fukushima errorインターナショナル・ビューポイント オンライン・マガジン: IV434 - March 2011


福島が示したこと―原発は核の破局を意味する

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ダニエロ・タヌロ

 起こったことは完全に予測可能だった。それはいまだもう一つの核の大「事故」のレベルである。この文章を書いている時点では、福島がチェルノブイリに類似した惨事の局面に入っているかどうかは定かではないが、悲しいことにそうした方向に展開しているように見える。しかしそれが大惨事に発展するかいなかにかかわらず、われわれは、再びテクノロジーが100%安全であることなどありえないという証拠に直面しているのだ。


その危険は恐るべきものであるので、結論は明白だ。核エネルギーを放棄すること、しかもできるだけ速やかに放棄することが緊急の課題なのだ。ここに書くことは、福島の教訓についての最初の学習である。それは終わりなき成長という資本主義モデルへのオルナタティブに関する真に社会的な討論を必要とする、きわめて根本的な社会的・政治的問題を提起している。

危険なテクノロジー

 1957年のウインドスケール(訳注:1957年10月10日に、英国ウインドスケールのプトニウム1号炉で起きた放射性物質大量排出事故)、一九七九年のスリーマイル島、1986年のチェルノブイリ、1999年の東海村、そして現在の福島。原子力発電の事故のリストは拡大し続けている。違った道に進むことなどありえないし、なぜそうなったのかを理解するには核物理学博士になる必要などない。

 原発はやかんと似通ったやり方で作動している。やかんの成分は原発の燃料棒に対応している。やかんに水がなくなれば、それは過熱して問題を生じる。原子炉の中心にある燃料棒は、多くの点で同様に、水に漬かりつづけていなければならない。水を沸騰させて生じる水蒸気はタービンを動かして電力を生み出す。発電所は大量の水を消費し、ポンプが水の循環を保障している。

 かりにポンプが故障したら水が流れ出し、オーバーヒートした燃料棒は劣化する。水が速やかに加えられなければ燃料棒内の反応によって生み出された熱が燃料棒を溶融させはじめ、タンクの底に落下させる(それはやかんの内部で起きる現象に一致している)。このタンクは二重の丸い安全壁に取り囲まれている。われわれ皆は原子炉の形状を認識している。それが溶融した燃料棒の激しい熱に持ちこたえられず亀裂が生じれば、放射能が大気に放出され、致命的な結果を引き起こす。

脆弱なテクノロジー

原発内で起きる反応は連鎖反応となる。ウラニウム核は中性子を伴って爆発し、中性子を吸収したウラニウム核は二つに分裂し、大量のエネルギーを放出する(核分裂)。そしてさらに多くの中性子を放出し、そのそれぞれがもう一つの核分裂を生じさせる。こうした反応がひとたび開始するや、それは自己展開し続ける。温度をコントロールし監視する唯一の方法は、分裂を引き起こさずに中性子を吸収できる合金で作られた制御棒を燃料棒の間に挿入することである。それは原子炉の中枢を冷却することができる。しかしこの冷却には一定の時間を要し、その間、燃料棒は水に漬かっていなければならない。さもなくばそれは再び過熱するおそれがある。

 原発の支持者は、その設備はきわめて安全であること、とりわけ本菅の給水が不具合になった場合には緊急用発電機のおかげでポンプにエネルギーが供給されるので安全だということを、疲れを知らずに繰り返し語っている。福島の事故はこうした保証になんの価値もないことを示した! 地震のために、この設備はそうした状況で予測されたとおりに連鎖反応を自動的に引き起こした。したがってポンプを作動させる電力がもはやなくなったのである。発電機が自働的に動き始めるはずだったが、不幸なことに津波によって水浸しになり使い物にならなくなった。冷却水は不足し、燃料棒は一・八メートルから三メートル以上にわたって露出した(全長は三・七一メートル)。この過熱によって超高圧と化学反応(冷却水の電気分解)が引き起こされ、水素を発生させた。そこで技術者たちはタンクの爆発を回避するために蒸気を放出したが、水素が原子炉内で爆発して建屋が崩壊し、蒸気は大気中に放出された。見たところこのシナリオは第2号機でも繰り返された。

チェルノブイリと同様

 真水の配水が津波によって中断される中で、技術者たちは近くの海水を使った。一部のアメリカ人専門家は、そうしたやり方は典型的な「絶望的行為」だと語った。彼らによれば、それはチェルノブイリで原子炉の炉心溶融を回避するためにとられたムダなやり方を思い起こさせるものだ。その時、発電所の職員と勇敢なボランティアたちはかれらの生命を犠牲にして、原子炉内に砂とコンクリートを注ぎ込んだ。

福島原発から八〇キロ離れた地点で計測された放射能のレベルは、すでに許容レベルの四百倍以上に達している。ガイガー・カウンターを持った六人の勇敢な日本人ジャーナリストが原発から二キロのところに位置する双葉町役場を訪れ、放射能レベルがかれらの機器の計測能力を超えていることを発見した! 現在、日本の市民は一年間に許容されると見なされている放射能の量を一時間で受けている、と見積もられている。

フランスのネットワーク「Sortir du nucleaire」の声明は次のように述べている。「原発周辺の広範な地域における劇的なまでの高レベルの放射能は、健康への深刻な影響をもたらさない」。

われわれは死の灰を免責する声明を信じるべきではない。チェルノブイリの前例は、放射能の雲は広大な地域を汚染しうることを示した。すべては、微粒子が大気中に送りだされる力にかかっている。きわめて大きな爆発の場合には、放射性元素は高空を覆う強風であるジェット気流の高さにまで吹き上げられる。その際、死の灰は福島から遠く離れた地域にも被害を及ぼすのである。

苦悶に満ちた二つの疑問

 放射能はおもに二つの元素からもたらされる。ヨウ素131とセシウム137である。双方とも高い発ガン性を持っている。前者は大気中では八〇日間で消えるが、後者は約300年間も放射能を帯びる。3月13日の日曜日、二〇万人以上が避難した。政府は福島第一原発から20キロ、第二原発から10キロの地域から住民を排除した。とりわけセシウム137の存在は憂慮すべきことである。

 正確な情報が欠落している。東京電力(TEPCO)と日本政府当局は、真実の一部を隠そうとしているだけではない。二つの最も憂慮すべき疑問が持ち上がっている。一つは、燃料棒の融解は制御されているのか、それとも続いているのかである。二つめの疑問は、(使用済み核燃料の)タンクを収容している構造物が爆発するのかどうかである。原発内の事故のシミュレーションを行ってきた核物理学者のケン・バーゲロンによれば、この構造物はチェルノブイリよりも「確かに強力」だが、スリーマイル島よりも強力ではない。専門家たちは、彼らの憂慮を隠そうとはしていない。「もし制御が全く回復されないのであれば、事態は部分的な溶融から全面的なメルトダウンに移行する。それはまったくの惨事となるだろう」と一専門家は語っている(「ルモンド」3月13日)。

 しかしなによりも最悪なのは、3月13日に爆発した第三号機の炉心のメルトダウンである。実際、その燃料はMOXであり、劣化ウラニウム酸化物とプルトニウム239の混合である。プルトニウム239は、通常のウラニウム原子力発電所の使用済み核燃料リサイクルの産物である。その放射能はきわめて高く、「半減期」(放射能のレベルを半減させるのに要する年数)は二万四〇〇〇年と見積もられている。日本人はこの元素とその恐るべき影響をよく知っている。第二次大戦の末期に長崎に投下された原子爆弾は、プルトニウム239をベースにしたものだった……。

受け入れがたいリスク

 チェルノブイリ事故以後、原子力の擁護派は、ソビエトの貧弱なテクノロジー、貧弱な安全基準、そしてシステムの官僚的本質が、事故の根っこにあった原因だと語った。もしわれわれがかれらを信じるべきだとすれば、良い資本主義的技術に基づく原発では同様の事故は起こらず、とりわけ立法機関によってあらゆるレベルで必要な保安システムが取られる「民主主義」諸国では起こらないことになる。われわれはこうした主張が呪いの言葉をかけるだけの価値もないことを現認している。

 日本は高度のテクノロジーを持つ国である。地震の危機に十分な注意を払っている日本の政府当局者は、原発建設に厳格な基準を定めてきた。福島第一原発は二重の安全装置を備え、一部の発電機に燃料が入っている時には他の発電機のバッテリーが作動することになっていた。どちらもうまくいかなかった。最も洗練されたテクノロジーも最も厳格な安全基準も、自然災害の可能性や異常なテロリストの犯罪行為の可能性(人間の過ちはさておき)を考えれば、絶対的な安全を提供するものではない。われわれは原子力発電のリスクを削減することはできる。しかしわれわれはそのリスクを完全に除去することはできない。現在がそうであるように、比較的な小さな発電所の数が増えていけば、絶対的なリスクは増大するかもしれない。

 このリスクは人間がもたらしたものであり、予防できたものであり、人びとの民主的で適切な意見を受けることないままに、利潤を目的にした少数の集団によって行われた投資決定の結果であるがゆえに、受け入れがたいと強調することはきわめて重要である。ベルギーの「ルソワール」紙論説(3月14日)のように「日本の核事故(ママ)は、津波ほど多くの人命喪失を引き起こしてはいない」と書くのは、避けることのできない自然災害と完全に予防できた技術的破局との質的相違を無視するものである。さらに「あらゆる複雑な産業的プロセスと同様に、原子力によるエネルギー生産は相当なリスクを持っている」(同論説)と言うのも、核のリスクの特殊性―このテクノロジーが人類を地上から一掃する可能性を持っているという事実を含めて――を無視するものである。われわれは、こうしたタイプの弁明、すなわち原子力産業のロビーがあらゆるレベルで行使している巨大な圧力を反映する弁明を、容赦なく追及し、暴露しなければならない。

われわれ自身の戸口にせまる危機

専門家たちがかれらの究極的関心を隠さないとすれば、政策はその愚かさを見せびらかすものになっていただろう。3月12日午後、仏産業相のベッソン氏は質問に答えて、福島で起きていることは「重大な事故であって破局ではない」と語った。英国エネルギー相クリス・ヒューンは、自らの親原子力政策を正当化するために、英国での地震の危険性の少なさを指摘する以上のことを語らず、究極のところ安全性をもっと改善するために「日出る国」で起こったことの教訓を引き出す、と付け加えた。各国政府はそれぞれの違いはありながら、同様の悲しむべき主張を行っている。路線を維持する(フランス)、すでに転換した(イタリア)、チェルノブイリ後の世論の圧力の下で確立された原発政策の変更に向けて挑戦する(ドイツ、ベルギー)などである。その目的はなにか。パニックを阻止し、それによって、反原発運動の新しい動員が、グローバルな規模で存在する原発拡大への野心的計画を無効化するのを阻止することである。

こうした主張を説得力のないものと呼ぶことは、やや控えめだろう。とりわけ西欧では、恐怖は正当化されるどころではない。フランスでは原子力エネルギー分野のリーダーが、原子炉は言及されている地震の基準に対応していないと述べている。Sortir du nucleaireネットワークによれば、原子炉を安全基準に対応したものにすることを認め、そのために少なくとも一九億ユーロの投資を行うことを避けるために、EDF(フランス電力公社)は地震データの偽造までやってのけた。最近、裁判所はフランスで最も古い原子炉であり、地震のリスクが最も高い地域に位置するフェッセンハイム原発(アルザス)の閉鎖申請を却下した。ベルギーではドエル、ティハンゲの原発は、マグニチュード五・七~五・九の地震に耐えられるよう設計されている。しかし14世紀以来、これらの地域はマグニチュード六以上の地震を三度経験しているのである。

さらに、もはや原発運営の特別の訓練を受けた技術者は十分に存在せず、かつ原子力非常プランとは原発周囲10キロの住民を避難させるだけであり、完全に不適切なものであるということについては言及する価値がある。この施設の稼働年の延長は、もう一つの憂慮となる。この原発はすでに50年経っており、この20年間だけで原発内の事故は増加している。こうしてその古さゆえに、フランスの19の原子炉は冷却による救済システムにおいて未解決の異常を抱えているのである……それは日本で故障したのと同じ問題である、などなど。

社会的選択

 われわれは完全かつ火急的速やかに核エネルギーを放棄しなければならない。これは技術的に完全に可能であり、原子力の効率性はきわめて低い(エネルギーの三分の二は熱として浪費される)ことを、ついでながら留意すべきである。討論はまず何よりも政治的なものなのであって、社会が究極のところで提示しなければならない文明の選択に関する討論なのである。したがってここに問題の結節点が存在する。われわれは原子力を段階的に廃止しなければならないと同時に、気候変動の主要原因である化石燃料を放棄しなければならない。わずか二世代の間に、再生可能エネルギーがわれわれの唯一のエネルギー源にならなければならないのだ。

 しかし再生可能エネルギーへの移行は、エネルギー問題の効率的解決のために巨大な投資を必要とする。したがって温室効果ガス排出源はますます補充されていく。実際にエネルギー需要が少なくとも先進資本主義国で劇的に減少することによってのみ。エネルギー移行は可能となる。欧州では2050年までに約五〇%減少すべきである。ここまでの減少は物質的生産と輸送の大幅な減少なしには実行不可能である。われわれはより少なく生産し、輸送しなければならない。さもなくば均衡はもたらされない。このことは、こうした移行が資本主義システムの中では不可能であることを意味する。なぜなら競争の鞭の下での利潤の追求は、不可避的に成長、すなわち資本蓄積を意味し、それは不可避的に物量の増加をもたらし、資源への圧力を増加させるからである。

 資本家が提示する気候変動へのすべての回答が、「魔法使いの弟子」に依存するものとなり、その中で原子力が先頭に立つのはそのためである。国際エネルギー機関のエネルギーシナリオの「青写真」が、この点について語っている。それは2050年までに原発の数を三倍にすることを提案している。それは新しい巨大な発電所を毎週一つ建設することを意味している。これはまさしくとんでもないことである。

 この邪悪なシステムへのオルタナティブが以前にもまして緊急課題となる。そのためには、われわれがより少なく生産することが必要であり、それは労働時間の急激な削減、したがって富の再分配を意味するものとなる。それはまたエネルギーと金融の集団的所有を意味する。なぜなら再生可能エネルギーは他のエネルギー源よりも費用が高くつき、すくなくとも20年間はそのままだろうからである。それは、エコロジカルな均衡を維持しつつ「南」が発展する権利のために、地域からグローバルへ、あらゆるレベルでの計画化を必要とする。それは究極的にはエコ社会主義の構想の実現、すなわちエコシステムのリズムや機能と一致し、民主主義的に決定された真の人間的需要の充足のために生産する社会の実現を必要とするのである。こうしたオルタナティブなしには、資本主義的成長はつねに社会的ニーズの提供を欠いた多くの惨劇をつねに引き起こすだろう。これこそ究極的意味で福島の恐るべき教訓である。

▼ダニエル・タヌロは実績ある農学者でエコ社会主義者、環境主義者。「ラゴーシュ」(第四インターナショナル・ベルギー支部LCR-SAPの月刊機関紙)へ定期的に執筆している。

▼「インターナショナルビューポイント」2011年3月号)