原発を今すぐ止めろ!

2.29 百万人の署名持ち通産省へ抗議
「原発やめて、命が大事」 鉄柵のりこえ抗議の叫び


22912月29日、グループ「原発なしで暮らしたい」(別府)、「原発なしで暮らしたい」九州共同行動、伊方原発反対八西連絡協議会のよびかけで、全国から集まった労働者、学生、市民500人が、通産省に対して、2月12日に四国電力伊方2号炉で強行された出力調整実験に抗議する申し入れ行動を行った。この実験は、第二、第三のチェルノブイリに直結する恐るべき危険性を持っている。そしてこれが「成功」すれば、過剰設備にあえぐ全国の原発で、日常的に危険極まりない出力調整が行われることになる。

「私たちの生命を、子供たちの未来を守れ」という、九州、四国の女性たちを中心にした抗議の叫びは、わずか二カ月で百万人を越える実験反対の署名となって燃え広がった。しかし、通産省、四国電力は、この声を無視し、危険な実験を強行した。そしてこの日も通産省は、抗議の申し入れも、署名の受け取りも拒否し、鉄柵と扉を閉ざした。

2293怒りの声と叫びは、通産省前で爆発した。鉄柵を乗り越え、正面玄関前で話し合いを要求する闘いは昼過ぎから夜まで続いた。これに対して権力は、多数の女性や幼児をふくむ仲間たちを通産省正面玄関前から暴力で引きずりだした上、中学生と高校生をふくむ三人を全く不当にも検挙した。しかし、全国から集まった人々はこれに屈することなく、夜遅くまで抗議の闘いを展開した。

私たちには時間がないんだ!

それは、まさにあっと言う間だった。銀座通りを縦横にデモした300余人が、通産省前に到着したのは午後1時半。鉄柵を閉ざして話し合いを拒否する通産省に抗議し「中に入れろ!」「開けて!」と叫んでいた仲間たちは、一人、また一人と作を乗り越えはじめ、内側から柵をあけ、通産省前でデモの到着を待っていた反原労など100数十人とともにまたたく間に全員が構内に入ってしまったのだ。

2292階段をかけ登り、二番目の柵も越え、ガラス扉を押しまくる。厚い扉がきしみ、今にも破れそうだ。「何で開けてくれないの!」「僕たちの言うことを何で聞いてくれないんだ!」。女性や、中学生、高校生など若い仲間たちが先頭だ。最初のうちは「通産省」の腕章をまいた職員数人が扉の横に立っていた。広瀬隆さんが、彼らに激しく詰め寄っている。「私たちには時間がないんだ!」。

そうだ。明日にも、いやこの瞬間にも事故が起きるかもしれないのだ。日本のどの原発でいつ大事故が起きても何の不思議もない状態にあり、この間もまさに瀬戸際としか言いようのない事故が連続している。そしてひとたび大事故が発生すれば、もうどんなことをしても取り返しがつかない。日本全土が汚染されるだけでなく、放射能は海外にまで深刻な汚染を広げるだろう。このせまい日本で、逃げる場所もなく、移住する場所もない。人民の未来は閉ざされる。

「明日がないかもしれない」。この強烈な切迫感が、皆を突き動かしている。そして皆、思い思いに自分自身の気持ちを、精いっぱい体で表現しつづけている。日比谷公園から東京電力前、銀座を通るデモの間じゅう続けられた踊りが始る。打ち鳴らされる太鼓に合わせ、笛の音に合わせ、手をたたきながら、通産省玄関前いっぱいに踊りまわり、そして歌う。「原発やめて、命が大事」「原発やめて、子供が大事」「原発やめて、仲間が大事」」「原発やめて、緑が大事」。

2294構内には、段ボール箱数十個につめ込まれた百万人の署名簿が持ちこまれている。だれかが、それを一枚一枚通産省入口の階段に広げ始める。正面玄関の壁にも、一面に無数の署名簿が貼りつけられる。そして鉄柵にも、あらゆるところに、全国の人々の思いを込めた署名簿が貼られる。そのひとつひとつに、千羽鶴を下げている女性もいる。まだ中学生ぐらいだろうか、ガラス扉に全力で体当たりを繰り返し続けている男の子もいる。

この私の絶叫を聞いて下さい

突然、年配の女性が叫ぶ。「皆さん!この私の絶叫を聞いて下さい!私の夫は長崎で被爆し、32年間苦しみ続けてガンで死にました。被爆二世として生まれた息子は、小さい時から体が悪く、体のあちこちに何度も腫ようができ、医者にも今後も良くなる見込みもないと言われています。息子は私に『何で僕を生んだんだ!』と言いながら、ビールビンや、皿をぶつけ、怒りをぶつけてきます。31歳になりますが、結婚する望みすらないのが現実なのです。最近は私の苦しみも理解してくれるようになりましたが、私の生活は地獄でした。放射能ほど恐ろしいものはありません!だから、今すぐ原発を止めてください!」。歌も、踊りもやみ、静まり返った一瞬だった。

2295全国からこの闘いに駆けつけた人々が、それぞれの闘い、それぞれの思いを語る。下北核燃サイクルと闘う浜関根共有地主会の放出さんは怒りの声をあげた。「反原発の動きが高まれば高まるほど、青森ではテレビ・ラジオで原発のコマーシャルがひっきりなしに流れ、原発関係の番組で占領されている。彼らは力で闘いをつぶそうとしている。人間の住む村に核のゴミを持って来る。文句があるやつは死ねと言う。核廃棄物の源である原発を止めよう。伊方、高松、通産省と高まった闘いを、4.9の青森現地行動と百万人署名に結びつけ、原発と核燃をつぶすまで闘う」。

出力調整反対のステ貼りで不当逮捕された松山のA子さんは「私が貼ったのがもし動物愛護のステッカーだったら、警察は逮捕したでしょうか。市民が、いやなものをいやと言うこともできないなんて許せない。私は裁判を起こして闘います」と力強く語った。

能登では、12月にも原発の着工が予定されている。「もし着工されたら、チェルノブイリ以後はじめての着工だ。絶対に建てさせてはならない」。この訴えも女性だ。

中学生の女の子がマイクを握る。「四電の前でも、今日も、一生懸命話しかけたけど、ひとこともしゃべってくれなかった。子供たちは、子供たちにつながりを作り、皆につたえて頑張ります」。

弾圧に怒り新たに闘いの決意

22962月1日、浜岡でまさにゾッとする事態が発生していた。浜岡原発1号炉の再循環ポンプが二つとも停止したということだけが報道されたが、このとき、無停電電源、すなわちどんな事態になっても、あらゆる電源が止まっても確保されているはずの電源まで止まり、原子炉の自動停止も緊急停止もできず、4時間後に電源の一部を回復し手動で止めはじめ、12時間後にようやく止めることができたというのだ。

この間、原子炉の中がどうなっているのか、どんな状況なのか、何ひとつ分からなかったということが明らかになったのだ。浜岡1号炉の設置許可申請では、再循環ポンプについての項が75年に変更され、それまで「二つとも止まることはない」となっていたものが「もし止まっても原子炉は自動停止する」とされた。しかし、自動停止どころか、手動で停止することすらできなかったのだ。

この恐るべき事故について語った静岡の仲間は、事故の全データを公開し、それにもとづき公開討論をするよう求め、その結論が出るまで停止せよと要求して署名運動を開始することを報告した。

この日の行動の呼びかけ三団体の連名で、なぜ実験を強行させたのか説明を求め、通産省に申し入れをするとともに、原子力安全委員会に対して「出力調整」に関する説明会の開催を申し入れていた。これに対する科学技術庁の回答は驚くべきものだった。①人数は三人以下 ②時間は30分 ③住所、氏名、連絡先を事前に明らかにする ④当日、身分証明書持参 ⑤カメラ、テレコ、拡声器、旗、ゼッケン持ち込み禁止。奇異な服装でなく常識的な服装(スーツなど)で来る ⑥子供連れはだめ ⑦これらの条件をのんでも、科技庁で了解した人とだけ対応する。当日平穏な話し合いができない状況が生じた場合(その判断は科技庁がする)には、話し合いをやめる。

これでは、話し合いでもなんでもない。科技庁が嫌だと思えば、代表者であっても無視することができ、途中でいつでも中断できるというのだ。しかしこの日、全体を代表して九州共同行動の中島さんが科技庁を訪れた。彼らの言い分は次のようだった。

「公開討論会はできない。すでに国民の声を聞くために公開ヒアリング15回、公開シンポジウム1回をやっている。9年前の公開シンポではヤジと怒号に終始した。この経験から、同レベルの能力を持つ人とやり合わなければ意味がない。だから、学術会議や原子力学会の主催、後援のような形のもの以外にはできない。しかも、あなたたちだけに説明会を開くと、次から次へと説明会の要求が起こって対応できなくなる。したがって、あなたたちだけに説明会を開くと『公平の原則』にもとる。私たちの見解は、マスコミを通じて広く国民に伝わっているはずだ」。

まさに、怒りなしには聞けない、人民を見下し切った答弁だ。しかも「マスコミを通じて」などと言っておきながら、この日の会見に報道関係者の立ち合いを要求したところ「事態を曲解されると困るのでだめだ」と拒否したのである。科技庁から戻ってきた中島さんの報告に、あらためて怒りの声が湧き上がる。

闘いは続く。踊りも続く。歌も続く。右翼の宣伝カーがやってきて「共産主義のウジ虫どもめ、原発をやめて穴ぐらで暮らしたいのか」とわめき散らす。これが、やつらの水準だ。いまや出力調整に踏み込まざるを得なくなったことによって、いまや崩壊しつつある低水準のデマに、右翼も、通産省も、電力資本もしがみついているのだ。皆の意気はかえって上がるばかりだ。

午後5時45分。地方の仲間が帰り始めて人数が減り、人通りも少なくなった頃を見計らって、通産省は機動隊を導入した。子供をギュッと抱き締める女性も、容赦なく引きずり出し、突き倒す。固いスクラムでグッとこらえる。引いてなるものか。百万人の声が、頑張る仲間を支えている。

6時20分。ついに全員が通産省構内から引きずり出され、排除された。不当にも検挙された三人のうち、中学生と高校生が入っていたことにも、彼らの弾圧が手当たり次第であったことが示されている。通産省周辺では、9時近くまで「原発止めて」の声が響き続けた。伊方、高松、通産省。反原発、まさに直接生命のかかったこの運動の中に新しい闘いが生まれ始めていることを感じさせる闘いだった。闘う労働運動が、この流れと結びつく努力を意識的に開始することが問われているのである。

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「原発は必ず止められる」
出力調整を考える公開討論会に900人

2月28日、社会文化会館(東京)の5階大ホールを900人の人々がうめつくした。公開討論会を主催したのは、伊方原発2号炉の出力調整実験に対する抗議行動を展開してきた三団体、グループ「原発なしで暮らしたい」(別府)、「原発なしで暮らしたい」九州共同行動、伊方原発反対八西連絡協議会。

三団体は、2月17日付で原子力安全委員会の全委員に対して「出力調整に関する公開討論会への招請状」を送付して公の場で討論に応じることを要求していた。あわせて、出席不可能の際は、アンケートに個人として回答することも要請したが、原子力安全委員会の委員たちは、だれひとりとして誠実な対応をしなかった。アンケートの返送さえ全く行わず、全員が、三団体の要求を黙殺する態度をとったのである。

残念ながら「公開討論会」は実現しなかったが、当日は京大原子炉実験所の海老原徹さんと広瀬隆さんが報告を行った。海老原さんは、原発は出力100%の連続運転用に設計され、安全審査もそれを前提に行われていること。出力調整運転には不適切な構造になっていることを強調。広瀬さんは、「徹夜で一睡もしていません。その理由は、重要な書類がたくさん私のところに届いていて、その整理がたいへんだから」と切り出して、浜岡原発できわめて重大な事故が発生していたことを報告した。

2月1日、浜岡原発1号機の再循環ポンプが2台共停止した。再循環ポンプとは、沸騰水型原子炉にとってはまさに命綱で、一次冷却水を炉心からとりだして、再び送り込むものである。故障の原因は電源系統の電磁リレーの損傷。しかし、原子炉は緊急(自動)停止しなかった。中部電力は、出力が定格の半分以下になった原発を、そのまま運転しながら故障原因の究明作業を続け、何とか原発が停止したのは事故の発生から12時間後であった。

「本当に恐ろしいことです。中電は、12時間の間、原発がどうなっているのか、何がなんだかわからなくなっていたのです。伊方の出力調整試験の十日も前に、すでに私たちは終わりになっていたかもしれない。幸運だったとしか言いようがありません」。広瀬さんの報告は、背筋の寒くなるものだったが、彼は最後にこうつけ加えた。

「全国各地を飛びまわっていて、はじめて運動に参加する人たちの『これからは私たちにまかせて』という力強い声をたくさん聞きました。希望を持ってがんばりましょう」。

その後、伊方現地からの発言や、ステッカーをはっていて不当弾圧された女性の裁判への支援の要請、四電社長(もちろん本物ではないが)と参加者とのフリー討論などが行われ、集会はいっそう盛り上がる。司会をしていた小原良子さんのしめくくりの言葉が印象に残った。

「私は、自分自身のために、自分の子供のためにこの運動を続けています。みなさんもそうだと思います。だれのためでもなく、自分自身と子供たちのために、未来のために、みんなの力を合わせれば原発は必ず止められます」。

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▼記録映画『実録 伊方原発出力調整実験反対行動』 (全篇)